見上げれば、山の峰々に触れんばかりの距離に、ホトオリの主神シロカネの居城とされる巨大な月「
あれはかつて永遠の夜だったこの世界に墜落し、以来ここ「ホトオリ帝国」では、座が眩く光る時間を「朝」や「昼」と定めたらしい。
太陽の光で育った俺からすればその光は些か儚く、そして今にも頭の上に落ちてきそうなほど危うい。
「座があの光度ということは、9時半から10時の間と言ったところか」
「あんた、いい加減時計持ち歩いてくださいよ」
非常に原始的な時間の確認をする三ノ宮さんの横で、俺はエコバッグからサコッシュとベルトを取り出し、腰に巻く。やっと空になったバッグに心底ほっとした。
これらの道具に施された魔導的軽量加工は、日本に行くと効果が切れてしまう。そのため重くて重くて仕方なかったのだ。
「今は9時45分すね。ま、ゆっくり歩いても給餌には間に合うかな。それとも路面汽車で─」
人々が行き交うレンガ造りの街並みを歩きながら、俺は三ノ宮さんを振り返る。彼は、街灯のそばで、半透明の身体を持つ幽体種の老人と何やら話し込んでいた。
「手に持っている本はなんだ?どんな味だ?どんな舌触りだ?どこで─」
「三ノ宮さん、他人の本食べようとすんのやめてください。あ、すみませんねこの人が急に」
俺は三ノ宮さんのベルトを掴み、犬を引くように力任せに軌道修正した。
「なんだ藪から棒に」
「藪から棒なのはあんただよ!ほら、早く行きますよ!今日、新しい本が入庫するって館長が言ってたしさ」
「新しい本?」
彼はぐるりと俺のほうを振り返る。金色の瞳の中、魚がいっそう激しく踊った。
「なんの本だ?」
「えーと、カクシュク島の成人の儀についての観察と考察とかなんとか」
「分類は風俗習慣・民俗学だな。わたしの縄張りだ。さて、さっさと着いてこい白縫」
「ああ、もう、歩いてくれんなら何でも良いです」
石畳の大通りを歩き、文字通り長く首を伸ばした客引きをあしらって、かすかに淡い虹色を帯びる背骨の橋を渡り、街の中心にそびえる青い蛋白石の城の方角を目指す。ラベンダーに似た香りを宿す風を肌に受けながら賑わう街を進めば、やがて建物の隙間から深紅のツタに覆われたレンガ造りの塔が現れる。
『雲母虫書院』
木製の看板が細い道の先で俺たちを迎えていた。
館長である竜尾さんが、己の知識の探究と文化保全のために創設した、私立図書館。外見は5階建て程度だが、その内部には螺旋階段が貫く無限の階層が連なっている。手続きを踏めば写本の貸し出しも可能で、それを目当てに訪れる者も多い。
「おはようございます〜」
観音開きの扉の片側を押し開ければ、茶葉の甘苦い香りが鼻腔をくすぐる。
四方を本棚に囲まれ、緩やかな曲線を描く部屋の中央には、小さなダイニングテーブルがあり、お洒落な木製のケーキスタンドと湯気の立つ紅茶が俺たちを出迎えていた。
「やあ、おはよう。雨には当たらなかった?」
テーブルの傍らに伸びる柱の陰から館長の声がした。そこに置かれた小さなローテーブルが彼の特等席だ。彼はいつも、人の死角に居る。覗き込んでも一瞬で視界の影に回ってしまうので、俺は館長の姿を見たことがない。
「雨雲の影が見えていたが、それだけだ」
「そっか。蓮くんがいてくれてよかったよ。ありがとうね」
“蓮くん”というのは、古株の従業員が三ノ宮さんを呼ぶときの愛称だ。俺から言わせれば、まったく蓮くんというガラではないのだが、それなりに付き合いが長いのだろう。
「ああ。どういたしまして」
三ノ宮さんは、「ありがとう」と言われたら「どういたしまして」と返す。台本を読んでいるような棒読みの返しの横で、俺も館長がいるであろう場所に挨拶をした。
「おはようございます。もうアケビン来てるんですね」
「なんだ、僕が気を利かせて用意したとは考えてくれないの?」
「館長がこんな綺麗にお菓子並べられるわけないじゃないですか」
正式な名前は忘れたが、英国貴族が使っていそうな3段のケーキスタンドと、そこに並ぶお菓子や軽食を眺める。ここで軽食をつまむのが、従業員たちの朝のルーティンだ。
「そうですよ、さっきだって、
部屋の奥、給湯室に続くドアから現れたのは、160センチ程度の小柄な背丈の人物だ。白いブラウスに青いリボンをあしらい、黒い膝丈のスカートを履いている。顔立ちは可愛いが、立襟に隠された喉仏や、平らな体躯、タイツを覆う牡鹿のように細く肉付きの薄い足は痩せた男のそれだ。
「おはよ、アケビン」
「おはようございます、白縫くん。三ノ宮くん」
放たれる挨拶は、張りのあるテノール。彼はスカートの裾を掴み、恭しくお辞儀した。
「おふたりで出勤なんて珍しい。また三ノ宮くんが厄介を振り撒いていたんですか?」
「迎えに来てくれたんだよ。なんか雨が降るとかで」
