風の街、風都。
この街の人間は皆、等しくその風を愛し、風と共に生きていた。だが同時に、その風が運んでくる「毒」の存在も、彼らは嫌というほど知っていた。
街を脅かした異形の怪人、ドーパント。そしてそれを裏で操っていた秘密結社『ミュージアム』。それらとの長きにわたる戦いは、二人の探偵――左翔太郎とフィリップという『二人で一人の仮面ライダー』の活躍によって、ようやく終止符を打たれたはずだった。
若き悪党グループ『EXE』の残党も壊滅し、鳴海探偵事務所にはいつもの平穏な空気が戻りつつある。
だが。
歴史という名の歯車は、誰も気づかぬ場所で、確実に、そして致命的に狂い始めていた。
それは『風都探偵』と呼ばれる未来の物語へと至る道ではなく、この街そのものが産み落とした、全く別の、歪んだ延長線上の物語。
始まりは、フィリップがこの世から消滅していた、あの「空白の一年間」にまで遡る。
激しい雨が、夜の風都を黒く塗りつぶしていた。
叩きつけるような雨音の中、一人の男が息を切らせて走っていた。黒い帽子、濡れそぼったトレンチコート。左翔太郎である。相棒を失い、それでもこの街を守るために、彼は一人で戦い続けていた。
だがその夜、彼が目撃したのはドーパントによる犯罪ではなかった。
「……なんだ、ありゃあ……?」
路地裏の廃ビルに囲まれた空間。その中心で、漆黒の『風』が渦巻いていた。
それはただの暴風ではない。空間そのものが、まるで刃物で切り裂かれたかのように、不自然に、歪に「穴」を空けているのだ。風力発電の風車が悲鳴を上げて回る風都市において、その風だけは、街のどの風とも違う、異世界の冷気を孕んでいた。
空間の歪み――『風穴(かざあな)』とこの頃には翔太郎は称していた。
その渦の底から、ゴトリと重い音がして、何かが地面に吐き出された。
翔太郎が警戒してジョーカーメモリを握りしめた瞬間、風穴は嘘のように霧散し、激しい雨だけが残された。
後に残されていたのは、瓦礫の中に倒れ伏す、一人の少女の身体だった。古風なセーラー服。濡れて肌に張り付いた黒髪。小柄なその身体は、ピクリとも動かない。
「おい! 大丈夫か!?」
翔太郎が駆け寄ろうとした、その時。
少女の胸元から、ぼうっと白い光が立ち上った。それは人の形を象り、やがて白い和服を着た、おかっぱ頭の女の子の姿へと変わる。
『……うーん、ひどい目に遭っちゃったな。ねえ、あなた、生きてる?』
白い和服の少女――うららは、地面に倒れるセーラー服の少女を見下ろして、ひょいと首を傾げた。
その声に応えるように、倒れていた少女の指先がピクリと動く。
「……げほっ、ごほっ……!」
激しく咳き込みながら、少女――比島日和は、上体を起こした。その瞳は冷徹な黒。17歳という若さに似合わない、ひどく冷めきった、拒絶の色を湛えた眼差しだった。
「……ここは……どこ、ですか……」
日和の声は、酷く掠れていた。頭が割れるように痛む。同時に、自分の脳内に「ここではない別の世界」の記憶が、濁流のように流れ込んできているのを感じていた。
前の世界での記憶。自分は、親に殺されたのだ。
冷酷な暴力。逃げ場のない部屋。自分をモノのように扱った、血の繋がった親という存在。その最悪な結末の記憶と共に、もう一つ、奇妙な知識が脳裏に浮かび上がっていた。
『仮面ライダーW』。
それが何なのか、詳しくは思い出せない。ただ、自分が今いるこの街が『風都』という名前であり、そこには変身して戦う探偵がいるということ。そして、自分がその物語の「内側」に、異分子として落とされたのだということだけは、保身的な彼女の頭脳で瞬時に理解できた。
『あら、意識が戻ったんだ。私はうらら。あなたのその転生のオマケについてきた付属品みたいなものだよ。……まあ、お互い災難だよね』
おかっぱ頭の幽霊は、ふわふわと宙に浮きながら、日和の顔を覗き込んだ。
「転生に幽霊、ですか。悪趣味な幻覚ですね」
