八人目の食卓 作:もちもちほっぺ
朝食の席に、エピカは、満面の笑みで現れた。
寝ぐせのついた髪を撫でつけもせず、紙束を胸に抱え、扉を開け放ったまま、ぴたりと立ち止まる。それから、食卓に着いている全員を、ゆっくりと見渡した。まるで、幕が上がった舞台の中央に立つ役者のように。
「みんな、おはよう! 今日という日が来たわ!」
「エピカ姉さん、扉を閉めなさいな。風が入りますわ」
「ああ、ごめんなさい、ヴィヴィ。でもね、聞いて。私、今日という日を、十日も待ったのよ!」
エピカは、後ろ手で扉を閉めながら、ずんずんと食卓へ近づいてくる。そうして、ミウの丸椅子の前でぴたりと止まり、両手を広げた。
「ミウ! 今日は、私の番よ!」
「え?」
スープの器を持ったまま、ミウが目を丸くする。
「番、って?」
「覚えてないの? ヴィヴィが言ったじゃない。私がミウと一緒に歩くのは、ミウが慣れてから、って。もう、十分、慣れたでしょう?」
「十日で慣れた、と言えるかどうかは、疑わしいですわ」
ヴィヴィが、パンを千切りながら、冷静に言った。
「でも、あなたがこの十日間、毎朝わたくしの顔を見るたびに、順番はまだですの、まだですの、と繰り返していたのも事実ですわね」
「そうでしょう? だから、今日こそ、私の番なの!」
「……ふぁ……」
テーブルの端で、イードが小さくあくびをした。
「……エピカ姉さん……毎朝……うるさかった……」
「ひどいわ、イード!」
エピカは、胸を押さえて、大げさによろめいてみせた。それを見て、ウイが、袖で口元を隠してくすっと笑う。
「まあまあ」
アヤが、穏やかな声で割って入った。
「エピカの気持ちは、よくわかったわ。ミウさんは、どうかしら。エピカと一緒に過ごしてみる気はある?」
「うん」
ミウは、スープの器を置いて、頷いた。
「私は、いいよ。エピカが、何をするのか、気になるし」
「何をするのか、ですって? それはもう、物語よ! ミウ、あなたを、私の物語の旅に連れていくわ!」
「物語の、旅」
「そう!」
エピカの瞳が、きらきらと輝いている。シオンが、隣で苦笑しながら、ミウに向かって小さく肩をすくめた。
「悪い子じゃないから。ちょっと熱が入りすぎるだけで」
「うん。知ってる」
ミウも、小声で答えて、くすりと笑った。
それを見ていたヴィヴィが、ふう、と息をついた。
「条件がありますわ」
「なあに、ヴィヴィ」
「行動範囲は、この家の庭と、その先の草原まで。林から向こうへは、行ってはなりませんわ。それと、昼食の時間までには、必ず戻ること。守れまして?」
「守る、守る! 約束するわ!」
「……エピカ姉さんの約束ほど、あてにならないものはありませんけれど」
「ひどいわ、ヴィヴィ!」
「ですから、ミウさん」
ヴィヴィは、ちらりと、ミウに視線を向けた。
「あなたが、時間を見ていてくださる? この方は、物語に夢中になると、時間を忘れますの」
「うん。わかった」
ミウは、真面目な顔で頷いた。
その返事を聞いて、ヴィヴィは、ほんのわずかに、口元を緩めたように見えた。けれど、すぐに、ふいと顔を背けて、自分のスープに視線を落とした。
「それなら、よろしいですわ」
*
エピカの案内で連れてこられたのは、庭の奥の、少し開けた空き地だった。
柵の外に出るぎりぎりのところ、野原へと続く緩やかな斜面の手前に、ひとつ、大きな切り株が鎮座している。かつては立派な樫だったのか、切り口の直径は、大人が両腕を広げても届かないほどあった。年輪の細かな筋が、朝の光を受けて、薄い金色に輝いている。
「ここが、私の舞台よ」
エピカは、切り株の横に立って、誇らしげに胸を張った。
「ほら、見て。ちょうどいい高さでしょう。ここに立つと、世界がよく見えるの。それに、観客席も完璧なのよ」
