月に変わって⚪︎⚪︎よ! 作:彩葉とヤチヨはどれだけ曇らせてもいい
ピピピ───、無機質なアラーム音が鳴り響く。
東京に引っ越してきてから、幾度となく聞き続けてきたその音。今ではすっかり身体に染みついてしまい、鳴った瞬間に反射的に目が開くという、なんともありがたくない体質になってしまった。
しかし、まだ瞼は重たい。もう少しだけ──────いやいや、ダメだっ!
「っんー!」
やる気を出すための五秒ルールを、さらに短縮した一秒ルール。自分でも驚くほどの勢いで布団を跳ね除け、私は爆速起床を果たした。
枕元のスマホを手に取り、スヌーズを切ってアラームを止める。ついでに時刻を確認すれば、午前六時。
今日は六月五日、土曜日。
学校は休みとはいえ、私には手を休めている暇などない。
───無理は怠けモンの言い訳や。私は私が出来たことしか言うてへんよ。
頭の中に響く、母の声。
私にとって、母は絶対の指針だった。
遥か先を歩くその背中は、今の私にはまだ遠い。同じ道を歩いているつもりでも、影にすら手が届かない。だからこそ、少しでも近づけるように努力しなければならない。
まずは洗濯機に洗剤を投入し、スイッチを入れる。
ゴウンゴウンと低い音を立てて動き始めたのを確認すると、洗面台へ向かった。歯ブラシに歯磨き粉を少々。口の中に広がるミントの爽快感が、まだ眠気の残る頭を少しずつ目覚めさせていく。
洗面台の鏡に映る自分の姿を見て、思わず眉を寄せた。
寝癖であちこち跳ねた髪。華の女子高生とは到底思えない、我ながらなんとも残念な有様である。
とりあえず、歯磨きの後に洗顔できるようヘアバンドを装着。
すると、どうだろう。
ライオンもかくやというほどの爆発具合が、いっそう際立ってしまった。
うーん。絶対に人前には出られない。
特に、水無月さんの前には……。
────って、なんでそこであの人が出てくるの!?
私はぶんぶんと頭を振り、浮かんだ考えを追い払った。
おかしいでしょ! ないない、あり得ない!
水無月さんは誰にでも優しくて、ただお人好しで世話焼きなだけだ。たまたま私が隣に越してきて、困っているところを見かねて色々と世話を焼いてくれている。それだけ。
水無月さんにとって、私はただの隣人。
ただの、ただの──────。
……ただの、なんだろう。
そこまで考えて、私は口の中で歯磨き粉の泡をもこもこと膨らませた。
ジャッコジャッコと歯ブラシを動かし、口内を隅々まで磨いていく。やがて泡を吐き出し、水を含んで口をゆすぐ。最後に鏡の前で、いーっと歯を見せて磨き残しがないか確認。
うん。オッケー、大丈夫そう。
続けて両手で水をすくい、顔を濡らす。
洗顔フォームを手に取りながら、ふと思い出したのは親友の
美容系ライバーとしても活動している彼女曰く、洗顔フォームは手の中で少しずつ水を足しながら泡立て、きめ細かな泡を作るのが大切らしい。ふわふわのスムージーみたいな泡にしてから洗うと、肌にも優しくて綺麗になるのだとか。
専門的なことはよく分からないけれど、美容に関しては頼りになる芦花の言葉だ。ここは素直に従っておこう。
私は手のひらを擦り合わせ、無心になって泡を育てていく。
ふわふわ、もこもこ。
少しずつ膨らんでいく泡を眺めながら、ふと、さっきのことを思い出した。
水無月さんにとって、私はただの隣人。
それはきっと、間違っていない。
でも、私にとって水無月さんは?
昨日は誕生日を一緒にお祝いできた。ヤチヨのライブにも連れていってもらった。今朝だって、また一緒に行こうと言ってくれた。
思い返せば、嬉しかったことばかりだ。
そのたびに胸の奥が少しだけ落ち着かなくなるのは、どうしてだろう。
「───水無月さんは、私のことどう思ってんだろ」
ぽつりと漏れた声は、泡だらけの洗面台に小さく溶けていった。
ひとしきり洗顔を終え、蛇口をひねって手のひらに残った泡を洗い流した。
冷たい水で顔をすすぐ。
あぁ〜、頭が冴えてく感じする。
頬を伝って落ちていく水滴をタオルで押さえ、鏡を覗き込む。続いてヘアバンドを外し、洗面台の棚に置いていた寝癖直しウォーターを手に取って髪に吹き付ける。
櫛を手に持ち、髪を傷めないようにゆっくりと梳かしていく。
少しばかりぴょこりと跳ねる寝癖と格闘してから、ドライヤーのスイッチを入れた。
ぶぉおお、と音をあげる定価千九百八十円のドライヤー。最近、どうも風量が弱くなってきている。
イヤだなー、まだ壊れないでくれよ頼むから〜。
そんな願いを込めながら髪を乾かせば、
「よしっ」
先ほどまでのライオンは大人しくなっていた。
これなら人前に出ても問題ない。
化粧水を手に取り、肌に馴染ませる。
続けて乳液を薄く伸ばし、芦花に教えてもらった手順をひと通り終えたところで、ようやく一息ついた。
時刻は午前六時二十分。
まだまだ時間には余裕がある。
洗濯機が回り終わるまでに身支度を整えて、洗濯物を干す。それから部屋の掃除を済ませれば、午前中は勉強に充てられる。
土曜日の予定は、いつもそんな感じだ。
平日に習った内容を復習して、来週の授業範囲を予習する。学校が休みだからといって、勉強まで休みにする理由はない。
品行方正、成績優秀、文武両道。その三つを貫き、隙のない女子高校生として過ごして初めて、あの人の後ろ姿を拝むことが出来るのだ。
その為には、努力し続けるしかないのだから。
───人に認められて初めて努力したいうんや、あんたのはただの怠慢やで。
そう、その為には、泣き言なんて言っていられないのだから。
……うん。いつもどおりだ。
いつもどおりの朝。いつもどおりの休日。
なのに、どうしてだろう。
頭の片隅には、さっきからずっと水無月さんのことが居座っている。
この時間だって、少しでも勉強に充てなければならないのに。
昨日のことを思い返す───。
誕生日を一緒にお祝いして、ケーキを食べて。それから、ヤチヨのライブに連れていってもらった。
思い出すだけで、胸の奥がふわりと温かくなる。
あんなに近くでヤチヨの歌を聴けたことも、ライブの景色も、もちろん忘れられない。けれど、それと同じくらい、隣に水無月さんがいたことが印象に残っていた。
私が興奮して騒いでも、呆れたりせずに付き合ってくれた。
ライブが終わった後も、私の話を聞いてくれた。
私から誘ったら、また一緒に行ってくれるかな?
