ファイヤー、と叫んだら手のひらから火炎が噴き出て、緑色の小鬼を焼き尽くす。
あるいは、サンダー、ウォーターボール、ウィンドカッター、なんて。
そんな夢みたいなことがあるわけがない。魔物がいて、神が地上を闊歩して、死者が墓からよみがえり、妖精が人を惑わし、迷宮の奥には宝物が隠され、野望を抱えた人間が未知の領域へ旅立ち、学舎では脈々と受け継がれた叡智に何かを継ぎ足そうとしている。
そんなわけはない。現実は退屈なほど整然としていて、うんざりするほど諦観に満ちている。騒がしく若々しい冒険の世界は、今では古典の中にしかない。あるいは、こうして空きコマの講義室で持て余している、白昼の妄想の中とか。
だからこそ、たまに試してみる。カルキとプラスチックコップのにおいが染みた水道水を飲みながら、これは甘い砂糖水だと自分を騙してみる。妄想の中、自分だけの都合のいい思い込みを現実にまで貫き通そうとする。
「そういうことは、君はしないのかい?」
隣にいる少女に聞いてみる。
「しない」
ちょっと僕の方に顔を向けて、その途中で目を合わせることを取りやめた少女は、スマホに視線を戻す。
「したとして。君はどこまで自分を騙せると思う?」
「しないから分からない」
「えっと、したと思ってもらいたいんだけど」
「砂糖水飲みたいなら、コーラ買えばいいじゃん」
弱ったな、と僕は態度に出してみる。顎をそらせて視線をさまよわせ、腕を体からこぶし一つ分離してみる。少女はスマホを見ているけれど、空気は伝わったと思う。
少女のふくらはぎが強張って、すぐに弛緩した。彼女が手持ち無沙汰になったときの癖だ。僕の話がつまらないとき、彼女はよくそうする。
話が回りくどかったかもしれない。反省した僕は、一息入れるつもりで提案した。
「ちょっと待ってて。コーラ持ってくる」
本当にコーラを飲みたかったの? と今度こそスマホから目を離した少女のもとに、僕は廊下の水飲み場からプラスチックコップに水道水を入れて持ってきた。
「ほら、コーラ」
いや、水道水でしょ? とコップを覗き込んだ少女の鼻の頭に、炭酸がはじけてパチパチ音を立てながらコーラの滴が引っ付いた。
「ちょっと! え! コーラじゃん! なに、どうやったの?」
「だから、話を続けたいんだけど、水道水を飲んでいるときに砂糖水を飲んでいると仮定するんだ。砂糖水じゃなくて野菜ジュースでもいいんだけど」
意味がわからない。本当にコーラだ。
なめる程度に味を確かめた少女がつぶやくのと同時に、コップの中の液体がどろりとしたオレンジ色に変わった。
少女の喉がひゅっと鳴り、言葉が消えた。コップの縁を握る指先が白くなり、黒からオレンジ色へと塗り替わったばかりの元水道水を、瞬きすら忘れて見つめている。
「うええ! ねえ! どういうこと!? え?」
「こうやって頑張ると、僕の頭の中にある現実が、君の現実を上書きするみたいで。面白いから君にも試してもらおうと思ったんだけど」
「試す? 私が水道水をコーラに? いや、できるわけないでしょ」
本当にどうなってるのこれ。と言いながら野菜ジュースの味も確かめた少女が、僕の瞳をのぞきこんでくる。
「本気で私にもできると言ってる?」
「それはもちろん。もう僕が実践した後だから、なんとなくやり方も分かるでしょ?」
意味が分からない。分かるわけないでしょ。あんたみたいに頭のねじが外れた人間と一緒にしないでもらえる?
