第一章全8話30000文字程度、執筆済
遥か星よりの焔 第一話
「えー、良いから受験はもう。うん、ほら、今の職場で上手くやってるし。え?いやいや、良いってそういうの。挨拶とか……」
無線ヘッドホンから、心配そうな母さんの声。末っ子が共通テストの試験会場から失踪して不合格、更にその後一人暮らしを始めたのだから心配にもなるだろう。
「だから、闇バイトじゃないって。住所?いや住所はこの前教えたっちゃ」
母さんの追及と同時に、仙台駅前のペデストリアンデッキを行き交う人波を躱す。
まだ頭にのしかかる眠気を感じながら、俺は足早と駅に向かっていた。
「んだ(うん)、その住所で合ってるよ。検索したら出てくるべ?俺そこで働いてっから……いや、行っても着けねえ?なわけねえべや。母さんが方向音痴なだけ」
頬に冷たい風が当たる。昨日買った新作の保湿バームが良い仕事をしているのか、肌が乾燥で張る感覚はない。良い化粧品に出会えた日は気分が良い。
俺は仙台駅西口に入り改札を目指した。途中、駅ナカの店のガラスで、5分丈の白いサマーセーターの襟を直していると、つい母さんの話を聞き逃してしまう。
「あ、ごめん、なに?……もう、そんな心配しねえで。え、職場の人?!うーん、まあ今度な?ちょっと会話が成立……忙しい人が多いからさ、色々相談してから連れて行くからわ」
エコバッグを担ぎ直し、改札を通る。すると、改札機のディスプレイにどろりと溶けたようなノイズが走り、その場で塩釜駅までの運賃が引かれた。「別位相の経済や文化をできる限り侵害しない」というのが館長のモットーらしく、あの人に手渡されたSuicaは改造済みだ。そこでちらりとスマホを見れば時刻は8時59分。
「やべ、電車出っから切るよわ」
一方的に通話を終え、1番線のホームに駆ける。9時2分発の
三号車の開いているドアに飛び込み、後ろに続く乗客がいないことを確認して、「閉」のボタンを押す。これを閉めないまま放っておくやつは好きになれない。夏も冬も、電車に入り込む外の空気は不快なものだ。
空いている窓際の座席のひとつに腰を下ろしたところで、出発を知らせるアナウンスが鳴った。
ガタンと車体が揺れ、列車が走り出す。景色が滑るように動いていく。
俺はスマホを取り出して、ファッションと雑貨の話題ばかりがおすすめされるSNSのタイムラインをぼんやりと眺めた。
『次は東仙台〜東仙台〜』
仙台駅を少し過ぎれば、落ち着いた街並みが広がる。洗濯物が干されたマンションを視界の端で眺めつつ、画面をスクロールする。そうしているとすぐに、そのときは来た。
『次は、
海沿いの静かな町を目指して列車は走る。
俺は立ち上がり、車両後部のドアの横に貼られたポスターの前に立つ。古びた木製のドアの写真が印刷されただけで、何の文言もない。
アナウンスが響くなか、それに手を伸ばす。他の乗客はスマホをいじっているか、眠っているかで、今まさに迫る異変に気づくことはない。
俺はいつも通り、その表面に触れる。ひやりとした感触もつかの間、指先が紙の中に潜り、金属のドアノブの感触が伝わってきた。
体重を乗せて扉を押し開ければ、そのままポスターの中に身体が引きずられる。着地した瞬間、朝の陽光も、列車の天井に設置された蛍光灯の光も消え失せて、己の指先すら見えない闇の中に放り出された。
手探りでドアノブを捉え、再び体重をかけて、防音扉のような厚みのドアを押し開けた。
そこは、直径二十メートルはあろうかという巨大なドーム状の空間。入り口の足元から階段状に広がる客席が、鯨のあばら骨のように大きな弧を描いている。
頭上には、ドームスクリーンが広がっているが、そこには何も映し出されていない。中央に設置された投影機はいつも眠ったままだ。
足元を照らすフットライトが、ぼんやりと座席の列を浮かび上がらせる。布張りの椅子の並びに視線を向けると、中央付近の席に、人影が見えた。
「あれ?」
「おや、早かったな」
大きな丸眼鏡の下で輝く切れ長の目が俺に向く。黄金の瞳の中に、白銀の魚のようなものが幾筋も泳いでいた。
その髪は頭頂部の黒からはじまり、腰に届く薄紫の毛先に至るまで人工のヘアカラーではありえない滑らかなグラデーションを描いている。通路を歩いて近づけば、その白い肌が非常に薄く、ゼラチンの膜を張り付けたように透き通っていることが分かった。
「
「わたしも
「館長が?ありがとうございます」
鮮やかな髪を左右で三つ編みにして垂らした男はすっと席を立ち、白縫を見下ろした。黒いフリルシャツと白いスキニーパンツを見れば、高級ブランドのファッションモデルのようだが、首を傾けながら、こめかみに指を当てるしぐさはどこかぎこちなく、挙動不審に見える。
彼の名は
俺がバイトする書庫「雲母虫書院」の従業員のひとりだ。
「他相から来たものは、この道を迷いやすい。特に中天の子は」
