八人目の食卓 作:もちもちほっぺ
その朝、窓の外は、白く煙っていた。
霧雨だった。雨粒というには細すぎる水の粒が、空と地面のあいだを音もなく漂っていて、庭の草も、柵も、遠くの林も、薄い乳白色の紗をかぶせたように、輪郭を失っている。窓ガラスには、無数の小さな水滴がびっしりとついて、指でなぞれば、そこだけ道ができそうだった。
ミウは、窓辺に頬杖をついて、その景色を眺めていた。
雨の日の朝は、空気の匂いが違う。土と、濡れた葉と、遠くの煙の匂いが、ゆっくりと混じり合って、鼻の奥に降りてくる。家の中は、いつもより少し薄暗くて、暖炉の火の色が、いつもより少しだけ濃く見えた。
「今日は、外には出られないわね」
アヤが、パンの籠を運びながら言った。
「畑の水やりも、お休みでいいわ。これだけ降れば、十分よ」
「やった。あちし、今日は一日、針仕事なの」
クロエが、ぬいぐるみを膝に載せて、満足そうに頷く。
「私は、台本の続きを書くわ。雨の日は、物語が降りてきやすいの」
「エピカ姉さんは、晴れの日もそう言っていますわ」
「ヴィヴィ、それは言わないお約束よ!」
いつもの朝の賑わいのなかで、ミウは、食卓の隅に目を向けた。
ウイが、まだ来ていない。
イードの席は空いていたが、それは、いつものことだった。ウイの席は、ミウの隣だ。小さな椅子に、小さな器が置かれたまま、湯気だけが、ゆっくりと細くなっていく。
「ウイは、まだ、寝ているのかしら」
「見てこようか」
シオンが、立ち上がりかけた。
そのとき、食卓の下で、何かが、もぞりと動いた。
「……あ」
ミウが、足元を覗き込む。
テーブルの影の中に、ウイが、膝を抱えて座っていた。両腕で自分の膝をぎゅっと抱え、顔を半分、腕の中に埋めている。大きな目だけが、暗がりの中で、ちらりとこちらを見上げた。
「ウイ。そこにいたの」
「……うん……」
「いつから?」
「……さっき……から……」
消え入りそうな声だった。
「ご飯、食べないの?」
「……あとで……」
「あとで?」
「……みんなが……たべおわったら……」
ミウは、きょとんとして、アヤのほうを見た。アヤは、少し困ったような笑みを浮かべて、小さく首を振った。
「ウイは、雨の日になると、ときどき、こうなのよ。霧が深い日は、特にね」
「そうなの?」
「ええ。嫌いなわけじゃないの。むしろ、好きなくらい。でも、どうしても、ひとりで、そっと過ごしたくなるみたい」
アヤの声は、いつもの穏やかさのなかに、少しだけ、慎重な響きを含んでいた。
「無理に引っ張り出さないであげてね。あの子のペースで、いいから」
「うん。わかった」
ミウは、頷いた。
それから、少し考えて、自分の器と、パンを持って、床に膝をついた。
「ミウ?」
シオンが、目を丸くする。
「ちょっと、お邪魔します」
ミウは、テーブルの下に、もぞもぞと潜り込んだ。ウイの隣に、同じように、膝を抱えて座る。天板の裏側が、頭のすぐ上にあって、世界が急に、小さくなった。上のほうから、食器のかちゃかちゃという音と、姉妹たちの声が、くぐもって聞こえてくる。
「……ミウ……?」
「ここで、食べてもいい?」
「……え……?」
「ウイと一緒に、ここで食べたいなって思って」
ウイは、目をぱちぱちさせた。
それから、ほんの少しだけ、体を横にずらして、ミウの座る場所を空けてくれた。
「……いい……よ……」
「ありがとう」
ミウは、パンをふたつに割って、片方を、ウイに差し出した。
「はい。はんぶん」
「……ウイの……あるよ……」
「うん。でも、はんぶんこ」
ウイは、ほんの少しだけ、唇を緩めた。それから、おずおずと、手を伸ばして、パンを受け取った。
テーブルの下の小さな空間で、ふたりは、肩を寄せ合って、黙って、パンをかじった。
頭の上では、アヤとシオンが、何か静かに話している。クロエが、エピカの台詞回しに、ぶつぶつと文句をつけている。ヴィヴィが、お茶の香りについて、うんちくを傾けている。
