底辺上がりの九等官ユーリ、誤植を直しただけで帝国の黒幕にされる   作:トマスアレポ

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任命の取り違え

 任命は、今日の刻に発令される。

 

 朝の溜は、いつもより少し慌ただしかった。発令済みの任命状は写しが黒書院に残る。だが今朝私の机に来たのは任命状そのものではない。その根拠になった文書の束だった。推挙文と経歴札。経歴札は、その者の勤めの経歴と推挙先を一枚に記した札だ。任命を決めた側が誰をなぜそこへやるのかを決めるために見た紙だ。発令の前に根拠の控えを照合する。それが今朝の仕事だった。

 

 名簿は昨日と同じだ。読み上げる。名前、階級、配属先。経歴札の番号。

 

 最初の数行は穏やかだった。若い騎士の行を読み、札を引く。経歴と推挙先と配属先が、きれいに一本に通っている。合う。次の行も合う。指が油断していく。

 

「エルンスト・ハーゲン。旗本騎士。配属、内地。選帝候家主城本丸、菊間詰、台帳整理掛。根拠――」

 

 札を引いた。出てきた経歴札にはこうあった。

 

『経歴。エルンスト・ハーゲン。国境騎士団、斥候長。第三砦の停止の朝、川岸で隊列を保ち、負傷者を先に運ばせた。隊長カールの推挙文あり。推挙先、新大陸探題軍。斥候運用の経験者として』

 

 指が止まった。

 

 経歴と推挙先はエルンストに正しくつながっていた。合わないのは名簿の行の方だ。推挙先は新大陸とはっきり書いてあるのに、配属は内地の机になっている。

 

「レオポルト・ハーゲン。男爵家子弟。配属、新大陸探題軍。本陣備え付き。根拠――」

 

 もう一枚、札を引いた。

 

『経歴。レオポルト・ハーゲン。男爵家子弟。剣術と乗馬の稽古記録のみ。実戦の経歴なし。推挙先、内地。台帳方にて奉公の初歩より始めること』

 

 エルンストの経歴札の裏には推挙文が綴じられていた。カール隊長の署名のある、あの文面だ。国境の回覧で「別便の通り」とされていたものがここにあった。本来の持ち主の経歴札の中に正しく収まっている。ただし、この経歴札を引いているのは名簿のもう一方の行だった。

 

 二枚の札を並べた。

 

 要するに、新大陸へ行くはずの斥候長が机へ行き、机でよいはずの子弟が船に乗るところだった。

 

 二枚の札を前に、私はしばらく座っていた。

 

 申告すれば発令当日の任命が止まる。男爵家の子弟の船出が止まる。止めなければ明日の暁に船が出る。だが初日の飼料の札を覚えている。正しい訂正でも、刻を過ぎればただの紙だ。船が出ればこの二枚もただの紙になる。

 

 経歴札を二枚持ってヘルムの机へ行った。

 

「溜頭。申告があります」

「誤りか」

「任命が間違っている、とは申しません」

 

 ヘルムの読み眼鏡がわずかに上がった。

 

「人事の是非は私の仕事の外です。申すのは接続だけです。エルンスト・ハーゲンの行が引く経歴札はレオポルト・ハーゲンのものです。逆も同じです。カール隊長の推挙文は、レオポルトの行が引く経歴札の中にあります。文書と文書が合っていません」

 

「誰の仕業だ」

「分かりません。分かったのは合っていないということだけです。誰がどう間違えたかは照合の先の話です」

 

 ヘルムは口の中で何かを数えるように、しばらく天井を見ていた。止めるのは条約でも税でもない。人の行き先だ。

 

「評定衆へ照会を回せば」

「往復に二日かかります」

 

 私は壁の刻漏を見た。

 

「新大陸便の船は明日の暁に出ます。任命の執行刻は出発の刻です。照会が戻る頃には、レオポルト・ハーゲンは船の上です。次の便は一月後です」

 

 ヘルムは二枚の札を手に取り、長いこと見比べていた。やがて言った。

 

「お前は人を前線へやれと言っているのではないな」

「はい。誰をどこへやるかは評定衆が決めることです。私は経歴札が別の人間のものだと申しているだけです」

「……それが一番、厄介な申告だ」

 