「なるほど。この人は湿気に強いですから、適任ですね」
アケビンは完璧にセットされた前髪をいじる。こいつは、湿気で自慢のゆるい螺旋を描くボブヘアが崩れることを許さない。
「さて、突っ立ってないで召し上がってくださいな。今日も、今日とて、腕によりをかけているんですから」
「はーい」
「三ノ宮くん、茶葉はそのままでは食べられないと何度と言ったらわかるんですか?」
さっさと席に座り、蓋を空けてすんすんと匂いを嗅ぐ三ノ宮さんの手から、明火は茶葉が入った瓶をひったくる。
「あなたは薄墨茶で良いでしょう?白縫くんはアールグレイのストレートでしたね」
「ありがと。なんか手伝う?」
「結構です」
予想通りの答えに肩をすくめたあと、俺は席に座る。三ノ宮さんも俺の隣に腰を下ろして、切り分けられたキッシュを早速口に放り込んだ。
「今日出勤してるのってここのメンツだけ?」
「いいえ、兄が上に。それに雷助さんも……お嬢さん方は来ると言ってましたが、午後ですかね。判で押したように決まった時間にやってくるのはあなただけですよ」
「仕事ってのは普通そういうもんなの。こっちでもそうじゃねーの?」
「まあ、普通に働こうって子は、別のところに就職するから」
困ったような声は少しこもっている。柱の陰で、館長は取り分けられたケーキを食べているようだ。
「ほら、どうぞ召し上がれ」
三ノ宮さんには、墨を溶かした真っ黒なお茶が、俺にはアールグレイが、差し出された。
南方の巨大な海洋類の骨から作られたというティーカップは、うっすらと青みがかった白をしている。
口をつければ、爽やかな香りが鼻を満たす。ホトオリ帝国のなかには、日本などの別位相の物品を取り寄せて販売する業者もいるらしく、アールグレイもそこから手に入れたものだと言う。
「うん、相変わらず美味いな」
「それは良かった。三ノ宮くん、あなたの後輩は相変わらず気が効きますね。同じ階で仕事をしていて、あなたもよい影響のひとつやふたつ受けないものですか?」
話を振られた三ノ宮さんは、どこをみて何を考えているかわからないしかめっ面で墨を溶かした茶を飲んでいる。
「この虫ケラに嫌気が差したら、いつでも美術・芸術館に異動してください。あなたが持ち込む中天の祖の話や物品は、興味深いものばかりですから」
「勝手に勧誘しないの。蓮くん一人になったら、うちの民俗学分野の本は一冊残らず消えてしまうよ」
ふたりに散々に言われているのに、三ノ宮さんはどこ吹く風といった雰囲気でお茶を飲むばかりだ。
しばらくそうしていると、ふと館長の腕が柱の陰からゆるりと伸びてくる。
シャツに腕貫をはめた、市役所の職員のような腕が、ここの業務日誌をつまんでいた。
「そうだ白縫くん、これ昨日の夜番の日誌」
俺は差し出された業務日誌を受け取る。白鐘の座の光が鈍くなる夜は、三ノ宮さん曰く「夜を好む者」たちが火守の餌やりや見回りなどの業務をこなし、明け方に日誌をつけて帰っていくのだ。未だに彼らに会ったことはないが、日誌の筆跡を見るに数名で交代しているようだ。
「今日に関係ある内容は、
「帰る?」
「うーん、僕が説明してもいいんだけど……蓮くーん」
沈黙。明火に椅子を蹴られてようやく、三ノ宮さんは呼びかけに反応した。
「なんだ」
「仕事をしながらでいいから、白縫くんに色々教えてあげて。あと、御星さんは午前中には来ると思うから……」
「まて、新しい書籍が入荷したと聞いたぞ!」
「ちゃんと教えてくれたら、あとで味見させてあげるよ」
丸眼鏡の奥、瞳の内に住む魚がぐるぐると渦を描くように忙しなく泳ぐ。三ノ宮さんは心底不満そうだったが、やがて真っ黒なお茶を一気に飲み干して立ち上がった。
「行くぞ、白縫」
「え、今?!ちょっ、ちょっと待って!ごちそうさま!」
俺は紅茶を飲み干し、ずんずんと螺旋階段に向かう三ノ宮さんのあとを追いかける。その身勝手さには辟易するが、同時に心にはじわじわと好奇心が満ちていた。
「あの、三ノ宮さん。火守を返すって?火守は家畜みたいなもんだって言ってたっちゃ」
「それは、インクの湖の浅瀬に立つ者に向けたことばだ。ここに来たばかりのおまえはそうだった」
幅の狭い階段で、三ノ宮さんは器用に踵を返し、上段から俺の瞳を覗き込む。彼の背中、上階から静かで冷たい空気が流れ落ちてくる。
「いまはちがうだろう?おまえは湖のつめたさと深さを、」
「……それ、すごい話が聞けるって期待して良いんですか?」
隠しきれない好奇心で、笑いをこらえきれなかった。
「ちがう。わたしが語る。おまえがそれを耳と脳髄とで学ぶ」
スラリとした指が曲がる。その先端がレンズの入っていないフレームの縁をなでた。
「脳で知識を食らうんだ。その味は好きだろう」