踊る雲母虫   作:伊勢谷照

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遥か星よりの焔 第七話

 

 

「暗幕を取れ、白縫」

「……」

「何をぼんやりしている?」

 

 普段は目にローディングアイコンを浮かべてぼんやりとしている三ノ宮さんに、俺のほうが注意されるなんて初めてだ。

 俺は小さく謝罪して、手押し車を覆っていた暗幕を取り払った。

 檻の中に収められた素焼きの皿、そこに身を寄せて、その身を青く輝かせる火守の群れがあらわになった。

 

「……三ノ宮さん、俺、何したら?」

「それをこちらに。そして扉を開けろ」

 

 三ノ宮さんは、手すりに足をかけ、ヒールのついた靴でその上に立ち上がった。その上体は少しも揺れることなく、じっと白鐘の座の、荒れた荒野に見える表面を見つめている。

 

「落ちますよ」

「地より伸びる縄と重しは、わたしを捕らえない」

 

 ピンヒールの踵が、かつりと手すりを打つ。お下げが一際強く吹いた風になびき、三ノ宮さんが俺を見下ろした。

 手押し車を三ノ宮さんのそばに持っていくと、彼は器用に手すりの上で足を揃えてしゃがむ。檻の扉を開けたが、飛ぶことを知らない火守は、素焼きの皿の上で身を寄せ合って微動だにしない。

 

「同胞《はらから》よ」

 

 三ノ宮さんが眼鏡を外した。いっそ不格好なほど大きく、白鐘の座によく似た円を描くそれ。あらわになった目は鋭く、何かを察知した魚たちが忙しなく動いた。

 

「いのち定められし者よ。ひとつの身体とひとつの魂とを抱き、ひとつの道を歩む者よ。おまえたちの行く末もまたひとつ」

 

 ただ、手を差し伸べる。特別な魔導具も、古代の呪文も、厳かな装飾もない、旧知の仲に話しかけるような、あまりにも簡素な儀式と呼び難いもの。これこそが、「帰幽」なのだろうか。

 

「シロカネの御下より墜ちたあと、その身にきざんだ一切は置いてゆけ。代わりに思い出せ、はるか遠い星より、この地に至るために捨てたすべてを」

 

 影が伸びる。おさげと長身が特徴的なそれに、やがて別の像が重なって、塗り替えられる。

 まっすぐの胴、長く伸びた2本のおさげ─否、あの位置は触角だ。そして胴の横に生える短い六本の足─しかし手すりに座る三ノ宮さんの姿は、変わらずそこにある。影だけが、変わっていく。

 

「……三ノ宮さんって」

 

 魚が踊る。否、魚ではない。初めてレンズの反射を介さずに見たその正体に、ようやく気付いた。

 刹那、檻の中の青が、まばゆいほどに弾ける。目を細め、開いた瞬間、柔らかい綿毛の感触を全身に浴びた。

 一斉に、火守が飛び立ったのだ。

 羽も、足もない、柔い綿のような彼らが、しかし確かに、まっすぐと吸い込まれるように跳んで行く。三ノ宮さんに向かって。

 

「行け、そして二度と戻るな」

 

 火守たちは、彼の周りをゆるやかに回ったあと、白鐘の座に登っていく。青い星が、光が、荒野のような星に向かう。

 俺は思わず手すりに駆け寄って、身を乗り出した。

 岩と砂の地に、うつくしい青が帰っていく。手を伸ばせるほど近いのに、小石のひとつひとつすらもはっきりと観察できるのに、火守たちは降り立つ瞬間を見せてはくれなかった。

 青は白鐘の座に吸い込まれるようにして、遠く、遠く、みるみるうちに小さくなり、やがて薄雲に紛れて消えたように思えた。

 

「消えちゃった……」

「此方からは、見えぬ場所にたどり着いただけだ」

 

 三ノ宮さんは手すりから飛び降りた。

 その目の奥に泳ぐのは、魚ではない。小学校の時に親に買ってもらった百科事典の隙間、漫画を積んだテーブルの上、受験勉強をしていたノートの影に、時折見かけていた、あの生き物。

 

「……紙魚《しみ》だ」

 

 紙の上を泳ぐ、魚のごとき虫。またの名を、雲母虫。そういえば、この世界ではまだ見たことなかった。

 三ノ宮さんは相変わらずぎこちない仕草で丸眼鏡をかける。すると、瞳の中には、再び滑らかな鱗を持つ魚の群れが泳いでいるように見えた。

 

「あんたも、あそこから来たんですか?」

 

 そう言うと、三ノ宮さんは白鐘の座に視線を向けた。魚たちも、ただじっと輝く砂の星を見つめている。

 

「わたしはあそこにはいかない。あれは此方に生きる者には越えられない場所だ」

「それなのに、火守はやってきた……」

 

 もう、登っていった青は見えない。

 

「白鐘の座は、なんで落ちてきたんですか?シロカネ神がやったの?火守が来た理由は?」

「分かるという者が現れたら、それはすなわち狂人と思え。推し量ること能わず、ゆえに神の意志と呼ばれ、あれは神の座であり続ける」

 

 そのとき、カンテラの中の火守が、束の間ふわりと浮いて、ガラスの内側に貼りつく。火守は群れる生き物ではないが、仲間がどこかに消えてしまったことを理解しているのだろうか。

 

「なんか、人間の都合で働かせてるけどさ、やっぱこいつら帰りたいのかな」

「……それらは、墜ちた先で種を存続させるために、ひとの手を取った。己の都合ひとつで、他者の理を歪められるほど、ひとはこの世界の強者ではない」

「……」

「ひとの理の中で夜を照らし、やがて春に雪が解けるように故郷へ帰る。そのひとつの道筋を、火守のいのちと呼ぶ」

「死んだら行くところは一緒、的なこと?」

 

