未来へ……愛す者と愛し続ける者   作:フランシス・アルバート

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まだ目は出ぬもの

共に仕事をするようになって一月、まだ二人の関係に特別な名前がつくほどの変化はなかった

 

エドガーは外部協力者として与えられた仕事や任務で書類、または施設へ赴き、イゾルデは担当将校として彼を迎え入れて仕事を行う

同じ現地の調査があれば一緒に向かい、同じ書類があれば同じ机で作業する

危険区域に入らねばならない時は自然とお互いの立ち位置を確認した

 

ただそれだけ…本当にそれだけの関係

 

人の距離感と言うのは突然縮まるものではない、ただ静かに少しずつ縮まる

 

仕事をお互い隣でこなす度に最初はあった一歩半の距離が一歩になり、それからまた半歩縮まり、今や肩が触れ合いそうになる僅かな距離感まで縮まる

 

二人はそう言う縮まりかたであった

自然と徐々に、確かめることもなく当たり前のようにゆっくりとまるで木の根が土の中で広がっていくように…

 

最初の変化はなんてことの無い日であった

 

その日、現地調査に行く場所がエーテル濃度が急激に上昇したため、調査が中断

基地へとトンボ帰りすることになり、空いてしまった時間を二人が翌日に使う書類などの整理を行なっていた時であった

 

イゾルデは今日の変化と明日の調査の資料を精査し照らし合わせながら変更をしている時、少し喉を潤そうと手元のカップを持ち上げる

だがカップは空であり、イゾルデは一瞬、空のカップの底を見ると思い出したようにソーサーに戻す

 

先ほどもやってしまった無意識の動き、手を伸ばす度にそれを思い出してソーサーに戻して書類に目を戻す

 

それが三回ほど続いた頃だろうか

エドガーが目の前に淹れたての紅茶を差し出した

 

「これは?」

 

「わかると思いますが、紅茶です」

 

「いえ、そう言う意味ではなくて…」

 

「先ほどから空のカップを持ち上げていらしたので…」

 

イゾルデの視線が空になったカップに向き、エドガーを見る

 

「見ていたんですか?」

 

「三度ほど…」

 

イゾルデの耳がほんの僅かに赤くなる

 

「忘れてください…」

 

「努力はいたします」

 

「絶対に忘れない言い方ですね、でもありがとうございます」

 

少しイゾルデの拗ねた声

初めてであった…彼女がそのように少し拗ねた声を仕事の時に出すのは…

その事にエドガーは何も言わず、自身の机へと戻る

ただ少しだけ、ほんの僅かにだがいつもとは違う微笑みがエドガーには浮かんでいた

 

新しく出された紅茶にイゾルデは口をつけながらエドガーを見ていた、そして

 

「美味しいですね…」

 

「それは何よりです」

 

以前ならば何も言わなかったであろう、社交辞令に近い感謝を伝えて終わり、だがそれにより僅かな変化が起きた

 

それからと言うもののエドガーは自然に飲み物や軽食を差し入れるようになった

紅茶やコーヒー、それと菓子類…

書類が多い時などはこぼしにくい菓子類を差し入れ、疲れて居そうなときは普段は入れない砂糖を置く

 

仕事中だと断ろうとするイゾルデに仕事には糖分も必要だともっともらしい意見を述べて結局は食べさせる

 

そんな小さな、本当に小さな積み重ねであった

しかしやがてそんな積み重ねが塵も積もれば…二人はお互いの好みまで自然と覚えるようになっていった

 

エドガーはイゾルデが甘い物を避けてはいるが、嫌いではないことを知り、イゾルデはエドガーが自身の飲み物には砂糖をほぼ入れないことを知った

 

イゾルデが忙しい時には食事を抜く事さえあることも…

エドガーが人の世話を焼くことを苦に思わないことも…

 

そして仕事に必要だった知識とはまったく関係のない知識が二人の間に積み重なり、増えていった

 

そんなある日の夜

日もとっぷりと暮れ、時計の針が間もなく日付を跨ぐ事を知らせる頃、二人はまだ書類仕事を行なっていた

 

