八人目の食卓   作:もちもちほっぺ

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第6話 ヴィヴィと母なる樹

 

 夜明け前の廊下は、石の床が足の裏に冷たい。

 

 ヴィヴィは、小さなランプを片手に、足音を殺して歩いていた。寝間着の裾が、床をかすかに擦る音だけが、静まり返った家の中に落ちていく。

 

 向かう先は、エピカ姉さんの部屋だった。

 

 昨夜、エピカ姉さんは、ミウさんと一緒に帰ってきてから、一度も目を覚まさなかった。夕食も取らず、寝台に運ばれてからも、ぴくりとも動かなかった。それが気にかかって、ヴィヴィは、夜のうちに何度も、扉の隙間から様子をうかがいに来ていた。

 

 そっと扉を開ける。

 

 寝台の上で、エピカ姉さんは、昨日と同じ姿勢のまま、すうすうと寝息を立てていた。布団の上には、見覚えのある薄い布が、丁寧に掛けられている。ミウさんが、初めてこの家に来た日に、アヤ姉さんから借りたという布だった。

 

 ヴィヴィは、ランプを床に置いて、寝台の傍らの椅子に腰を下ろした。

 

 エピカ姉さんの顔を、じっと見つめる。

 

 穏やかな寝顔だった。熱もなさそうだし、息も乱れていない。ただ、眠っているだけに見える。それなのに、胸のあたりに、冷たい小石を飲み込んだような、重たい感覚が居座っていた。

 

 エピカ姉さんは、昔から、よく寝る人ではなかった。夜更かしをして台本を書いては、朝、寝ぼけ眼で食卓に現れる。そんな人だった。それが、ここ数日、妙に早く眠りに落ちることが増えている。昨夜のように、話の途中でぷつりと糸が切れたみたいに眠ってしまうのは、初めてだったけれど。

 

 ……気のせいですわ。

 

 ヴィヴィは、自分に言い聞かせた。

 

 はしゃいだ一日だったのだ。疲れて、よく眠った。それだけのこと。誰だって、そういう日はある。

 

 けれど、頭の隅では、別の声が囁いていた。

 

 では、なぜ、わたくしは、こんな時間に、ここにいますの。

 

「……ん……」

 

 寝台の上で、エピカ姉さんが、もぞりと身じろぎした。

 

 ヴィヴィは、はっとして背筋を伸ばした。

 

「……あれ……?」

 

 ぼんやりと、エピカ姉さんの瞼が持ち上がる。焦点の合わない目が、ゆっくりと天井を巡って、それから、傍らの椅子に座るヴィヴィの顔に、たどり着いた。

 

「……ヴィヴィ?」

 

「おはようございます、エピカ姉さん」

 

「あら……朝……?」

 

「まだ、夜明け前ですわ」

 

「そう……私、いつの間に、寝ちゃったのかしら……」

 

 エピカ姉さんは、むにゃむにゃと目をこすって、それから、はっとしたように跳ね起きた。

 

「そうよ、ミウは? 私、ミウに、第二章の続きを聞かせてもらうところで」

 

「ミウさんなら、ご自分のお部屋で、ちゃんとお休みですわ。エピカ姉さんを、わたくしと一緒に、ここまで運んでくださいましたのよ」

 

「まあ……そうだったの」

 

 エピカ姉さんは、肩にかかった薄い布に気づいて、そっと指先で撫でた。

 

「これ、ミウの布ね。……優しい子だわ」

 

「ええ。まあ」

 

 ヴィヴィは、曖昧に頷いた。

 

「寝言で、第二章を、三度も朗読していらっしゃいましたわよ。そのたびに、ミウさんの名前が出てきて」

 

「えっ、本当? 恥ずかしいわ」

 

「ですから、さっさと、お休みくださいまし。まだ、夜は明けていませんもの」

 

「ええ。そうするわ」

 

 エピカ姉さんは、素直に布団にもぐり込んだ。それから、ふと、ヴィヴィのほうを、薄目で見上げた。

 

「ヴィヴィ。心配、してくれたの?」

 

「……さあ、どうでしょう」

 

「ありがとう」

 

「お礼を言われる筋合いは、ありませんわ」

 

 ヴィヴィは、ぷいと顔を背けて、立ち上がった。

 

 扉を閉める直前、背後から、再び規則正しい寝息が聞こえ始めたのを、確かめた。

 

 廊下に出て、ランプの光を見つめながら、ヴィヴィは、ゆっくりと息を吐いた。

 