『そうなら良かったと思うよ』
日和は慇懃無礼な敬語で言い捨て、己の傍らに転がっている「それ」に目を落とした。
風穴から同時に吐き出された、二つのスロットを持つ一本のベルト――ダブルドライバー。そして、その横に転がる、結晶のような不揃いな形をした、禍々しい輝きを放つ6本のメモリ。
「……これは?」
『ガイアメモリって言うこの街を狂わせる毒。でもさ、今のあなたにとっては、この世界で生き残るための唯一の武器なんじゃない?』
日和は黙って、結晶状のメモリの一本を拾い上げた。表面には『K』の意匠。
指先から伝わってくるのは、圧倒的な「純度」のエネルギーだった。通常のガイアメモリのように、人間に合わせて調整されたセーフティなど微塵も存在しない。剥き出しの、天然の地球の記憶。
遠くから、足音が近づいてくる。トレンチコートの男が、こちらへ走ってくるのが見えた。
日和は本能的に察知した。あの男に、この力を渡してはならない。自分を憐れむような大人の目に、再び自分の命を委ねるわけにはいかない。
「……うらら、と言いましたか」
『うん、何かな?』
「私は死にたくありません。何があっても、絶対に。そのためなら、あなたを利用します」
『へーえ、割りと身勝手な子だね。でもいいよ? 私もあなたの魂に縛られてるみたいだし。何もしないよりは、退屈しのぎになるかなぁ……』
日和はダブルドライバーと6本のメモリを素早く抱え込み、よろつく足取りで、近づいてくる翔太郎とは逆の方向へと、闇に紛れて走り出した。
これが、風都の歴史が決定的に枝分かれした、最初の夜だった。
それから、暫く経過した。
フィリップは奇跡の復活を遂げ、風都に蔓延りかけた若き犯罪組織『EXE』も、仮面ライダーWの手によって完全に壊滅した。
鳴海探偵事務所の一画、通称『地球の本棚』。
フィリップは、いつも通り白紙の本に囲まれた精神世界の中にいた。しかし、その端正な顔立ちは、かつてないほどの困惑に歪んでいた。
「……おかしい」
フィリップが手を伸ばし、空間に浮かぶキーワードを検索する。
『風の穴』『天然メモリ』『空間の歪み』。
本来であれば、地球上のあらゆる記憶にアクセスできるはずの本棚。だが、彼がそのキーワードを検索した瞬間、目の前の一冊の本が、激しい砂嵐のようなノイズと共にブレを始めた。文字が、今まさに「外側から書き込まれている」かのように激しく点滅し、ページがバラバラと引き裂かれていく。
「地球の記憶にない……? いや、違う。この本棚そのもののシステムが、何か未知の情報によって上書きされようとしているんだ。翔太郎が言っていた、僕が居ない頃に目撃したというあの『風の穴』は、一体……」
フィリップが現実世界へ意識を戻すと、そこはいつもの探偵事務所の机だった。
「おい、フィリップ。また難しそうな顔してんな」
ソファーで退屈そうにポテトチップスを齧っていた左翔太郎が、声をかけてくる。
「翔太郎、やはり妙なんだ。最近、風都署の刃野さんたちが持ってくる『ガイアメモリ犯罪』のデータ、あれらのメモリの出所が、どうしても検索できない」
「ああ、あの『結晶メモリ』とかいうやつか。俺も気になってた。EXEの残党が持ってた工場製のメモリとは、明らかに手触りが違う。まるで、自然に発生した宝石を踏んづけたみたいな、妙な生々しさがあるんだよな」
そこへ、事務所のドアが勢いよく開いた。
「大変よ、二人とも! 竜くんから連絡!」
鳴海亜樹子が、緑色のスリッパを振り回しながら飛び込んできた。
「風都タワーの近くの裏路地で、またあの『結晶メモリ』を使ったドーパントが暴れてるって! 刃野さんたちじゃ手が付けられないみたい!」
「よし、行くぞフィリップ!」
「ああ、僕もそのメモリの謎を突き止めたい」
翔太郎は帽子を被り、フィリップと共に事務所を飛び出した。
風都タワーの麓、薄暗い倉庫街。
