八人目の食卓 作:もちもちほっぺ
夜明け前の廊下は、石の床が足の裏に冷たい。
ヴィヴィは、小さなランプを片手に、足音を殺して歩いていた。寝間着の裾が、床をかすかに擦る音だけが、静まり返った家の中に落ちていく。
向かう先は、エピカ姉さんの部屋だった。
昨夜、エピカ姉さんは、ミウさんと一緒に帰ってきてから、一度も目を覚まさなかった。夕食も取らず、寝台に運ばれてからも、ぴくりとも動かなかった。それが気にかかって、ヴィヴィは、夜のうちに何度も、扉の隙間から様子をうかがいに来ていた。
そっと扉を開ける。
寝台の上で、エピカ姉さんは、昨日と同じ姿勢のまま、すうすうと寝息を立てていた。布団の上には、見覚えのある薄い布が、丁寧に掛けられている。ミウさんが、初めてこの家に来た日に、アヤ姉さんから借りたという布だった。
ヴィヴィは、ランプを床に置いて、寝台の傍らの椅子に腰を下ろした。
エピカ姉さんの顔を、じっと見つめる。
穏やかな寝顔だった。熱もなさそうだし、息も乱れていない。ただ、眠っているだけに見える。それなのに、胸のあたりに、冷たい小石を飲み込んだような、重たい感覚が居座っていた。
エピカ姉さんは、昔から、よく寝る人ではなかった。夜更かしをして台本を書いては、朝、寝ぼけ眼で食卓に現れる。そんな人だった。それが、ここ数日、妙に早く眠りに落ちることが増えている。昨夜のように、話の途中でぷつりと糸が切れたみたいに眠ってしまうのは、初めてだったけれど。
……気のせいですわ。
ヴィヴィは、自分に言い聞かせた。
はしゃいだ一日だったのだ。疲れて、よく眠った。それだけのこと。誰だって、そういう日はある。
けれど、頭の隅では、別の声が囁いていた。
では、なぜ、わたくしは、こんな時間に、ここにいますの。
「……ん……」
寝台の上で、エピカ姉さんが、もぞりと身じろぎした。
ヴィヴィは、はっとして背筋を伸ばした。
「……あれ……?」
ぼんやりと、エピカ姉さんの瞼が持ち上がる。焦点の合わない目が、ゆっくりと天井を巡って、それから、傍らの椅子に座るヴィヴィの顔に、たどり着いた。
「……ヴィヴィ?」
「おはようございます、エピカ姉さん」
「あら……朝……?」
「まだ、夜明け前ですわ」
「そう……私、いつの間に、寝ちゃったのかしら……」
エピカ姉さんは、むにゃむにゃと目をこすって、それから、はっとしたように跳ね起きた。
「そうよ、ミウは? 私、ミウに、第二章の続きを聞かせてもらうところで」
「ミウさんなら、ご自分のお部屋で、ちゃんとお休みですわ。エピカ姉さんを、わたくしと一緒に、ここまで運んでくださいましたのよ」
「まあ……そうだったの」
エピカ姉さんは、肩にかかった薄い布に気づいて、そっと指先で撫でた。
「これ、ミウの布ね。……優しい子だわ」
「ええ。まあ」
ヴィヴィは、曖昧に頷いた。
「寝言で、第二章を、三度も朗読していらっしゃいましたわよ。そのたびに、ミウさんの名前が出てきて」
「えっ、本当? 恥ずかしいわ」
「ですから、さっさと、お休みくださいまし。まだ、夜は明けていませんもの」
「ええ。そうするわ」
エピカ姉さんは、素直に布団にもぐり込んだ。それから、ふと、ヴィヴィのほうを、薄目で見上げた。
「ヴィヴィ。心配、してくれたの?」
「……さあ、どうでしょう」
「ありがとう」
「お礼を言われる筋合いは、ありませんわ」
ヴィヴィは、ぷいと顔を背けて、立ち上がった。
扉を閉める直前、背後から、再び規則正しい寝息が聞こえ始めたのを、確かめた。
廊下に出て、ランプの光を見つめながら、ヴィヴィは、ゆっくりと息を吐いた。
大丈夫、と、もう一度、自分に言い聞かせる。
けれど、胸の小石は、消えなかった。
*
