ウマ娘の治療というのは実に困難である。
主に、気性的な意味で。
わたしは部屋でただ一人道具の点検をする。
聴診器、電子体温計、ペンライト。
耳管が正しい角度か、チェストピース、チューブにひびや亀裂がないかを念を入れて確認し、白衣にしまった。
正直なことを言えば、聴診はあまり好きではない。
規則的な心音や呼吸音を聞いたとき、まるで自分ではどうしようもない世界が広がっているように感じる。
体というのは不思議なもので、意識せずとも様々な事柄を体内で処理している。
自分がいかに知識を持っていようとも、体内で働き続ける細胞たちにはきっと及ばないのだろう。
あくまで外部から干渉するだけで、わたしが患者の体を健康にするというのは少し違う。
要素であれど、主要因ではないのだ。
聴診は特にそれを感じさせ、どこか劣等感を覚えてしまう。
きっと、おそらく。
そんなことを気にしているのはわたしだけなのだろうが。
「点検、もう終わったの?」
肩口から顔を覗かせ、一人の少女がわたしに声をかけた。
退屈そうに見ていた彼女にとって、余程もどかしい時間だったのかもしれない。
そうはいっても、これを欠くことはできないのだが。
「特に理由もなく長居をするのはやめてくれ」
「どうして?」
少女は首を傾げわたしに理由を言うよう促す。
「ここにいたところでしてやれることはないからだ。君は患者であって患者じゃない。まだその時ではない」
「なにそれ。言葉遊び?」
わたしはいつも決まって少女に同じことを言う。
その度に、同じ返しを少女はするのだ。
いい加減、わかっているだろうに。
ミスターシービー。
わたしの患者…いや、潜在的患者といったところだろうか。
「シービー、君は俺が忠告をしても無視するだろう」
「だって、今アタシはなんともないでしょ?」
このトレセン学園における自分の役割は緊急対応、要は駆け込み寺のようなものだろう。
だからこそ、正式な医術を施すわけではない。
「今は、だろう。いずれは患者としてここに来ることになる。それを理解していながら忠告を無視してなぜここに来る?」
「アタシがここに来たいから、かな?」
思わずため息が出てしまう。
「君は今ある自由のためにこれから何十年と続く未来を蔑ろにしようとしている。俺にはまるで理解できない」
「そう?アタシたち、結構思考回路が違うみたい」
「身体は君に訴えている。君は既に感じているのだろう?脚の痛みというのを。それがどれだけ愚かなことか…」
「いつかはそうかもね。でも、今じゃない」
わたしにはこの先どうなるかが目に見えている。
それは単なる比喩でなく、事実として。
忌々しくも、生まれ持った才能というのがわたしにはある。
「検査はしたけど、特に何もなかったのはこの前もそうだったでしょ。何を根拠に言ってるの?」
「…………」
見ればわかる、だなんて言える立場ではない。
少女が痛みを感じていないといえば客観的事実としてそれは固定され、わたしの言葉は意味を成さない。
たとえそれが合っていたとしても、証明などできやしない。
それが歯痒く、わたしは口がきけなくなった。
「別にさ、来てもいいじゃん。カウンセリングって感じで」
「俺が診るのは身体であって心じゃない」
「冷たいなぁ。そんなにアタシといるのが嫌?」
「快不快の話はしていない。君が患者であることを認めないのであれば、君はここに来ていい人間ではないという話だ」
「別にそんなルールここにはないでしょ?」
やはりこうなってしまった。
いつもこうなるが、わたしはそれを覆す手札を持っていない。
それを察してか、少女の顔はこちらをからかうように明るい。
「怪我を未然に防ぐなんて凄いじゃん。そりゃあアタシにも興味くらい湧くよ」
「なら少しは言うことを聞いてほしいものだが…そもそも、興味関心のフェーズはとっくに過ぎているだろう。君は俺で遊んでいるだけだ」
