わたしが北だと思って進んでいる道は、ひょっとすると、実はなんてこともなく南だったりするのではないだろうか?
コンパスが示す方角は、定義上の北であって、本質的に見れば北ではない別の方角なのかもしれない。
正しい。
そう定義された全ては、本当に正しいのだろうか?
人類は皆兄弟のようなもので、愛するべきだ。
そんな主張を見る度に、わたしは調和の取れたオペラの、その真っ只中に早まった拍手を入れられたような感覚を覚える。
唾棄すべき、捨てるべきだと言うまではいかないが。
わたしたちは皆、自己保身のために兄弟を殺せる。
人類とは、そうやって生きてきたのだ。
わたしたちが呼ぶ良心、感情は決して良いものとも悪いものとも言えない。
しかしそれがある以上、決して。
わたしがそれらを解することはないだろう。
わたしの思考を邪魔するように絶え間なく流れるノイズが、今も常にわたしの脳を蝕んでいく。
数秒先ですらわからないわたしに、遥か遠くの結果を知っていたところで今何をすればいいのだろう?
「天からの授かりものというのも、思いのほか良いものとは言えないな」
ああまったく、がっかりだ。
結局やらねばならぬのはわたしではないか。
そう心のなかで不満をつぶやきながら、いつものように部屋へと足を運んだ。
この間のことが頭に浮かんで、なんだか足が重い。
あの程度でこうなっていては、医者の名折れだな。
思わずそう自嘲する。
まるでわたしを嘲るかのように、今日の天気は快晴だ。
しばらく歩を進めてようやく、わたしは目的地に着いた。
「あいも変わらずここは賑やかだな。恐ろしい」
門を開ければすぐさま音が聞こえてきた。
蹄鉄の音や世間話であったり、なにやら物騒な音まで。
しかし、それも別に特別なことではない。
こういった喧騒は常態化している。
当たり前、というやつだろうか?
努力に励んだところで報われない影ばかりの中で、それを上回るほどの光がここにはある。
光が大きくなれば影もまた大きくなる。
「その影を象徴するのが、わたしというのも皮肉な話だ」
重い足取りを気にすることもなくわたしは入室し、部屋にある椅子へと腰かけた。
つい先日、日本ダービーがあったと記憶している。
普段であればわざわざレースの結果まで追うこともない。
だが、朝の準備は済ませているため朝刊を読む余裕がある。
シービーが皐月賞を制したとき、レースについて聞かれた。
正直に知らなかったと答えたのだが、彼女は妙に機嫌を悪くしてまともに取り合ってくれなかった。
どうにも、あれは拗ねると長い。
同じことを繰り返すのは流石にわたしも骨が折れる。
それ故、土日の新聞くらいは取ることにした。
「これは予想通りというべきか、それとも…」
新聞に目を通せばやはり、レースの勝者はシービーだった。
「出遅れからの豪快な捲りなんて、負担も多いだろうに」
やかましいくらいデカデカと見出しに書かれているそれは、やけにわたしの目を引きつけた。
どうにも、その思いに反して彼女には人を惹きつける才能というものがあるらしい。
パフォーマンスに熱狂するファン、それを持て囃す新聞会社。
わたしたちは皆、望まぬ何かを抱えて生きていくみたいだ。
なんだか少し、親近感を覚える。
なかなかどうして、気分は存外に好調だった。
そうやってゆっくりしていたわたしだったが、誰かがこちらへ向かってくる音がする。
軽快な音を奏でてここへ来る者はそう多くない。
ここは一つ、予想でもしてみよう。
音の距離からして、そうだな…―――3、2、1!
「やあドクター、元気してる?」
「ははっ、わかりやすいな。君は」
そう笑って見せれば、彼女は目を丸めた。
ああ、これではいけないな。
わたしはすぐに表情を戻して、彼女へ挨拶を返した。
「今日はなんだ、また遊びに来たのか?」
「んー、まあちょっとね。それよりキミ、笑えたんだ?」
わざわざ話を変えようとしたというのに、思い通りに動いてくれないやつだな。
そう思ってしまったわたしは、少し意地が悪いかもしれない。
「人をなんだと思ってるんだ?笑うことくらいあるだろう」
「キミが笑ったところ、あんまり見たことないしさ。随分自然な笑顔だったね?」
彼女はそう言って、わたしをからかってくる。
まったく、遊び心なんて持つものじゃないな。
しかし言われてみれば、ここ最近は笑うことがなかった。
いや、考えればそれも当然というものだが。
「日常のほとんどを仕事が占めている。それが好きでなければ、笑う機会なんてそうない」
「じゃあキミはいったい何に笑ってたのかな〜?教えてよ」
ああもう、こうなるから笑みなんて見せるものではないのだ。
特に、彼女の前というのであれば余計に。
「わざわざそんなことを聞くのか?ダービーウマ娘というのは随分時間を持て余しているようだな」
「へぇ、知ってたんだ?」
そう言われてすぐにわたしは失敗を自覚した。
これでは話題が転換するだけで意味がないじゃないか!
