翌日の昼休み、学生食堂の隅の席で、碧(あおい)はプラスチックの箸を割らずに指先で転がしていた。
彼女の前に置かれているのは、学食で一番安いかけうどんと、購買のワゴンで半額シールを貼られていた、衣のしなしなになったコロッケが一つ。
食器がぶつかる甲高い音と、油の酸化した匂い、それに数百人の学生が発する意味のないおしゃべりが、低い天井に反響して淀んでいる.
窓際の席では、テニスサークルの連中が揃いのウィンドブレーカーを着て、大声で合コンの戦果を報告し合っていた。その後ろを、就職活動のパンフレットを脇に抱えた四年生が、死んだ魚のような目でトレイを運びながらすり抜けていく。
どこを見渡しても、昨日と同じ、一ミリの狂いもない退屈な昼休みだった。
誰かが敷いたレールの上を、みんなで仲良く同じ速度で滑っていくだけの時間。
「ねえ。昨日からずっと考えてたんだけど」
碧はうどんの湯気の向こう側から、僕を睨みつけるようにして口を開いた。
目の下に、うっすらと青黒い隈が張りついている。昨日、あの西日の差す講義室で別れてから、彼女がどんな夜を過ごしたのかは聞くまでもなかった。
「昨日の夜、自分の部屋でやってみたのよ。コップに水を入れて、あんたが言ったみたいに『これはコーラだ』って百回くらい頭の中で唱えてみた」
「うん。それで?」
「一ミリも変わらなかった。ただのぬるい水道水のまま。夜中に一人で水道水を何杯も流し込んで、胃が重くなっただけ」
碧のふくらはぎが、テーブルの下でぴんと強張り、すぐに弛緩した。
僕のつまらない話を聞くときの癖が、今日は自分自身の不甲斐なさに苛立ったときの貧乏ゆすり代わりに使われている。
「言葉を百回唱えるだけじゃ、脳は騙されてくれないよ、碧」
僕は自分のトレーに乗せた黒酢あんかけ定食の白米を一口咀嚼してから、箸を置いた。
甘酸っぱいタレの匂いが鼻腔を抜ける。まだ、僕の味覚は正常に機能しているらしい。昨日の今日で、昨日の今日なりの小さな安堵を覚えながら、僕は言葉を継いだ。
「君は『コーラになれ』と願っただけだ。それは祈りであって、仮定じゃない。いいかい、祈りっていうのは『今はコーラではない』という現実を誰よりも強く認めている状態なんだよ。水道水であることを前提にしている限り、現実はびくともしない」
「はあ? じゃあどうしろって言うのよ。目に見えて透明な水が入ってるのに、最初から黒くて甘い液体だなんて、どうやって信じ込むわけ?」
「視覚から入ると失敗する。目は一番、整然とした現実に飼い慣らされている器官だからね。網膜に映る光の波長は、僕たちの想像力を簡単にねじ伏せてしまう。だから最初は、もっと曖昧で、記憶と結びつきやすい末梢の感覚から騙していくんだ」
僕は身を乗り出し、碧のトレーの端にある冷え切ったコロッケを指差した。
衣は湿気を吸って暗い茶色に沈み、見るからに酸化した油が回っている。
「たとえば、それ。今食べたらどんな味がすると思う?」
「決まってるでしょ。冷たくて、油っこくて、中身パサパサのジャガイモよ」
「その通り。君の脳はもう、過去の経験からその『不味い現実』を予測して、唾液の分泌すらサボっている。食べる前から、君の世界ではそれが冷たいゴミとして確定しているんだ。そこを逆手に取る」
「逆手に取るって、どうやって」
「昨日の感覚、まだ身体に残ってるかい?」
碧の視線が、わずかに泳いだ。
彼女の白い喉元が小さく鳴り、無意識のうちに自分の右肩――昨日、僕が後ろから抱きすくめたときに指先を食い込ませたあたりを、左手でそっと撫でた。
「……残ってるわけないでしょ、あんな気持ち悪い感覚。ただの寝不足よ」
「そうかな。僕には、君の神経がまだ僕の周波数を探しているように見えるけど」
僕はテーブルの下で、自分の膝を碧の膝へとそっと触れさせた。
デニムの生地越しに、彼女の体温が伝わってくる。昨日一度、背骨のラインを重ねて神経の地図を共有したせいか、たったそれだけの接触でも、僕の延髄のあたりがじんわりと痺れるような感覚があった。
碧の肩が小さく跳ねたけれど、彼女は膝を引っ込めなかった。
むしろ、抗議の言葉を飲み込むように唇を噛み、テーブルの上でプラスチックの箸を握りしめている。
「目を閉じて、碧」
「……ここで?」