エピカが指さした先には、草の生い茂った斜面が、緩やかな円を描くように広がっていた。ところどころに、平たい石が埋まっていて、腰を下ろすにはちょうどいい。
「観客席、って?」
「あなたの席よ、ミウ」
エピカは、ミウの手を取って、斜面の中央にある、いちばん座り心地のよさそうな平石へ導いた。
「ここに座って。私が、これから、物語を読むわ。あなたは、最初の観客」
「私が、最初の?」
「そうよ。まだ、誰にも読んだことがないの。シオン姉さんにだって、まだ、少ししか聞かせていないんだから」
エピカは、胸に抱えた紙束を、そっと撫でた。
ミウは、少し姿勢を正して、石の上に腰を下ろした。ぶかぶかの袖口が、また手の甲まで落ちてくる。それを、無意識のようにまくり上げて、ミウは、顔を上げた。
「楽しみにしてる」
「ええ。たっぷり、楽しませてあげるわ」
エピカは、ひらりと切り株の上に飛び乗った。
朝日を背にして、すっと背筋を伸ばす。紙束を胸の前に掲げ、ゆっくりと、深呼吸をした。
風が、ふっと止んだ。
エピカが、息を吸い込む。
「題して——」
声が、変わった。
さっきまでの、騒がしくて、少し子どもっぽい声ではない。低く、深く、よく通る声だった。空気を震わせて、ミウの胸の奥まで、じかに届いてくるような。
「『丘の旅人と、八つ目の席』」
ミウは、思わず息を呑んだ。
エピカは、ゆっくりと、紙の文字を目で追いながら、語り始めた。
「それは、夏の初めの、夕暮れのことでした。見渡すかぎりの緑の丘の上で、名前も持たぬ旅人が、ひとり、目を覚ましたのです」
旅人は、自分が誰なのかを知らなかった。どこから来たのかも、どこへ行くのかも。ただ、胃の腑の底が空っぽで、足を前に出すたびに、世界が少しずつ揺れていた。
そのとき、一筋の香ばしい風が、旅人の鼻をくすぐった。
焼きたてのパンの匂い。
「旅人は、匂いを辿って、歩き出しました。夕陽に伸びる己の影を、道連れにして」
そこで、エピカは、一拍、間を置いた。
ミウは、気づいた。
これは、自分の話だ。
丘で目覚めて、お腹をすかせて歩いて、アヤに出会った、あの日のこと。エピカは、あの日のことを、アヤやほかの姉妹から聞き集めて、物語に仕立てているのだ。
エピカの語りは、続いた。
旅人が出会った、優しい風のような人。分けてもらったパンの味。見知らぬ家の灯り。七つの視線に迎えられた、夜の扉。
言葉のひとつひとつに、体温があった。聞いているうちに、ミウは、本当に、あの夜の光景を、もう一度見ているような気がしてきた。
「食卓には、七つの椅子がありました。けれど、そのどれもが、すでに誰かの席でした。旅人は、立ったまま、立ち尽くしていました」
エピカの声が、ふっと柔らかくなる。
「その時、風のような人が、部屋の隅から、小さな丸椅子を運んできたのです。塗りの剥げた、古びた丸椅子を。それは、八つ目の席でした」
ミウは、思わず、自分の膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。
「誰も、その席が、これから旅人のものになるとは、まだ、知りませんでした。旅人自身も」
エピカは、そこで、紙から目を上げた。
ミウのほうを、まっすぐに見る。
「……と、ここまでが、最初の章なの」
しん、と、辺りが静まった。
ミウは、何か言おうとして、うまく言葉が出てこなかった。喉の奥が、ほんの少し、熱い。
「どう、だった?」
エピカが、切り株の上から、そっと問いかけた。さっきまでの朗々とした調子とは違う、ほんの少し、不安の混じった声だった。
「……すごい」
やっと、それだけが、口から出た。
「本当に、すごかった。自分のことなのに、自分のことじゃないみたいで。聞いてるうちに、胸が、きゅっとなって」
「本当?」
「うん。エピカは、ほんとに、物語を作る人なんだね」
ミウの言葉に、エピカの顔が、ぱあっと輝いた。
「そうでしょう! そうでしょう!」
