底辺上がりの九等官ユーリ、誤植を直しただけで帝国の黒幕にされる 作:トマスアレポ
長屋の台所は、明け六つにはまだ暗い。
母が昨夜の鍋を火にかけていた。温め直した麦粥と漬物が朝の食事だ。帝国の一日は二食で回っている。朝に食べ、夕に食べる。昼は食事の数に入らない。
父は飯をかき込むのが早かった。馬預方の記録係の朝は厩の朝に合わせる。父の勤める馬預方は主城にはない。川向こうの出城だ。馬のいる城と紙のいる城は別々にある。
「行ってくる」
「手」
母が私の指先を見た。昨日の朱は落ちている。頷いて見送られ、父と二人で長屋を出た。
運河沿いの道は、奉公人の流れでいっぱいだった。厨房の下働き、写字の家の者、荷を担いだ男たち。皆まだ眠そうな顔で同じ方へ歩いていく。途中の橋のたもとで父と分かれた。父は出城への道を下り、私は主城の北へ向かった。
玄武門が見えてきた。
奉公人の登城はこの門と決まっている。俸禄貴族や俸禄騎士の入る門は別にある。門は勤め先ではなく家の筋で決まるのだと、入庁の日に門番から聞いた。試補になっても私の門は変わらなかった。
門の脇に台が置かれ、入門簿が開かれている。門番が一人ずつ名を聞き、刻と一緒に簿へ書いていく。私の名も書かれた。九等官試補、ユーリ・レン。入門、明け六つの前。
列の後ろでは厨房の下働きの少年が、遅れた理由を小さい札に書かされていた。市場の荷が遅れたのだという。理由があれば印は付かない。理由のない遅れだけが印になる。
門をくぐると中庭の向こうに二の丸の塀が見える。黒書院は二の丸にある。入庁の日にくぐった低い門はその塀の門だった。門番に官吏手形を見せ、二の丸へ入る。紙の匂いはここから強くなる。
もう一つの門の方では、ベルンが今ごろ入ってきたところだった。私の列が半分ほど進んだ頃にのんびり現れて、咎める者もいない。門が違えば朝の締め方も違うらしい。
校正溜では刻漏の水が落ち始めていた。私の机の隣の空席は、今日も誰かが拭いた跡があった。文鎮を置く。朱墨を溶く。朝の束が二つ届いた。
午前の一つ目の束は、冬支度の目録だった。
対象、北の砦。数、毛布と乾し肉。刻、明朝。原本控えと合う。索引とも合う。窓口へ持っていくと、その場で受理された。何も止まらない朝もある。
昼の刻、溜の者は順に席を立った。二の丸の食堂へ昼の賄いを取りに行くのだ。
食堂の帳面でこの賄いの項目は「茶」になっている。温い茶とパンが一切れ、チーズが一つ、具のないスープ。パンはいわゆるライ麦パンで、歯が負けそうなほど硬い。食べれば腹は膨れるが、これは食事ではない。数える側がそう決めている。
盆の数は席の数より二つ多かった。一つは私の隣の空席の分だと、運んできた少年が当たり前の顔で言った。もう一つの行先は聞かなかった。盆は下げられ、裏の方へ回っていく。
ベルンはパンを二切れ並べて食べていた。
「軽い茶だな」
「その割には、よく食べますね」
「数に入らないものは遠慮なく食える。いい仕組みだ」
ヘルムは茶だけを飲んで席へ戻った。年寄りは二食で足りるのだという。溜の中でも昼の扱いは割れていた。
――数に入らない飯ほど、うまいものはないんだがなあ。
声がした気がした。私は硬いパンをちぎってスープに浸した。確かに悪くなかった。
昼過ぎ、執事方からの回覧が溜に届いた。
『本日、暮れ六つをもって全ての門を閉ざす。以後の出入りは認めない』
短い文だった。理由の欄は空欄だった。
溜の空気が少し変わった。宮廷記録室の女官たちは馬車を呼ばせ、昼のうちに早々と引き上げていった。従者が荷を抱えて小走りしていた。ベルンも束を綴じると席を立った。
「宿直にならないうちに帰る。お前も早く帰れよ」
「束が残っています」
私の机には、明日の朝に執行される目録が一束残っていた。運送方の荷の目録だ。対象、川港の倉庫。数、軍糧。刻、明朝六つ。照合は半分まで進んでいる。家へ持っては帰れない。今夜のうちに窓口の受理まで済ませる必要があった。
