「まず
「うん」
「……」
館長に言われたとおり、珍しく教師ぶった説明が始まったと思えば終わった。
揺れるおさげを追って階段を上がる。床板は古びているが、皆がブーツやハイヒールで頻繁に行き来するというのに、それ以上傷がついたり壊れたりしたところを見たことはない。
多分、この階段を含めて、書院の中は外の世界とは切り離されてるんだろう。古い本と、虫除けのハーブの匂いが、どこからともなく吹く微かな風によって撹拌されていく。
3階に辿り着くと、「本に顔をくっつけないこと」「カンテラの蓋を閉めること」など、俺があくせく書いては貼りを繰り返した付箋があちこちに目立つ。三ノ宮さんは本当に、あらゆることに無頓着なうえに関心のない話を覚えてくれないので、目で見える形で警告するのが一番なのだ。
それでも、一部の付箋は消し跡も無く白紙になっている。小腹が空いた三ノ宮さんが「つまみ食い」したんだろう。糊まで失ってただの紙切れと化し地面に落ちているものもある。
「だ白縫、これはインクが不味かったな。勝手にペンを変えるな」
「あんたが食うために書いてるんじゃねーよ」
円形の空間、窓のそばに吊り下がった紐を引くと、滑車が回りゆっくりと厚手のカーテンが開いていき、薄手の緻密なレースカーテンが現れ、光が差し込む。
白鐘の座が墜落する前、
「なあ、この薄っぺらい布切れは必要か?」
「必要とかじゃないの!流行ってんの!」
旧式の大窓にレースカーテンをつけるのが、近頃のホトオリの流行だ。館長や高齢の来館客、そして三ノ宮さんたちには首をひねられるが、明火たちと大盛り上がりしながらカーテンを経費でオーダーした日はとても楽しかった。
「さて、掃除掃除」
受付カウンター横に設置されたドアを開けば、そこには8畳ほどの板張りの空間が広がっている。壁に設置された簡素な棚には、素焼きの皿が並ぶ。その中心に、明度を落とした火守がじっと丸くなっていた。
「相変わらず良いベッドに寝てんなあ」
火守は、朝や昼間は休んでいる。光が弱くなっているのはその証だ。そして休眠時は、抜け毛や糞がたまらないよう、カンテラの外から出され、素焼きの皿に乗せられるのが伝統的な飼育法らしい。
俺は専用のほうきとクロスを用具入れから取り出したが、三ノ宮さんの方はいつまでも窓際で白銀の座を眺めていた。
「三ノ宮さーん!掃除!」
すると、この人はいつもの瞬きひとつしない表情のまま、俺の方を見る。毎日同じことを言ってるのにそのたびに「え?」とでも言いたげな顔をしてくる理由はわからない。
「火守のことを教えてくれるって言ってたっちゃ。もう忘れたの?掃除しながら教えてくださいよ」
ようやく三ノ宮さんは重い腰を上げる。一応、労働の意思はあるらしい。
「ほら、ブラシ」
刷毛を手渡せば、瞳の中の魚を泳がせながら、じっと火守を見つめる。
「……生きる術のすべて、鉱石の光の起源すら忘れたか、いつ見ても愚かだな」
「火守も、あんただけには言われたくないでしょうよ」
俺は火守をそっと手で退けて、端にたまった粉状の糞を刷毛で落とし、バケツに受けた。キラキラと光るそれは、鉱物のように見える。
火守はカイコに似ている。どちらも、人によって完全に家畜化され自然界では生きていくことのできない虫だ。彼らは自分では風に逆らって飛ぶことも餌を取ることもできず、カンテラの中で白粉を与えられて生きている。
俺が慎重に糞を払えば、少し目を覚ましたらしい火守が、餌の時間と勘違いして俺の指に吸い付いてきた。かわいい。生き物を飼うのは好きだ。
「白銀の座が落ちた時に現れたってことは、もしかして座が原産の生き物なんですか?」
「ああ」
「それを捕まえて、家畜化した」
「そうだ。当時の統治者たちが主導した」
珍しくまともに会話が成り立つな、と思ったのもそれまでだった。皿を動かす音が止まったことに気付いて振り返れば、三ノ宮は刷毛の柄に焼き付けられた文字を舐めていた。
「きったね!……それで糞掃除してんだよ?!」
「インクの味が良い」
「はあ……そっちの棚はやってくださいよ」
俺はまともに取り合うのも、質問を重ねるのも諦めて、ひとまず掃除に集中することにした。この人に仕事をさせることすら難しいのに、そこに会話まで加えようとした俺が悪かったと思おう。
「ごめんなー、ちょっと掃除するなー」
火守に声をかけながら掃除を進める。俺が9割程度の皿を掃除し終えた頃には、バケツにも随分と糞が溜まっていた。
「三ノ宮さん、仕事してます?」
期待しないで一瞥すると、三ノ宮さんは入り口の棚の前に座り込んで、一番下の棚をじっと見つめていた。どうやら縦1列分は終わらせてくれたらしい。少しでも作業してくれただけで今日はまだいい方だ。
「はー……片付けますよ、もうすぐ来館者も来……」