エピカは、切り株の上で、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「嬉しいわ! 最初の観客が、ミウで、本当によかった!」
*
けれど、感想を聞き終えたエピカは、ふと、首をかしげた。
「でもね。ひとつだけ、気になることがあるの」
「気になること?」
「物語の主人公の、旅人のことよ」
切り株から降りてきたエピカは、ミウの隣の平石にぺたんと座り込んで、紙束をめくり始めた。
「旅人は、ずっと、受け身なの。目を覚まして、歩いて、拾われて、食べさせてもらって。確かに、そういう始まりだったから、間違ってはいないんだけど」
エピカの指が、紙の上で止まる。
「でも、物語の主人公には、自分で選んで、自分から動く瞬間が必要なの。何かを、強く望む瞬間が。そうじゃないと、読む人の心は、動かないのよ」
「強く、望む……」
「そう。ねえ、ミウ。あなたは、何がしたい?」
唐突な問いだった。
ミウは、一瞬、答えに詰まった。
「何がしたい、って」
「ほら、何でもいいの。やってみたいこと、行ってみたい場所、食べたいもの。何か、胸の奥で、うずうずしているものはない?」
ミウは、しばらく、考え込んだ。
やりたいこと。行ってみたい場所。
「……散歩、かな」
「散歩!」
「うん。どこか知らない場所を、ただ歩くのが、好き」
「他には?」
「他には……ええと」
ミウは、必死に頭の中を探した。パンを分けるのが好き、というのは、癖であって、やりたいこと、ではない気がする。みんなと一緒にご飯を食べるのは、楽しい。けれど、それは、望むというより、受け取っているものだ。
しばらくして、ミウは、小さく息を吐いた。
「……わからない。ごめん」
「謝らなくていいのよ」
エピカは、あっさり言った。
そうして、ミウの顔を、じっと覗き込んだ。さっきまでのはしゃいだ笑顔ではなく、ずっと静かな、澄んだ瞳で。
「ミウの中には、まだ、書かれていないページがたくさんあるのね」
「書かれていない、ページ」
「そう。真っ白な紙よ。それは、空っぽ、ということじゃないの。これから、何だって書ける、ということ」
エピカは、にっこり笑った。
「だから、私が、手伝ってあげる! あなたの白紙に、最初の一行を、書き込むの!」
「どうやって?」
「簡単よ。夢中になれることを、一緒に探すの!」
エピカは、勢いよく立ち上がった。
「さあ、立って、ミウ! 稽古の時間よ!」
*
稽古、と称して始まったのは、それはそれは、賑やかなものだった。
「まず、発声!」
エピカが、切り株の上に仁王立ちして、拳を突き上げる。
「お腹の底から、声を出すのよ! 喉だけで出しちゃだめ! 心の奥から、世界の果てに届けるつもりで、叫ぶの!」
「叫ぶ、の?」
「そう! 私の後に続いて! 『朝は来た!』」
「あ、朝は来た……」
「小さいわ! もっと大きく!」
「朝は来た!」
「まだまだ! 空を揺らすくらいに!」
「朝は、来たー!」
「いいわ、その調子! もう一度!」
延々と、続いた。
最初は、おずおずと、恥ずかしそうに声を出していたミウだったが、何度も繰り返すうちに、少しずつ、肩の力が抜けてきた。喉に空気が通るようになって、声が、草原の向こうへ、すうっと飛んでいくのがわかる。
「朝は、来たーっ!」
「そうよ、それよ!」
エピカが、切り株の上で、ぱちぱちと手を叩いた。
次は、動きの稽古だった。旅人が、丘を駆け下りる場面を、実際に演じるのだ。
「ほら、両手を広げて! 風を受けて、走るの! 世界を抱きしめるみたいに!」
「こう?」
「もっと大きく! もっと、大胆に!」
ミウは、斜面を駆け下りた。ぶかぶかの袖が風をはらんで、帆のように膨らんでいる。足がもつれそうになって、慌ててバランスを取り直して、また駆ける。
草の匂いが、顔にぶつかってきた。