家へ帰れば、明日の朝は玄武門の列から始まる。入門簿に名が書かれ、二の丸の門をくぐり、机に着く。その頃には明朝六つは過ぎている。初日の飼料の札で学んだ。刻を過ぎた正しさはただの紙だ。
「溜頭。今夜、宿直を願います」
ヘルムは私の机の束を見た。
「執行は明朝六つか」
「はい」
「宿直届を書け。副署する」
宿直届は簡単な紙だった。名と席と、宿直の理由を一行。理由の欄に書いた。明朝執行の目録の照合のため。ヘルムの官吏手形が隣に重なった。私の証跡も残る。今夜この城に泊まることが紙になった。
ヘルムが帰り際に言った。
「女官の官舎は奥寄りの廓にある。泊まるだけなら使える。食堂と湯は当てにするな。常住がいない建物に配置は付かん」
「食事は」
「別の廓に下女の食堂がある。湯もそちらだ。ヴェンツェルが案内する」
ヴェンツェルは自分も書記の宿直だと、面倒くさそうに言った。三十年この溜にいる男は、城の夜の回し方を全部知っていた。
夕方の鐘が鳴った。やがて門の閉まる音が、遠くで重く響いた。一度ではない。門の数だけ響いた。
夜の校正溜は、刻漏の音だけが大きかった。
目録の照合を終え、窓口へ持っていった。窓口には当直の書記が一人残っていた。執行刻を確認し、受理の印を押す。乾いた音がした。これで明日の荷は、朝六つの刻に正しく出ていく。
官舎は静かだった。
長い建物に部屋が並び、戸には女官たちの名札が掛かっている。灯りのついた部屋は一つもなかった。名札の主は皆、屋敷や教会から通っている。建物はあるのに、住む者はいない。私の部屋は当直の名で借りた端の一室だった。寝具だけがきちんと畳まれていた。
食堂の竈は冷えていた。当然だった。食べる者がいない場所に火は入らない。
ヴェンツェルに教わった廓へ歩いた。下女の食堂は灯りがついていて、湯気と声が漏れていた。
年配の下女が私の顔と服を見て、少しだけ目を丸くした。
「官舎の方ですか。今夜は門が閉まったとかで」
「夕食を分けていただけますか」
「どうぞ。鍋は皆で同じです」
根菜と干し肉の煮物、飯。今日の二食目を、私は下女たちと同じ卓で食べた。最初は遠慮がちだった話し声も、私が二杯目をよそる頃には元に戻っていた。
門が閉まった理由は、下女の間でも三つあった。選帝侯の御不例だという者、夜の行列の支度だという者、城から逃げた者がいるのだという者。どれも出所はなかった。私は聞くだけにしていた。紙になっていない話は、私の仕事の外だ。
湯殿も下女の廓にあった。
大きな湯船に順番で浸かる。湯気の中で身分の話は誰もしなかった。あるのは手の話だった。私の指先の朱と墨。下女の年配の者の手は水仕事で荒れていた。厨房の娘の手には火傷の跡があった。手が顔になるのは、校正の仕事だけではないらしい。
――門が閉まると、城というのは大きな家だなあ。
声がした気がした。私は答えず、湯の中で指を広げた。
官舎へ戻ると、廊下はもう暗かった。名札の並ぶ戸の前を通り、端の部屋で寝具を敷いた。明日の朝、私は門の内側から机へ向かう。それだけのことが、今夜は少し不思議だった。
朝、門の開く音で目が覚めた。
玄武門の外では、昨日の朝と同じ奉公人の列ができていた。入門簿が開かれ、門番が名と刻を書いていく。
門番は中から歩いてきた私を見て、今朝の入門簿を開いたまま手を止めた。私の名を探している顔だった。私は宿直届の控えを見せた。門番は控えを見て、小さく頷いた。今朝の入門簿に、私の名は書かれなかった。
二の丸へ向かう途中、宮廷記録室の女官の従者とすれ違った。朝の早い刻から城の中にいる私を見て、従者は昨日より深く頭を下げた。理由を聞く暇もなく、従者は足早に門の方へ過ぎていった。
校正溜はまだ静かだった。刻漏の水が落ち始める。私は外套を自分の椅子に掛け、朝の最初の束の紐を解いた。