───うん、彩葉ちゃんがいいなら一緒に行きたいな。
なんて、言ってくれたり。
そんなことを考えていると、自然と口元が緩んでしまう。
……いやいやいや! これじゃただの変態じゃん!
落ち着け、私。
別に、特別な意味なんてない。
水無月さんは元々、誰にでも優しい人なのだ。昨日だって、誕生日のお礼として誘ってくれただけ。
まだ言われてもいないことを想像して、勝手にニヤけてるなんてフツーにやばいでしょ、私。
こんなのまるで、私が水無月さんのこと─────────
ばちんっ!
頬を両手で叩いて、頭を切り替える。
ないない。頼れる人がいない環境で、私に目を掛けてくれているだけ。だから、ちょっと特別に考えすぎているだけだ。そんな感情を抱くなんて、あってはいけない。
なにより、そんな感情を抱いたら、親切にしてくれているだけの水無月さんに失礼だろ、酒寄彩葉!
そう自分に言い聞かせる。
……それでも。
また一緒に行けたらいいな、と思ってしまう。
もう一度、あの歌を聴きたい。
もう一度、あの景色を見たい。
そして、その隣には────。
「……あー、もうっ!」
考えるのをやめた。ホントーにやめた。
これ以上は時間の無駄。朝から一人で何をやっているんだ、私は。
気を取り直してリビングに戻ると、窓から差し込む朝日が、カーテンの隙間から床の上に細長い光の帯を作っていた。
六月の朝は、もうすっかり夏の気配を帯びていた。
カーテンを開け、窓を少しだけ開放する。
涼しい風が頬を撫でた。
「これだけ涼しかったら、まだ扇風機出さなくてもいいかな」
網戸にして、できるだけ自然の風で過ごす。少しでも電気代を節約しなければ。
ふと、視線を隣へ向けた。
私の目に映ったのは、隣のベランダ。
人気のないその場所にも、朝の光が差し込んでいた。
そこに水無月さんの姿はない。
当然だ。
まだ朝の六時過ぎなのだから、寝ていたっておかしくない。
そもそも、休日の朝から隣人の様子を気にしていること自体、どうかしている。
私は窓を閉め、網戸にしてからキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けると、扉の内側に見慣れたパッケージが一本、立てかけてあった。
水無月さんから貰ったエナジーゼリーだ。
以前、食事を抜いていることを知られたときに、何本か持たせてくれたものだった。別に食べなくても平気だと言ったのだけれど、彼は困ったように笑って、せめてこれくらいは、と譲らなかった。
……本当に、こういうところだと思う。
だから私だって変な勘違いをしてしまうのだ。あの親切が皮を被って歩いているクソボケ男め。
私は一本を取り出し、キャップを開けた。
朝食と呼ぶにはあまりにも簡素だけれど、何も口にしないよりはいい。水無月さんの気遣いを無下にするのも、なんだか申し訳ないし。
中身を少しずつ飲みながら、時計を確認する。
洗濯機の終了までは、あと五分。
飲み終えた容器を片付け、洗濯物を干したら、机に向かって勉強するのだ、私は。
午前六時二十五分。
洗濯機の終了を知らせる電子音が鳴った。
私は空になったエナジーゼリーの容器をゴミ箱に捨て、洗濯機の前へと向かう。
蓋を開けると、洗剤の爽やかな香りがふわりと鼻をくすぐった。
洗濯物を一つずつ取り出し、ベランダに運ぶ。ハンガーに掛けて、皺を伸ばし、風通しがよくなるように間隔を空けて干していく。
「これぐらいの気温だったら、お昼前には乾いてそう」
スマホの天気アプリによれば、今日は快晴。予想気温を考えても、この量ならすぐに乾くだろう。
最後に念のため洗濯槽の中を確認して、忘れ物がないことを確かめれば完了。
よし、洗濯終わり。
続いてするのは掃除だ。
掃除機をかけるほど広い部屋ではないので、苦学生の味方である百均で見繕ったフローリングワイパーで、まずは床を拭く。次にテーブルや棚の埃を払い、キッチン周りも軽く片付ける。特段汚れているわけではないけれど、こういうところは日頃から手を抜かないのが大事なのだ。
これで、ひとまず今日の家事は終わり。
時計を見れば、午前七時を少し回ったところだった。
予定より順調。
これなら勉強に使える時間も十分に確保できそうだ。
アラームを十一時半に設定して、勉強に取り掛かるとしよう。
私は机の上に教科書とノートを広げ、昨日の授業で扱った範囲を振り返ることにした。
まずは数学。