心臓が、どくどくと鳴っている。息が、少し上がってきた。それなのに、不思議と、足を止めたくなかった。
「あははっ」
気がつけば、ミウは、笑っていた。
「あはは、はは!」
自分でも、何がおかしいのか、わからなかった。ただ、胸の奥から、泡のようなものが、ぷくぷくと湧き上がってくる。体が軽い。世界が、ぐるぐる回っている。
「いいわ、いいわ、その顔よ!」
斜面の上から、エピカが叫んだ。
「それが、夢中になっている顔なの!」
「え?」
ミウは、駆け下りた勢いのまま、草の上にどさりと転がった。仰向けになって、青い空を見上げる。雲が、ゆっくりと流れていく。胸が、大きく上下していた。
これが、夢中、ということなのだろうか。
何かに、没頭して、何も考えずに、ただ、体が動くままに、動くこと。
丘で目を覚ましたとき、胸の奥で、小さな火のようなものが揺れていた。あの火は、これと、同じものなのかもしれない。
「ミウ、大丈夫?」
エピカが、斜面を駆け下りてきて、ミウの顔を覗き込んだ。
「怪我しなかった?」
「うん。平気。……ねえ、エピカ」
「なあに?」
「すごく、楽しいね」
ミウが、仰向けのまま言うと、エピカは、ぱちぱちと目を瞬かせた。それから、ぱあっと、顔いっぱいに笑みを広げた。
「でしょう!」
エピカも、ミウの隣に、ばたんと仰向けに倒れ込んだ。
ふたりして、空を見上げる。
息が整うのを待ちながら、ふたりは、どちらからともなく、くすくすと笑い始めた。
*
日が高くなるにつれて、稽古は、さらに熱を帯びていった。
台詞の掛け合い。旅人と、風のような人の、再会の場面。エピカが、風のような人を演じて、ミウが旅人を演じる。
最初のうちは、ミウの台詞は、棒読みだった。けれど、エピカが、何度も何度も、容赦なく、稽古をつけた。
「違うわ! そこは、ただ『ありがとう』じゃないのよ! 声に、胸いっぱいの感謝を乗せるの!」
「感謝を、乗せる」
「そう! あなたは、あの日、本当に、お腹がぺこぺこだったんでしょう? そこで、差し出されたパンの重みを、思い出して!」
ミウは、目を閉じた。
あの日のことを、思い出す。
夕陽。草の匂い。膝が笑って、倒れそうになった瞬間の、肩を支えた細い腕。まだ温かいパンの、ずっしりとした重さ。手のひらから腕へ、じんわりと広がっていった、温もり。
かぶりついた、パンの味。
目の奥が、熱くなったこと。
「……ありがとう」
目を開けて、ミウは、そう言った。
声が、少し、震えていた。
エピカは、一瞬、動きを止めた。それから、ゆっくりと、息を吐き出した。
「……今の、とても、よかったわ」
「そう、かな」
「ええ。本当に」
エピカの声が、いつもの調子とは違って、静かだった。目が、ほんの少し、潤んで見えた。
「それが、本物の台詞よ。ミウ」
「……うん」
「それを、忘れないでね」
ミウは、こくりと頷いた。
何かが、胸の奥で、ことりと音を立てて、動いた気がした。
*
「お二人とも、そろそろお昼の時間よ」
穏やかな声が、背後から聞こえた。
ミウとエピカが振り返ると、庭のほうから、アヤが、籠を提げて歩いてくるところだった。
「あ、アヤ姉さん!」
「やっぱり、帰ってこないと思ったわ。時間を、すっかり忘れていたのね」
アヤは、くすくすと笑いながら、ふたりの前に立った。
改めて見ると、ミウとエピカは、ひどい有様だった。草の汁があちこちに染みて、髪には枯れ草が絡まり、顔にも泥の跳ねがついている。
「あら、まあ。ずいぶん、遊んだのね」
「遊んでたんじゃないわ、稽古よ!」
「ええ、そうね。ごめんなさい。立派な稽古だわ」
アヤは、微笑みながら、籠の蓋を開けた。中には、丸いパンと、茹で卵と、ハムの切れ端、それから水筒が入っていた。
「ここで、食べましょうか」
「ええ! ここで食べるの、最高だわ!」