その手には、一匹の火守が乗っていた。光を失い、ただの毛玉のようになったそれを見て、俺は思わず三ノ宮の肩をつかむ。
「ちょっ、ちょっと何した?!」
「何もしてない」
「いやだってそれ死……」
「帰る火守がいると、竜尾が言っていただろう」
やがて、火守が微かに青い光を帯びる。毛がはねて、身体も大きい。年嵩の個体である証拠だ。
「青い……?生きてる?」
「この世界に身体と影があり、血が巡り、触れられることを生きていると定義するなら、そうだな」
鮮やかで、深く、吸い込まれんばかりの青に引きつけられて、俺はじっとそれを見つめてしまう。柔らかな橙とは違う、冷たく硬い美しさがそこにはあった。
「っくりした……あんたが握り潰したんかと思ったわ」
「わたしを何だと思ってる」
バカ─喉まで出かかった言葉を飲み込んで、俺は咳払いした。
「で、そいつなにしたんですか?病気?帰るってなに?」
「これは定めが決まった証だ。在ったところに還る、それが火守という命に与えられたたったひとつの道筋」
「えーと……」
「年老いた火守は、白銀の座に帰っていくのさ」
明瞭で可憐な少女の声に振り返ると、階段のそばに2つの人影。
ひとりは、シャツまで真っ黒の三つ揃えに、シルクハットを目深に被った老紳士。漆黒の装いの中、スーツの青のボタンだけが、隠された彼の目のかわりに爛々と輝いている。
ひとりは、その隣で革手袋に覆われた紳士の手を取る少女。年の頃は12歳前後。うねる赤毛と、紳士のボタンにそっくりな青い瞳を持ち、漆黒のケープ付きのワンピースを身にまとっている。
少女は少し吊り上がり気味の目を細めて笑った。
「やあ、失敬。少し早かったかな」
少女の声で挨拶した“それ”は「おっと」と呟いたあと、軽く咳払いをした。
「驚かせたね、間違えてしまった」
次に少女の喉から放たれたのは、丸く柔らかい紳士然とした─平たく言えば、さわやかを残すイケボなベテラン声優のような声。俺からすれば何も間違いではないし、渋い声で話される方が百倍驚きである。
「おはようございます。
「おや、早いね」
御星さんはこの階の常連客だ。竜尾館長の顔馴染みらしく、館長の気分次第で30分から1時間は前後する開館のタイミングに合わせて、ふらりとやってくる。どうやら今日は早めに開館を宣言したらしい。
俺がカウンターに向かって歩くと、ふたりもついてくる。
「えーっと、今回お取り寄せ希望だったのは、“花房の女王”ですね」
カウンターの脇の台車には、取り寄せられた本が置かれている。“御星さん用”と書かれたメモを挟んだ1冊の本を手に取り、カウンターに並べた。
「お間違えないですか?」
老紳士が本を手に取り、その手が卓上の羽根ペンを取って、貸し出しカードにさらさらと名前と日付を記述する。
そこで、少女のほうが口を開いて「ああ」と答えた。明らかに少女は視線を向けていないし、老紳士が何かを伝える様子もない。
「ありがとう、相変わらず仕事が早いね」
「三ノ宮さんが見つけてきたんですよ。ほんの3日くらいで」
「ははは、さすがと言ったところか。紙と文字を追うのはあなたの本分だろうからな、三ノ宮殿」
老紳士が貸し出しカードを記す傍ら、御星さんはくるりとスカートを翻し、巨大な月を映し出す窓に近づいた。パンプスの音が軽やかに板を打ち、響く。
「しかし、若者に手取り足取り何かを教えてやるのは苦手じゃないか?随分と四苦八苦している声が聞こえたが……どれ白縫、私が代わって話そうか」
三ノ宮さんは、首を傾けて、指で眼鏡のフレームを叩きながら、瞳の魚をぐるぐる泳がせる。ややあって、「苦手……?」とだけ呟いて、ひとつ瞬きをした。
「わたしは、世のことわりをよく知っている。ひとが話すことばを知っている。故にことばを用いて、その一切合切をひとに伝えることができる」
「全くもって出来てないから言っているんだがね」
御星さんは、ファシネーターのような小さな帽子を直しながら、皮肉げに笑う。
「どうだい。開館時間にはまだ早いし、少しお喋りをしながら仕事をしても構わないんじゃないか?」
「御星さんがいいなら、ぜひ聞きたいです」
「よし、何でも聞き給えよ」
「はい!」
俺は期待に胸を膨らませつつ、返却された本が積まれた台車に手をかけた。
じっくり腰を据えて話を聞きたいが、他の客が来る前に、返却処理も済ませなければならない。
普通の図書館なら、これも来館者が来る前に済ませておくべき仕事のはずだが、雲母虫書院は真面目に働いている従業員のほうが少ないので、なかなか追いつかない。
「三ノ宮さーん、返却処理しますよー!」
返事はない。俺はあの人を引きずるために歩き出す。
変わらない日常と、そこに現れる未知。この世界の1日はその2つでできている。