授業中に解いた問題をもう一度解き直し、間違えた箇所や、少しでも引っかかりそうなところには印をつける。
続いて英語の単語と文法を確認し、最後に来週の授業範囲をざっと読み込んでおく。
分からないところをそのままにしない。
できることを一つずつ積み重ねる。
それが、今の私にできることだから。
……とはいえ。
ページをめくる手が、ふと止まった。
視線の先にあるのは、英語の教科書。
なのに、頭の中に浮かんでいるのは、昨日のライブの光景。
いや、違う───正確には、その帰り際のこと。
水無月さんと過ごした時間。
誕生日を一緒にお祝いして、ヤチヨのライブに連れていってもらった。
あの時の興奮も、感動も、今だって鮮明に覚えている。
……また行けたらいいな。
そんなことを考えて、私は小さく首を振った。
ダメダメ。今は勉強中だって! さっき、その考えは止めようって誓ったでしょうが!
余計なことを考えるのは、全部終わってから!
そうして、再び問題に取り掛かった。
それから何度か集中が途切れそうになりながらも、どうにか予定していた範囲を終えた頃───ピピピ、とアラームが鳴った。
時計の針は、予定どおり午前十一時半を指していた。
「ふぅ……」
背もたれに身体を預け、凝り固まった肩を軽く回す。
余計なことに気を取られて、無駄に疲れた気がする。
だが、しかし。予定どおり、午前中の勉強は終了だ。
ノートを閉じ、教科書を重ねて机の端へ寄せた。
少し休憩しよう。
そろそろお昼時だし、せっかくだから何か食べようかなー。
そう考えて椅子から立ち上がり、冷蔵庫の中を確認する。
昼食に何を用意しようかと考えながら、残っている食材を頭の中で数えていく。
買い足すものは……今のところなさそう。というか、そんな余裕もないか。
冷蔵庫の片隅では、先日賄いで貰った店長お手製のタコライスが鎮座していた。まるで、早く食べろと言わんばかりに私を睨んでいる。
わかったわかった。今日はあなたから先に食べるから、そんな顔で見てこないでよ。
そんなことを考えていた、その時だった。
───ポロン。ジャカジャカジャカ。
隣の部屋から、ギターの音が聞こえてきた。
調整しているのだろうか。何か一曲を弾いているというよりは、音を確かめているような鳴り方だった。
そういえば、昨日水無月さんの部屋に入った時、年季の入ったアコースティックギターが目に入った。
普段はあまり意識していなかったけれど、あれを弾くんだ。
暇つぶしにでも弾くのかな。
最初はそんなことを思いながら、どんな演奏をするんだろう、なんて考えていた。
けれど、その矢先だった。
続けて聞こえてきた旋律に、私は思わず動きを止める。
───あ、れ?
聞き耳を立てているみたいで少し嫌だったけれど、どうしても気になって、私は意識を音へと向けた。
音が鳴る。
ゆったりとしたテンポ。
どこか懐かしくて、少しだけ切ない旋律。
───
いや、忘れるはずがない。
だって、
記憶の奥底にしまい込んでいたはずなのに、たった数音を聞いただけで、鮮明に蘇ってくる。
「……
ありし日の情景が目に浮かぶ。
その景色の向こうで、お父さんがピアノを弾いていた。
鍵盤の上を滑るように動く指先。
音を確かめるように、時折目を閉じながら旋律を奏でる姿。
その傍らで、私は小さな椅子に座り、時折手拍子を交えたりしながら、父の演奏を聞いていた。
そんな光景が、頭の中に浮かんでは消えていく。
「……
───この曲を弾いているんだろう。
水無月さんが音楽の仕事をしていることは知っている。
だから、何かしらのきっかけで父の曲を知ったのかもしれない。こうしてギターで弾いていることだって、何も不思議ではないはずだ。
それでも。
自分の知らないところで、父の音楽が誰かの中に残っていた。
それも、今こうして
その事実が、なんだか不思議だった。
私は冷蔵庫の扉を閉め、音のする方へと視線を向ける。
もう一度、ギターの音が響いた。
今度は、先ほどよりもはっきりと旋律を追うことができた。
間違いない。聞き間違いなんかじゃない。父が弾いていた、あの曲だ。
「───なんで、知ってるん?」
……水無月さんに、聞いてみようかな。
そう思ったものの、すぐには足が動かなかった。
もうしばらく、このまま彼の奏でる音の中で父を思い出していたかったのかもしれない。
だけど、それ以上に、私はあの人に何を聞けばいいのだろう。
どうしてこの曲を知っているの?
いつから弾いているの?
父のことを、知っているの?