朝食の席で、ヴィヴィは、淡々と告げた。
「今日は、わたくしが、ミウさんをお預かりしますわ」
食卓が、ぴたりと静まった。
スープを啜っていたシオン姉さんの手が止まる。パンを口に運びかけていたクロエが、目を丸くした。イードですら、半分閉じていた瞼を、うっすらと持ち上げた。
「……ヴィヴィ姉さんが?」
クロエが、呆然と呟く。
「ええ」
「ミウと? 一日?」
「ええ。何か、問題でも?」
「いや、問題っていうか」
クロエは、シオン姉さんと顔を見合わせた。
「あれだけ、疑ってたのに」
「疑っているから、ですわ」
ヴィヴィは、きっぱりと答えた。
「十日以上、お預かりして、シオン姉さんやエピカ姉さんやクロエが、順番にお世話をしてきましたけれど、わたくしだけ、まだ、ミウさんのことを、ちゃんと見ていませんもの。見張りの務めを、怠っていたのは、わたくしのほうですわ」
「見張りって、言い切ったわね」
「事実ですもの」
ヴィヴィは、ミウのほうへ視線を向けた。
ミウは、丸椅子の上で、スプーンを持ったまま、きょとんとした顔でこちらを見ている。昨日、一日中草原を駆け回ったせいで、頬が少し日に焼けていた。
「ミウさん。よろしくて?」
「うん。もちろん」
ミウは、にこりと笑って、頷いた。
「ヴィヴィと一日、過ごせるの、嬉しい」
「……嬉しい、ですって?」
「うん。ヴィヴィのこと、もっと知りたかったから」
あまりにも、素直な返事だった。
ヴィヴィは、一瞬、言葉を失った。それから、慌てて咳払いをして、視線を逸らした。
「べ、別に、親睦を深めるためではありませんのよ。あくまで、見張りですの」
「うん。わかってる」
「でしたら、結構ですわ」
その様子を、アヤ姉さんが、にこにこと、いつもの穏やかな眼差しで見つめていた。
「ヴィヴィが、ミウさんと過ごしてくれるなんて、嬉しいわ」
「アヤ姉さん、勘違いなさらないでくださいまし。見張りですわ、見張り」
「ええ、わかっているわ」
アヤ姉さんは、ちっともわかっていなさそうな顔で、頷いた。
*
家の裏手の丘を、石段が、ゆるやかに登っている。
もともとは、誰かが積んだものなのだろう。白っぽい平たい石が、一段一段、不揃いに並んでいて、隙間から小さな野草が顔をのぞかせていた。朝露を含んだ草が、石の縁を濡らして、ところどころ、滑りやすくなっている。
「足元に、お気をつけなさいな」
ヴィヴィは、振り返らずに言った。
「うん。ありがとう」
背後から、ミウの声が返ってくる。
ヴィヴィの左手には、白いレースの布を掛けた籠が提げられている。中には、ポットとカップ、小さな砂糖壺、それから、昨日焼いたばかりの焼き菓子が入っていた。ミウのほうは、折りたたみの小さな腰掛けを二つ、両腕に抱えている。
「この階段、いつも登ってるの?」
「ええ。ほとんど毎日ですわ」
「毎日?」
「午後のお茶を、いただきに」
そっけなく答えると、ミウは、感心したように声を上げた。
「へえ。ヴィヴィは、お茶が好きなんだね」
「好き、というより、習慣ですわ。誰にも邪魔されずに、静かに過ごせる時間が、必要ですの」
「そっか。その時間に、私を連れてきてくれるんだ」
「……見張りのため、ですわ」
「うん」
ミウは、くすくすと、笑った。
ヴィヴィは、聞こえなかったふりをして、先へ進んだ。
石段を登りきると、そこは、小さな平らな高台になっていた。草が刈り込まれ、真ん中に、苔むした大きな石のテーブルが、どっしりと据えられている。周囲には、低い石垣が、ぐるりと巡らされていた。
そして、石垣の向こうには、広い空と、大地が、どこまでも続いていた。
「わあ……」
ミウが、思わず息を呑んだ。