 大丈夫、と、もう一度、自分に言い聞かせる。

 

 けれど、胸の小石は、消えなかった。

 

  *

 

 朝食の席で、ヴィヴィは、淡々と告げた。

 

「今日は、わたくしが、ミウさんをお預かりしますわ」

 

 食卓が、ぴたりと静まった。

 

 スープを啜っていたシオン姉さんの手が止まる。パンを口に運びかけていたクロエが、目を丸くした。イードですら、半分閉じていた瞼を、うっすらと持ち上げた。

 

「……ヴィヴィ姉さんが?」

 

 クロエが、呆然と呟く。

 

「ええ」

 

「ミウと? 一日?」

 

「ええ。何か、問題でも?」

 

「いや、問題っていうか」

 

 クロエは、シオン姉さんと顔を見合わせた。

 

「あれだけ、疑ってたのに」

 

「疑っているから、ですわ」

 

 ヴィヴィは、きっぱりと答えた。

 

「十日以上、お預かりして、シオン姉さんやエピカ姉さんやクロエが、順番にお世話をしてきましたけれど、わたくしだけ、まだ、ミウさんのことを、ちゃんと見ていませんもの。見張りの務めを、怠っていたのは、わたくしのほうですわ」

 

「見張りって、言い切ったわね」

 

「事実ですもの」

 

 ヴィヴィは、ミウのほうへ視線を向けた。

 

 ミウは、丸椅子の上で、スプーンを持ったまま、きょとんとした顔でこちらを見ている。昨日、一日中草原を駆け回ったせいで、頬が少し日に焼けていた。

 

「ミウさん。よろしくて?」

 

「うん。もちろん」

 

 ミウは、にこりと笑って、頷いた。

 

「ヴィヴィと一日、過ごせるの、嬉しい」

 

「……嬉しい、ですって?」

 

「うん。ヴィヴィのこと、もっと知りたかったから」

 

 あまりにも、素直な返事だった。

 

 ヴィヴィは、一瞬、言葉を失った。それから、慌てて咳払いをして、視線を逸らした。

 

「べ、別に、親睦を深めるためではありませんのよ。あくまで、見張りですの」

 

「うん。わかってる」

 

「でしたら、結構ですわ」

 

 その様子を、アヤ姉さんが、にこにこと、いつもの穏やかな眼差しで見つめていた。

 

「ヴィヴィが、ミウさんと過ごしてくれるなんて、嬉しいわ」

 

「アヤ姉さん、勘違いなさらないでくださいまし。見張りですわ、見張り」

 

「ええ、わかっているわ」

 

 アヤ姉さんは、ちっともわかっていなさそうな顔で、頷いた。

 

  *

 

 家の裏手の丘を、石段が、ゆるやかに登っている。

 

 もともとは、誰かが積んだものなのだろう。白っぽい平たい石が、一段一段、不揃いに並んでいて、隙間から小さな野草が顔をのぞかせていた。朝露を含んだ草が、石の縁を濡らして、ところどころ、滑りやすくなっている。

 

「足元に、お気をつけなさいな」

 

 ヴィヴィは、振り返らずに言った。

 

「うん。ありがとう」

 

 背後から、ミウの声が返ってくる。

 

 ヴィヴィの左手には、白いレースの布を掛けた籠が提げられている。中には、ポットとカップ、小さな砂糖壺、それから、昨日焼いたばかりの焼き菓子が入っていた。ミウのほうは、折りたたみの小さな腰掛けを二つ、両腕に抱えている。

 

「この階段、いつも登ってるの?」

 

「ええ。ほとんど毎日ですわ」

 

「毎日?」

 

「午後のお茶を、いただきに」

 

 そっけなく答えると、ミウは、感心したように声を上げた。

 

「へえ。ヴィヴィは、お茶が好きなんだね」

 

「好き、というより、習慣ですわ。誰にも邪魔されずに、静かに過ごせる時間が、必要ですの」

 

「そっか。その時間に、私を連れてきてくれるんだ」

 

「……見張りのため、ですわ」

 

「うん」

 

 ミウは、くすくすと、笑った。

 

 ヴィヴィは、聞こえなかったふりをして、先へ進んだ。

 

 石段を登りきると、そこは、小さな平らな高台になっていた。草が刈り込まれ、真ん中に、苔むした大きな石のテーブルが、どっしりと据えられている。周囲には、低い石垣が、ぐるりと巡らされていた。

 