その全部が、薄い膜越しに聞こえてくる。
ウイは、パンを、小さく、小さく、ちぎっては、口に運んでいた。ミウは、その様子を、横目で見守った。
「……ねえ、ミウ……」
しばらくして、ウイが、小さな声で言った。
「うん?」
「……ミウは……ここ……こわくない……?」
「ここ?」
「……せまくて……くらくて……」
「ううん。全然。なんだか、落ち着くよ」
「……そう……なんだ……」
ウイは、ほっとしたように、息を吐いた。
「……ウイ……ここ……すき……」
「そっか」
「……みんなの……こえが……とおくで……きこえるの……いいの……」
「わかる気がする」
ミウは、天板の裏の木目を、じっと眺めた。
「みんながいるって、わかるのに、ちょっとだけ、離れてる感じ。あったかいね」
「……うん……」
ウイは、嬉しそうに、頷いた。
それから、小さく、付け足した。
「……ミウ……へんな……ひと……」
「よく言われる」
「……でも……いやじゃ……ない……」
ミウは、思わず、笑った。
*
朝食のあと、ウイは、ミウの袖を、くい、と引いた。
「……ミウ……」
「うん?」
「……ウイと……おさんぽ……いく……?」
ミウは、目を瞬かせた。
「いいの?」
「……あめの……ひ……だけ……ウイの……おさんぽ……あるの……」
「雨の日だけの、お散歩?」
「……うん……きりさめの……ひ……」
ウイは、ミウの袖を握ったまま、俯いている。その指先が、少し、震えていた。
ミウは、すぐには、答えなかった。
代わりに、ちらりと、アヤのほうを振り返った。アヤは、ウイの様子を見て、柔らかく微笑んで、頷いた。
「行ってらっしゃい。ヴィヴィの条件は、庭と草原まで、だったわね。林の手前までなら、ウイが、よく知っているはずよ」
「ウイ、ちゃんと、ミウをつれてくよ……」
ウイは、小さな声で、でも、はっきりと言った。
ミウは、にっこりと笑った。
「じゃあ、案内、お願いしようかな」
「……うん……!」
ウイの顔が、ぱっと、明るくなった。
*
外に出ると、世界は、まるで、別の場所のようだった。
霧雨は、傘がいらないほど細かくて、肌に触れると、ひんやりとした感触が、一瞬だけ残って、すぐに消えた。髪にも、肩にも、細かな水の粒が、真珠のようにまとわりついていく。
ウイは、雨具の代わりに、小さな麻の外套を、頭からすっぽりと被っていた。ミウにも、アヤが古い外套を一枚貸してくれた。裾が長すぎて、地面に引きずりそうになる。
「……ミウ……こっち……」
ウイが、ミウの手を引いて、歩き出す。
さっきまで、テーブルの下で縮こまっていた子とは、まるで、別人のようだった。足取りが、軽い。迷いがない。まるで、この霧の中の道を、目を閉じていても歩けるかのように。
庭の柵の脇を抜けて、裏手の細い道に入る。
足元の草が、露を含んで、ぐっしょりと濡れていた。歩くたびに、靴の縁に、冷たい水が染みてくる。けれど、ミウは、不思議と、不快ではなかった。むしろ、ひとあし進むたびに、胸の奥が、すうっと軽くなっていくような気がした。
「ウイは、霧が好きなんだね」
「……うん……」
「どうして?」
「……だって……きれい……だから……」
ウイは、立ち止まって、ミウの手を離した。それから、道端の、蜘蛛の巣の前に、しゃがみ込んだ。
「……みて……」
ミウも、隣にしゃがんだ。
草の葉と葉のあいだに、小さな蜘蛛の巣が、ぴんと張られていた。その糸の一本一本に、霧の粒が、真珠のように連なっている。糸が、わずかな風で、ふるふると揺れるたびに、水滴が、きらきらと、銀色の光を弾いた。
「……わあ」
ミウは、思わず声を漏らした。
「すごい。糸に、宝石が、並んでるみたい」
「……でしょ……」
ウイは、誇らしげに、小さく胸を張った。
「……ふだん……みえないの……きりの……ひだけ……みえるの……」
「そうなんだ。知らなかった。こんなに、きれいなものが、いつも、そこにあったんだね」
「……うん……」