眼下に広がる緑の丘陵。その合間を縫うように流れる、銀色の細い川。遠くには、灰青色の山並みが、薄い霞の中に、幾重にも重なって見える。今朝は、よく晴れていた。空気が澄んでいて、視界がどこまでも遠くへ通っていく。
「すごい。家が、あんなに小さい」
「ええ。ここからは、全部が、見渡せますの」
ヴィヴィは、籠を石のテーブルに置いて、レースの布を外した。慣れた手つきで、ポットとカップを並べていく。陶器の肌が、朝の光を受けて、柔らかな乳白色に輝いた。
ミウは、腰掛けをふたつ並べて、きょろきょろと周りを見回している。
「ヴィヴィ、手伝うことある?」
「結構ですわ。座っていらして」
「でも」
「座っていらして、と申し上げましたのよ」
ヴィヴィは、ポットに湯を注ぎながら、ぴしゃりと言った。
ミウは、素直に腰掛けに座った。膝の上で、手を揃えて、こちらをじっと見ている。
その視線が、背中にこそばゆかった。
ヴィヴィは、ことさらにゆっくりと、お茶の支度を進めた。茶葉を蒸らす時間。カップを温める順序。注ぐ高さ。どれも、幼い頃から、体に染みついた作法だった。誰かに教わったのか、自分で覚えたのか、もう、はっきりとは思い出せない。ただ、こうしてお茶を淹れていると、ささくれ立った気持ちが、少しだけ、凪いでくる。
「どうぞ」
ヴィヴィは、白いカップを、ミウの前に置いた。
淡い琥珀色の液体から、柔らかな湯気が立ちのぼっている。甘い、花のような香りが、ふわりと漂った。
「いただきます」
ミウは、両手でカップを持ち上げようとした。
「お待ちなさい」
「え?」
「カップの持ち方が、なっていませんわ」
ヴィヴィは、眉をひそめて、ミウの手元を指さした。
「両手で包み込むようにして飲むのは、寒い日の、お家でのことですわ。お茶の席では、右手の指で取っ手を、軽くつまむのです。それから、左手は、ソーサーに添えますの」
「こう?」
「違いますわ。親指と人差し指で、取っ手を挟んで。中指は、下から支えるように」
「こ、こう?」
「もう少し、肘を引いて」
「え、肘?」
「それでは、飲むときに、カップが傾きすぎますわ」
ミウは、ぎこちなく、カップを持ち上げた。ぶかぶかの袖口が、何度も落ちてきて、そのたびに手がもたつく。ヴィヴィは、ため息をついて、立ち上がると、ミウの背後に回った。
「失礼」
ミウの手の上に、自分の手を重ねる。細い指の位置を、ひとつひとつ、直してやる。ミウの手は、小さくて、ほんの少し冷たかった。
「ここを、こう。そう。……いいですわ」
「ありがとう。なんだか、ヴィヴィが先生みたい」
「先生ではありませんわ。ただ、見ていられないだけですの」
そう言いながらも、ヴィヴィは、直した指の位置を確認して、満足げに頷いた。
ミウは、慎重に、カップを口元へ運んだ。
ひとくち、飲む。
「……おいしい」
目を丸くして、呟いた。
「甘くて、ちょっと花の香りがして、でも、あとに残らない。すごく、きれいな味」
「当然ですわ。わたくしが、淹れましたもの」
「うん。ヴィヴィは、すごいね」
「……」
ヴィヴィは、ふいと目を逸らして、自分のカップを手に取った。
褒められるのは、悪い気分ではない。けれど、この子の「すごい」は、いつも、あまりにも、真っ直ぐで、受け止めるのに、少しだけ、勇気が要る。
お茶を、ゆっくりと啜る。熱い液体が、喉を通って、胸の奥まで、落ちていった。
*
石のテーブルの上には、焼き菓子の皿が置かれていた。小さな丸いビスケットが、きれいに円を描いて並んでいる。
ミウは、そのひとつを手に取って、ふと、動きを止めた。
それから、ビスケットを、ぱきりと二つに割る。
片方を、ヴィヴィのほうへ、そっと差し出した。
「はい。はんぶん」
「……またですの」
「うん。ごめん。癖で」
ミウは、少し照れたように笑った。
