「
老紳士がソファに座って本を読み、少女が壁に掛けられたラベンダースワッグに近づく。
「しかしたった1日だけ、一生のうちで火守がひとの手を離れるときがある。それこそが終焉。年老いた火守は青い光を帯びて産土へと帰り、そして二度と戻らない」
「そこで、死ぬってここですか?」
俺はちらりと、火守がいる扉の奥に視線を向けた。昔田舎の祖母が飼っていた猫も、ある年の冬に姿を消し、二度と戻ってこなかった。
「それに関しては学会でも意見の分かれるところだが……」
「死ぬさ」
首を傾けながら空を舐めるように見上げ、三ノ宮さんが言った。
「肉と心と影とが境を越えてその地を去り、二度と戻らないことを、死と呼ぶのだから」
「君はいつ何時も、些か哲学的すぎるね。若者というのは、もっと学術的で、世俗的で、肉と骨のある弁論を聞きたがるものだよ。そうだろう?」
「まあ、そうっすね」
「ほうら、私の勝ち」
どうやら、俺がどちらの意見を支持するか勝手に戦っていたらしい。御星さんがちろりと舌を覗かせれば、三ノ宮さんの瞳のなかで魚が激しく渦巻いた。
「わたしが白縫にものを教えないと、竜尾は新しい本を渡さない」
「んなことないって。なんやかんやいつも味見させてくれてるじゃないですか」
「竜尾に言えよ、わたしはおまえに、すべてを、つまびらかに、教えようとしたのに、この人形師が入ってきて、わたしの言葉とお前の頭をかき回しただけだと」
三ノ宮さんは、あまり融通がきかない。というか食欲が最優先だ。俺に教えたら本の味見をしても良い、その順序に支配されてムキになっていた。
「分かった分かった、館長には、三ノ宮さんが教えてくれたって言いますから……すみませんね、御星さん」
「構わんさ。むしろ君もよくやっているね。理《ことわり》なき者たちの心を解すことは、とても難しいのだよ。それこそ、火守の行く末を知るのと同じくらいに。あれと話すのは根気がいるだろう」
しきりに本の匂いを嗅ぎながら、俺より3倍ほどの時間をかけて、台車に積まれた本を片付ける三ノ宮さんを見る。常連の客や、アケビンたちは時々、あの人を「理《ことわり》なき者」と呼ぶ。
前にどういう意味かと問うたら、「常識知らず」と返されたが、もっと深い意味があるように思えてならなかった。
「まあ大変ですけど、楽しいですよ。あんまり周りにいないタイプだったし」
「きみは実に根気があるね。我が国の若者がみな同じような気骨を持ってくれていたら良いんだが」
「あ、それ嫌われる年寄りのセリフ第2位」
「1位は?」
「“あなたと同い年の◯◯くんはこんなにすごいのに、あなたと来たら〜”」
「年寄りでなくたって、勝手にひとを天秤に乗せるような輩は嫌われるさ」
アケビンが丹念にリボンで編み込んだスワッグを手に取って、その緻密な仕事を称賛するように鼻と目を寄せ、御星さんは歌うように言う。
「それで、火守を返すって、具体的に何をするんですか?」
”シロカネ信仰全史”の1巻から3巻までを素早く棚に戻す。5巻が返還期日を過ぎても戻ってきていないせいで、棚には隙間がある。そろそろ貸し出しカードを確認して、催促の手紙を送るよう通信係に伝えなければならない。
「青き光を帯びた火守を連れて白鐘の座の面前に赴き、彼の神に眷属の帰還を知らせる儀式を行う。儀式の内容や準備については、三ノ宮殿の方が詳しいんじゃないか?」
気を利かせた御星さんが話を振ったというのに、三ノ宮さんは知らん顔だ。多分、さっきのやりとりも忘れてしまったのだろう。本を美味そうに眺め、匂いをかぎながら、のんびりと棚に戻している。
「すいません、いつもながら」
「はは、慣れているよ。それなりの付き合いだからね」
そのとき、本を読んでいた老紳士が俺の視界の隅で動きを見せる。足元に置かれていた鞄に手を突っ込むと、レトロな受話器とコードがするするとその中から伸びていく。
「どうした?」
老紳士の口から、少女の声が飛びだして応対する。あまり俺たちに聞かれたくない内容だったのか、老紳士は口元に手を当てて声を潜めた。
「うん、うん……」
「三ノ宮殿は昔からああでねえ」
老紳士が幼い声で電話をする一方、となりの少女は渋いイケボで俺と会話を続ける。
「では、すぐ戻るとしよう。わざわざ電話してくれてありがとう」
「すまない、白縫。急な仕事が入ってしまったようだ」
2人の声が重なる。
御星さんはスワッグを戻して、俺に向かって申し訳なさそうに眉を下げた。
「いえ、むしろありがとうございます。本を読みに来たのに色々教えてもらっちゃって」
「本も読んでいたさ。ほら」
御星さんは、本をしまう老紳士を指差す。
「なるほど」