ウイは、ミウの顔を、ちらりと見上げた。
「……ミウ……ふつうは……とおりすぎちゃう……」
「え?」
「……みんな……いそいで……あるくから……」
ミウは、少しだけ、どきりとした。
確かに、自分は、歩くのが好きだ。目的もなく、どこまでも歩いていける。けれど、思い返してみれば、それは、どこかへ向かって「進む」ことが楽しいのであって、足元の小さなものに、立ち止まったことは、あまりなかった気がする。
クロエと歩いたときも、蟻の行列や、白い花に、足を止めはした。けれど、それは、あくまで「歩きながら」のことだった。
「……ウイは、立ち止まるのが、上手なんだね」
「……じょうず……?」
「うん。ゆっくり、じっくり、見るのが」
「……うん……」
ウイは、少し恥ずかしそうに、俯いた。
「……ウイ……はやく……あるけないから……」
「それは、悪いことじゃないよ」
ミウは、にっこり笑った。
「私も、教えてほしいな。ゆっくり、見るやり方」
「……ほんと……?」
「うん。ウイ先生、お願いします」
ウイは、ぱちくりと目を瞬かせて、それから、ふふ、と小さく笑った。
「……せんせい……じゃ……ないよ……」
「でも、教えてくれるんでしょう?」
「……うん……いいよ……」
*
ウイの散歩は、とにかく、ゆっくりだった。
一歩進んでは、立ち止まる。道端の苔の上に、小さな水の玉が、いくつも転がっているのを見つけて、指でそっとつつく。玉は、ふるふると揺れて、別の玉と合わさり、ひとつの大きな玉になる。それを、飽きもせず、何度も繰り返す。
葉っぱの裏を、そうっとめくると、小さな蝸牛が、ゆっくりと、殻を背負って、這っていた。ウイは、息をひそめて、その歩みを、じっと見守る。蝸牛が、触角を、ちょい、と伸ばすと、ウイは、声にならない声で、にっこり笑う。
木の幹に、ぽつんと生えた、小さなきのこ。傘の上に、霧の粒が、一面にまぶされて、白い粉砂糖をまぶしたように見える。
落ち葉の上に、ぽとり、ぽとり、と落ちる、枝先からの雫。その音を、目を閉じて、ふたりで、黙って聞いた。
ミウは、最初のうちは、少しそわそわしていた。
足が、先へ先へと、動きたがる。もっと向こうまで行きたい、もっと遠くを見たい、という気持ちが、ふいに湧いてきて、そのたびに、ウイの小さな手が、ミウの袖を、ちょん、と引いた。
「……ミウ……もうちょっと……」
「うん」
「……ここ……みて……」
「うん」
そう言われるたびに、ミウは、足を止めて、ウイの指さす先を、見た。
最初は、ただ、「見て」いるだけだった。けれど、何度も繰り返すうちに、不思議なことが起こった。
見えてくるのだ。
これまで、素通りしていたものが。霧の中で、ひとつひとつ、くっきりと、輪郭を持って、浮かび上がってくる。苔の緑の濃淡。葉脈を伝う水の流れ。蝸牛の殻の、渦巻きの模様。
世界が、急に、解像度を上げたようだった。
「……ウイは、こんなものを、いつも見てるんだね」
ミウが、ぽつりと言うと、ウイは、こくん、と頷いた。
「……きりの……ひは……とくべつ……」
「特別?」
「……ふだん……ちいさすぎて……みえないものが……みえるの……」
ウイは、霧の向こうを、見つめた。
「……ウイ……ちいさいから……ちいさいものが……すき……」
その言い方は、どこか、寂しそうだった。
ミウは、ウイの小さな手を、そっと握った。
「ウイの手も、小さいね」
「……うん……」
「でも、すごく、あったかい」
「……ミウの……てが……つめたいの……」
「あ、ほんと?」
「……うん……」
ウイは、ミウの手を、両手で包み込んだ。ふにふにとした、柔らかい指が、ミウの手の甲を、一生懸命に、撫でる。
「……ウイが……あっためて……あげる……」
ミウは、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
この子は、小さい。ミウよりも、ずっと。けれど、その手の中には、ちゃんと、誰かを温めようとする、確かな力がある。