聞きたいことはいくつも浮かぶ。
けれど、どれも今すぐ口にしていいのか分からなかった。
私は一度、息を吐いた。
別に、難しく考えることじゃない。
隣人同士、少し話をするくらい普通のことだ。
「……そう、普通のこと」
父の曲を弾いている理由が気になる。
それだけだ。
そう自分に言い聞かせて、私は玄関へと向かった。
※
───コン、コン。
アコースティックギターの弦を軽く爪弾いていたところで、玄関の方から控えめなノックが聞こえた。
誰だろう。
宅配便の予定はなかったはずだけど。
僕は膝の上に置いていたギターをそっと脇へ立てかけ、玄関へと向かった。
覗き穴を確認すると───そこには見知った隣人の姿があった。
珍しい、こんな時間に。
ドアを開ければ、
「こんにちは、水無月さん」
「こんにちは、彩葉ちゃん。どうしたの?」
そこにいたのは、隣人である彩葉ちゃんだった。
いつもと変わらない制服姿───ではなく、今日は休日らしく、少しばかり動きやすそうな部屋着だ。見慣れない格好だからか、どこか新鮮に感じる。髪も綺麗に整えられているし、これから何か予定でもあるのだろうか。
もっとも、そんなことをわざわざ口にするほどでもない。
それよりも、彼女がどこか落ち着かない様子なのが気になった。
僕の顔を見ては視線を逸らし、何かを言いかけては口を閉じている。
何だろうか。僕、何かしただろうか?
「……もしかして、何か用事? 昨日、忘れ物でもした?」
「あ、いえ。そうではなくて……」
「うん?」
では、何だろう。
少し考えてみるものの、これといった心当たりは浮かばない。
すると、彼女は意を決したように顔を上げた。綺麗な黒色の瞳と、まっすぐに視線が交わる。
「さっき、ギター弾いてましたよね?」
「ああ、うん。聞こえてた?」
「はい。それで、あの……」
言い淀む彩葉ちゃん。
何か気になることがあるらしい。
……あ゛っ。もしかして───。
「ごめんね。もしかして、音がうるさかった?」
「いえ! そういうわけじゃないです!」
思ったよりも大きな声が返ってきた。
どうやら、苦情というわけではなさそうだ。
「ただ、その……さっき弾いてた曲なんですけど」
「曲?」
僕が聞き返すと、彩葉ちゃんは少しだけ表情を引き締めた。
「お父さんの──────酒寄
……なるほど。そういうことか。
やっぱり、そうだったんだな。それで、彩葉ちゃんは気づいたんだ。
「うん。そうだよ」
「……やっぱり」
彼女は小さく息を吐いた。
確かめたかったことが確信に変わった、という顔だった。
「どうして。どうして、水無月さんは、父の曲を知ってるんですか?」
「どうして、かぁ……。それはね。昔、直接演奏を聴いたことがあるからだよ」
「直接、演奏……?」
「うん。小さい頃にね」
そう答えると、彩葉ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「お父さんの演奏を聴いたことがあるんですか?」
「あるよ。直接話をしたことはないけどね」
「それって、いつ頃の話ですか?」
「僕がまだ小さかった頃。確か……小学校高学年になる前後だったかな」
そう言って、顎に手をやる。
記憶を辿る。ずいぶん昔のことだ。細かな日付や会場の名前までは、もう覚えていない。
それでも、あの時の音だけは今もずっと心に残っている。
「当時、僕はね。児童養護施設で暮らしていたんだけど、ある日、施設の行事で演奏会に連れていってもらったんだ」
「施設……」
こういった話は、多感な年頃の彼女には少しばかりセンシティブだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。けれど、話の始まりを辿るなら、避けては通れないことでもある。
「そこで演奏していたのが、彩葉ちゃんのお父さん。───酒寄朝久さん」
彩葉ちゃんの目が、わずかに見開かれる。
その双眸が、驚きからかゆらりと揺れた。
「……そう、だったんですね」
「小さな会場だったと思う。子供の僕には、ステージもピアノも随分と大きく見えたよ」
彼女の相槌に頷きながら、そう語る。
目を閉じれば、あの日の光景が思い浮かぶ。
客席に並んで座る、僕を含めた施設の子供たち。その後ろには、引率してくれた職員の人たちがいた。
隣の子と小声で話す声や、落ち着かない様子で足を揺らす子もいた。
僕も最初は、周りと同じように何となく座っていたんだと思う。
転生して人生二周目ということもあって、どちらかといえば職員側に近い気持ちだったかもしれない。僕がこの子たちを見ていてあげないとなぁ、なんて思っていた気もする。
けれど、演奏が始まった瞬間。
そんな雑音は、いつの間にか気にならなくなっていた。
衝撃だった。
前の生でも、今生でも、あれほど心を揺さぶられたことはなかった。
「それまで、ちゃんとした演奏会なんて行ったことがなかったからね。あるのは精々、小学校の合唱コンクールくらいで。最初は何が始まるのかもよく分かっていなかったんだけど……」
演奏者である酒寄朝久さんが、鍵盤に触れる指先。
その瞬間、まるで物語を語る語り部のように、静かに音が流れ始めた。
