八人目の食卓   作:もちもちほっぺ

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第5話 エピカの熱

 

 朝食の席に、エピカは、満面の笑みで現れた。

 

 寝ぐせのついた髪を撫でつけもせず、紙束を胸に抱え、扉を開け放ったまま、ぴたりと立ち止まる。それから、食卓に着いている全員を、ゆっくりと見渡した。まるで、幕が上がった舞台の中央に立つ役者のように。

 

「みんな、おはよう! 今日という日が来たわ!」

 

「エピカ姉さん、扉を閉めなさいな。風が入りますわ」

 

「ああ、ごめんなさい、ヴィヴィ。でもね、聞いて。私、今日という日を、十日も待ったのよ!」

 

 エピカは、後ろ手で扉を閉めながら、ずんずんと食卓へ近づいてくる。そうして、ミウの丸椅子の前でぴたりと止まり、両手を広げた。

 

「ミウ! 今日は、私の番よ!」

 

「え?」

 

 スープの器を持ったまま、ミウが目を丸くする。

 

「番、って?」

 

「覚えてないの? ヴィヴィが言ったじゃない。私がミウと一緒に歩くのは、ミウが慣れてから、って。もう、十分、慣れたでしょう?」

 

「十日で慣れた、と言えるかどうかは、疑わしいですわ」

 

 ヴィヴィが、パンを千切りながら、冷静に言った。

 

「でも、あなたがこの十日間、毎朝わたくしの顔を見るたびに、順番はまだですの、まだですの、と繰り返していたのも事実ですわね」

 

「そうでしょう? だから、今日こそ、私の番なの!」

 

「……ふぁ……」

 

 テーブルの端で、イードが小さくあくびをした。

 

「……エピカ姉さん……毎朝……うるさかった……」

 

「ひどいわ、イード!」

 

 エピカは、胸を押さえて、大げさによろめいてみせた。それを見て、ウイが、袖で口元を隠してくすっと笑う。

 

「まあまあ」

 

 アヤが、穏やかな声で割って入った。

 

「エピカの気持ちは、よくわかったわ。ミウさんは、どうかしら。エピカと一緒に過ごしてみる気はある?」

 

「うん」

 

 ミウは、スープの器を置いて、頷いた。

 

「私は、いいよ。エピカが、何をするのか、気になるし」

 

「何をするのか、ですって? それはもう、物語よ! ミウ、あなたを、私の物語の旅に連れていくわ!」

 

「物語の、旅」

 

「そう!」

 

 エピカの瞳が、きらきらと輝いている。シオンが、隣で苦笑しながら、ミウに向かって小さく肩をすくめた。

 

「悪い子じゃないから。ちょっと熱が入りすぎるだけで」

 

「うん。知ってる」

 

 ミウも、小声で答えて、くすりと笑った。

 

 それを見ていたヴィヴィが、ふう、と息をついた。

 

「条件がありますわ」

 

「なあに、ヴィヴィ」

 

「行動範囲は、この家の庭と、その先の草原まで。林から向こうへは、行ってはなりませんわ。それと、昼食の時間までには、必ず戻ること。守れまして?」

 

「守る、守る! 約束するわ!」

 

「……エピカ姉さんの約束ほど、あてにならないものはありませんけれど」

 

「ひどいわ、ヴィヴィ!」

 

「ですから、ミウさん」

 

 ヴィヴィは、ちらりと、ミウに視線を向けた。

 

「あなたが、時間を見ていてくださる? この方は、物語に夢中になると、時間を忘れますの」

 

「うん。わかった」

 

 ミウは、真面目な顔で頷いた。

 

 その返事を聞いて、ヴィヴィは、ほんのわずかに、口元を緩めたように見えた。けれど、すぐに、ふいと顔を背けて、自分のスープに視線を落とした。

 

「それなら、よろしいですわ」

 

  *

 

 エピカの案内で連れてこられたのは、庭の奥の、少し開けた空き地だった。

 