「ありがとう、ウイ」
「……えへへ……」
ウイは、少し頬を赤らめて、笑った。
*
道の先に、小さな小川が、現れた。
幅は、ミウの背丈の半分ほど。浅くて、水は透き通っているけれど、雨で少しだけ、水量が増している。川底の小石が、ゆらゆらと揺れて見えた。その上に、一本の細い丸太が、橋の代わりに渡されている。
「……ここ……わたる……」
「え? 渡るの?」
「……うん……むこうに……いちばん……すきな……ばしょ……あるの……」
ウイは、丸太の橋の前で、立ち止まった。
それから、ミウの手を、きゅっと握りしめた。
「……ミウ……」
「うん?」
「……ウイ……ここ……ひとりで……わたれない……の……」
か細い声だった。
「……いつも……ちょっと……こわくて……」
「そうなんだ」
「……でも……ミウと……いっしょなら……いけるかも……って……」
ウイは、ミウの顔を、真っ直ぐに見上げた。大きな目が、霧雨の水滴を宿して、きらきらと潤んでいる。
ミウは、少しの間、丸太の橋を、じっと見つめた。
細い丸太は、雨で濡れて、表面がぬめっているように見える。足を滑らせれば、川に落ちるだろう。深くはないけれど、この季節の雨水は、きっと、冷たい。
ミウは、にっこり笑って、ウイの前にしゃがみ込んだ。
「じゃあ、こうしよう」
「……え……?」
「私が先に行く。それで、向こう側に着いたら、ウイを呼ぶ。ウイは、私の目を見て、ゆっくり、一歩ずつ、来ればいい。もし、怖くなったら、止まっていいし、戻ってもいい」
「……」
「それと、これ」
ミウは、自分の手を、ウイの前に差し出した。
「真ん中あたりまで、私が迎えに行く。そこで、手を握る。それなら、どう?」
ウイは、ミウの手を、じっと見つめた。
それから、小さく、頷いた。
「……うん……それなら……できる……かも……」
「よし」
ミウは、立ち上がった。
丸太の端に、そっと片足を載せる。思った通り、表面は、ぬるりと滑った。重心を低くして、両腕を軽く広げ、バランスを取りながら、一歩、また一歩と、前へ進む。
水の音が、足元で、さらさらと響いている。霧の粒が、頬に当たって、冷たかった。
向こう岸にたどり着いて、ミウは、振り返った。
「ウイ、おいで。ゆっくりで、いいよ」
ウイは、丸太の手前で、ぎゅっと両手を握りしめて、立っていた。
小さな体が、微かに震えている。
ミウは、何も言わず、ただ、にっこりと笑って、待った。
長い時間が、過ぎたような気がした。霧が、ゆっくりと流れていく。遠くで、鳥が、一声、鳴いた。
やがて、ウイが、そっと、片足を、丸太に載せた。
震える膝。握りしめた指。それでも、ウイは、ミウの目から、視線を外さなかった。
一歩。
また、一歩。
丸太が、ぎし、と小さく鳴った。ウイの肩が、びくりと跳ねる。それでも、ウイは、止まらなかった。
真ん中を、少し過ぎたあたりで、ミウは、手を伸ばした。
「あと、少し。もうちょっとで、届くよ」
「……ミ……ウ……」
「うん、ここにいる」
ウイは、最後の一歩を、ぐっと踏み出した。
小さな手が、ミウの手に、触れた。
ミウは、すぐに、その手を、しっかりと握り込んだ。そのまま、ウイの体を、引き寄せる。ウイは、ミウの胸に、どん、とぶつかるように、飛び込んできた。
「……わたれた……」
「うん。渡れたね」
「……ウイ……わたれた……!」
「すごい。ひとりで、全部、渡ったんだよ」
ミウは、ウイの頭を、ぽんぽんと撫でた。
ウイは、ミウの胸に、顔を埋めたまま、小さく、肩を震わせた。泣いているのか、笑っているのか、わからなかった。たぶん、その両方だった。
ミウは、その背中を、ゆっくりと、さすり続けた。
小さな背中が、ミウの手のひらの中で、ひとつ、またひとつと、呼吸を整えていく。その温かさが、霧雨の冷たさの中で、じんわりと、ミウの胸に染み込んできた。
守る、ということ。