それが少しずつ重なり、会場全体を満たしていく。
「気づいたら───夢中になって聴いていた」
「……お父さんの演奏を?」
「うん。すごく綺麗な音だった。心にすっと入り込んでくるような音でね。どうしてあんな音が出せるんだろうって、ずっと考えていた気がする」
演奏が終わった後も、しばらく席を立てなかった。
もう一度聴きたい。
自分でも、あんなふうに弾いてみたい。
それまでの僕は、本当に受動的で、何かを自分から始めたいと思うことなんてほとんどなかった。
それなのに、あの時ばかりは違った。
心を揺さぶられた衝撃が、そのまま何かをしたいという衝動に変わっていた。
「それが、僕が音楽を好きになったきっかけかな」
「水無月さんが……」
「そう。それから、ピアノを弾いてみたくなったんだ」
ただ、現実はそう簡単ではなかった。
「でも、ピアノを習うにはお金もかかるし、施設にもそこまでの環境はなかった。僕には、そういう機会がなかったんだよね」
諦めるのは簡単だった。
けれど、何故か諦めたくないと思った。
「……」
「だから、諦めたというよりは、別の方法を探したんだ。自分でも音を奏でられる楽器がないかなって」
そんな折、僕があまり自分から何かを欲しがる子供ではなかったからか、施設の職員さんが昔使っていたギターを譲ってくれた。
そこで初めて僕が手に取ったのが、ギターだった。
「ピアノとは全然違うけど、弦を押さえて音を出すところからなら、自分でも始められそうだった。何より、これを逃したら何もかも手放してしまいそうで。それでギターを手に取ったんだよ」
思い出して、苦笑する。
手のかからない子供だったんだろうけど、人生二周目だというのに、あの瞬間ばかりは随分と落ち着きがなかった。
「それが、今弾いてるギターなんですね」
「そういうこと。最初は簡単なコードを覚えるところからだったよ。指は痛いし、思うように音は出ないし。でも、それが楽しかったんだ」
いくら僕が、
それに、
思い返せば、上手くいかないことそのものが楽しかったからこそ、ここまで続けてこられたのかもしれない。
「なんだか、意外です」
「そうかな?」
「はい。なんとなくですけど、水無月さんって、何でもそつなくこなせそうなイメージがあるので」
「それは買い被りすぎだよ。僕だって、できないことはあるよ」
まあ、
実際、音楽を始めたばかりの頃は散々だった。
指先が思うように動かず、何度も同じところでつまずいた。本当に何回も、何回もつまずいた。
それでも、弾けるようになりたいと思った。
誰かに褒められたいとか、上手くなって何かを成し遂げたいとか、そういう大層な理由ではない。
ただ、あの時に聴いた音に、少しでも近づいてみたかった。
「……そっか」
彩葉ちゃんは小さく呟いた。
視線は僕の方を向いているけれど、どこか遠くを見ているようにも思えた。
まるで、僕を通して朝久さんを見ているようで。
「───お父さんの演奏が、水無月さんのきっかけになったんですね」
「うん。ここだけの話ね。彩葉ちゃんと出会った時、酒寄って聞いて、もしかしてって思ったんだ」
「……だから、ですか? 私を気にかけてくれるのは」
少しばかり臆病さを孕んだその問いに、僕は答える。
「そうだね。最初は、そうだった。今の自分があるのは、朝久さんのお陰だから。同じ酒寄って苗字を聞いて、勝手に彩葉ちゃんのことを気にかけていた。彩葉ちゃんのことなんて何も知らないのに、君を通して勝手に恩を返しているつもりになってた」
「…………そう、ですか」
彼女の声が、わずかに沈む。
やっぱり、そう思わせてしまったか。
「───でもね、今は違うよ」
「えっ?」
彼女の不安が少しでも払えたらいい。
そう思う一方で、こんな顔をさせてしまっているのは僕なのだから、始末に負えない。
「今は、彩葉ちゃんだから。彩葉ちゃんだから気にしてるんだよ。何をしてるかな、大丈夫だろうか、何か僕にできることはないかなって。笑顔になってくれるといいなってね」
「ぁ、ぅ……」
「君が僕を気にかけてくれるように、僕も君に助けられてる。今の生活に少なからず彩りをつけてくれたのは、君だよ、彩葉ちゃん。だから───ありがとう」
「も、もぅ。わかりました、わかったからやめてください! 恥ずかしいです、水無月さんっ!」
あまり褒められ慣れていないからか、顔を真っ赤にして言う彼女が可愛くて。
思わず笑ってしまう。
「どうして笑うんですか!」
「ふふ、ははは───っ。ごめんね、笑っちゃって。彩葉ちゃんが可愛くて、ついね」
「か、わ……いい──────っっっ!? み、水無月さん、からかわないでください!」
更に赤面する彩葉ちゃんがおかしくて、また笑う。
ああ、久しぶりにこんなに笑ったかもしれない。そう思うくらいには、声をあげて笑っていた。
さっきまでのシリアスな空気はどこへやら。そんなことを思うほど、玄関先には明るい声が響いていた。
・
・
・
それから少しして。
ずっと玄関先で話していたことに気づき、彩葉ちゃんを部屋へと招き入れてお茶を出した。
彼女も先ほどの会話の余韻が少しばかり落ち着いてきたのか、頬の赤みもすっかり引いている。
「───さっきの話の続き、してもいいですか?」
