放課後の空気は、どこか乾いて冷たかった。
西日が傾きかけた中央廊下を歩きながら、僕は右手のひらを見つめていた。
指を曲げ、皮膚の皺を確かめる。そこにあるのは解剖学の図譜通りの組織にすぎない。けれど昨日の昼休み、碧(あおい)のうどんの出汁を「豚骨スープ」に書き換えた瞬間、鼻の奥で何かが切れて以来、一切の「匂い」が消え去っていた。
朝淹れたコーヒーは、ただの黒い熱湯だった。
学食の油の匂いも、講義室の鉄錆の気配も、すれ違った学生のシャンプーの香りすらも。肺の奥まで吸い込んでも、無菌室のように無臭の灰色に塗り潰されている。味覚も同様だった。昼の定食は、舌の味蕾が麻痺したように硬さの違う有機物を咀嚼している感覚しかない。塩気も甘みも届かない。
味覚と嗅覚の喪失。代償のシステムは残酷なほど正確に、僕の身体から「現実の解像度」を剥ぎ取っていた。
僕が碧に分け与えた『仮定の回路』――現実を妄想で上書きする力。その通行料は、奇跡を起こした碧本人ではなく、回路の設計者である僕の生体機能から一方的に徴収されているのだ。自らの肉体を削り取って他人のキャンバスに絵の具として塗る、歪な取引だった。
「――ねえ、聞いてるの? ちょっと!」
不意に横合いから声をかけられ、僕は思考の底から引きずり出された。
顔を向けると、碧が教科書を抱えたまま、大きな瞳で僕の横顔を覗き込んでいた。
今日の彼女は隈が消え、頬には血色が差している。世界を捻じ曲げられる全能感が、彼女の全身を活性化させているかのようだった。若さと生命力が、僕の削られた五感と引き換えのように輪郭を際立たせる。
「聞いてるよ。海老天の話だろ」
「はあ? 海老天なんて言ってないんですけど。さっきから三回も名前呼んだのに完全無視だったじゃない。また脳みそショートしてんの?」
碧は呆れたように肩を竦めた。その口元の悪戯っぽい笑みが眩しすぎて、かえって現実味が感じられない。彼女が生命の輝きを増せば増すほど、僕を取り巻く世界はモノクロームの底へと沈んでいくようだった。
「ショートなんてしてないよ。神経の走行について少し考えていただけさ」
「嘘ばっかり。いつもそうやって賢そうな言い訳で誤魔化すよね」
碧はスマートフォンを掌でくるりと回転させ、窓の外へと視線を逃がした。ふくらはぎの筋肉が微かに強張っては、すぐに弛緩した。退屈だったり身構えたりしたときの彼女特有の癖だ。
「でさ……今日はどこ行くの? またあそこ?」
「昨日の空き講義室なら、誰も来ないはずだよ。西日が眩しいけれどね」
「決まり。早く行きましょ。あんた歩くの遅い」
碧は早足で階段を上がっていった。リノリウムを叩く軽快な足音を追いながら、僕は喉の奥の渇きを感じていた。いくら水を飲んでも潤わない渇きだった。
第四講義室の木製ドアは、押し開けるとギィと低い軋み音を立てた。夕暮れの斜光が埃の舞う空間をオレンジ色に切り裂く。黒板のチョーク跡、整然と並ぶ長机。退屈な放課後。けれど僕たちにとって、世界の法則に穴を穿つ実験室だった。
碧は窓際の席に腰を下ろすと、カバンから透明なプラスチックのパックを取り出した。薄茶色い直方体の塊が詰まっている。
「……それは何かい?」
「食パンの耳よ。購買の隅っこで、三十円で投げ売りされてたやつ」
碧はパックの中から、乾いて縮れたパンの耳を一本、指先でつまみ上げた。パサパサに乾燥した余り物だ。
「これをね、『最高級ホテルの焼き立てクロワッサン』に上書きするの」
碧の言葉に、僕は眉根を寄せた。
「……待ちなさい、碧。それは飛躍がすぎる」
「何がよ」
「昨日の水道水や出汁とは次元が違う。あれらは同じ液体で味覚の錯覚で済んだ。だがパンの耳をクロワッサンに変えるのは、固形物の物理構造そのものの改変だ」
僕は顎を反らせて視線を天井へとさまよわせた。腕を胴体から拳一つ分ほど離し、指先を小さく開いてみせる。
「パンの耳は小麦粉の塊だ。だがクロワッサンは幾重にも折り込まれた発酵バターの層、気泡、薄いクラストの結晶組織を持つ。それを作るのは、職人の手で捏ねられ窯で焼かれた過去の因果律そのものを捏造することになる」
僕の説得に対し、碧は唇を尖らせた。