 そして、石垣の向こうには、広い空と、大地が、どこまでも続いていた。

 

「わあ……」

 

 ミウが、思わず息を呑んだ。

 

 眼下に広がる緑の丘陵。その合間を縫うように流れる、銀色の細い川。遠くには、灰青色の山並みが、薄い霞の中に、幾重にも重なって見える。今朝は、よく晴れていた。空気が澄んでいて、視界がどこまでも遠くへ通っていく。

 

「すごい。家が、あんなに小さい」

 

「ええ。ここからは、全部が、見渡せますの」

 

 ヴィヴィは、籠を石のテーブルに置いて、レースの布を外した。慣れた手つきで、ポットとカップを並べていく。陶器の肌が、朝の光を受けて、柔らかな乳白色に輝いた。

 

 ミウは、腰掛けをふたつ並べて、きょろきょろと周りを見回している。

 

「ヴィヴィ、手伝うことある?」

 

「結構ですわ。座っていらして」

 

「でも」

 

「座っていらして、と申し上げましたのよ」

 

 ヴィヴィは、ポットに湯を注ぎながら、ぴしゃりと言った。

 

 ミウは、素直に腰掛けに座った。膝の上で、手を揃えて、こちらをじっと見ている。

 

 その視線が、背中にこそばゆかった。

 

 ヴィヴィは、ことさらにゆっくりと、お茶の支度を進めた。茶葉を蒸らす時間。カップを温める順序。注ぐ高さ。どれも、幼い頃から、体に染みついた作法だった。誰かに教わったのか、自分で覚えたのか、もう、はっきりとは思い出せない。ただ、こうしてお茶を淹れていると、ささくれ立った気持ちが、少しだけ、凪いでくる。

 

「どうぞ」

 

 ヴィヴィは、白いカップを、ミウの前に置いた。

 

 淡い琥珀色の液体から、柔らかな湯気が立ちのぼっている。甘い、花のような香りが、ふわりと漂った。

 

「いただきます」

 

 ミウは、両手でカップを持ち上げようとした。

 

「お待ちなさい」

 

「え?」

 

「カップの持ち方が、なっていませんわ」

 

 ヴィヴィは、眉をひそめて、ミウの手元を指さした。

 

「両手で包み込むようにして飲むのは、寒い日の、お家でのことですわ。お茶の席では、右手の指で取っ手を、軽くつまむのです。それから、左手は、ソーサーに添えますの」

 

「こう?」

 

「違いますわ。親指と人差し指で、取っ手を挟んで。中指は、下から支えるように」

 

「こ、こう?」

 

「もう少し、肘を引いて」

 

「え、肘?」

 

「それでは、飲むときに、カップが傾きすぎますわ」

 

 ミウは、ぎこちなく、カップを持ち上げた。ぶかぶかの袖口が、何度も落ちてきて、そのたびに手がもたつく。ヴィヴィは、ため息をついて、立ち上がると、ミウの背後に回った。

 

「失礼」

 

 ミウの手の上に、自分の手を重ねる。細い指の位置を、ひとつひとつ、直してやる。ミウの手は、小さくて、ほんの少し冷たかった。

 

「ここを、こう。そう。……いいですわ」

 

「ありがとう。なんだか、ヴィヴィが先生みたい」

 

「先生ではありませんわ。ただ、見ていられないだけですの」

 

 そう言いながらも、ヴィヴィは、直した指の位置を確認して、満足げに頷いた。

 

 ミウは、慎重に、カップを口元へ運んだ。

 

 ひとくち、飲む。

 

「……おいしい」

 

 目を丸くして、呟いた。

 

「甘くて、ちょっと花の香りがして、でも、あとに残らない。すごく、きれいな味」

 

「当然ですわ。わたくしが、淹れましたもの」

 

「うん。ヴィヴィは、すごいね」

 

「……」

 

 ヴィヴィは、ふいと目を逸らして、自分のカップを手に取った。

 

 褒められるのは、悪い気分ではない。けれど、この子の「すごい」は、いつも、あまりにも、真っ直ぐで、受け止めるのに、少しだけ、勇気が要る。

 

 お茶を、ゆっくりと啜る。熱い液体が、喉を通って、胸の奥まで、落ちていった。

 

  *

 

 石のテーブルの上には、焼き菓子の皿が置かれていた。小さな丸いビスケットが、きれいに円を描いて並んでいる。

 

 ミウは、そのひとつを手に取って、ふと、動きを止めた。

 

 それから、ビスケットを、ぱきりと二つに割る。

 