「話の腰を折ってごめんね。もちろん、いいよ。ゆっくり話そう」
姿勢を正し、コップを置いた彩葉ちゃんは、僕のギターに一度視線をやってから、ゆっくりと話し始めた。
「私、お父さんが演奏しているところは覚えてるんです。小さい頃、家でよくピアノを弾いてくれていて」
「そうなんだ」
「私も隣に座って聴いてました。時々、手拍子をしたり、買ってくれた小さい電子ピアノを弾いたりして」
先ほどまで聞こえていたギターの旋律と、彼女の記憶の中にあるピアノの音。
きっと、今の彼女の頭にも、僕が弾いていた曲が浮かんでいるのだろう。
「だから、さっきの曲もすぐに分かったんだね」
「はい。ギターで聴くのは初めてでしたけど、間違いなくお父さんの曲でした」
そう言って、彼女は少しだけ笑った。
「……なんだか、不思議ですね」
「不思議?」
「はい。お父さんが弾いていた曲を、今こうして水無月さんが弾いているのが」
「僕も、こうして彩葉ちゃんのお父さんと繋がるとは思っていなかったよ」
そう言った後、彩葉ちゃんはもう一度コップに口をつけた。
お茶を一口飲んでから、ゆっくりとこちらに向き直る。
「……ありがとうございます」
「え?」
思いもしなかった言葉だった。
飛び出したのは、お礼の言葉。
「お父さんのこと、覚えていてくれて。お父さんの音楽を、今も奏でてくれて」
彩葉ちゃんは、少し照れたように笑った。
その表情が、どこか大人びて見える。
綺麗な笑顔だと思った。
「なんだか、嬉しいです」
「それなら、弾いてよかった」
僕は素直にそう返した。
彼女の父親は、僕にとって音楽を始めるきっかけをくれた人だ。
その娘である彼女が、今こうして目の前にいる。
そう考えると、随分と不思議な縁だと思う。
僕も自分の分のお茶を口に含み、ゆっくりと昔の思い出に浸った。
少しの間、二人の間に沈黙が落ちた。
気まずいものではない。
むしろ、さっきまで話していたことを、それぞれの中で整理しているような時間だった。
「……水無月さんは」
やがて、彩葉ちゃんが口を開いた。
「ずっと、その───施設で暮らしていたんですか?」
「そうだね。物心つく前から高校を卒業するまで、ずっとお世話になっていたよ」
「高校を卒業するまで……」
何か思うところがあるように呟く彩葉ちゃんに、言葉を返す。
「うん。親の顔も知らないし、気づいた時にはもう施設にいたから」
まあ、実際には、それくらいの頃には二度目の人生なんだと分かって、状況を理解するのに苦労していたのだけど。
物心がつくのとはまた別の話だし、荒唐無稽なことを説明する必要もない。
僕にとっては、特別隠すような話でもない。
ただ、初めて聞く人にとっては、少し重い話なのかもしれない。
「施設には、僕と同じような境遇の子がたくさんいたよ。職員さんもいたし、年上の子も年下の子もいてね。毎日それなりに賑やかだった」
「……そうなんですね」
「もちろん、全員と仲が良かったわけじゃないけどね。年下の子の面倒を見たり、みんなで遊んだり。今思えば、結構楽しかったよ」
あそこには、何だかんだで僕を気にかけてくれる人がいた。
何をしても、何を言われても、どこか受け身で無気力だった僕を見てくれる人たちがいた。それは、すごくありがたいことだったと思う。
帰る場所があって、名前を呼んでくれる人がいて。
くだらないことで笑い合えるような人たちがいた。
血の繋がりはなくても、今生の僕にとっては家族に近い存在だったと思う。
「だから、あの演奏会も施設の人たちが連れていってくれたんだ。ああいう機会がなかったら、僕は音楽に出会っていなかったかもしれない」
「……そっか」
彩葉ちゃんの声が、少しだけ小さくなった。
何か考えているのだろうか。
彼女は視線を落とし、指先をそっと重ねていた。
「彩葉ちゃん?」
「あっ、すみません。ちょっと考え事を……」
「別にいいよ」
いや、本当に。
僕もよくあることだしね。
もしかして、僕の癖が移ったりしていないかな。そうだと少し申し訳ないなぁ。
そんなことを考えていると、
「……水無月さんは、施設で暮らしていたことを、どう思ってるんですか?」
思いがけない質問だった。
「どう、か……」
僕は少し考える。
「特に、悪い思い出ばかりじゃないよ。もちろん、両親がいて、という普通の家庭とは違うところもあったけど」
「普通の家庭……」
「でも、僕には僕を育ててくれた人たちがいたし、一緒に過ごした仲間もいた。だから、自分の育った環境を不幸だったとは思っていないかな」
そう答えると、彩葉ちゃんは僕の顔をじっと見つめた。
その瞳には、先ほどまでとは違う色が浮かんでいるように見えた。
「……羨ましいです」
ぽつりと呟かれた言葉。
「え?」
あまりに小さな声だったので、一瞬聞き間違えたかと思った。
いや、でも確かに今、羨ましいと。
「いえ……何でもないです」
彼女はすぐに首を振った。
けれど、その表情にはどこか言葉にしきれないものが残っていた。
「彩葉ちゃん?」
「……私は、小さい頃に父を亡くしているので」
そう言って、彼女はゆっくりと話し始めた。
そうか。あの人の演奏をもう一度聴きたくて調べた時、亡くなったという記事を見つけた。