 柵の外に出るぎりぎりのところ、野原へと続く緩やかな斜面の手前に、ひとつ、大きな切り株が鎮座している。かつては立派な樫だったのか、切り口の直径は、大人が両腕を広げても届かないほどあった。年輪の細かな筋が、朝の光を受けて、薄い金色に輝いている。

 

「ここが、私の舞台よ」

 

 エピカは、切り株の横に立って、誇らしげに胸を張った。

 

「ほら、見て。ちょうどいい高さでしょう。ここに立つと、世界がよく見えるの。それに、観客席も完璧なのよ」

 

 エピカが指さした先には、草の生い茂った斜面が、緩やかな円を描くように広がっていた。ところどころに、平たい石が埋まっていて、腰を下ろすにはちょうどいい。

 

「観客席、って?」

 

「あなたの席よ、ミウ」

 

 エピカは、ミウの手を取って、斜面の中央にある、いちばん座り心地のよさそうな平石へ導いた。

 

「ここに座って。私が、これから、物語を読むわ。あなたは、最初の観客」

 

「私が、最初の?」

 

「そうよ。まだ、誰にも読んだことがないの。シオン姉さんにだって、まだ、少ししか聞かせていないんだから」

 

 エピカは、胸に抱えた紙束を、そっと撫でた。

 

 ミウは、少し姿勢を正して、石の上に腰を下ろした。ぶかぶかの袖口が、また手の甲まで落ちてくる。それを、無意識のようにまくり上げて、ミウは、顔を上げた。

 

「楽しみにしてる」

 

「ええ。たっぷり、楽しませてあげるわ」

 

 エピカは、ひらりと切り株の上に飛び乗った。

 

 朝日を背にして、すっと背筋を伸ばす。紙束を胸の前に掲げ、ゆっくりと、深呼吸をした。

 

 風が、ふっと止んだ。

 

 エピカが、息を吸い込む。

 

「題して——」

 

 声が、変わった。

 

 さっきまでの、騒がしくて、少し子どもっぽい声ではない。低く、深く、よく通る声だった。空気を震わせて、ミウの胸の奥まで、じかに届いてくるような。

 

「『丘の旅人と、八つ目の席』」

 

 ミウは、思わず息を呑んだ。

 

 エピカは、ゆっくりと、紙の文字を目で追いながら、語り始めた。

 

「それは、夏の初めの、夕暮れのことでした。見渡すかぎりの緑の丘の上で、名前も持たぬ旅人が、ひとり、目を覚ましたのです」

 

 旅人は、自分が誰なのかを知らなかった。どこから来たのかも、どこへ行くのかも。ただ、胃の腑の底が空っぽで、足を前に出すたびに、世界が少しずつ揺れていた。

 

 そのとき、一筋の香ばしい風が、旅人の鼻をくすぐった。

 

 焼きたてのパンの匂い。

 

「旅人は、匂いを辿って、歩き出しました。夕陽に伸びる己の影を、道連れにして」

 

 そこで、エピカは、一拍、間を置いた。

 

 ミウは、気づいた。

 

 これは、自分の話だ。

 

 丘で目覚めて、お腹をすかせて歩いて、アヤに出会った、あの日のこと。エピカは、あの日のことを、アヤやほかの姉妹から聞き集めて、物語に仕立てているのだ。

 

 エピカの語りは、続いた。

 

 旅人が出会った、優しい風のような人。分けてもらったパンの味。見知らぬ家の灯り。七つの視線に迎えられた、夜の扉。

 

 言葉のひとつひとつに、体温があった。聞いているうちに、ミウは、本当に、あの夜の光景を、もう一度見ているような気がしてきた。

 

「食卓には、七つの椅子がありました。けれど、そのどれもが、すでに誰かの席でした。旅人は、立ったまま、立ち尽くしていました」

 

 エピカの声が、ふっと柔らかくなる。

 

「その時、風のような人が、部屋の隅から、小さな丸椅子を運んできたのです。塗りの剥げた、古びた丸椅子を。それは、八つ目の席でした」

 

