【墜星《おつほし》歴4506年 白竜の月11日/西暦2026年 7月11日
今日は来館者が5名のみで、通常業務が少なかったので、一部の蔵書整理を行いました。G-20の隣の棚をG-21とし、カクシュク島の冠婚葬祭に関する蔵書群を収める場所とします。
─中略─
実家からボールペンを持ってきたので、一階の休憩スペースに置いておきます。夜番の皆さんも欲しかったら持っていってください。※ひとり一本ずつでお願いします。
夕方からは、帰幽の準備を始めました─】
「やあ、昨日ぶりだね。竜尾殿」
夕方、御星さんが雲母虫書院にやってきた。
少女が相変わらずの渋い声で挨拶し、老紳士は暗幕をかけた大きな手押し車を運んで、一階の広間に足を踏み入れる。
「ご足労いただき申し訳ありません」
柱の影から、火守に照らされて伸びる館長の影が、恭しく頭を下げた。
「いやいや、頼んだのはこちらなのだから、こちらが足を運ぶのが筋というものさ。さて、近隣に呼びかけて集まった火守は46匹だ」
御星さんは暗幕をそっと撫でる。その下からうっすらと青い光が透けていた。
「少し多いですね。先週も王城で帰幽したばかりなのに」
館長の声が、御星さんが立つ直ぐ側─開かれた扉と壁のすき間に移動する。
「先月末の暑さが尾を引いてるのだろうね。年老いた個体が弱ってしまったようだ。全体数に影響はないが、冷房の使用を啓蒙していかねば」
それからしばらく、館長と御星さんの、雑談のような大人の打ち合わせのような話が続く。
ソファに座ってそれを伺う俺の横では、三ノ宮さんがアケビン特製のクッキーを無心で貪っていた。
「三ノ宮殿」
御星さんがスカートをふわりと揺らして近づいてきた。
「数が多いが、2日に分けるかい?」
「数は関係ない。昔そう言ったはずた」
「儀式の前の形式的な質問さ」
帽子型のヘッドドレスに飾られた頭が、ゆっくりと下げられる。
「では、よろしく頼む。三ノ宮殿」
「おまえが何も言わずとも……」
三ノ宮さんは、最後のクッキーを咀嚼し、薄墨茶を一口飲んで立ち上がった。
くるり、くるり。瞳の中を泳ぐ魚の動きが、普段よりも鈍いように感じる。
「在るべきものが、在るべきところに。それはおまえが何をせずとも、何を言わずとも、訪れる定めだ。いのち定められし者は、道を違えることはできない」
「そうだったね。では、それを白縫にも教えてやってくれ」
御星さんは、俺にカンテラを差し出した。橙の光を帯びる、若い火守が転がるように動いている。
それを受け取ったところで、館長が「じゃあこっちに」と、階段ではなく、広間の奥にある曲がり角を指差す。
「外に出るんじゃないんですか?」
「さすがに、地上から帰すのは少し大変だからね。屋上に連れて行くよ」
「え、屋上あんのここ?!」
「うん。普段は閉めているけどね。勝手に入ったら駄目だよ?」
長く伸びる廊下に明かりはない。カンテラを構えると、ぼんやりと辺りを照らす光の縁に、革靴を履いた館長の足が見えた。
「こっちこっち」
ついて行くのは、俺と、手押し車を引く老紳士と、三ノ宮さん。
10メートルほど歩いた先で、館長が俺達の後ろから声をかけてくる。
「それそれ、左側の。回してみて」
左側の壁に明かりを向けると、壁に小さなレバーがあった。言われるがままに掴んだそれを時計回りに動かしてみれば、滑車が回るような音を立てて、ゆっくりと壁の一部が横にスライドしていく。隠し扉だ。
「……エレベーター?」
現れたのは、箱型の空間。蛇腹式の柵の向こうで、天井に吊るされた白熱球が点灯した。
「作ってもらったは良いけど、不思議な機械だよね。動き出すときと止まるときに、頭がぐわーんってなるからあんまり使わないんだ。魔導回路から魔素が漏れてるのかと思ったけど、調べても原因が分からくてさ」
「それ、天井見ながら乗ると楽ですよ」
ヨトワの住民も乗り物酔いにはなるらしい。
俺は柵を開けると、慎重に足元を確認しながらエレベーターに乗り込んだ。知らない土地の乗り物ほど恐ろしいものはない。館長の口ぶりではあまり整備もしていなそうだ。
「何か落ちてるのか?」
「俺たちが落ちる可能性はある。三ノ宮さんも気をつけて」
三ノ宮さんは首を傾げ、こめかみを指で押しながら、エレベーターに乗ってくる。すると、老紳士が手押し車の前輪を箱内に乗せて一礼した。どうやらここからは2人で向かうらしい。
俺は手押し車を引き取りながら、板張りの箱の中をぐるりと見回した。
「館長、スイッチとかボタンないんですけど、どうやったら動くんですか?」
「思念操作機器だから、乗って、行きたい階を思い浮かべるだけで良いよ」
老紳士の背後から伸びた右手が、俺たちに向かって振られる。
「ではよろしくね、ふたりとも」
「は、はい」
微かに心臓が跳ねる。俺は今になってようやく、緊張を感じていた。柵を閉めて三ノ宮さんの顔を伺った瞬間、エレベーターが動き出す。