ぶつぶつ文句を言ってきたので、「まあ無理にとは言わないんだけど」と気遣おうとしたら、「やる。やりたくない理由なんてないわよ」と急にバンジージャンプさせられることになった人間のような目をして睨みつけてきた。
「はい、じゃあやってみて」
「あほか。詳しく理屈を教えろ」
そんなことを言われても、僕が習得した道筋とは違う方法で身に付けられるかもしれないし、むしろ僕のやり方って面倒だから、もっと簡単な方法を模索してみてほしい。
それに、僕は気にしないけど、僕の編み出した方法をなんの対価もなくあげちゃうのって、君の今後のためにならないと思うんだ。ほら、人間って楽を覚えたら坂道を転がるように堕落していくから。
「は? じゃあ何? 私はあんたの手品を見せられて種も仕掛けも教えられずに再現しろって言われてるわけ? なんの対価もなく?」
「ああ、そういう見方もあるか。それは盲点だったな。きっと君も夢中になるはずだから、それが対価だと思うんだけどね。まあ、今の君では夢中になるか分からないから対価にならないか」
なにその上から目線、ムカつくんだけど。低く抗議してくる少女の言い分には、もっともなところがあった。
「じゃあ、君は今から僕と同じように感じるから、これで感覚を覚えてね」
僕は少女の脳と脊髄と、全身に広がる末端神経を想像してみた。解剖学の講義の中でも特に興味深かったから、神経については把握している。
けれど、向かい合わせのままでは神経の地図がうまく重ならない。左右が反転してしまうからだ。
僕は椅子から立ち上がり、彼女の背後へ回り込んで、その肩を後ろから抱きすくめた。少女の中を、自分の現実でじかに染み渡らせる。
重なった背中から、二つの体温が混ざり合って熱を帯びていく。
安心する柔軟剤の香りが空間に溶けている。
なめらかな肌を爪でつねってみる。
「ちょっと! 痛いでしょ!」
「痛いね」
そういうやり取りをしながら、少女の側に寄っていた感覚を、少女ごと自分に引き寄せる。
抱きすくめた腕の内側で、彼女の背骨が細かく波打つのが伝わってきた。
薄い木綿のシャツ一枚を隔てただけの胸郭は、僕が思っていたよりもずっと狭く、頼りない。肋骨の隙間から漏れ出る心音は、秒針の狂った時計のように速く、浅い。
「ちょっと……離しなさいよ。息、苦しいんだけど」
口では強がりを言いながらも、彼女の身体は僕の腕を振りほどこうとはしなかった。拒絶するために強張ったはずの背筋が、僕の胸板に押しつけられるたび、熱を帯びてじわりと弛緩していく。彼女のふくらはぎが、ぴんと張りつめては緩む。いつもの退屈しのぎの癖。けれど今のそれは、退屈からではなく、境界線を侵食されることへの本能的な戸惑いから来ているのが手にとるようにわかった。
僕は彼女の首筋に顎を乗せ、意識を沈めていく。
解剖学の教科書に載っていた、あの緻密で無機質な神経系統の図譜を頭の裏側に広げる。延髄から伸びる太い脊髄、そこから肋間を通り、肩甲骨の縁をなぞって指先へと分岐していく神経束の青白い樹状突起。
僕が思い浮かべたその幾何学的な走りを、彼女の背中へそのまま投影する。僕の神経終末と彼女の受容器が、目に見えない無数の細い管で縫い合わされていくような錯覚。
「……ねえ、なにこれ」
彼女の声が、わずかに震えて上ずった。
「耳の奥が、変。高いところで耳が詰まったときみたいな……あと、なんか、舌の上が苦い」
「それは僕の感覚だね。講義室のエアコンの埃っぽい臭いと、さっき噛んだミントタブレットの残骸。君の舌に届いてる?」
「気持ち悪っ……人の頭の中のゴミ箱、覗かされてるみたい」
悪態をつきながらも、彼女は身じろぎひとつしない。むしろ、僕の体温を探るように、背中をさらに深く預けてきた。
「手を出して」
僕が囁くと、彼女は素直に右手を持ち上げた。僕はその手首を掴み、机の上のプラスチックコップへと導く。
さっき野菜ジュースに化けさせたはずの液体は、僕の集中が途切れたせいで、もう中途半端に濁ったただのぬるま湯に戻りかけていた。水面に浮いた微かな気泡が、ぷつりと音を立てて消える。
「人差し指を、水面につけてみて」
「……冷たくないの?」
「ただの水道水だからね。常温だよ」
彼女はおそるおそる、細い指先をコップの縁から滑り込ませた。ちゃぷ、と小さな水音が講義室の片隅に落ちる。
その瞬間、彼女の背骨がびくりと跳ね上がった。
「冷たっ……! うそ、氷なんて入ってないじゃん!」
「入ってないよ。でも、僕の頭の中では今、霜がびっしり張りついた冷凍庫から取り出したばかりの氷塊が、そこに三つ浮かんでる」