 ミウは、思わず、自分の膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。

 

「誰も、その席が、これから旅人のものになるとは、まだ、知りませんでした。旅人自身も」

 

 エピカは、そこで、紙から目を上げた。

 

 ミウのほうを、まっすぐに見る。

 

「……と、ここまでが、最初の章なの」

 

 しん、と、辺りが静まった。

 

 ミウは、何か言おうとして、うまく言葉が出てこなかった。喉の奥が、ほんの少し、熱い。

 

「どう、だった?」

 

 エピカが、切り株の上から、そっと問いかけた。さっきまでの朗々とした調子とは違う、ほんの少し、不安の混じった声だった。

 

「……すごい」

 

 やっと、それだけが、口から出た。

 

「本当に、すごかった。自分のことなのに、自分のことじゃないみたいで。聞いてるうちに、胸が、きゅっとなって」

 

「本当?」

 

「うん。エピカは、ほんとに、物語を作る人なんだね」

 

 ミウの言葉に、エピカの顔が、ぱあっと輝いた。

 

「そうでしょう! そうでしょう!」

 

 エピカは、切り株の上で、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。

 

「嬉しいわ! 最初の観客が、ミウで、本当によかった!」

 

  *

 

 けれど、感想を聞き終えたエピカは、ふと、首をかしげた。

 

「でもね。ひとつだけ、気になることがあるの」

 

「気になること?」

 

「物語の主人公の、旅人のことよ」

 

 切り株から降りてきたエピカは、ミウの隣の平石にぺたんと座り込んで、紙束をめくり始めた。

 

「旅人は、ずっと、受け身なの。目を覚まして、歩いて、拾われて、食べさせてもらって。確かに、そういう始まりだったから、間違ってはいないんだけど」

 

 エピカの指が、紙の上で止まる。

 

「でも、物語の主人公には、自分で選んで、自分から動く瞬間が必要なの。何かを、強く望む瞬間が。そうじゃないと、読む人の心は、動かないのよ」

 

「強く、望む……」

 

「そう。ねえ、ミウ。あなたは、何がしたい?」

 

 唐突な問いだった。

 

 ミウは、一瞬、答えに詰まった。

 

「何がしたい、って」

 

「ほら、何でもいいの。やってみたいこと、行ってみたい場所、食べたいもの。何か、胸の奥で、うずうずしているものはない?」

 

 ミウは、しばらく、考え込んだ。

 

 やりたいこと。行ってみたい場所。

 

「……散歩、かな」

 

「散歩!」

 

「うん。どこか知らない場所を、ただ歩くのが、好き」

 

「他には?」

 

「他には……ええと」

 

 ミウは、必死に頭の中を探した。パンを分けるのが好き、というのは、癖であって、やりたいこと、ではない気がする。みんなと一緒にご飯を食べるのは、楽しい。けれど、それは、望むというより、受け取っているものだ。

 

 しばらくして、ミウは、小さく息を吐いた。

 

「……わからない。ごめん」

 

「謝らなくていいのよ」

 

 エピカは、あっさり言った。

 

 そうして、ミウの顔を、じっと覗き込んだ。さっきまでのはしゃいだ笑顔ではなく、ずっと静かな、澄んだ瞳で。

 

「ミウの中には、まだ、書かれていないページがたくさんあるのね」

 

「書かれていない、ページ」

 

「そう。真っ白な紙よ。それは、空っぽ、ということじゃないの。これから、何だって書ける、ということ」

 

 エピカは、にっこり笑った。

 

「だから、私が、手伝ってあげる! あなたの白紙に、最初の一行を、書き込むの!」

 

「どうやって?」

 

「簡単よ。夢中になれることを、一緒に探すの!」

 

 エピカは、勢いよく立ち上がった。

 

「さあ、立って、ミウ! 稽古の時間よ!」

 

  *

 

 稽古、と称して始まったのは、それはそれは、賑やかなものだった。

 

「まず、発声!」

 

 エピカが、切り株の上に仁王立ちして、拳を突き上げる。

 