不気味な咆咆が、夜の空気を振動させていた。そこにいたのは、人工的なメモリで変身したそれとは明らかに異なる、全身が黒い結晶に覆われたような歪な姿のドーパントだった。どのドーパントメモリにもない、異質な怪物。
その周囲には、局所的な突風――小さな『風穴』が渦巻いており、空間そのものをガタガタと震わせている。
「あ、熱い……! 身体が、壊れる……! でも、力が、力が湧いてくる! 俺は……俺は……! 転生したんだぁ! 此処が風都! これがガイアメモリ!! 最高だ!」
結晶のドーパントが頭を抱えて叫ぶ。その声には、理性を失った怪人の狂気だけでなく、何か別の記憶に喜ぶような高揚が混ざっていた。
「そこまでだ」
闇の中から歩み出たのは、翔太郎とフィリップ。二人は並び立ち、腰にダブルドライバーを装着する。
「フィリップ、前から言ってるが此奴らには話が通じねえ。一気にいくぞ」
「いいよ、翔太郎」
『サイクロン!』『ジョーカー!』
二人の魂が一つになり、疾風と切札の戦士――仮面ライダーWが誕生する。
無防備にぶっ倒れるフィリップだが、この際置いておこう。非常時だ。
「さあ、お前の罪を数えろ!」
「ウオオオッ!!」
Wは鋭く言い放ち、名も無き結晶のドーパントへと地を蹴った。
しかし戦闘が始まった瞬間、Wは違和感に襲われる。
「くそっ、なんだこいつの動き!? 予測つかねえ!」
ドーパントが放つ打撃は、地球の本棚で解析した戦闘パターンを完全に無視していた。物理法則を無視した突発的な加速、そして何より、敵のメモリから発せられるエネルギーそのものが、Wのサイクロンの風を乱している。
「翔太郎、気をつけて! あのメモリはセーフティがない分、出力が異常に高い! それに……敵の攻撃が、空間そのものを歪ませている!」
フィリップの警告通り、結晶のドーパントが腕を振るうたび、空間に小さな亀裂が走り、そこから強烈な吸引力が発生する。Wの身体が強引に引き寄せられ、結晶の爪がその胸装甲を激しく引き裂いた。
「ぐぁっ!」
火花を散らして吹き飛ぶW。そこへ、追撃の結晶弾が降り注ごうとした、その時だった。
「おやおや。街の涙を拭う仮面ライダーともあろうお方が無様な無様を晒しているのですね」
冷徹でひどく落ち着いた少女の声が、倉庫街に響いた。
Wが痛みに耐えながら顔を上げると、コンテナの上に、一人の少女が立っていた。
古風なセーラー服。黒髪ストレート。小柄な体躯。そして、その背後には、翔太郎の目にしか映らない、白い和服を着たおかっぱ頭の幽霊――うららが、退屈そうに浮かんでいる。
「お前……あの夜、あの時の女の子……!」
W(の内の翔太郎)は記憶の底からあの雨の夜の光景を呼び起こした。間違いない。あの風穴の底に倒れていた少女だ。
「噂は兼々。ハーフボイルドな探偵さん、少しすっこんでいていただけますか。その『粗悪品』の処理は、私がやります。その方が、余程良いでしょうし」
比島日和は冷たい黒目で結晶のドーパントを見下ろし、慇懃無礼に言い放った。
「おい、一般人は危険だ! 逃げろ!」
「此処まで来て一般人ですか。買い被らないでいただきたいですね。私はただの、保身主義者ですよ」
日和はコンテナの上から軽やかに飛び降りると、その華奢な腰に、懐から取り出し躊躇なく『ダブルドライバー』を装着した。
「な……ダブルドライバーだと!?」
翔太郎が驚愕の声を上げる。なぜ、自分たちと財団Xしか持ち得ないはずのドライバーを、その少女が持っているのか。
日和は右のポケットから、結晶状のメモリ――『ナイト』を取り出した。
「うらら。右、空いてます。合わせて」
『はーい、了解。あなたの我が儘に付き合うのって、死んだ後なのに結構大変だよね』
うららの姿がスーッと消え、日和の右側のソウルスロットに、彼女の魂そのものである『ゴースト』のメモリが直接滑り込む。
『ゴースト!』
『ナイト!』
――変身。
