底辺上がりの九等官ユーリ、誤植を直しただけで帝国の黒幕にされる 作:トマスアレポ
手鏡は少し歪む。
台所の壁に掛けた青銅の鏡だ。磨いても端が鈍く曇り、映る顔もほんの少しだけ傾いで見える。
栗色の髪を低く結い、灰青の瞳を確かめる。頬は問題ない。指先を見ると、昨日の試し書きの朱が爪の際に残っていた。
母は言う。校正の仕事では手が顔になる。客の前に出す文書と同じだと。汚れは先に落としなさい、と。
墨色の服の襟を正し、胸に木の符節を留める。軽い。軽すぎて不安になるほどだった。
節目の朝には癖が出る。鏡の中に前の顔を探してしまうのだ。眼鏡をかけた男の顔。三十五まで生きた顔。今朝もいなかった。当然だ。十七年、私はこの顔で生きてきたのだから。
今日からこの顔が仕事をする。ユーリ・レン。九等官試補。
「指」
背後で母が言った。
「朱、まだ落ちてない。……まあいい。行っておいで」
私は笑って家を出た。直せないものもある。初日からそれを連れて行く。
黒書院の門は、思っていたより低かった。
門番に採用状を見せる。立派な紙に立派な印。昨日、受付の書記が言っていた。「九等官の席は、家中の席ですから」と。意味はよく分かったわけではないが、今日も分からないまま門をくぐった。分からないことは、机に座ってから考える。家でもそうしてきた。
中庭を抜けると紙の匂いが強くなった。運び込まれる束。運び出される束。すれ違う書記たちは皆、足音を立てずに歩く。声を出すのは文書を読むときだけのようだ。
黒書院の校正
ぽたり、ぽたりと刻漏の水が落ちる。その下で低い声が何重にも重なっていた。対象。数。刻。書記たちは皆、小さな声で文書を読み上げる。ずれた声が部屋を満たし、紙の匂いと乾いた墨の匂いが混ざり合う。
案内された机は隅の方だった。文鎮。朱墨の皿。書類が四束。思ったより小さい机だ。
右隣にもう一脚、椅子があった。誰も座っていない。
「そこは補助の席です」
案内の書記は忙しそうに言った。
「勘定の都合で、当分は空きのままですけど」
二人一組が決まりの溜で、初日から相方がいない。幸先はよくないが、文句を言える立場でもない。
「レン試補」
奥の大きな机から声がした。
「はい」
「仕事は三つ。読む。比べる。違えば止める」
「それだけですか」
「それだけを、誰もやらん。だから溜がある」
短い会話だった。向かいの壁際では古参のヴェンツェルが私を見て鼻で笑った。三十年この溜にいて、九等官のままの男だ。祖父の代から奉公している家柄と、試験で入った者とは違う。そういう目だった。
そこへ同期のベルン・クロイツが入ってきた。刻限をとうに過ぎているが、誰も咎めない。仕立てのいい試補服。机の隣では補助の男がすでに働いており、彼の分の読み上げまで先に済ませていた。本人が遅れても席は埋まる。そういう椅子もある。
ベルンは私の隣の空席を見た。
「お前の代筆者はまだか」
「代筆者?」
「女官の実務は下の者がやるものだろう。お前は顔で判を押す。手は隣がやる。相場だよ」
天気の話をするような調子だった。悪意はない。ないからこそ厄介だ。この国ではそれが常識なのだ。
私は空の椅子を見た。なるほど。私の仕事は始まる前から「いない誰か」のものになっているらしい。
昼前、廊下でその相場を見た。宮廷記録室の女官が歩いていく。従者の男が書類を掲げ、読み上げ、朱を入れる。女官の仕事は最後に頷くことだけだった。誰も変だと思っていない顔をしていた。
文句は後だ。まず手を動かす。
最初の束を解く前に、隣の空席をもう一度見た。椅子の脚に埃はなかった。誰も座っていないのに、誰かが毎朝拭いているらしい。不在にも作法があるのだと思った。
文鎮を置く。朱墨を溶く。指先の朱は、ここでは汚れではなく仕事の色だった。母の言った通りだ。私は束の紐をほどいた。
一束目は倉庫の搬出目録だった。
「対象、東の第三倉庫。数、亜麻布二百反。刻、明朝」
声に出して読む。原本控えと合わせる。索引の札を引く。百八十反。合わない。
窓口へ持っていくと、今度はすぐ受理された。執行刻の前だからだ。朱が入り、目録は差し戻された。小さな勝ちだった。仕事の回り方が少しだけ分かった気がした。
二束目で、その気が吹き飛んだ。
飼料の目録だった。写しと原本控えを並べる。対象、数、刻。指で追いながら読む。
「対象、国境第三砦。数、飼料三百俵。内訳は燕麦――」
指が止まった。
写しには大麦とある。
原本控えは燕麦だ。索引も燕麦。写しだけが違っていた。馬に大麦は毒ではない。だが砦の馬は燕麦で飼い慣らされている。急に替えれば腹を壊す。父は
私は目録を握って窓口へ走った。
窓口の官吏は目録を見た。次に壁の刻漏を見た。