「お腹の底から、声を出すのよ! 喉だけで出しちゃだめ! 心の奥から、世界の果てに届けるつもりで、叫ぶの!」

 

「叫ぶ、の?」

 

「そう! 私の後に続いて! 『朝は来た!』」

 

「あ、朝は来た……」

 

「小さいわ! もっと大きく!」

 

「朝は来た!」

 

「まだまだ! 空を揺らすくらいに!」

 

「朝は、来たー!」

 

「いいわ、その調子! もう一度!」

 

 延々と、続いた。

 

 最初は、おずおずと、恥ずかしそうに声を出していたミウだったが、何度も繰り返すうちに、少しずつ、肩の力が抜けてきた。喉に空気が通るようになって、声が、草原の向こうへ、すうっと飛んでいくのがわかる。

 

「朝は、来たーっ!」

 

「そうよ、それよ!」

 

 エピカが、切り株の上で、ぱちぱちと手を叩いた。

 

 次は、動きの稽古だった。旅人が、丘を駆け下りる場面を、実際に演じるのだ。

 

「ほら、両手を広げて! 風を受けて、走るの! 世界を抱きしめるみたいに!」

 

「こう?」

 

「もっと大きく! もっと、大胆に!」

 

 ミウは、斜面を駆け下りた。ぶかぶかの袖が風をはらんで、帆のように膨らんでいる。足がもつれそうになって、慌ててバランスを取り直して、また駆ける。

 

 草の匂いが、顔にぶつかってきた。

 

 心臓が、どくどくと鳴っている。息が、少し上がってきた。それなのに、不思議と、足を止めたくなかった。

 

「あははっ」

 

 気がつけば、ミウは、笑っていた。

 

「あはは、はは!」

 

 自分でも、何がおかしいのか、わからなかった。ただ、胸の奥から、泡のようなものが、ぷくぷくと湧き上がってくる。体が軽い。世界が、ぐるぐる回っている。

 

「いいわ、いいわ、その顔よ!」

 

 斜面の上から、エピカが叫んだ。

 

「それが、夢中になっている顔なの!」

 

「え?」

 

 ミウは、駆け下りた勢いのまま、草の上にどさりと転がった。仰向けになって、青い空を見上げる。雲が、ゆっくりと流れていく。胸が、大きく上下していた。

 

 これが、夢中、ということなのだろうか。

 

 何かに、没頭して、何も考えずに、ただ、体が動くままに、動くこと。

 

 丘で目を覚ましたとき、胸の奥で、小さな火のようなものが揺れていた。あの火は、これと、同じものなのかもしれない。

 

「ミウ、大丈夫?」

 

 エピカが、斜面を駆け下りてきて、ミウの顔を覗き込んだ。

 

「怪我しなかった?」

 

「うん。平気。……ねえ、エピカ」

 

「なあに?」

 

「すごく、楽しいね」

 

 ミウが、仰向けのまま言うと、エピカは、ぱちぱちと目を瞬かせた。それから、ぱあっと、顔いっぱいに笑みを広げた。

 

「でしょう!」

 

 エピカも、ミウの隣に、ばたんと仰向けに倒れ込んだ。

 

 ふたりして、空を見上げる。

 

 息が整うのを待ちながら、ふたりは、どちらからともなく、くすくすと笑い始めた。

 

  *

 

 日が高くなるにつれて、稽古は、さらに熱を帯びていった。

 

 台詞の掛け合い。旅人と、風のような人の、再会の場面。エピカが、風のような人を演じて、ミウが旅人を演じる。

 

 最初のうちは、ミウの台詞は、棒読みだった。けれど、エピカが、何度も何度も、容赦なく、稽古をつけた。

 

「違うわ! そこは、ただ『ありがとう』じゃないのよ! 声に、胸いっぱいの感謝を乗せるの!」

 

「感謝を、乗せる」

 

「そう! あなたは、あの日、本当に、お腹がぺこぺこだったんでしょう? そこで、差し出されたパンの重みを、思い出して!」

 

