底辺上がりの九等官ユーリ、誤植を直しただけで帝国の黒幕にされる 作:トマスアレポ
監察官は、私の机にある受理の控えに目を落としていた。
符節証跡の欄にある木の符の番号を確認して、はじめて彼は私の顔を見た。
「レン試補。少し話を聞かせてほしい」
怒鳴りはしなかった。声はむしろ穏やかだった。
校正溜の奥にある小部屋へ案内される。机がひとつ、椅子が二つ。彼の手帳に嵌められた符が、青く短く光った。
彼は正面ではなく、少し斜めの位置に座った。お茶まで運ばれてくる。取調べというより、進路相談のような空気だった。
「昨夜はよくやったな」
「はい」
「軍は止まり、対岸も動かなかった。結果だけ見れば君の報告が正しかった。そこは疑っていない」
お茶は熱かった。私は一口だけ口をつけた。
彼は昨日の私の動きを、順を追ってそらんじてみせた。倉庫の目録を差し戻したこと。飼料の目録で時間を取られたこと。砦の馬が腹を下したこと。夕方の鐘が鳴った後まで残っていたこと。仮訂正符を三つとも使わずに置いていたことまで、正確だった。
調べたのだろう。調べればわかることばかりだ。だが本人から直接並べ立てられると、昨日の一日が最初から見張られていたような錯覚を覚える。そういう効果を狙った並べ方なのだ。
――全部知ってるような顔をする奴は、大抵あと一つを知らないもんだ。その一つが問題なんだがな。
右隣からの声は、どこか他人事だった。私も同感だったが、口には出さなかった。
「ただね、試補。私はもう大体の見当がついているんだ」
彼は微笑んだ。瞳の奥の冷たさだけが変わらない。
「一人の試補が、初日にたまたま条約の第四項だけを開く。そんな偶然はない。誰かが君に、あの項を見ろと指示したはずだ。そいつの名を言えば、君の責任は問わない。使われただけだと証明できれば、それで済む話だ」
優しい口調だった。逃げ道を用意して、そこへ誘導する言い方だった。
「誰からも指示されていません」
「そう答えるよう、言い含められているのだろう」
「最後の束でした」
「何がだ」
「昨日、私の机に届いた最後の書類です。一束目は倉庫、二束目は飼料。その後もいつもの照合を続けました。夕方に停戦・第三十一号が届き、それも同じように読んだだけです」
「第四項に目を止めた理由は?」
「ありません。上から順に読んでいったら、指が止まりました」
彼は短く沈黙した。
「もう一度、読んでみてくれないか。昨夜の条文を」
机の上に写しの控えが置かれた。私は声に出して読んだ。
「対象、国境騎士団。数、三千。刻、暁七つ。第四項、騎士団は川岸に留まり、国境線を越えてこれを、進ませる」
右隣の、誰もいないはずの空間から声がした。
――進ませる、で止まる。やっぱりそこだな。
レオンハルトには聞こえていない。彼は写本に目を落としたまま、私の続きを待っていた。
「原本控えは『進ませるな』です。索引の件名は『進軍停止』となっていました。写しだけが違っていたのです。それだけです」
「それだけ、か」
彼は手帳を開いた。符の光が机に影を落とす。
「では聞き方を変えよう。本当はこちらが本題だ」
机に出されたのは一枚の紙だった。私の任官書類の写しだ。実家の筋目、父の職、保証人の名前。
「位階のない奉公人の娘。女性登用枠。保証人は元・俸禄騎士。君の父の帳付けを知っていた老人だと聞いている」
「はい」
「普通はこう読む。どこかの所領貴族が妾腹の娘を食わせるために枠へ押し込んだ。実務は別の男がやり、昨夜の報告も、その男の手柄を君の名で出させたのだとね」
「代筆者はいません」
「隣の席は空いていたそうだな」
「予算が降りておらず、欠員のままです。初日に案内の書記から聞きました」
「では、誰が君に校正の手ほどきをした?」
「家です。父は馬預方の記録係で、母は写本工房で書き写しの仕事をしていました。文を読む仕事は、常に身近にありました」
「それで軍を止められるものか」
悪意のある言い方ではなかった。心底納得がいかないという顔だった。この男の世界では、最下位である九等の席に家柄のない娘が実力で座る方が、陰謀よりもあり得ないことなのだろう。
――番号の話をしてやれ。つまらんが、それが事実だ。
右隣の声が、煩わしそうに囁いた。
「試験は匿名でした」
「何?」
「家人採用の試験です。答案に名は書かず、受験番号だけを記します。合格が決まってから、はじめて番号と氏名が照合されました。私の答案も、番号だけで採点されたはずです」
試験の日を思い出す。広い部屋に机が並び、受付で番号のついた木札を渡された。名前を呼ばれることは一度もなかった。女は私のほかに二人いたが、二人とも途中で席を立った。最後まで残ったのは、ただの番号だった者だけだ。あの日、それを不公平だとは思わなかった。むしろ逆だった。番号だけの部屋では、家の名も顔立ちも、何の意味もなさなかったからだ。
「保証人はどう説明する」
「採点の後です。採用手続きに保証人が必要になり、父の帳付けを昔から知る方が名前を貸してくださいました。それだけです」
彼はしばらく紙を見つめていた。
「もう一つ。副署の件だ」
「はい」
「八等官の溜頭が、入庁初日の試補の仮訂正に副署した。試補の報告で軍を止めた前例などない。ヘルム溜頭は、なぜ判を押したと思う?」
「三つの記述をご自分で確認されたからです」
「君を信じたからではない、と?」
「文書を信じられたのだと思います。私の机で、原本控えと索引と写しを、三度確かめておられました」
