お医者さんは過労気味 作:マシュマロ
「本当は…君たちが後生大事に抱える常識も、何もかも。全て、どうでもよかったんだ」
「急に、何を…」
今更こんな事を言ったところで後の祭り。
しかしそれでも、口を衝いて出てしまった。
わたしが今立っている苦境も。
味わっている苦痛も。
全て、わたしには関係がなかった。
本来必要のないそれが、わたしを覆った。
わたしの血で書かれたカルテが、患者を治療するだなんて。
そんな不条理、許していいのか?
呼吸は深い。
史上最高速の鼓動音。
痛みを感じることは、もうない。
空を見上げて、地面に立つ。
わたしはここから、真っ逆さまだ。
「次はもう少し、マシな人生だといいんだが」
「やめてよドクター!そんな事したって、次なんてあるわけない!」
ああ、なんだか笑いが込み上げてくる。
わたしを制御する全てが無価値になった。
わたしを縛るものは、なにもない。
「わたしは、一足先に抜けさせてもらおう」
地面がわたしへ近づいてくる。
いや、近づいているのはわたしの方か?
わたしの視界はようやく明けた。
ああ、今日はどうにも頭の中がうるさい。
残蝉の…死に遅れた彼らの声がする。
とてつもなく、嫌な感覚だ。
いつか、わたしもあんな結末を…
先程のが夢であったとして、それは果たして現実になり得るだろうか?
「クソ…死が終着点だなんてどうかしている」
まったく理解ができない。
例え誰であろうと、それがわたし自身であったとしてもそんな事は否定すべきなのだ。
死は救済なんかじゃない。
そんなの、ただの敗北宣言じゃないか。
「はあ…はあ…くそっ!」
あの光景が頭から離れない。
純白の白衣が血に染まるのが、とてつもないほどに恐ろしい。
血で血を洗うような社会も、それを受容しているわたしにも。
きっと、もう疲れてしまっているのだ。
「あれは…いったい、誰だったんだろうか」
間違っているわたしを制止する声。
靄がかかったようで、思い出せない。
しかしその姿は、やけに懐かしくて…
そんなことを思った直後、何か言い表しようのない感覚がわたしを襲った。
「いや…だって、そんなはずはないじゃないか!おかしいだろ、そんなの!」
わたしが今まで生きていたことも、そしてこれからのことも。
全て、決まっていたのか?
あり得ない。
何かが、おかしいはずなのに。
それらを否定する材料が、何一つとしてない。
「俺の…わたしの手は、既に血に染まって…?」
違う。
違う。違う、ちがう!
そんなの、受け入れられない。
最初から最後まで、わたしは弄ばれるのか?
間違いのはずなんだ。
「正しい道を、歩まなければ…」
引き寄せられてなどいない。
わたしは決して。
あれらの選択も、全てわたしが行ったものなんかではない。
血で染まってなどいない。
染まっているのは、わたしの歩む道だ。
「俺自身が染まってなんかいない」
汚れているのは、わたしじゃない。
わたしまで、被る必要はない。
わたしが負う責任も、義務も。
全て、社会から与えられたものだ。
「間違っているのは、いつだって君たちだった。わたしじゃない!」
つんざくようなノイズが耳を通る。
わたしの視界が、赤色に染まる。
気色が悪い。
不愉快極まりないのだ。
「声が聞こえたから来てみたけど…どうしたの?」
なぜわたしが間違っているんだ?
なぜわたしに責任を持たせようとする?
わたしの善意を踏みにじったのは、彼女たちだというのに。
なぜ、社会はわたしを否定する?
なぜ、わたしは自分を受け入れない?
「ねぇってば、ドクター!」
わたしを呼びかける声が聞こえた。
顔を見れば、その声の主はシービーだった。
「…くだらない。そんなの、意味なんてないに決まっている」
「さっきからなんなのさ、ちゃんと話してよ」
時間の無駄だった。
どうせ、染まっていたとしてもやることが変わるわけでもない。
いつか来る終わりも、わたしにとっては全て。
何一つとして、意味がない。
わたしが死んだとして、誰かが救われるか?