 ミウは、目を閉じた。

 

 あの日のことを、思い出す。

 

 夕陽。草の匂い。膝が笑って、倒れそうになった瞬間の、肩を支えた細い腕。まだ温かいパンの、ずっしりとした重さ。手のひらから腕へ、じんわりと広がっていった、温もり。

 

 かぶりついた、パンの味。

 

 目の奥が、熱くなったこと。

 

「……ありがとう」

 

 目を開けて、ミウは、そう言った。

 

 声が、少し、震えていた。

 

 エピカは、一瞬、動きを止めた。それから、ゆっくりと、息を吐き出した。

 

「……今の、とても、よかったわ」

 

「そう、かな」

 

「ええ。本当に」

 

 エピカの声が、いつもの調子とは違って、静かだった。目が、ほんの少し、潤んで見えた。

 

「それが、本物の台詞よ。ミウ」

 

「……うん」

 

「それを、忘れないでね」

 

 ミウは、こくりと頷いた。

 

 何かが、胸の奥で、ことりと音を立てて、動いた気がした。

 

  *

 

「お二人とも、そろそろお昼の時間よ」

 

 穏やかな声が、背後から聞こえた。

 

 ミウとエピカが振り返ると、庭のほうから、アヤが、籠を提げて歩いてくるところだった。

 

「あ、アヤ姉さん!」

 

「やっぱり、帰ってこないと思ったわ。時間を、すっかり忘れていたのね」

 

 アヤは、くすくすと笑いながら、ふたりの前に立った。

 

 改めて見ると、ミウとエピカは、ひどい有様だった。草の汁があちこちに染みて、髪には枯れ草が絡まり、顔にも泥の跳ねがついている。

 

「あら、まあ。ずいぶん、遊んだのね」

 

「遊んでたんじゃないわ、稽古よ!」

 

「ええ、そうね。ごめんなさい。立派な稽古だわ」

 

 アヤは、微笑みながら、籠の蓋を開けた。中には、丸いパンと、茹で卵と、ハムの切れ端、それから水筒が入っていた。

 

「ここで、食べましょうか」

 

「ええ! ここで食べるの、最高だわ!」

 

 三人は、斜面の草の上に、籠を広げて座った。

 

 木漏れ日が、まだらな模様になって、膝の上に落ちている。遠くで、小鳥がさえずっていた。ミウは、手渡されたパンをふたつに割って、片方を、エピカに差し出した。

 

「はい」

 

「あら、私の分は、あるのに」

 

「でも、はんぶんこ」

 

 エピカは、少しだけ目を丸くして、それから、にっこり笑って、受け取った。

 

「ありがとう。……ふふ、これ、第二章に使えそうね」

 

「使うの?」

 

「ええ。旅人は、パンを分ける癖がある。それが、物語の、重要な伏線になるのよ」

 

「伏線……」

 

 ミウが首をかしげると、アヤが、ふっと目を細めた。

 

「あなたたち、本当に、仲良くなったのね」

 

「そうよ! だって、私、ミウのことが大好きになったもの!」

 

 エピカが、あっけらかんと言い放つ。

 

 ミウは、思わず、むせかけた。

 

「え、あ、そ、そう……?」

 

「そうよ! だって、私の物語を、あんなに真剣に聞いてくれたんだもの。それに、あの『ありがとう』は、本当に、すごかったわ!」

 

「あ、ありがとう……」

 

 ミウは、頬が熱くなるのを感じて、パンに顔をうずめた。

 

 アヤが、そんなふたりの様子を、いつもの穏やかな眼差しで見つめていた。

 

  *

 

 昼食のあと、アヤは、籠を持って、先に帰っていった。午後は、畑仕事があるのだという。

 

 残されたふたりは、そのまま、斜面の草の上で、のんびりと寝転んでいた。満腹で、体はほかほかと温かい。木漏れ日が、まぶたの上で、ちらちらと揺れている。

 

「……ねえ、ミウ」

 

 しばらくして、エピカが、ぽつりと口を開いた。

 