誰かの手を引いて、一緒に、怖いところを渡ること。
それは、思っていたよりも、ずっと、重みのある、あたたかな感触だった。
*
小川を渡った先には、小さな、開けた場所があった。
背の高い木々が、ぐるりと円を描くように立ち並び、その中心だけが、ぽっかりと、空に向かって開いている。地面には、柔らかな苔が、一面に敷き詰められていた。霧雨が、木々の枝を通って、細かな光の筋のように、ゆっくりと降り注いでいる。
「……ここ……」
ウイは、ミウの手を引いて、苔の上に、そっと足を踏み入れた。
足の裏に、ふかふかの感触が伝わる。踏みしめるたびに、苔が、ぷちゅ、と小さな水音を立てた。
「ウイの……いちばん……すきな……ばしょ……」
「きれいなところだね」
「……でしょ……」
ウイは、苔の真ん中に、ちょこんと座った。ミウも、その隣に、腰を下ろす。
霧が、ふたりのまわりを、ゆるやかに巡っていた。木々の幹が、乳白色の中に、ぼんやりと溶けている。世界の境目が、あいまいになって、ここだけが、世界から、切り取られたような静けさに包まれていた。
「……ここ……ね……」
ウイが、ぽつりと言った。
「……だれにも……おしえて……ないの……」
「クロエの、樫の木の場所みたいに?」
「……え……?」
ウイは、驚いたように、ミウを見た。
「……クロエ姉さんの……ばしょ……しってる……の……?」
「あっ」
ミウは、慌てて、口を押さえた。
「ごめん。クロエには、内緒にするって、約束したのに」
「……ふふ……」
ウイは、くすくすと、小さく笑った。
「……ウイ……しってるよ……クロエ姉さんの……かしのき……」
「え、知ってたの?」
「……うん……クロエ姉さん……ときどき……いなくなる……から……ついてって……みたの……」
「そうなんだ」
「……ないしょ……ね……?」
「うん。ふたりだけの、内緒」
ミウとウイは、顔を見合わせて、ひそひそと、笑い合った。
苔の上に、霧雨が、しとしとと降り注ぐ。ウイは、外套の頭巾を外して、顔を上げた。小さな顔に、細かな水の粒が、ぱらぱらと降りかかる。
「……きもち……いい……」
「冷たくない?」
「……へいき……ウイ……きりさめ……だいすき……」
ウイは、目を閉じて、霧雨を、全身で受け止めた。
ミウは、その姿を、じっと見つめた。
この子は、きっと、この霧の中にいるとき、いちばん、自分らしくいられるのだ。家の中で、誰かの声に囲まれているときよりも、ずっと、自由に。
そう思うと、ミウは、ふいに、胸の奥が、きゅっとなった。
「……ねえ、ウイ」
「……なに……?」
「どうして、今日、私を連れてきてくれたの?」
ウイは、目を開けた。
しばらく、考え込むように、霧の向こうを見つめていた。
「……ミウ……ね……」
「うん」
「……さいしょから……いたひと……みたい……なの……」
「え?」
「……ミウが……きたとき……あ、って……おもったの……」
ウイは、自分の膝の上で、指をいじりながら、ゆっくりと、言葉を探した。
「……しらない……ひと……なのに……しらない……ひと……じゃない……みたい……で……」
「……」
「……だから……こわく……なかったの……」
ミウは、息を、静かに吸い込んだ。
その言葉が、胸の奥の、どこか、深いところに、すとんと落ちた。
最初から、いた人。
知らない人なのに、知らない人じゃないみたい。
自分でも、同じことを、感じていた気がする。あの夜、玄関の前で、声を聞いたとき。見知らぬ家の灯りを見たとき。胸の奥が、きゅうっと、締めつけられた、あの感覚。
「……ウイ」
「……なあに……」
「私もね、同じこと、思ってた」
ミウは、そっと、ウイの手を握った。
「初めて、この家に来たとき、知らない場所なのに、知ってる場所みたいな気がしたの。どうしてなのか、わからないけど」
「……ほんと……?」
「うん」
「……いっしょ……だね……」
ウイは、嬉しそうに、頬を緩めた。
「……ミウ……いっしょ……」
