底辺上がりの九等官ユーリ、誤植を直しただけで帝国の黒幕にされる   作:トマスアレポ

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小数点の村

 乾し梅の木箱を机の脇に寄せて、私は次の束に手を伸ばした。

 

 机の隅に積まれた税務帳簿の先頭行を読み上げる。

 

「対象、北の三村。第一村、ローデ。収穫見込み、麦三百俵。税率、一・二。納付、三百六十俵」

 

 指が止まった。

 

 村の収穫見込みが三百俵なのに、納付額が三百六十俵になっている。

 

 もう一度、対象、数、刻と頭から読み直したが、数字は変わらない。これでは村の収穫をすべて差し出しても足りない。来年の種麦どころか、冬を越す食糧すら根こそぎ奪われる計算だ。村は税を納めるために、村そのものを食うことになる。

 

 原本控えを開いた。

 

「対象、ローデ。収穫見込み、麦三百俵。税率、〇・一二。納付、三十六俵」

 

 数字そのものは同じだ。違うのは、点の位置だけだった。写しでは小数点が右に一桁ずれていた。ただそれだけで税率は十倍に跳ね上がり、三百二十四俵も多く徴収されることになっている。

 

 ベルンが、呆れたようにぼやいた。

 

「点ひとつで、三百二十四俵か。村をひとつ潰す気だな」

 

 私は答えず、索引の札を引いた。

 

 税務・第百九号。「北の三村、定例徴収」。納付見込み欄には「ローデ村三十六俵」とある。

 

 原本と索引は三十六俵。写しだけが三百六十俵だった。

 

 念のため残り二つの村も確認したが、第二村は税率〇・一〇で納付二十俵、第三村は税率〇・〇八で納付十六俵。そちらは原本通りだった。ローデ村の行だけが間違っている。

 

 徴収の執行は明後日の正午。写しはすでに北の徴収所へ送られている。だが、まだ時間はあった。

 

 帳簿類を抱えて、ヘルムの机へ向かった。

 

「溜頭。税務帳簿の写しに、税率の点のずれがあります。ローデ村の分です」

 

 ヘルムは書類を受け取ると、老いた指で点の位置をなぞった。一度、二度、三度。

 

「……一桁だな」

 

「はい。ローデ村だけです」

 

「執行は?」

 

「明後日の正午です」

 

 ヘルムは小さく頷き、自身の符節を取り出した。初日の条約のときのような、長い沈黙はなかった。

 

「申告書を書け。今日の分だ」

 

 指示通り、申告書に書き込む。文書番号、税務・第百九号。執行刻、明後日の正午。訂正箇所、税率の点一か所。

 

 写しの税率に朱を入れる。一・二[〇・一二]。括弧で囲んだ点は、米粒よりも小さかった。

 

 木製の仮訂正符を押すと、乾いた音とともに残数が三から二へ減った。その横に、ヘルムの符節が金属の音を立てて落ちた。

 

 続いて廊下の奥にある台帳溜へ行き、照合印をもらう。年配の書記は札と帳簿を見比べ、すぐに頷いた。

 

「索引通り三十六俵だね。表の点は桁の列に揃えて打つ決まりでね。この行だけ、点が隣の列にある。写すときに定規がずれたか、行を見間違えたのだろう。よくあることだ」

 

 よくあること。その一言で、三百二十四俵の差異が片付けられてしまった。そこに陰謀などはなく、ただの事務的なミスなのだ。

 

 書記から照合印をもらって戻ると、ヘルムが言った。

 

「これで照合中として登録され、徴収所にも通知が行く」

 

「はい」

 

「だがな。紙の上で止まっても、現場がどう動くかは現場次第だ。……まあ、今回はまだ猶予がある。通常の訂正処理で済むだろう」

 

 その言葉に少し安堵した。通常の訂正。その言葉が、少し嬉しかった。暴動も軍の出動もない、ただ書類を直すだけの仕事だ。

 

 席に戻ると、ベルンが口を挟んできた。

 

「今度は点か。地味だな」

 

「税の紙は地味でないぞ。軍の動きは命令で止まるが、税は厄介だ」

 

 答えたのはヴェンツェルだった。

 

「一度蔵から持ち出された麦を申立てて取り戻すには、何年もかかる。俺が見た村は三年かかった。その間に村がどうなるか……」

 

 彼はそこで言葉を切り、外套を羽織って席を立った。

 

 ――定規ひとつで村が三年か。世界は大抵、そういうもので狂うんだ。

 

 手遅れになる前に直すしかない。だからこそ、執行前の申告に意味がある。私は訂正済みの控えを綴じた。これで解決するはずだった。

 


 

 徴収当日の朝。北のローデ村の蔵の前には、村人たちが集まっていた。

 

 担当の俸禄騎士ディーター・フォーゲルは、書類の束を片手に立っていた。執行は正午だが、昼までに三村すべてを回り終える腹積もりだった。

 

「ローデ村、納付三百六十俵。蔵を開けよ」

 

 村長が青ざめて前に出た。

 

「お待ちください。今年の見込みは三百俵です。それでは食べる分どころか、来年の種麦まで……」

 

「写しにはこうある。財務は数しか見ない。不足を出せば私の責任になる。村の事情を聞くのは私の仕事ではない」

 

 フォーゲルは紙を突きつけた。嘘は言っていない。彼の手元の書類では、それが正規の数字なのだ。

 

 村長は震える手で、油紙に包まれた村の控え帳を差し出した。村で代々引き継ぐ帳面だった。

 