「それに、ここは貸し出しをしてもらえるからね。あの本、手続き頼めるかい」
「オッケーです」
「では三ノ宮殿、今日のところは失礼するよ」
踊る螺旋の髪を翻して、御星さんが声をかける。三ノ宮さんは緩慢な仕草で本を元に戻していたが、数秒経ってようやく、己の名が呼ばれたことに気付いたらしい。ぎこちなく首を傾け、振り返るような素振りをみせた。
「街で、還る頃合いの火守が他にいるか呼びかけておく。明日、一緒に還してやってくれ」
「キユウシならおまえのところにもいるだろう」
「1級持ちは、国家の求めに応じてキユウを請け負う義務があるはずだ。君は勤めびとだろう。社会の規範に従ってくれ」
三ノ宮さんが不機嫌そうに眉を寄せる一方、カウンターに回った俺は、後ろの棚にある無数の引き出しの一つを開ける。そして老紳士が持つ本の貸し出しカードを取り出した。
このアナログなうえに使い勝手の悪すぎるシステムは、竜尾館長の考案らしい。俺が来るまでこの階はカードの順番もめちゃくちゃで、カードはあれど本は見つからなかったり、本はあってもカードが作られてなかったりして、半年経った今でも完全把握には至っていない。
「キユウシって?」
「国家資格だ。それがなければ火守を座に帰すことは禁じられている。まあ色々と種別はあるが、三ノ宮殿が所有する1級免許では、他者の火守を制限なく、金銭等と引き換えに引き取り座に帰すことが許可されるが、同時に行政の要請に応じてキユウを行う義務が生じる」
「あー、キユウって帰幽
自動翻訳魔術も万能ではない。いまいちピンとこなかった言葉が、ようやく頭の中で繋がった。喪中はがきなどにたまに書かれている言葉だ。
「ということで、仔細は三ノ宮殿に聞くといい……そうだ、取り寄せした本も返却ボックスに入れて構わないのかな?」
「あー、どうだろ、三ノ宮さん、今日御星さんに渡した本って……えーっと、これとそっくりそのまま同じ扱いをして大丈夫ですか?これとは違う弱点とかあります?」
俺はまさにこういう質問をするために実家から持ってきた、高校時代の国語便覧をカウンター下から取り出す。
三ノ宮さんは、こめかみに指を当てながらしかめっ面をした。
「“花房の女王”の表紙は妖精織の紙だ。銀に触れると焼ける」
「……だそうです!銀細工とかアクセだけ気をつけてもらえれば大丈夫です」
「ありがとう。では都合がつかなかったらボックス返却にさせてもらうよ。手間を掛けさせてすまないね」
最後に、貸し出し期限を書いた控え用紙(アケビン作)を渡せば、御星さんはひらりと手を振って、来た時よりも少し早い足取りで去っていく。それを笑顔で見送ったあと、俺は反射的に三ノ宮を振り返った。
「あんた国家資格持ってんの?!試験勉強とかできたの?!」
「勤めびとは、勤めに必要な技能を持つものだ」
「そうだけども!しかもなに、1級火守帰幽士って。名前かっこよ!え、テキストとか売ってるんですか?ペーパーテスト?実技とかあんの?」
「火守の飼育及び管理に関する法律、第15条……火守帰幽士制度発足前より火守の帰幽に従事していた者は、国家の承認の後に試験を省略し、実績と所属に応じた適切な階級の資格が与えられる」
何回も聞かれているのだろうか、条文を諳んじる顔と声は若干面倒そうだ。
「制度の過渡期にあるあるのやつだっちゃ。へー、すげえ、あとで調べてみよ」
「わたしに聞けば良いだろうが」
「調べたほうが早いことは調べますよ」
「お前に火守について教えたら本を味見させると竜尾は言った」
「だから、ちゃんと三ノ宮さんが教えてくれたって言いますから。ほら、そろそろ他のお客さんも来ちゃうんで、本戻して!」
俺は三ノ宮さんに指示を出しながらカウンターに戻る。
返却ボックスに入れられ、貸し出しカードと照会できていない本が、カウンター下に眠っていた。ボックスに入れられた場合、俺が貸し出しカードに返却済の旨を記さなければならない。正直やめてほしい。全員直接返してその場で記入してほしい。何ならこの訳が分からないシステムそのものをやめてほしい。
「個人が貸し出しカード持つんじゃ駄目なのか?本と一緒に渡すとか……学校みたいに……駄目だな……無くされたら終わりだし」
「おい白縫、これには番地が書いてないぞ」
俺が頭を抱えていると、三ノ宮さんが一冊の本を突き出してくる。真新しい本の背表紙には、ロケーションを示すシールが貼られていない。
「それ新刊すね、A-1にお願いします。あ、このシール貼って!背表紙に!」
素早く「A-1」となぐり書きしたシールを三ノ宮さんに押しつけ、俺は再びカウンター前の椅子に腰を下ろす。
「まず働くか……」
今日もまた、好奇心を満たすのは、終業してからになりそうだ。