 片方を、ヴィヴィのほうへ、そっと差し出した。

 

「はい。はんぶん」

 

「……またですの」

 

「うん。ごめん。癖で」

 

 ミウは、少し照れたように笑った。

 

「でも、今日は、ヴィヴィが焼いたものだから。毒なんて、入ってないよね」

 

「当たり前ですわ!」

 

 ヴィヴィは、思わず声を上げた。

 

「わたくしが、そんなものを入れるはずがありませんでしょう」

 

「うん。だから、安心して食べられるなって」

 

「……」

 

 ヴィヴィは、ミウの顔を、じっと睨んだ。

 

 けれど、ミウは、悪びれもなく、にこにこと、半分に割ったビスケットを差し出したままだった。昨日の夜の、食卓での出来事が、ふと蘇る。毒見のつもりか、と問い詰めたこと。ミウが、素直に頷いて、謝ったこと。

 

「……いただきますわ」

 

 ヴィヴィは、ビスケットの片割れを、ひったくるように受け取った。

 

「毒見の、つもりですのよ。念のため、ですわ」

 

「うん」

 

「あなたが、わたくしの焼いたものに、何か、仕込んでいないとも限りませんもの」

 

「うん。確かめてみて」

 

 ミウは、素直に頷いた。

 

 ヴィヴィは、ビスケットを、ひと口かじった。バターの甘さと、ほろほろとした食感。自分で焼いたものなのだから、味は、わかっている。何も、おかしなところはない。

 

 ない、のだけれど。

 

「……問題、ありませんわ」

 

「よかった」

 

 ミウが、嬉しそうに笑う。

 

 ヴィヴィは、残りのビスケットを、黙って食べきった。自分の手の中で、誰かが分けてくれたものを食べるのは、不思議な味がした。

 

 そのとき、ふっと、風が吹いた。

 

 高台の草が、ざわざわと揺れ、雲の切れ間から、強い陽光が差し込む。一瞬の眩しさに、ヴィヴィは目を細め、それから、視線を、遠くへ向けた。

 

 地平線の彼方。

 

 淡い青灰色の山並みの、さらに向こう。霞の底に、ぼんやりと、巨大な影が浮かび上がっていた。

 

「あれ?」

 

 ミウが、ヴィヴィの視線を追って、指をさした。

 

「あの、遠くに見える、大きな影。山、じゃないよね」

 

「……ええ」

 

 ヴィヴィは、小さく頷いた。

 

「あれは、樹ですわ」

 

「木? あんなに、大きいの?」

 

「ええ。世界樹、と呼ばれていますの。この世界を支えている樹で……わたくしたち姉妹にとっては、母ですわ」

 

 口に出した途端、胸の奥が、きゅっと冷たくなった。

 

「お母さん?」

 

 ミウが、目を丸くして、聞き返した。

 

「あの樹が?」

 

「ええ。わたくしたちは、そう呼んでいますの。アヤ姉さんも、シオン姉さんも、エピカ姉さんも、クロエも、イードも、ウイも。皆さん、あの樹を、母と思っていますわ」

 

 ヴィヴィは、淡々と、語った。

 

 けれど、自分の声が、少し固くなっていることに、気づいていた。

 

「そうなんだ。みんなのお母さん。……すごいね。そんなに、大きなお母さんなんだ」

 

 ミウは、世界樹の影を、じっと見つめていた。霞の向こうで、その輪郭は、巨大な何かが、静かに息づいているかのように、わずかに揺れて見えた。

 

「ヴィヴィは、お母さんのこと、好き?」

 

 唐突な質問だった。

 

 ヴィヴィは、答えようとして、言葉に詰まった。

 

 しばらく、風の音だけが、高台を満たした。

 

「……敬ってはいますわ」

 

 やがて、低い声で言った。

 

「母ですもの。わたくしたちが、こうして暮らせているのも、母のおかげだと、教えられてきましたし、それは、きっと、本当のことなのでしょう」

 

「うん」

 

「けれど」

 

 ヴィヴィは、言葉を、慎重に選んだ。

 

「好き、かと問われると、わたくしは、すぐには、頷けませんの」

 

 ミウは、何も言わなかった。ただ、静かに、続きを待っていた。

 

「あら、言ってしまいましたわね。こんなことを、見ず知らずの方に」

 

「見ず知らずじゃないよ。もう、十日以上、一緒にいるよ」

 

「そう、でしたわね」

 