「執行刻は今朝の六つ」
「はい」
「今は昼だ」
差戻しの札に不受理の印が押された。音がやけに乾いていた。
「訂正自体は合っていますか」
「合っている」
「ではなぜ」
「刻だよ、試補」
官吏は悪びれなかった。規則書を引く手間さえ惜しむように、指で刻漏を指した。
「申告が刻の前なら執行は止まる。後は止まらん。止まったら、それこそ違反になる」
理屈は単純だった。不一致を申告すれば執行は止まる。ただし執行刻より前でなければ止まらない。過ぎた後は、正しい訂正でもただの紙だ。
私はもう一度だけ食い下がった。
「砦へ使いを出せば」
「出したところで、文書はもう向こうに届いている。現場は文書で動く。口頭で止める権限は、君にも私にもない」
言い返せなかった。権限という言葉は重かった。私にあるのは読むことと比べることだけだ。止めるという行為でさえ、刻の中にいるときしか許されていない。
「写しはもう」
「今朝発った」
夕方、早馬が届いた。国境第三砦より。軍馬四十頭が腹痛で飼料を受け付けない。巡回は半減する見込みだという。
報せを運んできた若い騎士は溜の入口に立っていた。恨む相手を探す顔だった。写しを間違えた者か。遅れた私か。規則そのものか。どれでもあり、どれでもなかった。
窓口の横に木箱があった。不受理の札を放り込む箱だ。私の札は先輩たちの何十枚もの上に重なった。遅かった訂正ばかりが積もる場所だった。
正しいだけでは止められない。早い正しさだけが止められる。初日に教わったのはそれだった。馬の腹で教わった。
「落ち込むな、試補」
いつの間にかヘルムが後ろにいた。
「お前は間違えていない。遅かった。それがこの溜では一番の罪だ」
「……はい」
「明日は早く見つけろ」
それがこの人の慰め方らしい。私は頷いた。残りの束に手を伸ばした。
夕方の鐘が近づくと、溜は少しずつ空いていった。ベルンは早々に帰った。咎める者はいない。彼の補助だけが残り、机の書類を最後まで読み上げていた。席というのは不思議だ。本人がいなくても働く席と、本人がいても空いたままの席がある。
私の隣は、今日も空いたままだった。
三束目は無事に終わった。四束目も無事に終わった。無事というのは退屈なことだ。だが今日の私は、その退屈を少しありがたく思っていた。見つけるのが遅れるくらいなら、最初から何もない方がいい。そう思った矢先だった。
日が傾いてから、最後の一束が回ってきた。
運んできた書記は、いつもと違う扱い方をしていた。両手で抱え、角を机にぶつけないように置く。束というより、壊れ物だった。
封は二重だった。蝋の印が大きい。文書の頭に番号がある。停戦・第三十一号。北方国境の停戦条約の保存用写しだという。発効は明日の朝。
私は一度、手を止めた。
「これを、私が」
「照合だけだ」書記は言った。「中身を変える仕事じゃない。原本控えと合っているか見るだけだ」
合っているか見るだけ。その言葉を、今日の私はもう信じていなかった。飼料の目録だって、見るだけの仕事だったはずだ。
条約を作るのは対外を扱う白書院だ。だが印の押された文書は黒書院に控えが残る。写しが原本と一字も違わないか確かめる。それが私たちの仕事だった。ただの照合だから新人の机に来たのだ。
溜の者は一人ずつ帰っていった。ヴェンツェルが外套を羽織る。
「写しの照合は間違っても死なん仕事だ。新人にうってつけだろう」
笑って出ていった。恨む気にはなれなかった。その通りのはずだったからだ。
条文は退屈だった。第一項、国境線。第二項、捕虜の交換。第三項、川岸の立入禁止。原本控えと合う。合う。合う。指が油断していくのが分かった。
左に原本控え。右に写し。声に出す。対象、数、刻。
「対象、国境騎士団。数、三千。刻、暁七つ。第四項、騎士団は川岸に留まり、国境線を越えてこれを」
読み進める。
「国境線を越えてこれを、進ませる」
指が止まった。
もう一度読む。進ませる。
原本控えを見る。
「国境線を越えてこれを、進ませるな」
な。
一文字。写しにはない。
索引の札を引いた。停戦・第三十一号。件名は「進軍停止」。
三点が合わない。原本は止まれと言う。索引も止まる話だと言う。発送済みの写しだけが進めと言っている。
部屋の音が遠くなった。刻漏の滴だけがはっきり聞こえた。
「溜頭」
自分の声が平らだった。
「停戦条約の写しに脱落があります。否定の『な』が、ありません」
ヘルムの手が止まった。
この人が書類から顔を上げるのを、初めて見た。
溜の読み上げが一つ消えた。また一つ消えた。重なって鳴っていた声がほどけていく。
声の止んだ机は、仕事の止まった机だ。
残ったのは刻漏の水の音だけだった。