「でも、今日は、ヴィヴィが焼いたものだから。毒なんて、入ってないよね」
「当たり前ですわ!」
ヴィヴィは、思わず声を上げた。
「わたくしが、そんなものを入れるはずがありませんでしょう」
「うん。だから、安心して食べられるなって」
「……」
ヴィヴィは、ミウの顔を、じっと睨んだ。
けれど、ミウは、悪びれもなく、にこにこと、半分に割ったビスケットを差し出したままだった。昨日の夜の、食卓での出来事が、ふと蘇る。毒見のつもりか、と問い詰めたこと。ミウが、素直に頷いて、謝ったこと。
「……いただきますわ」
ヴィヴィは、ビスケットの片割れを、ひったくるように受け取った。
「毒見の、つもりですのよ。念のため、ですわ」
「うん」
「あなたが、わたくしの焼いたものに、何か、仕込んでいないとも限りませんもの」
「うん。確かめてみて」
ミウは、素直に頷いた。
ヴィヴィは、ビスケットを、ひと口かじった。バターの甘さと、ほろほろとした食感。自分で焼いたものなのだから、味は、わかっている。何も、おかしなところはない。
ない、のだけれど。
「……問題、ありませんわ」
「よかった」
ミウが、嬉しそうに笑う。
ヴィヴィは、残りのビスケットを、黙って食べきった。自分の手の中で、誰かが分けてくれたものを食べるのは、不思議な味がした。
そのとき、ふっと、風が吹いた。
高台の草が、ざわざわと揺れ、雲の切れ間から、強い陽光が差し込む。一瞬の眩しさに、ヴィヴィは目を細め、それから、視線を、遠くへ向けた。
地平線の彼方。
淡い青灰色の山並みの、さらに向こう。霞の底に、ぼんやりと、巨大な影が浮かび上がっていた。
「あれ?」
ミウが、ヴィヴィの視線を追って、指をさした。
「あの、遠くに見える、大きな影。山、じゃないよね」
「……ええ」
ヴィヴィは、小さく頷いた。
「あれは、樹ですわ」
「木? あんなに、大きいの?」
「ええ。世界樹、と呼ばれていますの。この世界を支えている樹で……わたくしたち姉妹にとっては、母ですわ」
口に出した途端、胸の奥が、きゅっと冷たくなった。
「お母さん?」
ミウが、目を丸くして、聞き返した。
「あの樹が?」
「ええ。わたくしたちは、そう呼んでいますの。アヤ姉さんも、シオン姉さんも、エピカ姉さんも、クロエも、イードも、ウイも。皆さん、あの樹を、母と思っていますわ」
ヴィヴィは、淡々と、語った。
けれど、自分の声が、少し固くなっていることに、気づいていた。
「そうなんだ。みんなのお母さん。……すごいね。そんなに、大きなお母さんなんだ」
ミウは、世界樹の影を、じっと見つめていた。霞の向こうで、その輪郭は、巨大な何かが、静かに息づいているかのように、わずかに揺れて見えた。
「ヴィヴィは、お母さんのこと、好き?」
唐突な質問だった。
ヴィヴィは、答えようとして、言葉に詰まった。
しばらく、風の音だけが、高台を満たした。
「……敬ってはいますわ」
やがて、低い声で言った。
「母ですもの。わたくしたちが、こうして暮らせているのも、母のおかげだと、教えられてきましたし、それは、きっと、本当のことなのでしょう」
「うん」
「けれど」
ヴィヴィは、言葉を、慎重に選んだ。
「好き、かと問われると、わたくしは、すぐには、頷けませんの」
ミウは、何も言わなかった。ただ、静かに、続きを待っていた。
「あら、言ってしまいましたわね。こんなことを、見ず知らずの方に」
「見ず知らずじゃないよ。もう、十日以上、一緒にいるよ」
「そう、でしたわね」
ヴィヴィは、苦笑を漏らした。
「理由を、聞いても、いい?」
「聞いて、どうなさいますの」
「どうもしない。ただ、聞きたいだけ」
ミウは、まっすぐ、ヴィヴィを見ていた。