 ヴィヴィは、苦笑を漏らした。

 

「理由を、聞いても、いい?」

 

「聞いて、どうなさいますの」

 

「どうもしない。ただ、聞きたいだけ」

 

 ミウは、まっすぐ、ヴィヴィを見ていた。

 

 その目には、好奇心とも、同情とも違う、静かな色があった。詮索するのではなく、ただ、そこにある言葉を、受け取る用意だけをして、待っている。そんな眼差しだった。

 

 ヴィヴィは、しばらく、ためらった。

 

 それから、遠くの影から目を離さないまま、ゆっくりと、口を開いた。

 

「お母様は、わたくしたちを、慈しんでくださっていますわ。それは、疑っていませんの」

 

「うん」

 

「でも、お母様は、一度でも、わたくしたちに、尋ねたことがありまして?」

 

「尋ねる?」

 

「何を、望むのか。どう、生きたいのか。何を、守ってほしいのか。……お母様は、何も、尋ねませんの。ただ、決めますのよ。何が必要で、何が不要か。何を残して、何を、手放すべきか。わたくしたちの意思とは、関わりなく」

 

 ヴィヴィの指が、カップの縁を、強く握りしめていた。

 

「愛されている、ということと、決められている、ということは、違いますわ。わたくしは、その違いが、どうしても、飲み込めませんの」

 

 ミウは、何も言わなかった。

 

 ただ、小さく、頷いた。

 

「それに」

 

 ヴィヴィの声が、少し、揺れた。

 

「お母様は、見守っていますの。ずっと。遠くから、わたくしたちのことを。どこにいても、何をしていても。皆さんは、それを、温かいことだと、仰いますけれど」

 

「……ヴィヴィは、違うの?」

 

「わたくしには、時々、見張られているように、感じられますの」

 

 吐き出すように、言った。

 

「大切なものを、わたくしの手の届かないところで、勝手に、扱われているような気がして。わたくしには、何の相談もなく。……それが、腹立たしいのですわ」

 

 ふと、昨夜の、エピカ姉さんの寝顔が、脳裏をよぎった。

 

 話の途中で、ぷつりと糸が切れたように眠ってしまった、あの顔。肩を揺すっても、起きなかった、あの深い眠り。

 

 ヴィヴィは、ぎゅっと唇を噛んだ。

 

 何を考えているのだろう。そんなことが、母と、関係あるはずがない。母が、姉さんたちに、何かをなさるはずがない。ただの、思い過ごしだ。疲れていただけだ。

 

「ヴィヴィ」

 

 ミウの、静かな声が、聞こえた。

 

「うん。聞いてるよ」

 

 それだけだった。

 

 慰めも、助言も、反論も、なかった。ただ、「聞いている」という事実だけを、そっと、手渡されたようだった。

 

 ヴィヴィは、はっとして、ミウを見た。

 

 ミウは、世界樹の影を、静かに見つめていた。その横顔は、いつもの、無邪気な笑顔とは違っていた。何かを、深く、考えているような、遠い目をしていた。

 

「……こんなことを、話すつもりでは、ありませんでしたのに」

 

 ヴィヴィは、気まずさを隠すように、カップに口をつけた。

 

「忘れてくださいまし」

 

「忘れないよ」

 

「え?」

 

「ヴィヴィが話してくれたこと、ちゃんと、覚えておく」

 

 ミウは、振り向いて、にこりと笑った。

 

「大事なことだと思うから」

 

 ヴィヴィは、何か言い返そうとして、結局、口を閉じた。

 

 喉の奥が、少しだけ、熱かった。

 

「……変な方ですこと」

 

「うん。よく言われる」

 

「ほめて、いませんのよ」

 

「うん。でも、嬉しいよ」

 

 ミウは、残りのお茶を、ゆっくりと飲み干した。

 

 ヴィヴィは、そっぽを向いたまま、自分の空いたカップに、もう一杯、お茶を注いだ。手が、ほんのわずか、震えていた。

 

  *

 

 空模様が変わったのは、昼を少し回った頃だった。

 

 いつの間にか、遠くの山並みの上に、黒い雲の塊が、むくむくと育っていた。風の匂いが、湿った土の匂いに変わり、頬を撫でる空気が、ひんやりと重くなる。さっきまで眩しかった陽光が、ふっと陰った。

 

「あ」

 

 ミウが、空を見上げた。

 

「雨、降りそう」

 

「ええ。急いで、片付けましょう」

 