「うん。いっしょ」
霧雨が、さらさらと、降り続けていた。
*
帰り道は、ふたりとも、少しだけ、無口だった。
丸太の橋は、今度は、ウイが、先に渡った。もちろん、まだ、足は震えていたし、ミウが、後ろからついて歩いて、時々、背中に手を添えてやった。けれど、それでも、ウイは、自分の足で、最後まで渡りきった。
「……ひとりで……できた……」
「うん。かっこよかった」
「……えへへ……」
ウイは、照れたように、笑った。
霧は、少しずつ、薄れ始めていた。木々の隙間から、淡い光が、斜めに差し込んで、地面の水たまりを、銀色に染めている。遠くの空の端が、ほんの少しだけ、明るくなっていた。
ウイの歩みが、少しずつ、遅くなっていった。
最初は、立ち止まるのが好きな子なのだと思っていた。けれど、次第に、それが、違うことに気づいた。足取りが、重い。瞼が、時々、ゆっくりと、下がりかける。
「ウイ、眠い?」
「……ううん……へいき……」
「ほんとに?」
「……へいき……」
そう答える声が、すでに、ぼんやりとしていた。
ミウは、少し考えて、ウイの前に、しゃがみ込んだ。
「乗って」
「……え……?」
「おんぶ。疲れたでしょう」
「……でも……ミウ……ちいさい……」
「そうだね。でも、ウイは、もっと小さいから、大丈夫」
ウイは、ためらった。それから、ミウの背中に、そっと、体を預けた。
思ったよりも、ずっと軽かった。まるで、綿でできているみたいに。ミウは、ぶかぶかの外套の裾を持ち上げて、ウイの足を、しっかりと腕で支えた。
「しっかり、つかまっててね」
「……うん……」
ウイの腕が、ミウの首に、きゅっと回される。小さな頬が、ミウの肩に、ぴたりと押し当てられた。
霧雨の名残が、ふたりの上に、細かく降る。
ミウは、ゆっくりと、歩き出した。
足元の草が、濡れて、靴の中までじんわりと染みてくる。けれど、背中の温かさが、それを、ほとんど気にならなくしていた。
ウイの呼吸が、ミウの耳元で、すう、すう、と、小さく響いている。
ミウは、ふと、思った。
この子は、いつも、こんなふうに、眠ってしまうのだろうか。
昨日の、エピカ。今朝までの、イード。そして、今、背中の上の、ウイ。
みんな、眠りに落ちるのが、早い。
深い、深い、眠りに。
胸のどこかで、小さな不安が、ちくりと疼いた。けれど、ミウは、その考えを、霧雨の向こうへ、押しやった。
考えても、仕方がない。今は、ただ、背中の温もりを、落とさないように、歩くだけだ。
「……ミ……ウ……」
眠そうな声が、耳元で、囁いた。
「うん?」
「……ありがと……」
「どういたしまして」
「……ミウ……いなくなら……ないで……ね……」
ミウは、足を止めた。
それから、ゆっくりと、答えた。
「いなくならないよ」
「……ほんと……?」
「うん。ウイが、起きてるときも、寝てるときも、ちゃんと、ここにいる」
「……やくそく……」
「約束」
小さな腕が、ミウの首を、もう一度、きゅっと抱きしめた。
それから、力が抜けて、ウイの体が、ずしりと重くなった。
眠ってしまったのだ。
ミウは、背中の重みを、そっと背負い直して、再び、歩き出した。
*
家に着いたとき、玄関では、アヤが、傘を持って待っていた。
「おかえりなさい。ずいぶん、遅かったわね」
「ごめんなさい。ウイが、疲れて眠っちゃって」
ミウは、背中の小さな寝顔を、振り返って見せた。
アヤは、そっと、ウイの顔を覗き込んで、柔らかく微笑んだ。
「まあ。ぐっすりね」
「うん。丸太の橋も、ひとりで渡ったんだよ」
「そう。頑張ったのね」
アヤは、ウイの髪を、そっと撫でた。それから、ミウのほうを見て、囁くように言った。
「ミウさん、ありがとう。この子が、こんなふうに、誰かに、おんぶされて帰ってくるなんて、初めてかもしれないわ」
「え、そうなの?」
「ええ。いつも、ひとりで、そっと出かけて、そっと帰ってきていたから」
アヤの瞳が、少し、潤んで見えた。