「うわ、三ノ宮さん、一声かけてから動かしてくださいよ」
「思念操作機器に発声は必要ない」
「俺の安全確保に必要なの!」
エレベーターの上昇速度はひどく遅い。柵でのみ塞がれた入り口が滑車とケーブルに囲まれた空間へと差し掛かり、やがて本棚に囲まれた部屋が現れ、そしてまた機械群が現れ、俺が持つカンテラの明かりと、部屋の窓さらこちらを覗く白鐘の座が、微かに山積みの本を映し出す─それを繰り返す、幾度も、幾度も。
俺はこの塔が何階まで続くか知らない。
ケーブルの数は増え、滑車は歪み、本は天井までうず高く積み重なり、絨毯はめくれ上がり、破れたカーテンが厚く閉ざされ、その隙間から白鐘の座が覗き、そして止まった。
「あれ、まだ途中だっちゃ。なして止めたの?」
「わたしは何もしていない」
「え、三ノ宮さんが止めてないなら……」
「あの」
引き裂かれたカーテンに塞がれた窓。そこから覗く白い光に照らされて、柵の向こうに影が見える。異様に長く、長く、細く、火守の灯りの端で、乱れた髪が揺れている。紛れもなくそこに、俺を視認する存在が立っている。それだけで、今にも逃げ出してしまいたかった。
「もうひとり、乗れますか?」
「乗せない」
女の声だ。俺が動揺するよりも先に、三ノ宮さんが答えた。
「あちらに行け」
普段散々インクや糊を触っているのに汚れひとつない指が、影の背後を指差す。
「でも、そっちがいいんです。明るいし、あったかいし、その子も優しそうだし」
「ここに居るのはわたしだけだ」
聞いている俺すら手足が冷えるのを感じるような口調で、三ノ宮さんは、隣にいる俺の存在をなかったことにする。あまりにも堂々とした姿に、恐怖が和らいでいく。
「でも」
「そうやって、灯りにつられて進むべき道を外れたがゆえに、おまえはそこにいる。行け、ここは雲母虫書院。知識求める者にのみ開かれた場所。おまえが望むものはない」
影はしばらくゆらりゆらりと揺れて、俺の顔を覗こうとする素振りを見せたが、やがて泣くような、唸るような、奇妙な声を上げながら、窓のほうに向けて歩いていった。
すると、再びエレベーターが動き出す。
「な、なっ、な……」
俺は全く状況が飲み込めず、反射的に三ノ宮さんを見上げる。銀の魚が悠然と泳いで、俺を見つめ返した。
「どうした」
「あれ、いま、な、何あれ?!」
「この書院には、作られたまま放置された空間が無数にある。空白には、何かが住み着くものだ」
「え、え、まだいんの……?これいつまで続くの?」
「いや、もう止める者はいない。ゆえにわたしが思い描いた場所に着く」
三ノ宮さんがそう言った途端、エレベーターが停止した。現れたのは、暗闇にまっすぐ伸びる階段と、その奥に設置されたドア。
俺がカンテラを抱きしめていると、この人は何の躊躇もなく柵を開けて歩き出す。
「え、行くの?!」
「目的地に着いたからな」
「待って、待って、置いてかないで!」
俺は手押し車の取っ手を掴み、足早に三ノ宮さんのあとを追おうとした。しかし、中にいるのが弱った火守だということを思い出し、はやる気持ちを抑えてゆっくりとそれを後ろ手に引っ張る。
「う~~~……無理無理無理。これ三ノ宮さんが引いてくださいよ!」
片手にカンテラがあるせいで両手で押すことができないのでこうするしかない。俺が悪戦苦闘していても、重い物を共に持ってくれるような人間ではないこの人は、優雅な足取りで最奥に向かい、扉を開く。
一瞬、その眩さと大きさに目がくらみ、固くまぶたを閉じる。そして目を開いた俺の視界は、手が触れそうなほど近い白鐘の座に覆われた。
「うわっ、近っ……ここって」
扉の先は、半円を描くバルコニーだった。俺は手押し車を傍らに置き、カンテラを抱きながらそっと手すりの下をのぞく。
しかし想像していたような景色はそこにはなかった。眼下に広がるのは、せいぜい10階建てか、それより少し上か。その程度の高さからの景色だ。王城の屋根が見えるが、目が回るほどの高所ではない。
「意外と低い……かも」
「ここが境界だ。ヨトワと白鐘の座、此岸と彼岸、現と夢、あらゆるものごとの境はここにある」
俺は改めて白鐘の座を見上げた。地上からは視認できなかった、クレーターや地面に転がる岩までもがはっきりと見て取れる。
「なんか、岩と砂だけに見えますけど……」
「こちら側からはな」
その一言に、自分でも理由がわからないが鳥肌が立った。手が届きそうなほど近くに、決して人が侵してはならぬ領域が鎮座している。思えばヨトワの空には、気球も、飛行機も、人工衛星もない。この世界の空は、人のものではない。
ヨトワとはなんと狭く、恐ろしく、そして広大で、悍ましく、美しい世界なのだろう。初めてこの世界に来た日のように、かすかに甘い風が俺の頬をからかうように撫でた。