「村の控えでは三十六俵です。去年も一昨年も同じでした」

 

「村の帳簿など、そちらの都合でどうとでも書けるだろう」

 

 フォーゲルも引かなかった。彼のような領地を持たない騎士にとって、俸禄は命綱だ。昨年の担当者は不足分を自腹で切らされたという。写しの数字に逆らうことは、自分の食い扶持を差し出すことと同じだった。

 

 村の男たちは蔵の前で立ち尽くし、女たちは子供を抱き寄せた。誰も声を上げなかった。声を上げても、書類の数字は変わらないと分かっていた。

 

 そこへ、川岸に駐屯する騎士団の隊長カール・リヒターが馬で乗り込んできた。彼の元には前日、近隣の徴収文書が「照合中」であるという通知が届いていた。通知に添えられた符節証跡の番号には、見覚えがあった。あの夜明けに軍を止めた、木の符の番号だった。

 

「なぜ、隊長殿が税の現場に」

 

「川で止まった男が、近所でまた紙が止まっていると聞いてな。来ないわけにもいくまい」

 

「フォーゲル。その徴収は照合中のはずだ」

 

 フォーゲルは眉をひそめた。

 

「通知は受けました。ですが照合中とは、額が確定していないというだけ。徴収そのものが中止されたわけではありません。私の写しが、現にここにある」

 

 カールの声は落ち着いていた。

 

「川の時もそうだった。俺の命令書も正しかった。写し通りに進めとあった。だが照合が入った時点で水門は閉ざされた。文書が止まれば現場も止まる。俺は三千の部下と一緒に、それを学んだ」

 

「隊長殿は軍、こちらは税務です。管轄が違います」

 

「書類の不備で人が死ぬのに、軍も税も関係あるまい」

 

 フォーゲルは押し黙った。階級はカールが上であり、川での一件は騎士たちの間でもすでに知れ渡っていた。

 

「……正午まで待ちます。それまでに訂正の確定が来なければ、写し通りに徴収します」

 

「それでいい。刻までは、まだある」

 

 待機する間、村の女が騎士たちに水を振る舞った。

 

 カールの副官は水を受け取りながら、蔵の前に並ぶ子供たちを見つめていた。あの夜明け、彼は川岸で言ったのだ。「隊長、刻限です」と。

 

「隊長」

 

「なんだ」

 

「あの朝、川を渡っていたら、この村は戦の通り道でしたね」

 

「ああ」

 

「俺は、あのとき刻だと言いました」

 

「お前は務めを果たしただけだ」

 

 カールは蔵の前の人々を見た。

 

「止まるのも務めだと、今は知っている。それでいい」

 

 副官はそれ以上何も言わず、水を飲んだ。子供の一人が、蔵の前に積まれた空の俵を数えて遊んでいた。一、二、三。遊び半分の声だった。

 

 正午が近づいた頃、村外れの伝令所で符が反応した。

 

『照合完了。訂正確定。ローデ村の税率〇・一二、納付三十六俵』

 

 手帳で同じ通知を受け取ったフォーゲルは、短く息を吐いた。

 

「……初めからそう書いておけばいいものを」

 

 蔵が開かれ、俵が広場に積まれていく。数えるのは、さっきの子供だった。一、二、三。今度は大人たちも一緒に数えた。

 

 三十六俵で、作業は終わった。

 

 フォーゲルは受理の控えに判を押し、村長に渡した。最後まで不機嫌そうだったが、種麦に手をつけることはなかった。彼の写しの束にも、訂正の報せが挟まれたはずだ。

 


 

 二日後、校正溜に徴収の受理の控えの写しが戻ってきた。

 

『納付、三十六俵。滞りなし』

 

 余白には、村長の拙い字でこう書き添えられていた。

 

『俵は三十六で終わりました。子供が数えました。種は残りました』

 

 私はその一行を二度読んだ。三百六十俵になるはずだった徴収が、三十六俵で終わった。それだけのことが、村にとってはわざわざ書き添えるほどの重大事だったのだ。

 

 控えには、カールの現地報告の写しも添えられていた。

 

『照合中の通知を受け、執行刻まで徴収を見合わせた。前例に基づく。村に混乱なし』

 

 あの夜明けの出来事は、すでに「前例」として扱われていた。私の行った申告が、知らない場所で誰かの判断基準になっていたのだ。

 

 机の上には、勘定方の覚え書きを添えた回覧も届いていた。

 

『校正溜のレン試補は、ローデ村の不満が高まる兆しを先読みし、徴収の混乱を未然に防いだ。地方の情勢に通じた優れた判断である』

 

 私は文面を読み返した。

 

 先読みなどしていない。村の不満も、情勢も知らない。知っていたのは、原本と索引と写しの三つが合っていないことだけだった。だから、点を直しただけだ。

 

 ――先読みねえ。お前は点ひとつ読んだだけだってのにな。

 

 ベルンが顔を出し、からかうように言った。

 

「おい、また手柄らしいぞ。今度は『地方情勢通』だってさ」

 

「私が読んだのは、ただの点ですよ」

 

 ベルンは肩をすくめて自分の書類仕事に戻った。彼には点の話にしか聞こえなかったのだろう。

 

 私は回覧を閉じ、修正済みの帳簿を綴じた。

 

 点は元の場所に戻った。ただ、それだけの仕事だった。

 

 だが誰かの物語の中では、点はまた少し、大きくなっていた。

 

 

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