その目には、好奇心とも、同情とも違う、静かな色があった。詮索するのではなく、ただ、そこにある言葉を、受け取る用意だけをして、待っている。そんな眼差しだった。
ヴィヴィは、しばらく、ためらった。
それから、遠くの影から目を離さないまま、ゆっくりと、口を開いた。
「お母様は、わたくしたちを、慈しんでくださっていますわ。それは、疑っていませんの」
「うん」
「でも、お母様は、一度でも、わたくしたちに、尋ねたことがありまして?」
「尋ねる?」
「何を、望むのか。どう、生きたいのか。何を、守ってほしいのか。……お母様は、何も、尋ねませんの。ただ、決めますのよ。何が必要で、何が不要か。何を残して、何を、手放すべきか。わたくしたちの意思とは、関わりなく」
ヴィヴィの指が、カップの縁を、強く握りしめていた。
「愛されている、ということと、決められている、ということは、違いますわ。わたくしは、その違いが、どうしても、飲み込めませんの」
ミウは、何も言わなかった。
ただ、小さく、頷いた。
「それに」
ヴィヴィの声が、少し、揺れた。
「お母様は、見守っていますの。ずっと。遠くから、わたくしたちのことを。どこにいても、何をしていても。皆さんは、それを、温かいことだと、仰いますけれど」
「……ヴィヴィは、違うの?」
「わたくしには、時々、見張られているように、感じられますの」
吐き出すように、言った。
「大切なものを、わたくしの手の届かないところで、勝手に、扱われているような気がして。わたくしには、何の相談もなく。……それが、腹立たしいのですわ」
ふと、昨夜の、エピカ姉さんの寝顔が、脳裏をよぎった。
話の途中で、ぷつりと糸が切れたように眠ってしまった、あの顔。肩を揺すっても、起きなかった、あの深い眠り。
ヴィヴィは、ぎゅっと唇を噛んだ。
何を考えているのだろう。そんなことが、母と、関係あるはずがない。母が、姉さんたちに、何かをなさるはずがない。ただの、思い過ごしだ。疲れていただけだ。
「ヴィヴィ」
ミウの、静かな声が、聞こえた。
「うん。聞いてるよ」
それだけだった。
慰めも、助言も、反論も、なかった。ただ、「聞いている」という事実だけを、そっと、手渡されたようだった。
ヴィヴィは、はっとして、ミウを見た。
ミウは、世界樹の影を、静かに見つめていた。その横顔は、いつもの、無邪気な笑顔とは違っていた。何かを、深く、考えているような、遠い目をしていた。
「……こんなことを、話すつもりでは、ありませんでしたのに」
ヴィヴィは、気まずさを隠すように、カップに口をつけた。
「忘れてくださいまし」
「忘れないよ」
「え?」
「ヴィヴィが話してくれたこと、ちゃんと、覚えておく」
ミウは、振り向いて、にこりと笑った。
「大事なことだと思うから」
ヴィヴィは、何か言い返そうとして、結局、口を閉じた。
喉の奥が、少しだけ、熱かった。
「……変な方ですこと」
「うん。よく言われる」
「ほめて、いませんのよ」
「うん。でも、嬉しいよ」
ミウは、残りのお茶を、ゆっくりと飲み干した。
ヴィヴィは、そっぽを向いたまま、自分の空いたカップに、もう一杯、お茶を注いだ。手が、ほんのわずか、震えていた。
*
空模様が変わったのは、昼を少し回った頃だった。
いつの間にか、遠くの山並みの上に、黒い雲の塊が、むくむくと育っていた。風の匂いが、湿った土の匂いに変わり、頬を撫でる空気が、ひんやりと重くなる。さっきまで眩しかった陽光が、ふっと陰った。
「あ」
ミウが、空を見上げた。
「雨、降りそう」
「ええ。急いで、片付けましょう」
ヴィヴィは、手際よく、ポットとカップを籠に戻した。ミウも、腰掛けを抱えて、慌てて手伝う。
石段を、駆け下りようとしたとき、最初の一粒が、頬に落ちた。