「うん?」

 

「さっき、言ったでしょう。ミウの中には、白紙のページがたくさんあるって」

 

「うん」

 

「私ね、あなたの物語を、書きたいの」

 

 ミウは、隣のエピカのほうへ、顔を向けた。

 

 エピカは、仰向けのまま、まっすぐ空を見上げていた。いつもの騒がしい調子は、すっかりどこかへ消えていた。

 

「いちばん最初のページから、最後のページまで。ぜんぶ、見届けたいの」

 

「……最後まで?」

 

「そう。最後まで」

 

 エピカは、首を巡らせて、ミウのほうを見た。

 

「ミウが、これから、どんなことを好きになって、どんな人たちと出会って、どんなふうに笑って、どんなふうに泣くのか。私は、それを、ずっと、見ていたいの。そして、全部、物語にして、残しておきたいの」

 

 真剣な瞳だった。

 

 ミウは、何と答えればいいのか、わからなかった。胸の奥が、ぎゅっと、あたたかく、同時に、ほんの少しだけ、ちくりと痛んだ。

 

「……どうして、そこまで?」

 

「どうして、かしらね」

 

 エピカは、首をかしげた。

 

「私にも、よくわからないの。ただ、あなたと一緒にいると、何かが始まる気がするのよ。静かだった湖に、小石が投げ込まれたみたいに」

 

「小石」

 

「そう。あなたは、私たち七人の家に、投げ込まれた、小石」

 

 エピカは、くすりと笑った。

 

「波紋が、どこまで広がっていくのか、見てみたいじゃない」

 

 ミウは、その言葉を、じっと胸の中で反芻した。

 

 小石。波紋。

 

 自分が、誰かの人生に、何かを起こす存在。そんなふうに言われたのは、初めてだった。いや、そもそも、初めても何も、記憶がないのだけれど。

 

「……うん」

 

 ミウは、小さく頷いた。

 

「じゃあ、見ててよ。私の物語、最後まで」

 

「ええ、約束するわ」

 

 エピカは、にっこり笑って、小指を差し出した。

 

「約束の、しるし」

 

 ミウは、少し戸惑ってから、自分の小指を、そっと絡めた。

 

 ぶかぶかの袖口から、細い指が、のぞいている。

 

「ゆびきり、げんまん」

 

「うそついたら、はりせんぼん、のーます」

 

 エピカが、楽しそうに歌った。

 

 ミウも、つられて、小さく口ずさんだ。

 

「ゆびきった」

 

 ふたりの小指が、離れる。

 

 それだけのことが、なぜか、とても、大切な儀式のように思えた。

 

  *

 

 午後は、ミウが、エピカに、散歩を教える番だった。

 

 と言っても、エピカは、散歩が下手だった。

 

「あっ、見て! あの雲、竜の形をしているわ!」

 

「ほんとだ」

 

「あの岩は、きっと、昔の勇者の墓標よ!」

 

「そうなの?」

 

「そうよ! たぶん!」

 

 歩きながら、エピカは、目に映るもの、すべてを、物語に変えていった。道端の花は、囚われた姫君の化身になり、小川は、天の国へ続く銀の橋になり、飛んでいく鳥は、遠い国からの使者になった。

 

 ミウは、そのたびに、感心して頷いた。

 

「エピカと歩くと、世界が、違って見えるね」

 

「そうでしょう?」

 

「うん。私、いつも、見たものを、そのまま見てた。蟻の行列は蟻の行列で、花は花だった。でも、エピカには、それが、全部、違うものに見えてるんだね」

 

「違うものじゃないわ。もうひとつの、本当の姿なの」

 

 エピカは、胸を張った。

 

「世界には、見えている形と、見えていない形があるのよ。見えていない形を、言葉にして、掬い上げるのが、物語を作る人の仕事」

 

「かっこいいね」

 

「でしょう!」

 

 エピカは、嬉しそうに、くるりとその場で一回転した。

 

 その拍子に、足元の草に、ずるりと、足を取られた。

 