「誰も僕たちのことなんて見てないよ。みんな自分のスマホと、自分の退屈な昼休みに夢中だ」
碧は周囲の学生たちをちらりと見回した。
実際、僕たち二人が角の席でどれだけ膝を寄せ合っていても、気にする人間など一人もいなかった。世界はいつだって、他人の内面には驚くほど無関心だ。
彼女は観念したように小さく息を吐き、長いまつ毛を伏せた。
まぶたの裏側で、眼球がわずかに動くのがわかる。
「まず、鼻の奥の粘膜を意識して。嗅神経の終末だ。今、学食の油臭い空気を吸っているね。その中から、ラードが百八十度で弾ける匂いだけを拾い上げるんだ」
「……百八十度なんて、知らないわよ」
「知ってるさ。夕方の商店街、肉屋の店先を通りかかったときの匂いだ。黄金色のパン粉が油の中で踊って、細かい泡がパチパチと爆ぜている。鉄鍋から立ち上る、甘くて香ばしい獣脂の匂い。トングで挟むと、サクッと乾いた音がして、割れた断面から白い湯気が立ち上る」
僕の声に合わせて、碧の呼吸が少しずつ深くなっていく。
学食のざわめきが、僕たちの周囲だけ潮が引くように遠のいていく錯覚。
机の下、誰からも見えない死角で、デニムの乾いた繊維が擦れ合う。
膝蓋骨のすぐ脇、総腓骨神経が浅く走るあたりに僕の膝頭を押し当てると、そこを中継点にして、僕の脳内で組み立てた「熱」のパルスが彼女の坐骨神経を遡り、腰椎から脊髄へと滑り込んでいく。
昨日は後ろから抱きすくめなければ届かなかった経路が、今日は驚くほど滑らかに開通していた。一度踏み固められた獣道のように、彼女の神経は僕の侵入を拒まない。
「聞こえるかい? 油が爆ぜる音だ。君の目の前にあるのは、朝一番に揚げられてから六時間放置された惣菜じゃない。今、油の海から引き上げられたばかりの、暴力的なまでの熱の塊だ」
「……うん」
碧の声は、もういつもの刺々しさを失っていた。
半分眠りに落ちている人間のように、無防備で、柔らかい吐息。
「いいかい、それを前歯で噛み切る瞬間を仮定する。上顎の裏側、火傷しそうなほど熱いマッシュポテトが張りつく。挽肉の脂がじゅわっと舌の上に広がって、黒胡椒の粒がピリッと舌先を刺す。熱い。すごく熱いから、君は思わずハフハフと息を吐き出してしまう」
「……っ」
碧の喉が、ごくりと上下した。
閉じたまぶたの下で、彼女の頬がほんのりと赤みを帯び始める。
彼女の脳の視床下部が、僕が送り込んだ偽の熱量に騙されて、実際に血管を拡張させ始めているのだ。解剖学の講義で習った通りの自律神経の反応が、僕の言葉ひとつで彼女の肉体を書き換えていく。
背筋がぞくりと粟立つような、甘美な全能感だった。
「さあ、目を開けずに、箸でそれを掴んで口に入れてごらん」
碧の指先が、パチンと乾いた音を立てて割り箸を割った。
迷いのない動きで、皿の上のコロッケを挟み上げる。
僕の目から見れば、それはまだ冷え切った茶色い塊のままだった。僕が上書きしたわけではないからだ。今回は、彼女自身の脳が引き金を引かなければ意味がない。
碧の唇が開き、コロッケの端が噛みちぎられた。
――ザクッ、と。
湿気ていたはずの衣が、周りの喧騒をかき消すほど鮮やかで乾いた音を立てて砕けた。
「……あつっ!」
碧が目を見開いた。
噛みちぎられたコロッケの断面から、真っ白な湯気がふわりと立ち上っている。固まっていたはずの脂が透明な雫になって煌めき、揚げたての香ばしい匂いが僕たちのテーブルの周囲だけに濃密に漂った。
「熱い……! なにこれ、ほんとに熱い! 舌、火傷する……!」
碧は口元を手で覆いながら、涙目になって僕を見た。
咀嚼するたび、サクサクという軽快な音が彼女の顎から響いてくる。
「すごいじゃないか。一発でできたね」
僕は笑ってみせた。
「今の、僕の補助は最初の匂いの誘導だけだ。温度と食感を書き換えたのは、紛れもなく君自身の仮定だよ」
「私が……やったの? これを?」
碧は飲み込んだあと、残りの半分になったコロッケを呆然と見つめた。
箸先で挟まれた断面からは、まだほかほかと白い湯気が揺れ昇っている。自分の指先が、まるで魔法の杖にでも変わったかのような目つきだった。
「すごい。本当に揚げたての味がした。……ていうか、本当の揚げたてより美味しいかも、これ。お肉の甘みが、なんか異常なくらい濃い」