そんなことを考えているなら、質問に答えるべきだ。
「悪い、夢を見たんだ。気にしないでくれ」
「…本当に?」
わたしが不幸になることで、幸せになる人間はいるだろう。
しかし、それがどうしたというのか。
この社会の在り方なんて、結局は幸福の奪い合いじゃないか。
「俺はきっと、納得がいっていないんだろう。君の生き方も、自分の考えにも」
「なんか、急だね。それも夢がきっかけ?」
「さあ、どうだろうな。きっかけなんていくらでもある」
自然に生き自然に死ぬ。
結局のところ、ただそれだけなのだ。
人は思想だけで死ねるものではない。
わたしがどれだけ苦しもうと、それだけで死ぬ事はないのだ。
どうしたところで、跳ね除けることはできない。
しかし、それによって死することもまた、ないのである。
希望は、絶望は。
全ての未来で、わたしを待っている。
わたしがそれに追いつくか?
案外、絶望なんて大したことはなくて。
希望も、言うほど良いものでもないような。
そんな在り方を、望んでいるのかもしれない。
わたしはひとまず折り合いをつけて、思考を彼女の方へと戻すことにした。
「ああ…それで、君は何をしに?」
「やっと話を聞く気になったんだ?」
彼女は、少し不満気な顔でわたしを見つめた。
置き去りにしてしまったし、それも仕方がない。
しかし…その顔も、声も。
わたしを制止した者とは一致しなかった。
「ま、大して用もないんだけどね。用がなきゃ、だめ?」
「ああ、ダメだとも。健康体のウマ娘が来るために俺はここにいるわけではないのでね」
そう言うと、先程見せた少し不満気な顔はよりその色を濃くして、彼女はわたしに訴えかけるような顔を見せた。
うーん…難しいものだ。
「冗談だとも。今更そのようなことは言わない」
わたしはそう吐き捨てるように彼女の方へと告げた。
彼女は一瞬呆れたような表情を見せ、それからいつものように椅子へと腰かけた。
「ちょっと退屈だなーって思って来たのに、君の方は随分大変なことになってたみたいだね?」
「気にしないでくれと言ったはずだが?」
せっかく折り合いをつけたはずなのに、高所から落ちるような浮遊感、目を覆う赤いノイズ、そしてわたしへ呼びかける誰かの声が蘇ってくる。
「すっごく嫌な夢だったんだね。顔色悪いよ」
「今しがた忘れそうだったのに、君が思い出させてくれたよ」
そう皮肉を言ってみたが、彼女は笑いもせず、かといって不満気な顔も見せなかった。
ただ肘をつき、じっとわたしを見つめるばかり。
「…人の顔を見て、何か面白いことでもあるのか?」
「んー、別にかな。ドクターの表情あんまり変わらないし」
そう言われて、わたしはきっと顔を顰めたのだろう。
それを見た彼女はふっと笑って、続けた。
「前に白昼夢が〜って言ってたけど、やっぱり心配するのは自分の体の方じゃないかな?」
「病名もない何かを心配したところで何になる?」
診断なんてしたところで、何もわからないだろう。
なんて説明すればいいんだ、こんなの。
理解されるべき感覚ではないし、理解されないなら尚更だ。
進んで異常者の烙印を押されたくはない。
いや、もしかすれば手遅れか…?