「わっ」

 

「あっ、エピカ!」

 

 ミウが、咄嗟に、手を伸ばした。けれど、間に合わない。エピカは、斜面に、ころんと尻餅をついた。

 

「いたた……」

 

「大丈夫?」

 

「ええ、平気よ。ちょっと、お尻を打っただけ」

 

 エピカは、へらっと笑って、立ち上がろうとした。けれど、少し膝がふらついて、またすとんと座り込んでしまった。

 

「あれ? おかしいわね。足に、力が入らない」

 

「疲れたんじゃない? あんなにはしゃいだから」

 

「そうかしら。……そうかもしれないわね」

 

 エピカは、目をこすって、ふあ、と小さなあくびを漏らした。

 

「なんだか、急に、眠くなってきちゃった。朝から、ずっと動いていたものね」

 

「帰ろうか」

 

「ええ、そうね。でも、もう少しだけ、ここで休んでいくわ。ミウも、隣に座って」

 

「うん」

 

 ミウは、エピカの隣に腰を下ろした。

 

 夕方が、近づいていた。

 

 空の端が、ほんのりと、橙色に染まり始めている。風が、ゆっくりと冷たくなってきた。遠くの林のほうから、鳥たちが、巣に戻っていく声が聞こえる。

 

「ねえ、ミウ。続きを、聞かせて」

 

 エピカが、眠たげな声で言った。

 

「物語の、続き。第二章を、私、まだ、書いてないの。ミウの言葉で、続きを聞かせてほしいわ」

 

「私の言葉で?」

 

「そう。あなたが、この十日間で、見たこと、感じたこと。教えて」

 

 ミウは、少し考えてから、ゆっくりと語り始めた。

 

 シオンと一緒に、洗濯をしたこと。川の水が、冷たかったこと。クロエと散歩して、秘密の場所を教えてもらったこと——ここは、少しぼかして伝えた。アヤの作る、焼きたてのパンの匂い。ヴィヴィの、鋭いけれど、優しい目。イードの、ふわふわとした寝息。ウイの、袖の陰からのぞく、小さな目。

 

 話しながら、ミウは、気がついた。

 

 たった十日の間に、自分の中には、こんなにも、たくさんのものが、積み重なっている。何もなかったはずの白紙に、ひとつ、またひとつと、確かな文字が、書き込まれていた。

 

「……それでね」

 

 話し続けようとして、ミウは、ふと、口を閉じた。

 

 隣から、すう、すう、と、規則正しい寝息が聞こえてきたからだ。

 

 エピカは、草の上に、仰向けに倒れていた。目を閉じて、唇を少しだけ開けて、すっかり、眠り込んでいる。さっきまで、あんなに、ぺらぺらと喋っていたのに。

 

「エピカ?」

 

 小声で呼んでみたが、返事はない。

 

「……寝ちゃった」

 

 ミウは、くすりと笑った。

 

 それにしても、ずいぶん、あっという間だった。話の途中で、ぷつりと糸が切れるみたいに、眠りに落ちてしまった。

 

 ミウは、首をかしげた。

 

 遊び疲れたのだろう、と思う。朝から、ずっと、あの調子で、はしゃぎ回っていたのだから。そう考えれば、おかしなことではない。

 

 けれど、ほんの一瞬、胸のどこかが、かすかにざわついた。

 

 深い眠りだった。肩を揺すっても、起きそうにない。穏やかな寝顔なのに、どこか、遠くへ行ってしまったみたいに見える。

 

 ミウは、首を振って、その考えを払いのけた。

 

「……考えすぎ、だね」

 

 夕風が、少し、冷たくなってきた。

 

 ミウは、肩に掛けていた薄い布を、そっと外した。アヤが、初めて会った日に、貸してくれた布だ。ミウは、それを、あれからずっと、大切に使っていた。

 

 布を広げて、エピカの体に、ふわりと掛けてやる。

 

 首元まで、丁寧に。

 

「風邪、ひかないでね」

 