 返事はない。否定されないということは、大枠での理解は間違っていないはずだ。

 頭はまだ、幻想的な風景と非日常に支配されてぼんやりしていたが、バルコニーの床に落ちた暗幕が俺の意識を現実へと持っていく。

 

「ああ、これ御星さんに返さないと」

 

 カンテラを檻の上に置き、暗幕を畳む。御星さんも館長も、下でこの光景を見ていたのだろうか。それなら、帰りを待っていることだろう。

 

「三ノ宮さ─」

 

 とりあえず下に戻ろう─そう声をかけようとした俺は、息を呑む。

 薄くゼラチンを貼ったような肌に、透明な流れが伝う。金の瞳に溜まった涙の中を魚が泳ぐたび、押し出されたそれが雫となって、シャツや地面に落ちていく。

 三ノ宮さんは、月を見上げて静かに泣いていた。

 

「…………」

 

 俺はとりあえず暗幕を置き、意味もなくカンテラを抱きしめる。

 泣いてる人を見たのなんて、高校の卒業式以来だ。

 三ノ宮さんと涙。この2つが頭の中で凄まじい不協和音を奏でるが、俺はとりあえず、ポケットの中のハンカチを差し出した。

 

「あ、あの、どうぞ」

 

 三ノ宮さんが振り返る。怪訝そうな顔で、差し出されたそれを受け取った。

 

「なぜハンカチを渡す」

「いや、なんか出てるんで……あのー、俺、中にいましょうか?えっと、なんか、あんま見ちゃいけないかな的な……」

「おまえの言っていることがわからない」

「……これは涙拭く用!んで、普通、泣いてるとこは人に見られっと、気まずいもんだべ?いや、俺の主観だけど!んだから、俺は、あんたが泣いてるところを見ないように、中入ってましょうかっつってんの!」

 

 動揺のせいで大声になりながら、懇切丁寧に意図を説明する。三ノ宮さんはようやく、首をかしげつつも、顔にハンカチを当てた。しかし、涙はすでに止まっているようだった。

 

「……ひとは他者の流涙で動揺するのか?」

「ひ、人による……と思う。俺、あんま泣いてる人慣れてないし。三ノ宮さんは泣くキャラじゃねーからさ……なんか、よっぽどのことがあったのかなって、焦っちゃや」

 

 兄が彼女に振られて泣いていたとき、横で見ていてとにかく動揺したことを思い出す。自分より大人の男が流す涙は、見慣れないし、女の子のそれよりも、どうしていいか分からない。

 

「……わたしは、天の両端よりも永くを生き、星よりも数多を知っている。だが、おまえは、いつもわたしが知らないことばかり話す」

 

 俺はそこで、銀の魚が皆、白鐘の座のほうを見上げていることに気付いた。三ノ宮さんは目を伏せてハンカチに興味を抱いているのに。

 

「……三ノ宮さんも、あそこに行きたいんですか?」

 

 俺は聞くことをやめられなかった。

 

「わたしは、ひとつの魂、ひとつの器、ひとつの影に縛られることはない」

「……うん」

「あれはいのち持たぬ者の場所。わたしが渡ることの出来ない唯一の浜辺」

 

 三ノ宮さんは、どこからともなく現れて、どこからともなく消える。ほかの位相にも難なく移動し、ふらりと帰ってきて、夜は本の隙間に消えてしまう。

 そして先ほどの影─今足元に伸びているものとはちがう、もうひとつの姿。

 もしこのヨトワにおいて、「ひとつであるもの」が定命の存在であるとするならば、三ノ宮さんはそうではないのかもしれない。ただ長生きなだけではない、決して彼岸に渡ることのできない存在。

 

「中天の子は、いのちの終わりにどこに向かうんだ?」

 

 ハンカチをぎこちなく畳もうとして、結局諦めて俺に放り投げた三ノ宮さんは、いつも通り首を傾げながらそんなことを聞いてきた。

 

「俺も知らないっす」

 

 正直この年で考えたくない。怖いし、死にたくないし、100年は生きたい。

 

「……ふぅん」

「まあいいところなんじゃないっすか?誰も帰って来ないし」

「……そうだな。おまえも、竜尾も、明火も、この書院にいるものたちはみな、いつか向こう側に行って、そして二度と戻らないのだろう」

 

 俺は、いつもの調子で軽口を叩いたことを後悔した。

 俺には理解できない、そして多分三ノ宮さんにすら自覚されない、大きな感情が、その言葉に宿っていると気付いたから。

 

「でも、今は、みんないるべっちゃ」

 

 俺は手押し車の取っ手を掴んだ。

 

「なあ三ノ宮さん、もう帰っぺし。俺腹減った。たまには一緒に行かね?遊星豚骨」

「あの死んだ豚の背脂で出来た奇っ怪な料理か」

「奇っ怪なものしか食ってねえやつがよく言うよわ。ほら、帰りはあんたが持って」

 

 カンテラを手渡せば、三ノ宮さんは中の火守をじっと覗き込む。

 まだ小さく若いその光は、柔く温かい橙色だ。

 俺は最後に白鐘の座を、火守の行く末を振り返ろうとして─やめた。

 

「まず御星さんにこれ返して、報告して、日誌書いて、あ、ほうき出しっぱなしだ……三ノ宮さん、報告はお願いしますよ」

「腹が減った。おまえは食事をすると言った」

「仕事が終わったら!」

 

 俺は月に背を向けたまま、扉を開けた。 

 

 

 

【遥か星よりの焔】完

 

 

 

世界観を同一とするエピソードは、章ごとに執筆終了次第、この章の続きという形で投稿いたします。

 

 

 

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