 ヴィヴィは、手際よく、ポットとカップを籠に戻した。ミウも、腰掛けを抱えて、慌てて手伝う。

 

 石段を、駆け下りようとしたとき、最初の一粒が、頬に落ちた。

 

 ぽつり。

 

 ぽつ、ぽつ、ぽつ。

 

 あっという間に、大粒の雨が、石段を叩き始めた。

 

「走りますわよ!」

 

「うん!」

 

 ふたりは、駆けた。滑りやすい石段を、足を取られないように気をつけながら、一段ずつ、慎重に。雨が、容赦なく、髪や肩を濡らしていく。籠の中のカップが、がちゃがちゃと、危なっかしい音を立てた。

 

 途中で、ミウが、ふいに、ヴィヴィの頭上に、何かを掲げた。

 

 それは、肩に掛けていた、あの薄い布だった。

 

「ミウさん?」

 

「濡れちゃうから、これ、使って」

 

「あなたが、濡れますわ!」

 

「いいよ。私は、平気」

 

 ミウは、布をヴィヴィの頭の上に広げたまま、にこっと笑った。

 

 その言い方が、ふと、誰かの言葉と重なった。

 

 ——私は、平気。

 

 以前、シオン姉さんが、ミウは冷たい水にも、痛みにも、あまり気を払わない、と、心配そうに話していたことがあった。

 

 ヴィヴィは、眉をひそめた。

 

「平気、ではありませんでしょう。風邪をひきますわよ」

 

「大丈夫。ほら、早く」

 

 ミウに押されるようにして、ヴィヴィは、布の下を駆け抜けた。

 

 家の軒先に飛び込んだときには、ふたりとも、すっかり濡れ鼠になっていた。ヴィヴィのほうは、布のおかげで、髪の頭頂部と肩の一部が濡れただけで済んでいる。けれど、ミウは、頭のてっぺんから靴の先まで、ずぶ濡れだった。

 

 若草色のワンピースの裾から、ぽたぽたと、水滴が落ちている。

 

「すごい雨だね」

 

 ミウは、髪を絞りながら、のんきな声で言った。

 

「あなた、ご自分の心配を、少しは、なさいな」

 

 ヴィヴィは、棚から乾いた布を取ってきて、ミウの頭に、ばさりと被せた。

 

「拭いてくださいまし。それから、すぐに、着替えを」

 

「うん。ありがとう」

 

「お礼は、結構ですわ。見張りの務めですもの」

 

 乱暴な口調で言いながらも、ヴィヴィは、ミウの髪を、布の上から、ごしごしと拭いてやっていた。

 

 ミウは、されるがままに、じっとしていた。布の下から、小さな声が聞こえる。

 

「ヴィヴィの手、あったかいね」

 

「……雨で、冷えていますのよ。そんなはずありませんわ」

 

「ううん。あったかい」

 

 ヴィヴィは、手を止めて、ミウの顔を見下ろした。

 

 濡れた前髪の間から、丸い目が、こちらを見上げている。そこには、屈託のない、穏やかな光が宿っていた。

 

 その目を見ているうちに、胸の中の何かが、ことりと、音を立てて動いた。

 

 警戒していたはずだった。疑っていたはずだった。この子が、何者なのか。何を、望んでいるのか。この家に、何をもたらすのか。

 

 けれど、この数時間で、わかってしまったことがある。

 

 この子は、人の話を、最後まで聞く。

 

 笑って誤魔化したり、自分の考えを押しつけたりせずに、ただ、そこにある言葉を、受け取ってくれる。たったそれだけのことが、どれほど、難しくて、貴重なことか、ヴィヴィは、知っていた。

 

「……ミウさん」

 

「うん?」

 

「さっきの話は、他の方には、内緒にしてくださいまし」

 

「お母さんのこと?」

 

「ええ。特に、アヤ姉さんには」

 

 ミウは、ぱちくりと目を瞬かせた。

 

「アヤ姉さんに、知られたくないの?」

 

「アヤ姉さんは、お母様を、誰よりも深く、慕っていらっしゃいますもの」

 

 ヴィヴィは、ミウの頭から、乾いた布を外した。

 

「わたくしが、お母様のことを、疑うような気持ちを抱えていると知ったら。……アヤ姉さんは、きっと、悲しみますわ」

 

「そっか」

 

 ミウは、しばらく、考えるように黙っていた。

 

 それから、ゆっくりと、頷いた。

 

「わかった。内緒にする」

 

「約束、してくださいますの?」

 

「うん。約束」

 