三人は、斜面の草の上に、籠を広げて座った。
木漏れ日が、まだらな模様になって、膝の上に落ちている。遠くで、小鳥がさえずっていた。ミウは、手渡されたパンをふたつに割って、片方を、エピカに差し出した。
「はい」
「あら、私の分は、あるのに」
「でも、はんぶんこ」
エピカは、少しだけ目を丸くして、それから、にっこり笑って、受け取った。
「ありがとう。……ふふ、これ、第二章に使えそうね」
「使うの?」
「ええ。旅人は、パンを分ける癖がある。それが、物語の、重要な伏線になるのよ」
「伏線……」
ミウが首をかしげると、アヤが、ふっと目を細めた。
「あなたたち、本当に、仲良くなったのね」
「そうよ! だって、私、ミウのことが大好きになったもの!」
エピカが、あっけらかんと言い放つ。
ミウは、思わず、むせかけた。
「え、あ、そ、そう……?」
「そうよ! だって、私の物語を、あんなに真剣に聞いてくれたんだもの。それに、あの『ありがとう』は、本当に、すごかったわ!」
「あ、ありがとう……」
ミウは、頬が熱くなるのを感じて、パンに顔をうずめた。
アヤが、そんなふたりの様子を、いつもの穏やかな眼差しで見つめていた。
*
昼食のあと、アヤは、籠を持って、先に帰っていった。午後は、畑仕事があるのだという。
残されたふたりは、そのまま、斜面の草の上で、のんびりと寝転んでいた。満腹で、体はほかほかと温かい。木漏れ日が、まぶたの上で、ちらちらと揺れている。
「……ねえ、ミウ」
しばらくして、エピカが、ぽつりと口を開いた。
「うん?」
「さっき、言ったでしょう。ミウの中には、白紙のページがたくさんあるって」
「うん」
「私ね、あなたの物語を、書きたいの」
ミウは、隣のエピカのほうへ、顔を向けた。
エピカは、仰向けのまま、まっすぐ空を見上げていた。いつもの騒がしい調子は、すっかりどこかへ消えていた。
「いちばん最初のページから、最後のページまで。ぜんぶ、見届けたいの」
「……最後まで?」
「そう。最後まで」
エピカは、首を巡らせて、ミウのほうを見た。
「ミウが、これから、どんなことを好きになって、どんな人たちと出会って、どんなふうに笑って、どんなふうに泣くのか。私は、それを、ずっと、見ていたいの。そして、全部、物語にして、残しておきたいの」
真剣な瞳だった。
ミウは、何と答えればいいのか、わからなかった。胸の奥が、ぎゅっと、あたたかく、同時に、ほんの少しだけ、ちくりと痛んだ。
「……どうして、そこまで?」
「どうして、かしらね」
エピカは、首をかしげた。
「私にも、よくわからないの。ただ、あなたと一緒にいると、何かが始まる気がするのよ。静かだった湖に、小石が投げ込まれたみたいに」
「小石」
「そう。あなたは、私たち七人の家に、投げ込まれた、小石」
エピカは、くすりと笑った。
「波紋が、どこまで広がっていくのか、見てみたいじゃない」
ミウは、その言葉を、じっと胸の中で反芻した。
小石。波紋。
自分が、誰かの人生に、何かを起こす存在。そんなふうに言われたのは、初めてだった。いや、そもそも、初めても何も、記憶がないのだけれど。
「……うん」
ミウは、小さく頷いた。
「じゃあ、見ててよ。私の物語、最後まで」
「ええ、約束するわ」
エピカは、にっこり笑って、小指を差し出した。
「約束の、しるし」
ミウは、少し戸惑ってから、自分の小指を、そっと絡めた。
ぶかぶかの袖口から、細い指が、のぞいている。
「ゆびきり、げんまん」
「うそついたら、はりせんぼん、のーます」
エピカが、楽しそうに歌った。
ミウも、つられて、小さく口ずさんだ。
「ゆびきった」
ふたりの小指が、離れる。
それだけのことが、なぜか、とても、大切な儀式のように思えた。
*
午後は、ミウが、エピカに、散歩を教える番だった。
と言っても、エピカは、散歩が下手だった。