翌日に提出する予定の書類、それに変更があり、急遽作り直すことになったのだ

基地の施設にはまだ僅かに人が残っていたが昼間のような喧騒が嘘のように、廊下に響く僅かな足音すら遠くから聞こえるほどに静寂を醸し出し、深夜なのだと耳からも自覚する頃…

 

エドガーが最後に数字を確認し、イゾルデがそれを受け取り自分の報告書と纏めてしまい、仕事を終える

 

「お疲れ様でした」

 

エドガーの労いの声

 

「いえ、私もこんな時間まで突き合わせてしまい申し訳ありません」

 

「いえいえ」

 

イゾルデは少し息を吐きながら椅子の背へと体を預ける

人は夜遅くまで働けば疲労が貯まるものだ、イゾルデも例外ではない

だが疲労を感じさせないように僅かに息を吐いただけで姿勢を正した

 

疲労を隠している、そう判断したエドガーは声を続ける

 

「今日はもうお戻りになったほうがよろしいかと」

 

「はい、そうします」

 

お互い、パソコンを閉じながらの応答…だがそこに小さな音がなった

二人は止まる……この音は腹の音だ、音の発生源は…イゾルデ…

 

僅かに血の気が引くイゾルデ、先に言った通り深夜の施設は靴の音が遠くからでも響くほどに静かだ

ましてや静かな部屋の中ならばなおさら…

 

二人の絶妙な間、そしてエドガーはそれに対して視線を反らすように沈黙した

それが返って気を使わせたのだとイゾルデは途端に恥ずかしくなり、耳を赤くする

 

「今のは…いや、忘れてください」

 

「努力します」

 

「また忘れない物言いじゃないですか…」

 

「いえいえ、忘れてほしいことが多いと思いまして…」

 

「エドガーさん?」

 

軽く微笑むエドガー、しかしエドガーは少しだけ笑みを戻すとイゾルデに問う

 

「夕食は?」

 

「…………」

 

返事がない、もはや答えであった

エドガーは少しだけ、息を吐き出して少しだけ笑みを消してさらに問う

 

「昼食は?」

 

「…………………」

 

さらなる沈黙…答えていないのに答えるとは不思議なことだが、それも既に答えとして出ていた

エドガーの笑みがさらに消え、少し黙ったあとにまた聞く

 

「朝食は?」

 

「それは…食べました」

 

「なるほど…それは大変立派です」

 

「怒っていますか?」

 

「いえ、呆れております」

 

エドガーが僅かであるが息を吐く、僅かだが先よりも長いため息である

 

イゾルデは少し小さくなった

 

少尉として任官し、部下には背筋を真っ直ぐにしながら指示を出す彼女は時折、こうしてエドガーの前ではこうなっていた

 

お互い、このような関係にまだ気がついていない、いや気がつくほどのことでも無かったのかもしれない

 

「食堂はもう閉まっていますね…」

 

「戻ってから食べます」

 

「何を?」

 

「戻ってから決めます」

 

「それは具体性のない大変素晴らしい計画ですね」

 

イゾルデはその言葉にさらに黙る…

もっともであり、返す言葉もないからだ

エドガーは自分の荷物を纏めて、イゾルデに向きながら言う

 

「では行きましょうか?」

 

「どちらへ?」

 

「食事です」

 

きょとんとするイゾルデ

 

「今の時間では……」 

 

「私が作ります」

 

イゾルデの言葉を遮るようにエドガーは言った

食事?食事…作る?誰が?エドガーが?