「あんたにだけは言われたくない。遅刻常連のくせに」
「わたしは良いんだ。道に迷うことは、わたしになんら不利益をもたらさない」
「わー、勤め人とは思えない台詞」
三ノ宮さんは、俺を仙台中の靴屋に連れ回して手に入れたボタンブーツの踵を返し、反対側のドアに向かって歩き出す。
「……いつも思うけど、これが自然生成って不思議っすよね。どの道も、いつ行っても構造変わるし」
星道回廊は、あの世界と他の世界─彼らの言い回しに合わせれば「他の位相」とを繋ぐ道だ。
俺も受験会場のトイレのドアを閉めた瞬間に無人の廊下に放り出されたときは混乱したものだ。しかし、今歩いているこのルートは、公的機関によって安全が確保されており、幸い恐ろしい目に遭ったことはない。
「中天の相にも、自然に生まれ、変わりゆくものくらいあるだろう」
「まあ、そりゃそうっすけど」
三ノ宮さんがドアを開けると、そこには天井も壁も床も、一面が白く細い廊下が続いている。
「雨が降りそうだな」
三ノ宮さんは白熱球が明滅する天井を見上げた。俺もその視線を追うが、当然雨の気配など感じない。強いて言えば、明滅する白熱球の中でトカゲが首を伸ばしているくらいだろう。いつもの光景だ。
「ここ屋内ですよ?」
「中天の子は、雨と夜とを避けるもの。ゆえに、我々よりもそれらの足音を気取るための感覚が鈍いのだろう」
「……な、なるほど?」
三ノ宮さんが歩調を速めるので、後をついていく。
「ここに雨が降るとどうなるんですか?」
「雨を好む者たちがやってくる。あれは中天の子とは少々相容れない」
確かに、こんな場所の雨を好む存在とは会いたくないので、大人しく頷いた。ひとつひとつの疑問を、深く尋ねていてはキリがない。好奇心が疼くが、順番に覚えて言えば良い。
歩くたび揺れる彼のおさげを目で追いながら、その迷いない足取りを追う。
蛍光灯が時折ちかちかと明滅する。壁には日本語と星霜公語が溶けたアイスのように混ざり合った、奇妙なデザインのポスターが点々と貼られている。その枚数は、歩を進めるごとに増えていく。ポスター同士が重なり、壁のうえで厚く膨らむ。
足元に転がる天球儀の山を、少しも足をひっかけることなく歩く背中を必死に追っていると、三ノ宮さんは再び天井を見上げた。
「近いな。竜尾がお前を案じていたわけだ」
「な、なにが?」
俺の混乱を尻目に、三ノ宮さんはおさげを翻してT字路を左に曲がる。壁にかけられた案内標識には、星霜公語で「左折 王宮外苑通り」と記されていた。
「もちろんわたしもお前を案じているぞ。勤めびとは、同僚と呼ばれる共同体の同胞を気遣うものだ」
「……そりゃあどうも」
俺は一息つきたくなって、腰に手を当て、一度標識の前で立ち止まる。来るたびに物が増えていたり、道順が変わっているような場所だが、この標識だけはいつも変わらず安心感を与えてくれる。
「わざわざ外苑通りに出るのか?書院前に出る近道もあるぞ」
「え、近道?あるなら嬉しいっすけど、安全ですか?」
三ノ宮さんは足を止め、俺の身体を文字通り頭のてっぺんから爪先までじーっと観察した。見開かれた黄金の中で、銀の魚が泳ぐ。
「そうだな……白縫は、窒素ガスをアンモニアに変換できるか?あるいは、砂子水を灯石に変換するのでも良い。もしくは体を構成する分子をすべて幽素に変えて透過─」
「こっちで」
標識が示す方向を指差すと、三ノ宮さんは心底つまらなそうな顔をしたものの、おとなしく従ってくれた。
「白縫は脆弱な生き物だな」
「逆に三ノ宮さんは、そんなハードな環境の細菌みたいな芸当ができるんですか?」
「いいや、全く」
「脆弱な生き物っすね」
「生ある者は、必要のないことはできないようになっている」
軽口をたたきながら、通路を進む。蛍光灯の光に徐々に青みが増し、中に淡く光る虫やとかげが動いている。
用途の分からない壁のスイッチの群れを、三ノ宮さんが手遊びのように押していく姿にひやひやしているうちに、その瞬間は訪れた。
4度目の曲がり角。その奥の暗闇から、賑やかな人々の声と、静かな音楽が聞こえてくる。呼んでいるのだ。あの場所が、夜が。
「ぎりぎり、雨に当たらずに済んだな」
三ノ宮さんは後ろを振り返りながら、俺の背を追い立てるように押した。つんのめりながら、俺は夜闇に飛び込む。
ラベンダーとカフェオレを混ぜたような、甘やかながらも爽やかで冷たい風が頬に当たり、視界が晴れる。
『こちら、第3番星道回廊、中天の相直通でございます』
満天の星空の下、回廊前入口の庇にくくりつけられた木製のスピーカーからノイズ混じりの音声が高らかに響く。
淡く光る
レンガ造りの摩天楼を見上げ、俺は深く息を吐いた。眩く輝く巨大な月が、じっと俺を見つめ返す。
─「遥けきのヨトワ」。
それがこの、奇妙でうつくしい世界の名前だ。