あの時は僕も衝撃を受けたけれど、彩葉ちゃんにとっては、それ以上のものがあったのだろう。
「父のことは、今でも覚えています。でも、覚えていることは少なくて。もっと一緒にいたかったなって、今でもふと思うこともあります」
目を閉じて、ゆっくりと語る彼女の言葉に、ただ相槌を返すことしかできない。
なんと僕は無力なのだろうか。そんなことを思う。
「そうだったんだ」
「はい」
僕は余計な言葉を挟まず、彼女の話に耳を傾けた。
今はただ、それしかできることがないのだから。
「それからは、お母さんと歳の離れた兄の三人で暮らしてきました。……お母さんは、すごく頑張っていた人なんです。私や兄を育てるために、一人で色々なことをしてくれて」
そこで彼女は、一度言葉を切った。
「でも……」
続く言葉を探すように、視線が揺れる。
「うまく言えないんですけど。お母さんのことを尊敬している部分もあるし、そうじゃない部分もあって」
その声には、少しだけ苦いものが混じっていた。
「私、お母さんに認めてもらいたくて、ずっと頑張ってきたんです。勉強も、生活のことも。ちゃんとできる子になれば、いつか認めてもらえるんじゃないかって」
彼女が普段から自分に課している努力。
その理由が、少しだけ見えた気がした。
「でも、どれだけ頑張っても、足りないって思ってしまうんです。お母さんの言葉が、ずっと頭の中に残っていて……あの人は私と同じ歳の頃には、もっとずっと先を進んでる」
彩葉ちゃんは、そこで小さく笑った。
けれど、それは楽しそうな笑顔ではなかった。
「だから───家を出て東京に来たんです。自分の力で生きてみたくて。息苦しさから解放されて、自由に生きたくて。少しでも母と同じ道を辿れば、何かが掴めるかもしれないと思って」
「そっか」
「……ごめんなさい。急にこんな話、重たいですよね」
そう言って、自嘲するように笑う姿が見ていられなかった。
「謝ることじゃないよ」
僕はそう答えた。
それが少しばかりの救いになるならいいと思ったし、それとは別に、本当に謝るべきことではないのだと気づいてほしかった。
彼女の話を聞いて、僕は少しだけ考える。
父親の顔を知らずに育った僕と、幼い頃に父親を亡くした彼女。
境遇は違う。
僕には父親との思い出がないけれど、彼女には確かに父親と過ごした時間がある。
それでも、どこか似たものを感じたのかもしれない。だから、こうして辛いことを思い出しながらも、僕に話してくれているのだとすれば。
「僕も、家族についてはあまり普通じゃなかったからね」
「……はい」
「でも、彩葉ちゃんの話を聞いていると、僕とはまた違う大変さがあったんだろうなって思う」
僕の思いが伝わればいいけど。
「違う……?」
戸惑う彼女に、言葉を続ける。
「うん。僕には、帰る場所があったから。施設の人たちがいて、仲間がいて。彩葉ちゃんには、彩葉ちゃんの事情があったんだと思う」
彼女は何も言わず、僕の言葉を聞いていた。
「だから、無理に同じだと思わなくてもいいんじゃないかな。似ているところがあったとしても、僕たちは別々の場所で、それぞれの時間を過ごしてきたんだから」
「……そうですね」
彩葉ちゃんは視線を落とした。
その横顔には、まだわずかな戸惑いが残っている。
彼女は僕の話を聞いて、自分と似ていると思ったのかもしれない。
そして、そう思った自分に、何か引っかかるものを感じているのかもしれない。
僕には、その気持ちを正確に理解することはできない。
だから、無理に踏み込むつもりもなかった。
それをする資格は、僕にはないのだから。
「でも、」
彼女が小さく口を開く。
「水無月さんの話を聞けて、よかったです」
「そう?」
強い子だ、本当に。
十七歳の女の子だとは思えないほど、芯が強い。
「はい。今まで知らなかったことを、知れたので」
ほら、また彼女は無理をする。
辛いことを思い出したというのに、僕のことまで気遣って。
「それならよかった」
だから、僕はそう返す。
彩葉ちゃんは一人じゃない。そんなふうに思ってもらえたらいい。
「それに……」
「うん?」
「ちょっとだけ、安心しました」
その言葉に、僕は首を傾げた。
「安心?」
「はい。水無月さんにも、色々あったんだなって。……私だけじゃないんだって思えて」
彼女は言い終えてから、少しだけ困ったように笑った。
「でも、こんなふうに思うのは、失礼ですよね。水無月さんの過去を聞いて、自分と同じところを探して安心するなんて」
「どうして?」
「だって、私と水無月さんは違うのに」
「そうだね。違うよ」
僕は頷いた。
同じではない。僕には僕の、彼女には彼女の過去がある。
「でも、誰かの話を聞いて、自分だけじゃないんだって思うことは、別に悪いことじゃないと思うけど」
「……そうでしょうか」
「うん。少なくとも、僕は嫌じゃないよ」
それが彼女にとって、どれほどの意味を持つ言葉なのかは分からない。
けれど、少しでも気持ちが軽くなるなら、それでいいと思った。
彩葉ちゃんは、しばらく僕の顔を見つめていた。
やがて、張り詰めていたものが少し緩んだように、ふっと息を吐く。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「水無月さんって、やっぱり優しいですね」