「理屈なんてどうでもいいじゃない。世界が私の認識でできてるなら、『これはクロワッサンだ』って確信できれば歴史ごと引っ繰り返せるでしょ? 見ててってば」
碧は両手でパンの耳を包み込み、机に肘をついて背筋を伸ばし、まぶたを閉じた。
呼吸が整う。細いふくらはぎの筋肉が微かに強張っては弛緩する。全神経を指先へ集約させるサインだ。
昨日、僕が背後から抱きすくめて伝えた神経のアンカー。彼女はその感触を自力で再現し、皮膚の裏を走る神経網をトレースして物体へ認識を流し込んでいた。
――ぞわり、と空気が粟立った。
講義室の気圧が急激に低下したような、奇妙な耳の圧迫感を覚える。西日の空間が陽炎のようにゆらめき、埃が宙で静止する。
鼻には何の匂いも届かない。けれど大気の温度が数度上がった。濃厚で脂っこい熱気が立ち上る。オーブンの扉を開けた瞬間の熱風そのものだった。
パンの耳という現実を消去し、そこに『幾層ものバターと小麦』を代入する。触れる感触を「焼き上がったパイ生地だ」と強引に翻訳し、脳幹を騙し、世界にそう観測させる。
――パキッ。
静寂を破り乾いた破裂音が響いた。熱い蒸気が生地を押し広げ、無数の層が弾けた音だった。
「……っ!」
碧が目を見開き、息を呑んで自分の掌を見つめた。
そこにあったのは、もはや三十円の食パンの耳ではなかった。三日月型に湾曲し、琥珀色の照りを纏った黄金色のクロワッサン。ちぎられた先端から白い湯気が立ち上り、繊維の一本一本にバターが染み渡っていた。
「うそ……できた。本当に、できた……!」
碧の声が上ずり、瞳が熱に浮かされたように爛々と輝いた。
「見てよ、これ! 層になってる……本当に何十層も重なってる! 中がもっちもちで、湯気が出てる!」
碧は興奮に頬を染め、両手でクロワッサンを掲げてみせた。禁忌の扉を開けた者だけが浮かべる、無垢で残酷な歓喜だった。
「……ああ。すごいね、碧」
僕が乾いた声を絞り出すと、碧は湯気の立つクロワッサンをちぎり、僕の顔の前に突き出してきた。
――サクッ、と小気味の良い音が講義室に響く。
ちぎれた断面から、濃厚な熱気と湯気が僕の鼻先をかすめた。けれど、僕の鼻腔には何一つ匂わない。湯気も熱も黄金色の焼き色もあるのに、感覚受容器は死滅したままだ。目の前にあるそれは、まるで無菌室のガラス越しに見せられている食品サンプルのように、生命感を奪われていた。
「どう? すっごいバターの匂いするでしょ!」
「……うん。とても、いい香りだ」
僕は嘘をついた。嘘をつきながら、碧の差し出すクロワッサンを見つめた。
いや、見つめようとした、その瞬間だった。
――キィィィィィィィィィンッ!
突如として、頭蓋骨の内側で鼓膜を針で貫かれたような高周波の耳鳴りが爆発した。
「……っ!?」
激痛だった。有毛細胞が引き千切られ、聴覚野がショートしたような激痛。両手で側頭部を押さえても、音は脳の中心から噴き出していた。耳を塞いでも無駄だ。右耳から遠くの物音が聞こえるのに、左耳の奥は殺人じみた金属音に支配されていた。
だが、異変は耳鳴りだけに留まらなかった。
「ぐ、う……」
机に突っ伏そうとした僕の視界が、急速に歪み始める。
左目の視野の中央から、じわりと絵の具が抜け落ちるように、夕暮れの茜色が消え失せていった。壁の白も、机の飴色も、黒板の緑も、そして目の前のクロワッサンの黄金色も。すべてが掠れた墨汁を水で薄めたような、冷たい灰色の濃淡へと塗り潰されていく。
左目の世界から『色彩』が完全に消滅したのだ。右目で見れば茜色の世界なのに、左目で見ると、古いモノクロフィルムの画面が重なり合う。左右の視覚情報が激しく衝突し、猛烈なめまいが僕の平衡感覚を狂わせた。
味覚と嗅覚の喪失に続き、聴覚の偏りと左目の色覚喪失。代償の徴収は、奇跡のスケール拡大と寸分違わず連動していた。固形物の因果捏造へと進化した結果、肉体から差し出す通行料も跳ね上がったのだ。僕の存在の解像度が、彼女の燃料として急速に燃やされている。
「……っ、う……!」
机板に額を押し当て、僕は歯を食いしばった。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。
「ちょっと……! あんた、どうしたの!?」