 小さく囁いて、ミウは、そのまま、エピカの隣に座り続けた。

 

  *

 

 日が、ゆっくりと、傾いていく。

 

 空は、橙から、紫へ。紫から、深い群青へ。西の空には、ひときわ明るい星が、ひとつ、瞬き始めていた。

 

 ミウは、膝を抱えて、その様子を眺めていた。

 

 隣では、エピカが、すやすやと眠っている。時折、何か、寝言のようなものを、むにゃむにゃと呟いていた。耳を澄ますと、物語の、台詞の続きのように聞こえた。

 

「……ミウ……続き……」

 

「うん」

 

 ミウは、小さく返事をした。

 

「ここに、いるよ」

 

 エピカの口元が、ふっと緩んだ。

 

 ミウは、ふと、思い出して、ポケットを探った。さっき、昼食のあとで、エピカがくれたものがあったのだ。

 

 折りたたまれた、一枚の紙。

 

 広げると、そこには、今朝、エピカが朗読してくれた、物語の最初の一頁が、丁寧な文字で書き写されていた。

 

『丘の旅人と、八つ目の席 第一章』

 

 その下に、小さな文字で、一行、書き添えられている。

 

 ——物語は、読んでくれる人がいて、はじめて、生きるの。

 

 ミウは、その一行を、じっと見つめた。

 

 それから、紙を丁寧に畳み直して、胸元にしまった。夜、部屋に戻ったら、記録の紙束の、いちばん上に重ねておこう、と思った。

 

 遠くから、足音が聞こえてきた。

 

 振り返ると、家のほうから、ランプを提げた小さな影が、ゆっくりと近づいてくる。ヴィヴィだった。

 

「……やっぱり、帰ってきませんでしたわね」

 

 ヴィヴィは、呆れたような声で言った。けれど、ミウの隣で眠っているエピカを見ると、少しだけ、表情が緩んだ。

 

「眠ってしまったんですの」

 

「うん。さっき、急に」

 

「いつもは、もう少し、粘るのですけれど」

 

 ヴィヴィは、ランプを草の上に置いて、エピカの寝顔を覗き込んだ。

 

「……ミウさんが、布を掛けてくださったの?」

 

「うん。風が、冷たくなってきたから」

 

「そうですの」

 

 ヴィヴィは、それ以上、何も言わなかった。

 

 しばらくして、小さな声で言った。

 

「……ありがとうございます」

 

 ミウは、少し驚いて、ヴィヴィの横顔を見た。

 

 ヴィヴィは、ふいと顔を背けて、咳払いをした。

 

「べ、別に、お礼を言いに来たわけではありませんわ。迎えに来ただけですの」

 

「うん。わかってる」

 

「ですから、変に解釈なさらないでくださいまし」

 

「うん」

 

 ミウは、にこりと笑った。

 

 ヴィヴィは、ますます困ったように眉を寄せて、それから、ぶっきらぼうに言った。

 

「エピカ姉さんを、運びますわ。ミウさん、そちらを、持ってくださる?」

 

「うん」

 

 ふたりは、眠るエピカの両脇を、ゆっくりと支え上げた。

 

 エピカは、起きなかった。むにゃむにゃと、何かをつぶやきながら、ふたりの肩に、ぐったりともたれかかっている。夢の中でも、まだ、舞台に立っているのかもしれない。

 

 家の窓に、ぽつぽつと、橙色の灯りがともっているのが見えた。

 

 ミウは、エピカの重みを肩に感じながら、一歩ずつ、歩いた。

 

 ランプの灯りが、草の上を、ゆらゆらと揺れて、三つの影を、長く伸ばしている。

 

 今日、自分の中に、また、ひとつ、新しいページが増えた。

 

 それは、夢中になること、の楽しさ。誰かの熱に、巻き込まれることの、あたたかさ。

 

 そして、物語は、最後まで見届けてもらえる、という約束。

 

 ミウは、そっと、胸元に手を当てた。

 

 畳んだ紙の、ごわごわとした感触が、布越しに、伝わってきた。

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