昨夜、私の目の前で起きた通りのことだった。溜頭は私の言葉だけでは頷かなかった。三通の紙を突き合わせてはじめて、金属の符節を取り出したのだ。
「上司まで君の黒幕というわけか」
「溜頭は、軍を止める責任を一人で背負われただけです」
レオンハルトは小さく息を吐いた。想定していた答えと違ったときに見せる顔だった。
そのとき、小部屋の扉がノックされた。若い書記が、水に濡れた跡のある薄紙を抱えて入ってくる。写字溜の者だ。顔色が青い。
「停戦・第三十一号の、元の紙です」
置かれた紙の端は波打っていた。第四項の末尾に、輪じみが残っている。
「冬場に保存庫の配管が漏れました。その紙も濡れてしまい、乾かした後に写しを作成しました……『な』の字の墨が薄くなっていたのです」
「君は、それをどう写したのだ?」
レオンハルトの声は、相変わらず穏やかだった。
「前後の文脈から、進軍させる話だと思いました。川岸へ進めという命令なのだと……文字を補う際に、落としてしまいました」
書記は深く頭を下げた。何度も、何度も下げ続けた。誰もその頭を上げさせようとはしなかった。
――巨大な陰謀の正体が、水漏れと若造の思い込みか。傑作だな。
私は笑わなかった。若い書記は私より年下に見えた。彼の机にも刻漏があったはずだ。急いで目を通せば、かすれた文字は見落としてしまう。
昼までに、回覧が三通回ってきた。
一通目は白書院からだった。起案の原稿には『な』が存在した。誤りは白書院の段階では生じていない、と記されていた。
二通目は写字溜からだった。水損箇所を補筆したのは事実だが、原本の管理責任は黒書院の保存庫にある、と書かれていた。
三通目は短かった。ヘルムの筆跡で、「発見したのは校正溜である」。それだけだった。
三通とも、嘘は書いていない。だが三通を並べると、責任だけが少しずつ横へ横へと滑っていくのが見えた。
レオンハルトは三通を読み終えると、静かに手帳を閉じた。
「陰謀などない。水損と、補筆の過ちと、締め切りに追われた焦りだ」
「はい」
「君の任官にも裏はない。匿名の試験と、後付けの保証人だ」
「はい」
「黒幕はいない、か」
「いません。九等官に黒幕などつきません」
はじめて、彼の笑みから作り物の雰囲気が消えた。疲れの滲む笑いだった。
「報告書には、そう書いておく。だがね、試補。上の連中はその書き方を受け入れないと思うよ」
その日の夕方、上の階から新しい回覧が回ってきた。
件名は「反逆未遂の未然防止について」。本文には、何者かが否定語を消し去り、騎士団を進軍させようとした企てを、校正溜が見破って阻止した、とあった。水漏れの話も、補筆の件も書かれていない。若い書記の名前もなかった。
私は文面を二度読み返した。
「監察官。私は、このような報告はしておりません」
「知っている」
「訂正は……」
「できない。あれは報告書ではなく『物語』だ。上が求めているのは、過失ではなく企ての物語なんだよ」
彼は立ち上がった。仕立ての良い正装には、朝から一つの乱れもなかった。
「私の報告書は別に提出する。事故として処理するよう上げるつもりだ。それを読む者がいるかどうかは別だがね」
扉の手前で、彼は一度だけ振り返った。
「レン試補。君は少し、厄介な立場になったな。黒幕のいない人間ほど、黒幕に仕立て上げやすい。気をつけたまえ」
忠告なのか、観察の一環なのかは分からなかった。私は礼をして彼を見送った。
校正溜に戻ると、いつもと変わらぬ音が響いていた。刻漏の水滴が落ちる音。文章を読み上げる声。紙の匂い。その真ん中で、ベルンが私を見ながら言った。
「で、黒幕は捕まったのか?」
「いませんでした」
「つまらんな」
ヴェンツェルは鼻で笑ったが、それ以上は何も言わなかった。ヘルムは机の上の小さな木箱を、私の方へ押しやった。
「昼に届いた。国境の村からだ」
無骨な木箱だった。宛名の札にはこうある。
『校正溜御中』
私の名前はない。部署の名だけが書かれていた。中には干し梅が詰まっていた。添えられた紙には、拙い字で手紙が添えられていた。
『川は渡られませんでした。橋も閉まったままでした。村は無事です。その朝、子供たちを蔵に隠す準備までしていました。何も起きなかったので、みんなで笑い合いました。畑で採れた梅です。皆さんで食べてください』
軍が止まったことは、上の回覧では「企ての看破」という物語に書き換えられていた。けれど川の向こうでは、「何も起きなかった朝」として残っていたのだ。起きなかったことに対する感謝が、こうして届くこともあるのだと知った。私の名前など必要なかったのだ。止めたのが誰かではなく、止められたという事実さえ伝われば、それで十分だったのだろう。
声に出して読み上げると、右隣から小さな声が聞こえた。
――宛名が『溜』か。……まあ、それでいいんだろうな。
ヘルムがひとつ口に放り込み、即座に顔をしかめた。
「酸っぱいな」
「梅ですから」
ベルンもひとつ手に取り、同じように顔を歪めた。ヴェンツェルは黙って二つ目に手を伸ばした。酸っぱいものは、分け合うと少しだけ甘く感じるのかもしれない。
私もひとつ、口に含んだ。強い酸味が広がり、昨夜から抜けずにいた眠気が、ほんの少しだけ晴れていった。
机の隅では、次の書類の束が待っていた。税務の帳簿だった。紐をほどき、一行目を読む。
「対象、北の三村。数、税率――」
指が止まった。
小数点が、ひとつずれていた。