碧の切迫した声が、右耳からだけ飛び込んできた。左耳の金属音のベールに阻まれ、彼女の声は水底から響いてくるように歪んでいた。
「おい、しっかりしなさいよ! どこが痛いの!? ねえ!」
肩を強く揺さぶられる。碧の指先の体温が、ブレザー越しに伝わってくる。
「……なんでも、ない……」
僕は顔を伏せたまま、掠れた呼気を漏らした。
「ちょっと……立ちくらみが、しただけだ。いつもの、貧血さ……」
「嘘ばっかり! そんな貧血があるわけないでしょ! 顔、真っ青じゃない!」
碧は僕の肩を掴んだまま、息を呑んだ。そして、ふと何かに気づいたように、彼女の動きが静止した。
僕を揺さぶっていた指先の力が強張る。碧の視線が、自分のもう片方の手に握られたままのクロワッサンへと落ちていくのが気配で分かった。
沈黙が落ちた。窓の隙間から風が吹き、カーテンを揺らす。
彼女は馬鹿ではない。昨日出汁を変えた直後に僕が水を飲んでいたこと。今日の昼、味のしない定食を黙々と流し込んでいたこと。そして今、クロワッサンを出した瞬間に僕が倒れ込んだこと――。すべての点が、彼女の中で一本の残酷な線として結びついていくのを、僕は伏せた視界の隅で感じ取っていた。
「……ねえ。あんた、昨日から何がおかしいの?」
碧の声から熱狂が消え、冷え切った震えが宿っていた。
「嘘つき! 目、見せなさいよ!」
碧は僕の腕を無理やり引っ張り、僕の顔を覗き込もうとした。引き起こされた僕の顔を、碧の昏い瞳が正面から射抜いた。その目は、断崖絶壁から無理やりバンジージャンプをさせられる直前のような、怯えと狂気、そして鋭い猜疑心を宿した目だった。
「……左目、どうしたのよ。瞳孔が、全然光に反応してないじゃない。私がこれをパンに変えた瞬間、あんたの耳から変な音がして、顔から血の気が引いていくのを……私、見てたのよ!」
碧は手の中のクロワッサンを怯えた目で見つめ、再び僕へと視線を突き刺した。
「……私が、これを作るたびに。あんたの体に、何かが起きてるの?」
その問いに、講義室の空気が凍りついた。
真実を告げれば、彼女は間違いなくこの悪戯をやめるだろう。
けれど、僕の脳の底にある歪な渇望が、それを拒絶していた。退屈な現実に穴を開け、世界の理を踏み越えていく感覚。何より、あの無愛想だった碧が、僕の神経を介して世界を貪り、歓喜し、僕の異変に戦慄しているという濃密な共犯関係の甘美さ。それを手放すくらいなら、左目の色彩など安い代償に思えてしまった。
「……買い被りすぎだよ、碧。僕が君の身代わりになって呪いを受けてるとでも? そんなオカルトな設定、君らしくもない。ただの寝不足と貧血さ」
「……本当に?」
碧の目は、僕の嘘を暴こうと激しく揺れ動いていた。信じたい欲望と、疑うべき理性がせめぎ合っている。彼女はまだ、手に入れたばかりの奇跡を手放したくないのだ。
「本当さ。だから……早くそれを食べなよ。冷めたら、せっかくのクロワッサンが台無しだ」
僕がそう言うと、碧はしばらく息を詰めて僕の顔を見つめ続けた。やがて、彼女は迷うように視線を落とし、手の中の温かいパンをじっと見つめた。その喉が、ごくりと小さく上下する。
「……食べるわよ。食べて……何でもないって、証明して見せるから」
碧はクロワッサンの端を、小さく口へと運んだ。
――サクッ。
軽やかな、どこまでも香ばしい音が、静まり返った講義室に響き渡った。その音は、僕の右耳にはこの上なく鮮明に届いたけれど、左耳の奥では、ただキィンという冷たいノイズの彼方へと吸い込まれて消えた。
「……おいしい。すっごく、おいしい……」
碧が呟いた。その瞳に、一瞬だけ純粋な味覚の陶酔が浮かび、それからすぐに、消えない罪悪感の影が濃く差し込んだ。彼女はそう言いながら、もう笑ってはいなかった。泣き出しそうな、それでいて食べるのを止められない、奇妙に歪んだ表情で、捏造された奇跡を嚥下していた。
僕はそれを、色彩を失った左目と、夕暮れの赤が残る右目で、交互に見つめていた。
僕たちの足元で、現実の地盤が音を立てて崩落していく。
もう二度と、退屈で平和だった昨日の世界には戻れない。僕の耳の奥で鳴り止まない金属音は、その不可逆な崩壊のファンファーレのように、どこまでも冷ややかに響き続けていた。