「記憶の中の『美味しい』を純粋培養して上書きしたんだから、現実の肉屋が勝てるわけないさ。不純物が一切混ざっていない、君の理想のコロッケだからね」
彼女が興奮気味に二口目を口に運ぼうとした、その時だった。
僕の舌の中央に、突然、焼けた鉄を押し当てられたような鋭い痛みが走った。
「……っ」
僕は思わず口元を押さえて俯いた。
唾液に混じって、かすかな血の味が広がる。上顎の粘膜が、まるで本当に百八十度の油を直接流し込まれたかのように、ベロリと皮がめくれてヒリヒリと疼いていた。
「どうしたの?」
碧が不思議そうに首を傾げる。
彼女の舌は、あんなに「火傷しそうだ」と騒いでいたにもかかわらず、何のダメージも負っていないように見えた。ピンク色の健康な舌先が、唇の端についたソースをぺろりと舐め取っている。
代わりに、僕が彼女の口内へ送り込んだ「火傷しそうな熱さ」という仮定の反動が、触れ合っていた膝の神経回路を逆流して、僕自身の粘膜を焼いたのだ。
物理的なエネルギー保存の法則とでも言うべきか。無から生み出された熱量の歪みは、より深く現実の構造を理解している僕の側へと、正確にツケを回しにきていた。
「いや……ちょっと、自分の舌を噛んだだけだよ」
僕は紙ナプキンで口元を拭い、何事もなかったかのように顔を上げた。
ナプキンに滲んだ薄い赤色を、碧に見られないよう素早く丸めてトレイの隅に隠す。
テーブルの下で、そっと自分の膝を碧の膝から離した。
接続を切ると、舌の火傷のような痛みは嘘のようにすっと引き始めた。けれど、それと引き換えに、さっきまで食べていた黒酢あんかけの味覚が、僕の舌からすっぽりと抜け落ちていた。
残りの白米を口に運んでも、湿った紙粘土を噛んでいるような感触しかしない。黒酢の酸味も、豚肉の脂の旨味も、すべてが灰色の砂を噛むような無味無臭へと塗り潰されている。
昨日の夕方は、彼女の背中を抱いた皮膚の記憶が薄れた。
そして今日は、甘酸っぱい定食の味が消えた。
「ねえ、あんた」
碧は残りのコロッケをあっという間に平らげると、唇の端についたパン粉の欠片を舌先で舐め取った。目の下の隈なんてすっかり忘れたみたいに、その瞳がらんらんと輝いて僕を射抜く。無邪気な子どもが、虫の羽をむしる楽しさに気づいたときみたいな顔だった。
「これ、コツが掴めたかも。目を閉じて、記憶の中の感覚を引っ張り出せばいいんでしょ? ねえ、次はこのかけうどんに、海老天を二本乗せてみてもいい?」
「……ほどほどにしておきなよ。いきなり固形物を無から作るのは、脳が焼き切れるから」
「ケチ。でも、出汁を豚骨スープに変えるくらいならいけそう」
碧はもう、スマホの画面なんて見向きもしなかった。
ふくらはぎの強張りも消え、ただ目の前の安物のうどんの器を、宝石箱でも覗き込むような目で凝視している。
彼女はもう一度まぶたを閉じ、器の縁に両手を添えた。
今度は僕の膝の補助もなしに、彼女自身の力だけで世界を捻じ曲げようとしている。
数秒後、澄んだ関西風のうどん出汁が、じわりと白濁し始めた。ニンニクと焦がしラードの暴力的な匂いが、湯気とともに立ち上ってくる。
「……できた。見てよ、ほんとにできた!」
碧が弾けるように笑った。
同級生として半年間、ただ隣に座っていただけのときには一度も見たことがない、目が眩むほど鮮やかな笑顔だった。
それと同時に、僕の鼻の奥で、ツンと冷たい何かが切れる音がした。
学食に充満していたはずの油の匂いも、碧が作り出したばかりの豚骨スープの匂いも、僕の鼻腔からぷつりと消え失せた。どれだけ深く息を吸い込んでも、消毒された手術室のような、無臭の空気しか肺に入ってこない。
「どう? 匂うでしょ、これ!」
「……ああ。すごくいい匂いだね、碧」
僕は味のない白米を無臭の水で流し込みながら、嘘をついた。
彼女がひとつ、都合のいい奇跡を手に入れるたび、僕の身体のどこかから、現実の手触りがひとつずつ削り取られていく。
このまま彼女が世界のすべてを自分の思い通りに塗り替えてしまったら、最後に残る僕は、いったいどんな抜け殻になっているのだろう。
けれど、あんなふうに目を輝かせて世界を貪る彼女の顔を前にして、「もうやめよう」と切り出すだけの理性を、僕は最初から持ち合わせてはいなかった。