綺麗に笑う彼女に、少しばかり気恥ずかしくなって視線を逸らす。
「そうかな。普通だと思うけど」
「そういうところですよ」
何が、とは聞かなかった。
聞いても、きっと彼女は答えてくれないだろうから。
それから、気を晴らすために少しだけ他愛のない話をした。
昨日のライブのことや、ヤチヨのこと。
彩葉ちゃんは相変わらず楽しそうに話していて、時折、思い出したように昨日の興奮を語ってくれた。
その様子を見ていると、さっきまでの少し重たい空気も、いつの間にか和らいでいた。
───良かった。
そう思って、ふと壁に掛けた時計へ視線を向ける。
針は正午を過ぎ、もう間もなく一時になろうとしていた。
……そういえば。
朝からギターを触っていたせいで、昼食のことをすっかり忘れていた。
彩葉ちゃんも、話し込んでいるうちに時間が経ってしまったのだろう。
「そうだ。彩葉ちゃん、お昼はもう食べた?」
「え? いえ、まだですけど……」
「そっか。じゃあ、よかったら一緒に食べに行かない?」
気分転換だ。
こういう時は何か美味しいものを食べれば、少しばかり気持ちも上向きになるだろう。
「……え?」
彼女がきょとんとした顔をする。
「外で? 二人で、ですか」
「うん。せっかく天気もいいし。近くに気になってる店があるんだよね」
特別な理由があるわけじゃない。
僕も昼食を食べるつもりだったし、一人で食べるより誰かと一緒の方が楽しいだろう。
それに、せっかくこうして話せたのだから。
そう──────もう少し。もう少しだけ、彼女と一緒に過ごしてみたいと思った。
「もちろん、予定があったり、僕と二人で出かけるのがちょっと……ってことなら、無理にとは言わないけど」
まあ、彩葉ちゃんも綺麗だし。恋人がいたり、気になっている人がいたりする頃だろう。
そういう相手がいるのなら、その人が彼女を支えてくれたらいいなと思う。
「い、いえ! 予定はないです!」
返事が少し早かった。
気のせいか、頬にも少し赤みが差しているように見える。
感情が昂ったせいだろうか。そういうこともあるか。
「じゃあ、決まりだね」
「は、はい」
彩葉ちゃんは頷いたものの、どこか落ち着かない様子だった。
さっきまでの会話とは違う意味で、少し緊張しているようにも見える。
どうしたのだろう。
何か食べたいものでもあるのかな。
「何か食べたいものはある?」
「えっと……特に、これといっては」
「そっか。なら、歩きながら決めようか」
僕が気になっているお店も、彩葉ちゃんの好みに合うとは限らないしね。
「そうですね」
彼女はそう答えて、表情を明るくした。
何気ない昼食の誘い。
僕にとっては、隣人と食事をするというだけのことだった。
けれど、普段はそれぞれの部屋で過ごしている僕たちが、わざわざ二人で出かける。
そう考えると、いつもの隣人付き合いとは少し違うのかもしれない。
まあ、たまにはそういうのもいいのかもしれない。
「じゃあ、準備するから少し待ってて」
「はいっ。私も少しだけ準備したいので、できたらまたこっちに顔を出しますね」
「分かった」
そう言って、彼女が部屋へ戻るのを見送ってから、僕も出かける支度を始めた。
今日は、いつもより少しだけ賑やかな昼食になりそうだ。
⚪︎酒寄 彩葉
超人担当、うら若き女子高生。
時折ふと頭に過ぎる隣人にうんうんと悩まされ、思いの外勉強に手こずった。
朝に洗濯して干してるのは、昨日の事で余韻に浸りすぎて寝ていたから。あとすこし、乾燥する時間を逆算したら隣人がお昼頃によくタバコを吸いにベランダに出てくるからお話できるかな、なんて思ったりはしていない。していないったらしていないのだ。
懐かしい曲は父、酒寄朝久の曲。
知ってる理由と、音楽始めた理由を聞いて衝撃。だから、気にかけてくれている事に、父が巡り巡って良縁を運んでくれたのだと歓喜。その後、お昼ご飯を口実としたデートに誘われて二度目の衝撃。これが、逕庭拳? 彩葉は訝しんだ。
⚪︎水無月 幽
天下のクソボケ担当。
特典というべきか、凄まじい体質のせいで周りの生き方が眩しくて死ぬ勇気もないが生きる気力も湧いてない頃に、朝久の演奏に出会い心打たれる。
こんなの初めて!
いつもと違う、全然上手くいかない。すごい、たのしい! となって、ずっとやってきた事でわりとかなりの技量に。今はとある管理人とあるチームのお抱え。
彩葉ちゃんが幽に性癖を歪められてる頃、幽は彩葉に脳を灼かれていた。
この子、めっちゃすごい。自分とは違う、特別なんだなぁ。
絶対に折れない様にしてあげなくちゃ、今日のお昼は僕のおごり! 好きなの頼んでいいよ!
なお、映画をみてこれを書くために小説買って読んでたら、朝久さんも児童養護施設出身って書いてて、なんか無駄に重なるところ増えてて草。
どうしてやろう
曇らせ描きたくて描いてんのに、ずっと彩葉といちゃついてんの腹立つ。
代わりにヤチヨには曇ってもらうからいいや(畜生)
原作開始までは、あと2〜3話ぐらいだと思われ。思いの外、キャラが動いて話が進まないから原作開始したらサクサク行きます。