「あっ、見て! あの雲、竜の形をしているわ!」
「ほんとだ」
「あの岩は、きっと、昔の勇者の墓標よ!」
「そうなの?」
「そうよ! たぶん!」
歩きながら、エピカは、目に映るもの、すべてを、物語に変えていった。道端の花は、囚われた姫君の化身になり、小川は、天の国へ続く銀の橋になり、飛んでいく鳥は、遠い国からの使者になった。
ミウは、そのたびに、感心して頷いた。
「エピカと歩くと、世界が、違って見えるね」
「そうでしょう?」
「うん。私、いつも、見たものを、そのまま見てた。蟻の行列は蟻の行列で、花は花だった。でも、エピカには、それが、全部、違うものに見えてるんだね」
「違うものじゃないわ。もうひとつの、本当の姿なの」
エピカは、胸を張った。
「世界には、見えている形と、見えていない形があるのよ。見えていない形を、言葉にして、掬い上げるのが、物語を作る人の仕事」
「かっこいいね」
「でしょう!」
エピカは、嬉しそうに、くるりとその場で一回転した。
その拍子に、足元の草に、ずるりと、足を取られた。
「わっ」
「あっ、エピカ!」
ミウが、咄嗟に、手を伸ばした。けれど、間に合わない。エピカは、斜面に、ころんと尻餅をついた。
「いたた……」
「大丈夫?」
「ええ、平気よ。ちょっと、お尻を打っただけ」
エピカは、へらっと笑って、立ち上がろうとした。けれど、少し膝がふらついて、またすとんと座り込んでしまった。
「あれ? おかしいわね。足に、力が入らない」
「疲れたんじゃない? あんなにはしゃいだから」
「そうかしら。……そうかもしれないわね」
エピカは、目をこすって、ふあ、と小さなあくびを漏らした。
「なんだか、急に、眠くなってきちゃった。朝から、ずっと動いていたものね」
「帰ろうか」
「ええ、そうね。でも、もう少しだけ、ここで休んでいくわ。ミウも、隣に座って」
「うん」
ミウは、エピカの隣に腰を下ろした。
夕方が、近づいていた。
空の端が、ほんのりと、橙色に染まり始めている。風が、ゆっくりと冷たくなってきた。遠くの林のほうから、鳥たちが、巣に戻っていく声が聞こえる。
「ねえ、ミウ。続きを、聞かせて」
エピカが、眠たげな声で言った。
「物語の、続き。第二章を、私、まだ、書いてないの。ミウの言葉で、続きを聞かせてほしいわ」
「私の言葉で?」
「そう。あなたが、この十日間で、見たこと、感じたこと。教えて」
ミウは、少し考えてから、ゆっくりと語り始めた。
シオンと一緒に、洗濯をしたこと。川の水が、冷たかったこと。クロエと散歩して、秘密の場所を教えてもらったこと——ここは、少しぼかして伝えた。アヤの作る、焼きたてのパンの匂い。ヴィヴィの、鋭いけれど、優しい目。イードの、ふわふわとした寝息。ウイの、袖の陰からのぞく、小さな目。
話しながら、ミウは、気がついた。
たった十日の間に、自分の中には、こんなにも、たくさんのものが、積み重なっている。何もなかったはずの白紙に、ひとつ、またひとつと、確かな文字が、書き込まれていた。
「……それでね」
話し続けようとして、ミウは、ふと、口を閉じた。
隣から、すう、すう、と、規則正しい寝息が聞こえてきたからだ。
エピカは、草の上に、仰向けに倒れていた。目を閉じて、唇を少しだけ開けて、すっかり、眠り込んでいる。さっきまで、あんなに、ぺらぺらと喋っていたのに。
「エピカ?」
小声で呼んでみたが、返事はない。
「……寝ちゃった」
ミウは、くすりと笑った。
それにしても、ずいぶん、あっという間だった。話の途中で、ぷつりと糸が切れるみたいに、眠りに落ちてしまった。
ミウは、首をかしげた。
遊び疲れたのだろう、と思う。朝から、ずっと、あの調子で、はしゃぎ回っていたのだから。そう考えれば、おかしなことではない。
けれど、ほんの一瞬、胸のどこかが、かすかにざわついた。