ぽつり。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
あっという間に、大粒の雨が、石段を叩き始めた。
「走りますわよ!」
「うん!」
ふたりは、駆けた。滑りやすい石段を、足を取られないように気をつけながら、一段ずつ、慎重に。雨が、容赦なく、髪や肩を濡らしていく。籠の中のカップが、がちゃがちゃと、危なっかしい音を立てた。
途中で、ミウが、ふいに、ヴィヴィの頭上に、何かを掲げた。
それは、肩に掛けていた、あの薄い布だった。
「ミウさん?」
「濡れちゃうから、これ、使って」
「あなたが、濡れますわ!」
「いいよ。私は、平気」
ミウは、布をヴィヴィの頭の上に広げたまま、にこっと笑った。
その言い方が、ふと、誰かの言葉と重なった。
——私は、平気。
以前、シオン姉さんが、ミウは冷たい水にも、痛みにも、あまり気を払わない、と、心配そうに話していたことがあった。
ヴィヴィは、眉をひそめた。
「平気、ではありませんでしょう。風邪をひきますわよ」
「大丈夫。ほら、早く」
ミウに押されるようにして、ヴィヴィは、布の下を駆け抜けた。
家の軒先に飛び込んだときには、ふたりとも、すっかり濡れ鼠になっていた。ヴィヴィのほうは、布のおかげで、髪の頭頂部と肩の一部が濡れただけで済んでいる。けれど、ミウは、頭のてっぺんから靴の先まで、ずぶ濡れだった。
若草色のワンピースの裾から、ぽたぽたと、水滴が落ちている。
「すごい雨だね」
ミウは、髪を絞りながら、のんきな声で言った。
「あなた、ご自分の心配を、少しは、なさいな」
ヴィヴィは、棚から乾いた布を取ってきて、ミウの頭に、ばさりと被せた。
「拭いてくださいまし。それから、すぐに、着替えを」
「うん。ありがとう」
「お礼は、結構ですわ。見張りの務めですもの」
乱暴な口調で言いながらも、ヴィヴィは、ミウの髪を、布の上から、ごしごしと拭いてやっていた。
ミウは、されるがままに、じっとしていた。布の下から、小さな声が聞こえる。
「ヴィヴィの手、あったかいね」
「……雨で、冷えていますのよ。そんなはずありませんわ」
「ううん。あったかい」
ヴィヴィは、手を止めて、ミウの顔を見下ろした。
濡れた前髪の間から、丸い目が、こちらを見上げている。そこには、屈託のない、穏やかな光が宿っていた。
その目を見ているうちに、胸の中の何かが、ことりと、音を立てて動いた。
警戒していたはずだった。疑っていたはずだった。この子が、何者なのか。何を、望んでいるのか。この家に、何をもたらすのか。
けれど、この数時間で、わかってしまったことがある。
この子は、人の話を、最後まで聞く。
笑って誤魔化したり、自分の考えを押しつけたりせずに、ただ、そこにある言葉を、受け取ってくれる。たったそれだけのことが、どれほど、難しくて、貴重なことか、ヴィヴィは、知っていた。
「……ミウさん」
「うん?」
「さっきの話は、他の方には、内緒にしてくださいまし」
「お母さんのこと?」
「ええ。特に、アヤ姉さんには」
ミウは、ぱちくりと目を瞬かせた。
「アヤ姉さんに、知られたくないの?」
「アヤ姉さんは、お母様を、誰よりも深く、慕っていらっしゃいますもの」
ヴィヴィは、ミウの頭から、乾いた布を外した。
「わたくしが、お母様のことを、疑うような気持ちを抱えていると知ったら。……アヤ姉さんは、きっと、悲しみますわ」
「そっか」
ミウは、しばらく、考えるように黙っていた。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「わかった。内緒にする」
「約束、してくださいますの?」