「あはは、人聞きが悪いなぁ。ま、否定しないけど」
そう言って、少女はわたしに微笑んだ。
それが束の間の平穏だということが、頭から離れない。
シービーはおそらく、脚部不安を抱えている。
「…本当に脚は痛まないのか?」
「言ったでしょ、なんともないってさ」
それが嘘だということはわかる。
今検査すればなんらかの問題が見つかるだろう。
しかし、それでもわたしにはシービーを止められない。
痛みを抱えてなお、止まらないのだ。
知らなければわたしも、気が楽だったというのに。
彼女はそれを望んでいない。
個人の尊重と、医者としての矜持。
わたしはいったい、どちらを優先すればいいのだろうか。
「君、いつもつまらない顔してるよね」
「この仕事は気分が沈むことはあっても浮くことがない。俺にとっては最悪の職業だろうな」
「ならどうしてそんなのを選んだの?」
「食い扶持は必要だ。財さえ築けていれば、こんな仕事はすぐにでも投げ出してしまうだろうな」
合理性と、捨てきれぬ可能性に揺さぶられたのだ。
「ふーん…随分損な生き方だね」
「魔法も万能薬も、俺は持っていない。君につける薬もな」
わたしにできるのはせいぜい皮肉を言う事くらいだ。
それすらも、少女は笑って受け流してしまうのだが。
どうしようもなく、面倒くさい。
「君にも助けられなかった患者とか、いるの?」
「随分急な話だな。今更怖気づいたか?賢明な判断だ」
「そういうわけじゃないけど、気になってさ」
そうであれば余程楽だったというのに。
わたしは一度椅子に腰を下ろした。
それからカルテを読み取り、口を開く。
「致命的な事態に陥った患者はまだいない」
「そう、ならよかった」
もちろん走れなくなった者はいる。
しかし、命を落とすには至っていない。
日常世界を送る上では何ら問題はないだろう。
少なくとも、わたしにとってはだが。
「君がそうなんじゃないかと頭を悩ませている最中だ」
「あはは、心配性だね」
潜在的患者が患者にならないことをただ祈るばかりだ。
しかしそれが実ったことは、おそらく一度もない。
わたしは椅子から立って、少女に詰め寄った。
「何度でも言う。自由の対価は高くつくぞ」
「その対価っていうのは、アタシに追いつけるかな?」
再三の忠告も意味を成さない。
もはや、鬱陶しいだけなのであろう。
どのみち、今はまだ早すぎる。
起こってからしか、わたしにどうこうする術はないらしい。
「…もう結構。帰ってくれて構わない」
「えー、アタシはもうちょっと話したいかな」
「患者でないなら話す義務はない」
「まあそう冷たいこと言わないでさ」
ああクソ、頭が痛くなってきた。
「君ばかりに構ってはいられない」
わたしはそう言って、部屋を離れる。
少女はそれを横目にわたしとは違う道へ歩き出した。
突き抜けるような晴天をわたしは歩く。
なぜ空は青いのだろうか。
なぜ雲は白いのだろう。
なぜわたしが見える世界を他人は知らないのだろう。
なぜ他人の見る世界がわたしにはわからないのだろう。
どれも、考えたところで意味はない。
それでも考えることをやめられない。
わたしは今日も見えない明日を求めて歩き出す。
ならば、正しいのは彼女の方なのだろうか?
見えない明日より、今を優先する。
「共感はしないし、肯定もしないが…」
理解できる感覚だ。
わたしが持たないものを彼女は持っている。
それは彼女から見て、わたしもそうだと言える。
ともすれば、永遠にわたしたちはわかり合えないのだろうか?
そんな思考が浮かんできて、気分は余計に悪くなる。
捨てた夢を拾い集めて、わたしは何がしたいのだろう。
憂鬱を携え、今日もわたしは未来を憂う。
シービーのサラコレめちゃくちゃシビシビしてて好き。