 ヴィヴィは、小さく息を吐いた。

 

 そして、ほとんど聞こえないくらいの声で、言った。

 

「……ありがとう、ございます」

 

「どういたしまして」

 

 ミウは、それだけ答えた。

 

 軒先の外では、雨が、強く、庭の草を叩いていた。

 

  *

 

 夕食の席は、いつも通りの賑わいだった。

 

 雨は、夕方には小降りになり、今は、窓の外で、静かにしとしとと続いている。暖炉の火が、部屋を、柔らかな橙色に染めていた。食卓には、湯気の立つスープと、焼きたてのパンが並んでいる。

 

 エピカ姉さんは、すっかり、元気を取り戻していた。朝から何度も、ミウに向かって「第二章の構想が固まったの!」と、嬉しそうに報告している。イードは、いつものように、うつらうつらと船を漕いでいた。ウイは、ミウの隣で、小さな両手でパンを抱えている。

 

 ヴィヴィは、自分の席に座って、黙ってスープを口に運びながら、ちらりと、ミウの席を見た。

 

 アヤ姉さんの隣の、古びた丸椅子。

 

 座面の塗りが剥げて、ところどころ、木の地肌がのぞいている。丸い、固そうな座面。足が床に届かず、ミウが座るたびに、わずかに、つま先がぶらぶらと揺れる。

 

 ヴィヴィは、ふと、気づいた。

 

 ミウは、この十日あまり、一度も、あの椅子について、文句を言っていない。

 

 きっと、座り心地は、悪いはずなのに。

 

 食事を終えたあと、ヴィヴィは、そっと席を立った。

 

 誰にも気づかれないように、廊下の奥にある、物置部屋へ向かう。そこには、古い布や、使わなくなったクッションが、いくつも、仕舞い込まれている。

 

 その中から、小さな、丸い座布団を、ひとつ選び出した。

 

 淡い黄色の、柔らかな布地。中には、羽毛が、ふんわりと詰まっている。ずいぶん昔、自分が使っていたものだった。少し、色褪せてはいるけれど、まだ、十分に、使える。

 

 食卓に戻ると、ミウは、ウイと、何か話して笑っていた。

 

 ヴィヴィは、さりげなく、ミウの背後に回った。

 

「ミウさん。少し、腰を浮かせてくださる?」

 

「え?」

 

 ミウが、きょとんとして、腰を浮かせる。

 

 ヴィヴィは、その隙に、丸椅子の上に、黄色い座布団を、ぽすん、と載せた。

 

「……はい。どうぞ」

 

「え?」

 

 ミウが、座布団と、ヴィヴィの顔を、交互に見る。

 

「これ……」

 

「勘違いなさらないでくださいまし」

 

 ヴィヴィは、腕を組んで、そっぽを向いた。

 

「あなたを、信じたわけではありませんわ」

 

「うん」

 

「ただ、あの椅子は、座面が硬くて、あなたには、不向きですの。見張りの務めを果たすには、あなたが、食事のあいだ、落ち着いて座っていてくださらないと、わたくしが、困りますのよ」

 

「……うん」

 

「ですから、これは、あくまで、わたくしの、都合ですわ」

 

「うん。わかった」

 

 ミウは、ふわりと座布団の上に腰を下ろした。

 

 それから、ヴィヴィを見上げて、にっこりと、笑った。

 

「ありがとう、ヴィヴィ。すごく、座りやすい」

 

「……そう。ならば、結構ですわ」

 

 ヴィヴィは、ふいと顔を背けて、自分の席に戻った。

 

 頬が、わずかに、熱い気がした。

 

 向かい側の席で、クロエが、ぬいぐるみの陰から、にやにやと、こちらを見ていた。

 

「ヴィヴィ姉さん、顔、赤いの」

 

「暖炉の火のせいですわ」

 

「そうかなあ」

 

「そうですわ!」

 

 アヤ姉さんが、少し離れたところで、ふふ、と小さく笑った。シオン姉さんも、スープの器に口をつけながら、肩を震わせている。

 

 ヴィヴィは、聞こえなかったふりをして、残りのスープを、黙って平らげた。

 

  *

 

 その夜。

 

 ヴィヴィは、ひとり、窓辺に立っていた。

 

 部屋の灯りは、消してある。窓の外では、雨が上がり、雲が、少しずつ流れていた。切れ間から、月が顔を出して、庭の濡れた草を、銀色に照らしている。

 

 遠く、地平線の彼方。

 