「新聞なんてわざわざ取ってまで知りたかったんだ。あはは、なるほどね?キミも素直じゃないなあ」
「はあ……まずはおめでとう、それだけは言っておく」
「別に、アタシはまだ話してもいいんだけどね」
「過ぎたことに興味はない。案ずるべきは常に未来だ」
なんだか納得がいってないような表情を彼女は見せた。
しかし、そんなことは知ったことじゃない。
「周囲にとって、君の勝利は喜ばしいことだろう」
「さあ、どうだろうね?わかんないや」
そこを素直に肯定しないのが、どうにも会話の調子を狂わせる。それも彼女の性質というものだろうか?
周囲からの評価を気にしていないらしい。
まあ今はそんなことを気にする必要はない。
わたしがこうであるなら、彼女に突きつけるべき現実がある。
「俺には、終わりに向かっているようにしか見えないがね」
「キミはそう思うんだ?アタシは違うけど」
「もうこの際忠告という名目は捨てよう。君は間違いなく、近い将来脚に問題が見つかる。検査を受けろ」
「…キミがそういう態度を取るのは予想外だったな」
少し、悲しそうな表情を見せた。
はあ、インフォームド・コンセントなんてクソだ。
クソだが、わたしは従わざるを得ない。
だからこそ、彼女の信条に付き合う暇もない。
時間はどこまでいっても有限だ。
彼女を縛ることになったとしても、やらなければ。
「俺は、最初から君が期待しているような人間じゃない」
「………」
「言ったろう、過ぎたことに興味はないと。それは、起こったことをなかったことにできないからだ。わかるか?何かが起きたところでできるのは事後処理だけだ」
「キミにどうして、それがわかるの?」
こうなるからこの手法は取りたくなかった。
説明責任は果たすべきだが、そんなものこれでは果たせない。
だが、もはや義務を果たす必要はない。
いや、元々わたしのわがままでしかなかったのだ。
ほんの少しの甘さがわたしに残っていただけだ。
「君にそれを説明する必要もなければ、意味もない」
「それで納得できると思ってる?アタシが縛られるのは嫌だと思ってるのは、キミならわかってると思ってた」
「知っているとも。それで?俺にもやるべき仕事というのがある」
「それが、アタシを無理にでも止めることだって言うの?」
どう見ても劣勢なのはわたしの方だ。
しかしそれは止まる理由にも、諦める理由にもならない。
それができるのは、きっと。
わたししかいないのだから。
「患者に身の危険があれば止めるのは医師として当然だ。でなければ、誰も君を止められないだろう」
「キミがわざわざそれをする必要なんてない」
「意思の尊重なんて極論を言えば誰だってできる。だから、あえて言おう。俺は君を尊重しない」
「…そっか。なら、今日は帰るよ」
彼女はそう言って、部屋を出ていった。
その足取りは、信じられないほどに重い。
わたしに残ったのは、一抹の不安と虚しさだった。
…わたしがトレーナーであれば、してやれることも違ったろう。
「いや、それはただの現実からの逃避か…」
誰もやろうとしないのだ。
他人の意思を否定し、縛り付けようだなんて。
というより、できないのだろう。
しかし、誰かがやらなければならなかった。
それが単に、わたしだっただけで。
「はあ…損な役回りだな」
忌々しい才能は、わたしに権利でなく義務を与えた。
今は、わたし以外の全員が羨ましい。
だが、いつかこの行動に意味ができることを祈っている。
でなければ、わたしは本当にどうかしてしまいそうだ。
「これがなければ、いったいどうしていたんだろうな」
もしかしたら、期待するべき未来があったかもしれない。
トレーナーとして、誰かを導く存在だったかもしれない。
考えても仕方ないことばかり、今は思い浮かぶ。
それでもやはり、わたしが見るべきは現実だった。
どこまでも苦くて、吐き出してしまいそうだ。
わたしは今も、可能性を捨てられないままだ。
ありもしない夢を携え、わたしは明日を憂いた。
お医者さんはトレーナーライセンスを持ってますが、中央トレセン学園にいるのは医師として学園と契約してるだけなのでウマ娘を指導する立場にはいません。