 彼は引き出しを開けた。副署の官吏手形を取り出す音がした。

 

「任命の執行を止める。照合が済むまでだ。決めるのは評定衆だ。我々は紙の食い違いを突きつけるだけだ」

 

 申告書に、自分の官吏手形を捺した。朱を入れ、ヘルムの副署が重なった。捺した分だけ、私の証跡がこの紙に残る。申告書の理由の欄には、根拠文書の接続先の不一致、推挙先と配属先の齟齬、それだけを書いた。有能とか無能とかいう言葉は書かなかった。

 

 ――おいおい。とうとう人事にまで手を出したのか。

 

 声がした気がした。私は答えず、早馬の手配書に官吏手形証跡の番号を写した。

 


 

 外港では、暁の光の中で船の支度が進んでいた。

 

 レオポルト・ハーゲンは、すでに荷を船へ載せ終えていた。新しい軍装。結び目の固い荷袋。潮は引き始めていて、綱を解く刻は近かった。乗り込む者の名が一人ずつ呼ばれ、列が短くなっていく。彼の名が呼ばれるまで、あと数人だった。

 

 岸壁を早馬が駆けてきた。黒書院の符のついた筒を港の書記が受け取る。読み上げの声が止んだ。書記は名簿を二度見て、筒の中身をもう一度確かめ、それから静かに言った。

 

「ハーゲン殿。任命の執行は照合のため止まりました。船にはお乗りになれません」

 

 レオポルトはしばらく自分の荷袋を見ていた。それから係の者に言った。

 

「……では、この荷は」

「内地行きの馬車に載せ替えます。配属は改めて発令されます」

「そうですか」

 

 彼は頷いて列を離れた。誰も笑わず、誰も怒鳴らなかった。係の者が荷袋を船から下ろし、岸壁の馬車へ運んでいく。行き先の札だけが静かに掛け替えられた。船は彼なしで綱を解いた。港の書記は名簿の彼の行に線を引き、次の名を読み上げた。手続きはそれで終わりだった。

 


 

 照合はその日のうちに済んだ。

 

 評定衆と写字溜の照合で分かったのは、経歴札を束に綴じる際、同姓の二枚の経歴札の差し先が入れ替わっていたことだった。写しの文字の間違いではない。経歴札そのものの行き先の間違いだ。

 

 評定衆は改めて発令を出した。エルンスト・ハーゲンは新大陸探題軍へ。レオポルト・ハーゲンは内地、台帳方へ。私の机に改発令の写しが控えとして回ってきた。読み上げる。合う。合う。今度は経歴札とも合っていた。

 

 台帳方は黒書院と廊下を隔てた向かいにある。レオポルト・ハーゲンは明日から帝都の机で字を数える。

 

 それで終わるはずだった。

 

 三日後、回覧の写しが私の机に来た。

 

 『ハーゲン男爵家より、選帝侯家執事方へ申し入れ。――我が子弟の新大陸任命は、評定衆の決定として発令されたものである。しかるに発令の当日、黒書院の校正試補の訂正により執行が止められ、任命は覆された。所領の子弟の任用に選帝侯御家人の校正溜が口を挟むは慣例にない。人事は評定衆の権能であり、一試補の申告による停止は派閥の工作と疑われても仕方のないものである。経緯の説明を求める』

 

 ベルンが綴じかけの束の向こうから言った。

 

「大した出世だな。人事を動かす女官とは」

「動かしていません。札を二枚、引いただけです」

「男爵家の中では動かしたことになっている」

 

 ヘルムは顔を上げずに言った。

 

「説明は執事方がする。我々の仕事は変わらん」

 

 私は抗議文の写しを綴じた。止めた理由は手続きだったはずなのに、家と家の間の話になると、手続きは工作の別名になるらしい。

 

 机に戻ると、刻漏の水はもう大方落ちていた。止めたのは紙だ。船も人も、刻の中で動き続けている。

 

 机の隣の席は今日も空いている。だが私の名前は私の知らない場所にも届いていた。帝都の机の噂でも、国境の礼状でもない。領地を持つ家々の、帳面の外側だ。

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