 夜の闇の底に、あの巨大な影が、輪郭だけを、ぼんやりと浮かび上がらせていた。

 

 ヴィヴィは、その影を、長い間、見つめた。

 

 今日、ミウに話したことは、嘘ではなかった。けれど、すべてでもなかった。

 

 言えなかったことが、ある。

 

 姉さんたちの、この頃の眠りの深さ。エピカ姉さんだけではない。イードは、元々、よく眠る人だけれど、ここ数日は、さらに、起きている時間が短くなっている気がする。ウイも、昼寝から、なかなか目覚めない日が増えた。シオン姉さんの目の下には、うっすらと、疲れの影が見える。

 

 ひとつひとつは、取るに足らないことだ。

 

 けれど、それらが、並べて見えてしまうのだ。

 

 ヴィヴィは、窓ガラスに、そっと額を預けた。

 

「……お母様」

 

 小さく、呟く。

 

 その呼び方を口にするのは、ずいぶん久しぶりだった。

 

「もし、あなたが、わたくしの大切な人たちを、奪おうというのなら」

 

 月明かりの下で、巨大な影は、何も答えなかった。

 

「たとえ、あなたが母であろうと、わたくしは、決して、許しませんわ」

 

 冷たい硝子が、額に染みた。

 

 遠くで、夜鳥が、一声、鳴いた。

 

 ヴィヴィは、しばらく、そのまま、動かなかった。

 

 やがて、ゆっくりと窓から離れ、寝台に向かう。その途中、ふと、足を止めた。

 

 廊下の向こうの、小さな部屋の窓から、ほのかな灯りが、漏れている。

 

 ミウの部屋だった。

 

 この時間まで、まだ、起きているのだろう。きっと、あの紙束に、今日のことを、書きつけているのだ。

 

「……何を、書いていますの」

 

 ヴィヴィは、ごく小さな声で、呟いた。

 

 わたくしのことも、書いているのかしら。

 

 そう思った自分に、気づいて、ヴィヴィは、慌てて頭を振った。

 

「どうでも、よろしいことですわ」

 

 寝台に潜り込んで、布団を引き上げる。

 

 目を閉じる前に、もう一度だけ、廊下の向こうの、小さな灯りを、思い浮かべた。

 

 あの子の席には、今夜から、黄色い座布団が、置かれている。

 

 それが、なんだか、少しだけ、悪くない気がした。

 

  *

 

 一方、ミウは、机に向かって、鉛筆を走らせていた。

 

  きょう。

 

  ヴィヴィとお茶をした。ヴィヴィは、お茶のいれかたが、とてもきれいだった。カップの持ちかたを教わった。

 

  ビスケットをはんぶんこにしたら、ヴィヴィは、毒見だと言って食べてくれた。

 

  高いところから、遠くに、大きな樹が見えた。世界樹、というらしい。みんなのお母さんなのだそうだ。

 

  ヴィヴィは、お母さんのことを、敬ってはいるけれど、すぐには「好き」と言えないらしい。理由は、ここには書かない。ヴィヴィとの、約束だから。

 

  ヴィヴィは、みんなのことが、本当に大切なのだと思う。

 

  座布団を、もらった。黄色くて、ふかふかだった。

 

 鉛筆が、そこで、止まる。

 

 窓の外の、遠い夜空に、ミウは、ふと視線を向けた。月明かりの下に、霞んだ巨大な影が、静かに佇んでいる。

 

 ミウは、しばらく、その影を見つめていた。

 

 それから、紙の最後に、小さな文字で、書き足した。

 

  お母さんは、みんなの声を、ちゃんと、聞いてくれているのかな。

 

 書いた文字を、じっと眺める。

 

 鉛筆の先で、軽く、その一行に、横線を引いた。

 

 けれど、完全には消さなかった。薄く、読めるくらいに、残しておいた。

 

 ミウは、紙を畳んで、机の隅に置いた。

 

 灯りを消して、寝台に横たわる。窓辺の花の香りが、闇の中で、ほのかに揺れていた。

 

 壁の向こうの静けさが、今夜は、少し、違って聞こえる。

 

 誰かが、深く眠っている気配。何人もの、静かな寝息。その音が、重なり合って、家全体を、ひとつの大きな呼吸のように、包み込んでいた。

 

 その安らかな音を聞きながら、ミウは、ふと、思った。

 

 ここに、ずっといられたら、いいのに。

 

 言葉にならない願いが、闇の中で、そっと、息をした。

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