「あの子、きっと、あなたに、心を開いたのね」
「……そう、かな」
「ええ。きっとよ」
ミウは、少し照れくさくなって、頬を掻いた。
それから、ウイを、アヤに預けようとした。けれど、ウイの小さな手が、ミウの外套の襟を、きゅっと握りしめていて、離れなかった。
「あら」
「……ごめん。このまま、運ぶよ」
「そうしてくれる?」
「うん」
ミウは、ウイを背負ったまま、家の中へ入った。
居間では、ヴィヴィが、お茶を淹れていた。クロエは、針を片手に、窓際のテーブルで、何かを縫っている。エピカは、床に紙を広げて、ぶつぶつと台詞をつぶやいている。シオンは、台所で、鍋をかき混ぜていた。
「あら、おかえりなさい」
「ウイ、寝ちゃったの?」
「うん」
ミウは、小声で答えた。
「ここで、休ませてあげてもいいかな」
「ええ。そちらの長椅子を、お使いなさいな」
ヴィヴィが、顎で、暖炉の脇の長椅子を指した。
ミウは、ウイを、そっと、長椅子の上に降ろそうとした。けれど、ウイは、ミウの襟を握りしめたまま、離れない。
「……ミウ……」
寝言のような声が、漏れた。
「……ここ……いる……」
「うん。いるよ」
ミウは、観念して、長椅子に、ウイと並んで腰を下ろした。ウイは、ミウの膝の上に、ころんと頭を預けて、再び、すうすうと寝息を立て始めた。
その様子を見ていたクロエが、針を持つ手を止めて、ちらりとこちらを見た。
「……懐かれたの」
「うん。ちょっと、嬉しい」
「ふーん」
クロエは、ぬいぐるみを撫でながら、少しだけ、口元を緩めた。
「ウイが、あんなふうに、人に寄りかかって寝るの、初めて見たの」
「そうなの?」
「いつも、ひとりで、隅っこで丸くなってるの。あちしたちが近づくと、ちょっと、びくっとするの」
「……そっか」
「だから、ミウは、すごいの」
クロエは、そっぽを向いて、ぼそりと言った。
「……ま、あちしの見張りのおかげ、でもあるけど」
「ふふ。うん、ありがとう」
ミウは、ウイの髪を、そっと撫でた。
雨は、すっかり上がっていた。窓の外では、雲の切れ間から、夕方の柔らかな光が、庭を、淡い金色に染め始めている。
*
ウイが目を覚ましたのは、日が、すっかり落ちてからだった。
夕食の支度の匂いが、家中に満ちていた。暖炉の火が、ぱちぱちと小さく爆ぜている。ミウは、ずっと、長椅子の上で、ウイの頭を膝に載せたまま、動かずにいた。足が、少し痺れていたけれど、起こす気にはなれなかった。
「……ん……」
「おはよう、ウイ」
「……ミウ……?」
ウイは、ゆっくりと、目を開けた。焦点の合わない瞳が、しばらく、ミウの顔を、ぼんやりと眺めていた。
「……ウイ……ねてた……?」
「うん。ぐっすり」
「……ごめん……ミウ……あし……いたい……?」
「ううん。大丈夫」
「……ほんと……?」
「ほんと」
ミウは、嘘をついた。足は、じんじんと痺れていた。けれど、それよりも、ウイの寝顔を、もう少し、見ていたかった。
ウイは、むくりと起き上がって、小さな両手で、ごしごしと、目をこすった。
「……ゆめ……みてた……」
「どんな夢?」
「……きりの……なかで……ミウと……あるいてた……」
「うん」
「……でも……ミウ……だんだん……とおく……なって……」
ウイの唇が、わずかに、震えた。
「……よんでも……ふりむいて……くれなくて……」
ミウは、胸が、ちくりと痛んだ。
イードの夢と、同じだった。ひとりで、遠くへ、歩いていく自分。
「大丈夫だよ、ウイ」
ミウは、ウイの手を、しっかりと握った。
「私は、ここにいる。ほら」
「……うん……」
「それに、約束したでしょう。いなくならないって」
「……うん……」
ウイは、ミウの手を、じっと見つめた。それから、ごそごそと、外套のポケットを探り始めた。
「……ミウ……」
「うん?」
「……これ……あげる……」
ウイが、差し出したのは、小さな、丸い、白っぽい石だった。