「うん。約束」
ヴィヴィは、小さく息を吐いた。
そして、ほとんど聞こえないくらいの声で、言った。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
ミウは、それだけ答えた。
軒先の外では、雨が、強く、庭の草を叩いていた。
*
夕食の席は、いつも通りの賑わいだった。
雨は、夕方には小降りになり、今は、窓の外で、静かにしとしとと続いている。暖炉の火が、部屋を、柔らかな橙色に染めていた。食卓には、湯気の立つスープと、焼きたてのパンが並んでいる。
エピカ姉さんは、すっかり、元気を取り戻していた。朝から何度も、ミウに向かって「第二章の構想が固まったの!」と、嬉しそうに報告している。イードは、いつものように、うつらうつらと船を漕いでいた。ウイは、ミウの隣で、小さな両手でパンを抱えている。
ヴィヴィは、自分の席に座って、黙ってスープを口に運びながら、ちらりと、ミウの席を見た。
アヤ姉さんの隣の、古びた丸椅子。
座面の塗りが剥げて、ところどころ、木の地肌がのぞいている。丸い、固そうな座面。足が床に届かず、ミウが座るたびに、わずかに、つま先がぶらぶらと揺れる。
ヴィヴィは、ふと、気づいた。
ミウは、この十日あまり、一度も、あの椅子について、文句を言っていない。
きっと、座り心地は、悪いはずなのに。
食事を終えたあと、ヴィヴィは、そっと席を立った。
誰にも気づかれないように、廊下の奥にある、物置部屋へ向かう。そこには、古い布や、使わなくなったクッションが、いくつも、仕舞い込まれている。
その中から、小さな、丸い座布団を、ひとつ選び出した。
淡い黄色の、柔らかな布地。中には、羽毛が、ふんわりと詰まっている。ずいぶん昔、自分が使っていたものだった。少し、色褪せてはいるけれど、まだ、十分に、使える。
食卓に戻ると、ミウは、ウイと、何か話して笑っていた。
ヴィヴィは、さりげなく、ミウの背後に回った。
「ミウさん。少し、腰を浮かせてくださる?」
「え?」
ミウが、きょとんとして、腰を浮かせる。
ヴィヴィは、その隙に、丸椅子の上に、黄色い座布団を、ぽすん、と載せた。
「……はい。どうぞ」
「え?」
ミウが、座布団と、ヴィヴィの顔を、交互に見る。
「これ……」
「勘違いなさらないでくださいまし」
ヴィヴィは、腕を組んで、そっぽを向いた。
「あなたを、信じたわけではありませんわ」
「うん」
「ただ、あの椅子は、座面が硬くて、あなたには、不向きですの。見張りの務めを果たすには、あなたが、食事のあいだ、落ち着いて座っていてくださらないと、わたくしが、困りますのよ」
「……うん」
「ですから、これは、あくまで、わたくしの、都合ですわ」
「うん。わかった」
ミウは、ふわりと座布団の上に腰を下ろした。
それから、ヴィヴィを見上げて、にっこりと、笑った。
「ありがとう、ヴィヴィ。すごく、座りやすい」
「……そう。ならば、結構ですわ」
ヴィヴィは、ふいと顔を背けて、自分の席に戻った。
頬が、わずかに、熱い気がした。
向かい側の席で、クロエが、ぬいぐるみの陰から、にやにやと、こちらを見ていた。
「ヴィヴィ姉さん、顔、赤いの」
「暖炉の火のせいですわ」
「そうかなあ」
「そうですわ!」
アヤ姉さんが、少し離れたところで、ふふ、と小さく笑った。シオン姉さんも、スープの器に口をつけながら、肩を震わせている。
ヴィヴィは、聞こえなかったふりをして、残りのスープを、黙って平らげた。
*
その夜。
ヴィヴィは、ひとり、窓辺に立っていた。
部屋の灯りは、消してある。窓の外では、雨が上がり、雲が、少しずつ流れていた。切れ間から、月が顔を出して、庭の濡れた草を、銀色に照らしている。