「ドクターが大丈夫って言ったらそれまでだけどさ。そんなの続けてたら、先にそっちが倒れちゃうよ」
「医者の不養生なんて言葉を知ってるか?そんなものがあるくらいには、普遍的なものなんだ」
彼女は半分諦めたような表情を見せたが、すぐにわたしに向き直って、机にある水を一口。
水がペットボトルを伝って彼女の口へと流れ込んでいく。
まだ飲んでいなかったからよかったものの、少し非常識だとわたしは思った。
が、まさに水を差すことになりそうなので、心の内に留めておくことにした。
「へぇ、立派だね。アタシも見習っちゃおうか?」
「君は医者でもなんでもないんだからやめてくれ」
いやはや、まったくだ。
滅多なことをいうものではないと、呆れてしまう。
わたしは席を立って、彼女の向かい側へと歩く。
「はてさて、何かあったろうか…」
なんだか喉が渇いてしまって、何かないかと冷蔵庫の中を一応探してみる。
しかし、やはり特に何もない。
覗き込むようにして見ていた彼女は、わたしに言った。
「何か飲みたいならこれ、あげようか?」
「なぜ君が飲んだものを飲まなければならないんだ」
少し意地の悪い笑みを浮かべて、言ってくる。
あれは元々、わたしの物だったのに。
「えー、だめかな。アタシは気にしないけど」
「気にするしないは関係なく、飲んだ時点でそれは君の物じゃないか」
その言葉を受け取ってどう思ったかは知らないが、彼女は冷蔵庫の方へと向かって行く。
しばらく見た後、おもむろに何かを取り出した。
「あ、これは?ちょうど2つあるしさ」
彼女が取り出したのはラムネだった。
少し肌寒さを感じる季節に、それはどうなのかと思って積極的に首を縦には振れなかった。
しかし、特に代替案も思いつかない。
わたしは彼女からそれを受け取ることにした。
「案外飲むの久しぶりかな。中々買わないし」
「俺もいつ買ったか思い出せないな。今年のはずだが…」
ガラス瓶を置いて、ビー玉を押し込む。
するとプシュッ、という音と共に炭酸が弾けて、瓶が泡で満たされた。
これも案外、面白い。
「懐かしいな。子供の頃はなんとかしてこれを取り出せないか、四苦八苦したものだ」
「ドクターにもそんな純粋な時期あったんだ?」
興味ありげにわたしへ聞いてくる。
純粋って、それではまるで今のわたしが違うみたいだ。
事実、そうなのだろうが…
そんなどこか納得のいかない感情を、ラムネと共に喉の奥側へと流し込んでみる。
すると、夏を彩る爽やかさがわたしを満たした。
「…やっぱり、これは夏に飲むべきだったな」
「アタシもそう思う。でもまあ、いいんじゃない」
夏を包み込むような、そんな泡が季節外れにも今飲まれてしまって、居場所をなくしているようだ。
なぜだか急に気になって、わたしはガラス越しに彼女を覗き込んでみた。
「おお…案外、綺麗だな」
夏でなくともそれの持つ美しさは変わらないらしい。
わたしはそれがなんだかおかしくて、どうにも。
それを見た彼女が、わたしへ尋ねた。
「綺麗って、何が?」
不思議そうにそう尋ねる彼女もまた、面白かった。
忘れ去られ、特に飲まれることもなくあのまま冷蔵庫へ眠っているよりはこの方が良かったのだろうか?
「ねえドクター。これ、取り出してみたくない?」
「別に、君なら簡単だろう」
叩き割ることはないにしても、ウマ娘の力であれば多少力を加えるだけで済む。
手袋なりなんなりをすれば危険もない。
わたしが工夫を重ねるよりよほど単純で、明快である。
わたしはラムネ瓶を叩き割った。
もちろん、諸々の準備は済ませて。
「ええ…工夫とか、そういうのは?」
「要らぬ工夫はするだけ無駄だよ」
透き通ったガラス玉。
破片を片付けると、それだけが手元に残った。
「そういう工夫が楽しかったわけじゃないの?」
「幼い俺にとってはそうでもなかった。むしろ、重要なのはその後、有意義な時間の使い方というものがこの世にはある」
彼女はきっと、不満な顔をしているだろう。
そう思って、わたしは顔を戻した。
ほら、見たことか。
「アタシとの時間は有意義じゃないって言ってるのかな」
「ははっ、面白いな。君は」
わたしはそれをかざして、覗き込んだ。
半透明なビー玉越しに目が合う。
それでもやはり、綺麗だった。
直近で書いた話では一番上手くできた気がします。
モチベーションに繋がるので評価や感想もぜひ。