手のひらにすっぽり収まるくらいの大きさで、表面は、霧雨に洗われたように、つるりと滑らかだった。ところどころに、淡い灰色の筋が入っていて、光にかざすと、うっすらと、水の色のように透けて見える。
「……きりさめの……ひに……ひろった……いし……」
「これを、私に?」
「……うん……ウイの……いちばんの……たからもの……」
ミウは、目を見開いた。
「そんな大事なもの、もらえないよ」
「……ううん……もらって……ほしいの……」
ウイは、石を、ミウの手のひらに、ぎゅっと押し込んだ。
「……ミウ……いなくなら……ないって……やくそく……したから……」
「うん」
「……この……いし……もってて……くれたら……ウイ……あんしん……できる……」
ミウは、手のひらの石を、じっと見つめた。
小さくて、ひんやりとしていて、でも、ウイの体温が、ほんのり残っていた。
「……ありがとう」
ミウは、静かに言った。
「大事にするね。ずっと」
「……うん……」
ウイは、嬉しそうに、ふにゃりと笑った。
ミウは、石を、胸元の布の内側に、そっとしまった。ちょうど、第5話でエピカからもらった紙を、しまった場所の隣だった。
*
夕食のあと、ウイは、また、すぐに眠くなってしまった。
器のスープを、半分も飲まないうちに、頭が、こくり、こくりと、揺れ始める。アヤが、そっと、ウイを抱き上げようとした。
「……やだ……」
ウイが、小さな声で言った。
「……ミウと……ねる……」
「あらあら」
アヤは、困ったように、ミウのほうを見た。
ミウは、少しだけ迷った。ヴィヴィが、眉をひそめているのが、視界の端に見えた。けれど、ウイの手が、ミウの袖を、ぎゅっと握りしめて離さない。
「……私の部屋で、よければ」
「ええ。お願いできるかしら」
「ミウさん、寝台は、おひとり用ですわよ」
ヴィヴィが、淡々と指摘した。
「大丈夫。ウイは、小さいから」
「……まあ、よろしいですわ。ウイを、床で寝かせるわけにもいきませんもの」
ヴィヴィは、ため息をついて、席を立った。
「予備の毛布を、お持ちしますわ」
「ありがとう、ヴィヴィ」
「お礼は、結構ですわ」
ミウは、ウイを抱いて、自分の部屋へ向かった。
窓辺の花は、今朝、アヤが、新しいものに替えてくれていた。薄紫の、小さな花だった。ほのかな香りが、部屋の空気に、柔らかく溶けている。
ミウは、ウイを寝台に寝かせ、ヴィヴィが持ってきてくれた毛布を、上から掛けてやった。それから、自分も、ウイの隣に、もぐり込んだ。
狭い寝台の中で、ウイの体温が、ほかほかと伝わってくる。
「……ミウ……」
「うん?」
「……て……つないで……いい……?」
「もちろん」
ミウは、毛布の中で、ウイの小さな手を探り当てた。ウイは、その手を、両手で、しっかりと包み込んだ。
「……ミウ……もいっしょ……」
「うん。ミウもいっしょ」
「……ずっと……」
「うん。ずっと」
ウイは、ほっとしたように、息を吐いた。
それから、ほんの数呼吸のうちに、すうすうと、規則正しい寝息に変わった。
ミウは、暗い天井を、しばらく見つめていた。
窓の外では、夜風が、静かに庭を撫でている。部屋の中には、花の香りと、ウイの寝息と、毛布の温かさがあった。
ミウは、ウイの小さな手を、そっと握り返した。
ふと、思う。
この手は、とても小さい。けれど、この小さな手が、今日、自分に、ゆっくり見ることを、教えてくれた。立ち止まることの豊かさを。霧の中に隠れていた、宝石のような世界を。
そして、この手を握っていると、胸の奥が、どうしようもなく、あたたかくなる。
守りたい、と思った。
この子を。この家の、みんなを。
それが、どれほど大きな願いなのか、ミウは、まだ、知らなかった。
ただ、その願いは、霧雨のように、静かに、ミウの胸の奥に、染み込んでいった。
やがて、ミウも、ゆっくりと、目を閉じた。
ふたりの手が、毛布の中で、固く、結ばれたまま。
窓の外では、細い月が、雲の切れ間から、静かに顔を覗かせていた。