 

少し思考が回り、イゾルデは明確に目を丸くする

 

「料理ができるのですか?」

 

エドガーは少し動きを止め、僅かに傷ついたような顔をした

 

「元執事に随分な質問をなさいますね…」

 

「あっ…いえ…そのようなつもりは…」

 

「冗談です」

 

ふと顔を緩めて笑みを浮かべるエドガー

またやられた…イゾルデはそう顔で言っていた

 

からかわれたことを理解したイゾルデはすぐに顔を直す

だがふと一つだけ困ったことが浮かんだ

帰り道は二人とも一部重なるところはある、だが別れたあとにエドガーの家までは少々遠い

 

「私の家なら近いですが…」

 

そうイゾルデは言って固まる、その説明にエドガーは少し黙った

イゾルデもわざわざ自分の家に来て作ってもらうことに躊躇する気持ちがある

 

「なので無理に作っていただかなくとも…」

 

言葉尻が今の自分のように小さくなるイゾルデ

そして理解してしまった、互いに私生活に踏み切ったことはない、だが自然と出た言葉にお互い体が固まる

仕事が終われば別れる関係…今まで意識してこなかった関係に気がついた時にイゾルデは意識してしまった

 

「あっ…その…やっぱり……」

 

「冷蔵庫には何がありますか?」

 

イゾルデは目をパチリと瞬いた

 

「えっ?」

 

「料理をするには材料が必要ですから…それで冷蔵庫には何がありますか?」

 

その言葉に黙るイゾルデ

 

「……あまり…把握していません…」

 

嫌な予感を覚えるエドガー

 

「まさか何もないとか…」

 

「保存食ならいくつか…」

 

「………行きましょう」

 

「はい?」

 

「…途中で買い物もします」

 

有無を言わせない声であった

どうやら私生活に置いて食事に関しては思った以上に無頓着であるとエドガーは理解したのだ

 

そして二人は施設を後にした

軍人であるはずのイゾルデが民間の外部協力者に連れられるようにして帰路につくと言うのは少しおかしくはあったが、そのことが妙におかしく、イゾルデも次第に抵抗を諦めて外に出る

 

途中、夜遅くまで営業している店に寄り、簡単な材料を買う

イゾルデが財布を取り出して支払おうとする前にエドガーは先に支払っていた

 

「後ほどお返しします」

 

「結構です」

 

「ですが…」

 

「それではまた次回、紅茶でも」

 

何気なくエドガーが言った言葉、それにイゾルデは少し固まる

 

次回…

 

その言葉には当たり前だが次がある事を意味している

仕事だけじゃない、今日だけじゃなく、またこんなふうに別の次が…

 

「わかりました」

 

意識したことを振り払ったイゾルデは柔らかく答えた

 

□

 

イゾルデの住居はひどく簡素としたものであった

エドガーの想像以上といったところだ

 

よく言えば軍人らしいきっちりとした家、悪く言えば生活感がない寂しい家

綺麗に整理されて居るというよりは、散らかせるほどのものがない、余計なものがほとんどないと言ったほうが正しいだろう…エドガーは部屋を少し見回してそう感想を抱く

 

そして断りを入れて冷蔵庫を空けた…

 

「………」

 

閉める、そしてもう一度開ける

そしてまた閉めた…

 

「少尉…」

 

「はい」

 

「これは冷蔵庫です」

 

「そうですね」

 

「保管庫ではありません」

 

「はい知っています」

 

「ではなぜ……飲み物と調味料しか入っていないのでしょう…」

 

ふい…とイゾルデは気まずそうに目を逸らした

その瞬間、エドガーの中で一つの思いが生まれる…

 

この人は放っておいてはいけない

これを聞いた人は恋愛感情と思うだろう…だが少なくとも今は違う…純粋な危機感からのものだ

 

エドガーは買ってきた食材を取り出すと戸棚に閉まってあった包丁やフライパンを確認する

しかし調理道具はほとんど使用した跡がなく、包丁の刃も僅かに曇っていた、どうやらこの家の台所は家主から仕事を与えられていないらしい

 

「これは…」

 

「何か問題がありましたか?」

 

「いえ、少尉のお宅の台所事情について少々理解が深まっただけでございます」

 

「それは……どういうことでしょうか?」

 

「言葉通りの意味ですよ」

 

そう言いながらエドガーは包丁を手に取り、食材を切り始めた、トントントンとまな板の小気味よい音が規則正しく響き、程なくして熱されたフライパンから温かな香りが立ち上る