「冷たい、痛い、骨まで凍りそう……! 抜いていい? 抜くよ!?」
「だめ。我慢して」
僕は彼女の腹部に回した左腕に少しだけ力を込め、逃げ場を塞いだ。
「感覚をただ受け取るだけじゃなくて、君からも押し返してみて。僕が凍らせようとしているその水を、君の熱で溶かしてみるんだ。ほら、君の指先は今、沸騰したヤカンと同じ温度だと思い込んで」
「無茶苦茶言わないでよ! 熱いわけないでしょ、こんなに冷たいのに!」
叫ぶ彼女の額に、じわりと脂汗が滲み出るのが見えた。
耳朶が赤く染まり、荒い息が僕の腕にかかる。同級生として半年間、隣の席でノートを写し合ったり学食の不味い定食を愚痴り合ったりしていたときの、あの平坦で乾いた彼女はそこにはいなかった。ただ必死に、目に見えない現実の綱引きに神経をすり減らしている一人の生き物が、僕の腕の中に閉じ込められていた。
彼女の指先を中心に、コップの水がわずかに揺れた。
水滴の表面張力が歪み、やがて――小さな、本当に針の先ほどの気泡が、底から一本の筋を描いて立ち上った。
じわり、とプラスチックの壁面が曇る。結露ではない。微かな湯気だ。
「……あ」
彼女の唇から、掠れた吐息が漏れた。
「ぬるく、なった……?」
「そうだね。沸騰まではいかなかったけど、自販機のぬるいココアくらいにはなったかな」
僕が腕の力を緩めると、彼女は崩れるように前のめりになり、机に両手をついた。肩で息をしている。指先を水から引き抜くと、その皮膚はまるで本当に熱湯に浸かっていたかのように、薄いピンク色に上気していた。
「はあ……はあ……。なんなの、これ……疲れる。頭の芯が、万力で締められてるみたいに痛い」
「当然だよ。脳が全力で『あり得ない』と叫んでいる矛盾を、力づくでねじ伏せたんだから。神経伝達物質の無駄遣いだ」
僕はコップを取り上げ、彼女が温めた水を一口含んでみた。
鉄の味。そして、ほんのわずかに、彼女が今朝飲んできたであろう甘いカフェオレの匂いが混ざっていた。不完全な、他人の認識の絞りかす。
美味しいとは言えなかったけれど、喉を通るとき、妙に胃の腑が熱くなった。
「ねえ」
彼女が顔を上げた。乱れた前髪の隙間から覗く瞳は、恐怖に濡れながらも、底の抜けた井戸のように昏い光を宿していた。
さっき僕を睨みつけたときの、あの「バンジージャンプをさせられる人間の目」――いや、それ以上だ。一度跳んでしまって、奈落の風の心地よさを知ってしまった人間の顔をしていた。
「これ、もっと大きなこともできるわけ?」
「大きなことって?」
「例えば……来週の再試の答案用紙を、白紙のまま満点に見せかけるとか。電車の中でうるさい連中の声を、最初からミュートにするとか」
まだ痛みが残っているはずの赤い指先を、彼女は愛おしそうに自分の唇へ触れさせていた。退屈を噛み潰していただけの少女が、世界を裏返すための指使いを覚えてしまった顔だった。
僕はコップを机に置いた。
コップの底に残った水は、もう湯気を立てることもなく、冷たい炭酸を弾けさせることもなく、ただのカルキ臭い水道水へと静かに戻っていた。
けれど、僕のこめかみの奥で、ツンと細い針を突き刺されたような鈍痛が疼いていた。
網膜の端に、ちかちかと青白い光の残像が明滅している。
何かを上書きするたび、僕たちの脳のどこかが、確実に擦り減っている。
そして何より恐ろしいのは――さっき彼女の背中を抱いた感触が、僕自身の皮膚の記憶から、少しだけ輪郭を失って霞んでいることだった。抱いていたはずの腕の重み、彼女の体温、柔軟剤の匂い。それらが、まるで遠い昔に読んだ小説の一節のように、作り物めいた質感にすり替わっている。
「どうしたの? 黙り込んじゃって」
彼女が立ち上がり、僕の顔を覗き込んできた。
ふくらはぎの強張りは、もう完全に消えていた。退屈から解放された彼女の足取りは、ひどく軽やかで、それゆえにどこか現世から浮き上がっているように見えた。
「……なんでもないよ」
僕は顎をそらせて、視線をさまよわせた。
「ただ、言っただろ。人間は楽を覚えたら坂道を転がるように堕落していくって。今日のところは、そのへんで勘弁してあげたらどうだい」
「偉そうに。最初に巻き込んできたのはあんたのくせに」
彼女は小さく鼻を鳴らし、自分のスマホをポケットにねじ込んだ。
「明日も、やるんでしょ。……放課後、この教室で待ってるから」
拒絶する言葉を、僕は持っていなかった。
夕暮れの西日が、整然とした無人の講義室を容赦のないオレンジ色で焼き尽くしていく。
机の上に残されたプラスチックコップの内側には、二度と消えない微かな熱の歪みが、指紋のように白く焼き付いていた。