遠く、地平線の彼方。
夜の闇の底に、あの巨大な影が、輪郭だけを、ぼんやりと浮かび上がらせていた。
ヴィヴィは、その影を、長い間、見つめた。
今日、ミウに話したことは、嘘ではなかった。けれど、すべてでもなかった。
言えなかったことが、ある。
姉さんたちの、この頃の眠りの深さ。エピカ姉さんだけではない。イードは、元々、よく眠る人だけれど、ここ数日は、さらに、起きている時間が短くなっている気がする。ウイも、昼寝から、なかなか目覚めない日が増えた。シオン姉さんの目の下には、うっすらと、疲れの影が見える。
ひとつひとつは、取るに足らないことだ。
けれど、それらが、並べて見えてしまうのだ。
ヴィヴィは、窓ガラスに、そっと額を預けた。
「……お母様」
小さく、呟く。
その呼び方を口にするのは、ずいぶん久しぶりだった。
「もし、あなたが、わたくしの大切な人たちを、奪おうというのなら」
月明かりの下で、巨大な影は、何も答えなかった。
「たとえ、あなたが母であろうと、わたくしは、決して、許しませんわ」
冷たい硝子が、額に染みた。
遠くで、夜鳥が、一声、鳴いた。
ヴィヴィは、しばらく、そのまま、動かなかった。
やがて、ゆっくりと窓から離れ、寝台に向かう。その途中、ふと、足を止めた。
廊下の向こうの、小さな部屋の窓から、ほのかな灯りが、漏れている。
ミウの部屋だった。
この時間まで、まだ、起きているのだろう。きっと、あの紙束に、今日のことを、書きつけているのだ。
「……何を、書いていますの」
ヴィヴィは、ごく小さな声で、呟いた。
わたくしのことも、書いているのかしら。
そう思った自分に、気づいて、ヴィヴィは、慌てて頭を振った。
「どうでも、よろしいことですわ」
寝台に潜り込んで、布団を引き上げる。
目を閉じる前に、もう一度だけ、廊下の向こうの、小さな灯りを、思い浮かべた。
あの子の席には、今夜から、黄色い座布団が、置かれている。
それが、なんだか、少しだけ、悪くない気がした。
*
一方、ミウは、机に向かって、鉛筆を走らせていた。
きょう。
ヴィヴィとお茶をした。ヴィヴィは、お茶のいれかたが、とてもきれいだった。カップの持ちかたを教わった。
ビスケットをはんぶんこにしたら、ヴィヴィは、毒見だと言って食べてくれた。
高いところから、遠くに、大きな樹が見えた。世界樹、というらしい。みんなのお母さんなのだそうだ。
ヴィヴィは、お母さんのことを、敬ってはいるけれど、すぐには「好き」と言えないらしい。理由は、ここには書かない。ヴィヴィとの、約束だから。
ヴィヴィは、みんなのことが、本当に大切なのだと思う。
座布団を、もらった。黄色くて、ふかふかだった。
鉛筆が、そこで、止まる。
窓の外の、遠い夜空に、ミウは、ふと視線を向けた。月明かりの下に、霞んだ巨大な影が、静かに佇んでいる。
ミウは、しばらく、その影を見つめていた。
それから、紙の最後に、小さな文字で、書き足した。
お母さんは、みんなの声を、ちゃんと、聞いてくれているのかな。
書いた文字を、じっと眺める。
鉛筆の先で、軽く、その一行に、横線を引いた。
けれど、完全には消さなかった。薄く、読めるくらいに、残しておいた。
ミウは、紙を畳んで、机の隅に置いた。
灯りを消して、寝台に横たわる。窓辺の花の香りが、闇の中で、ほのかに揺れていた。
壁の向こうの静けさが、今夜は、少し、違って聞こえる。
誰かが、深く眠っている気配。何人もの、静かな寝息。その音が、重なり合って、家全体を、ひとつの大きな呼吸のように、包み込んでいた。
その安らかな音を聞きながら、ミウは、ふと、思った。
ここに、ずっといられたら、いいのに。
言葉にならない願いが、闇の中で、そっと、息をした。