 

イゾルデは手持ち無沙汰になり、料理ができるまでの間、落ち着かなさそうにエドガーを見ていた

あまり料理しないこともこれで見抜かれているのもそうだが、自分の家の台所で誰かが料理を作っている、考えてみれば妙な光景と思えたが、不思議と悪い気はしない

 

「座っていてかまいませんよ」

 

「自分の家なのですが…」

 

「でしたら尚更お気遣いなく」

 

「全部やらせるというわけには…」

 

「では皿をお願いします」

 

皿を出す、それだけで良い

だがイゾルデは軍の資料を読むときと同じように妙に真剣な顔をして食器棚を開けて真剣に皿を選んでいる

エドガーはそれが少しおかしく、軽く横目で見ながら笑みをこぼした

 

まもなく料理は完成した

遅い時間なのであまり重くなく、しかし栄養バランスはしっかりとしたものである

 

料理から立ち上る湯気と香りが空腹を堪えていたイゾルデの食欲を刺激した

 

イゾルデは一口食べた、そして目を見開く

 

「美味しいです…」

 

「お口にあったようでなによりです」

 

「本当に執事だったんですね」

 

「まさか疑っていたと?」

 

「ええ、その…少しだけ…」

 

「これは心外ですね」

 

他愛のない話し合い、二人はここで初めて、職場ではない場所で面と向かい合って食事をし、会話した

 

イゾルデは士官学校のこと…

エドガーは執事を辞めてから経験したこと…

軍の自販機にあったお気に入りの飲み物が消えた、食堂は当たり外れが多いなどなどなど

お互い取り留めのない、どうでも良い話題

しかし肩の力を抜きながら笑い合い、話し合った

 

それがお互い心地よく、楽しかった

まだ口調はそこまで砕けていない、イゾルデは敬語で、エドガーは元執事らしく丁寧で…

依然として2人の間には距離があったが、それでも今や初対面の相手とは言えない間柄の…友人と呼べるか微妙な距離ではあるが、それでももう他人とは言えない距離感

 

時計の針が少し進んだ頃、二人は食事を終えた

皿を集めてエドガーがキッチンへ向かう

その姿を見たイゾルデは後ろから声をかけた

 

「ここまでしていただいて皿洗いまで任せるわけにはいきません」

 

「しかし…」

 

「これは私がやります」

 

珍しく強い姿勢を崩さないイゾルデ

ならばとエドガーはそれを譲った

 

キッチンで皿を洗うイゾルデを見ながら、先ほどまで座っていたソファにエドガーは腰をかける

 

しばらくして皿を洗い終え、水気を切ったイゾルデが振り返った

 

「エドガーさん」

 

「はい」

 

「今日はありがとうございました」

 

エドガーは少し姿勢を戻してイゾルデを見る

仕事の感謝ではない、感謝

いつもとは意味が違う言葉

 

「どういたしまして」

 

朗らかに微笑むエドガー、それに合わせるようにイゾルデは言う

 

「その…またお願いしてもよろしいでしょうか?」

 

何を?そういう必要はなかった、その問いは意味はお互いわかっていたからだ

そして言った直後に彼女は少し恥ずかしくなったらしい

 

「もちろん今回のように遅くなった時でかまいません…毎回と言うわけではなくて…無理なら…」

 

「構いませんよ」

 

イゾルデは言葉を止めた

 

「料理くらいでしたら」

 

「ふふ…」

 

イゾルデはその言葉に目をほんの少し伏せ、そして小さく、本当に小さく笑った

エドガーが初めて見る、軍人としての人前で作る笑顔ではなく、誰かに安心して見せる幼さの残った笑顔

 

僅かな関係の変化、まだ何も名前がついてない関係…

 

しかし確かに、その日…

 

 

二人の関係は変わったのだ

 

 

 

 

未来がどうなるかも知らずに…

 

ひっそりと静かに……

 

 

終わりの足音とは思いもせず…




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