深い眠りだった。肩を揺すっても、起きそうにない。穏やかな寝顔なのに、どこか、遠くへ行ってしまったみたいに見える。
ミウは、首を振って、その考えを払いのけた。
「……考えすぎ、だね」
夕風が、少し、冷たくなってきた。
ミウは、肩に掛けていた薄い布を、そっと外した。アヤが、初めて会った日に、貸してくれた布だ。ミウは、それを、あれからずっと、大切に使っていた。
布を広げて、エピカの体に、ふわりと掛けてやる。
首元まで、丁寧に。
「風邪、ひかないでね」
小さく囁いて、ミウは、そのまま、エピカの隣に座り続けた。
*
日が、ゆっくりと、傾いていく。
空は、橙から、紫へ。紫から、深い群青へ。西の空には、ひときわ明るい星が、ひとつ、瞬き始めていた。
ミウは、膝を抱えて、その様子を眺めていた。
隣では、エピカが、すやすやと眠っている。時折、何か、寝言のようなものを、むにゃむにゃと呟いていた。耳を澄ますと、物語の、台詞の続きのように聞こえた。
「……ミウ……続き……」
「うん」
ミウは、小さく返事をした。
「ここに、いるよ」
エピカの口元が、ふっと緩んだ。
ミウは、ふと、思い出して、ポケットを探った。さっき、昼食のあとで、エピカがくれたものがあったのだ。
折りたたまれた、一枚の紙。
広げると、そこには、今朝、エピカが朗読してくれた、物語の最初の一頁が、丁寧な文字で書き写されていた。
『丘の旅人と、八つ目の席 第一章』
その下に、小さな文字で、一行、書き添えられている。
——物語は、読んでくれる人がいて、はじめて、生きるの。
ミウは、その一行を、じっと見つめた。
それから、紙を丁寧に畳み直して、胸元にしまった。夜、部屋に戻ったら、記録の紙束の、いちばん上に重ねておこう、と思った。
遠くから、足音が聞こえてきた。
振り返ると、家のほうから、ランプを提げた小さな影が、ゆっくりと近づいてくる。ヴィヴィだった。
「……やっぱり、帰ってきませんでしたわね」
ヴィヴィは、呆れたような声で言った。けれど、ミウの隣で眠っているエピカを見ると、少しだけ、表情が緩んだ。
「眠ってしまったんですの」
「うん。さっき、急に」
「いつもは、もう少し、粘るのですけれど」
ヴィヴィは、ランプを草の上に置いて、エピカの寝顔を覗き込んだ。
「……ミウさんが、布を掛けてくださったの?」
「うん。風が、冷たくなってきたから」
「そうですの」
ヴィヴィは、それ以上、何も言わなかった。
しばらくして、小さな声で言った。
「……ありがとうございます」
ミウは、少し驚いて、ヴィヴィの横顔を見た。
ヴィヴィは、ふいと顔を背けて、咳払いをした。
「べ、別に、お礼を言いに来たわけではありませんわ。迎えに来ただけですの」
「うん。わかってる」
「ですから、変に解釈なさらないでくださいまし」
「うん」
ミウは、にこりと笑った。
ヴィヴィは、ますます困ったように眉を寄せて、それから、ぶっきらぼうに言った。
「エピカ姉さんを、運びますわ。ミウさん、そちらを、持ってくださる?」
「うん」
ふたりは、眠るエピカの両脇を、ゆっくりと支え上げた。
エピカは、起きなかった。むにゃむにゃと、何かをつぶやきながら、ふたりの肩に、ぐったりともたれかかっている。夢の中でも、まだ、舞台に立っているのかもしれない。
家の窓に、ぽつぽつと、橙色の灯りがともっているのが見えた。
ミウは、エピカの重みを肩に感じながら、一歩ずつ、歩いた。
ランプの灯りが、草の上を、ゆらゆらと揺れて、三つの影を、長く伸ばしている。
今日、自分の中に、また、ひとつ、新しいページが増えた。
それは、夢中になること、の楽しさ。誰かの熱に、巻き込まれることの、あたたかさ。
そして、物語は、最後まで見届けてもらえる、という約束。
ミウは、そっと、胸元に手を当てた。
畳んだ紙の、ごわごわとした感触が、布越しに、伝わってきた。