日和が両側のスロットを展開した瞬間、彼女の足元から、不気味な紫色の突風が吹き荒れた。
風が晴れた後に現れたその姿に、Wは息を呑んだ。
「俺たちと……同じW……!?」
「いや、別物だ! あの人が作ったシステムの模倣だろう!」
そこに立っていたのは、基本のシルエットこそ仮面ライダーWに酷似しているものの、その色彩が完全に変色し、左の禍々しい鈍色とくすんだ紫の結晶の質感を持った、もう一人の『W』だった。
中央を走るライン、Wの文字を象った胸の装甲。だが、その佇まいは英雄のそれとは程遠く、冷酷な騎士のようだった。
「ウオオオッ!」
結晶のドーパントが、新手のWに向けて突進する。巨大な爪が、日和のWの脳天を叩き割るべく振り下ろされた。
だが。
「うらら」
『うん、すり抜ける。当たらないよ、これなら』
次の瞬間、ドーパントの爪は日和の身体を完全にすり抜けた。
まるでそこに誰もいないかのように爪は空を切り、ドーパントは前のめりに体勢を崩す。うららの『ゴースト』の能力。
「そこです。どうせ空っぽでしょう。死んでください」
実体化した日和のWが、冷酷に呟く。
同時に、彼女の右腕の装甲がジャキリと金属音を立てて変形し、そこから巨大な黒い西洋の槍がダイレクトに具現化した。鈍い輝きを放つ、殺傷のためだけの武具。
日和は一切の無駄な動きなく槍を構えると、体勢を崩したドーパントの背中――心臓のあった位置を目がけて、正確にその穂先を突き立てた。
「ガ、ハッ……!?」
肉体を貫く重い音が響く。さらに日和は、空いた手で右腰のマキシマムスロットにナイトメモリを叩き込んだ。
『ナイト! マキシマムドライブ!』
漆黒の槍の先端から、風穴の圧縮されたエネルギーが爆発的に解き放たれる。
凄まじい衝撃波が倉庫街のコンテナを震わせ、結晶のドーパントは、断末魔の悲鳴を上げる間もなく本体がブレイクされ、結晶の破片となって四散した。メモリすら残さず、殺した。
圧倒的な精度、そして一切の容赦のない戦闘。
日和のWは、具現化していた西洋の槍の先端を地面につけ、生存確率の計算が終了したことだけを確かめるように、冷たく息を吐いた。
「お前……一体、何者だ」
変身を解除した翔太郎がふらつきながら日和に近づく。
「君もこの街を守る『仮面ライダーW』なのか……?」
フィリップも復活し投げたその問いかけに、日和はドライバーを展開し、変身を解除した。セーラー服の少女の姿に戻った日和は、引き締まった黒目で二人を冷たく睨みつけた。
「は? 買い被らないでいただけますか。私が守りたいのは私だけです。あなた方のように、街だの正義だのという不確定要素に命を懸けるほど、私の頭は茹だっていません」
日和は慇懃無礼に頭を下げ、冷徹な声で言い放つ。
「街の人々は、あなた方を『仮面ライダーW』と呼ぶそうですね。ご立派なことです。……ですが、私はそんな大層なものではありません。私はただの、『W』ですよ」
日和の後ろから、再びうららがぬっと顔を出し、翔太郎に向けてべっと舌を出した。
『だよねー。あんな風に誰かのために戦うのって、疲れちゃうんじゃない?』
「そもそも気分が悪くなります。うらら、帰りますよ」
『はーい、お疲れ様、日和』
二人は翔太郎の制止の声も聞かず、風穴の残響が残る闇の中へと、音もなく消えていった。
同じ夜、風都の最暗部。
照明の落とされた洗練されたオフィスの中で、白い高級スーツに身を包んだ男が、手元のタブレットに映し出された戦闘映像を眺めていた。
画面に映っているのは、先ほど結晶のドーパントを瞬殺した、もう一人のW――比島日和の姿だ。
「……素晴らしい。地球の本棚にもデータが存在しない異世界の『記憶』。そして、セーフティのない天然のメモリを完全に制御下に置いている」
男――財団Xのエージェントは、冷酷な笑みを浮かべながら眼鏡のブリッジを押し上げた。
「万灯たちの進めていた『裏風都』の計画は、あの風穴というバグのせいで基礎設計から完全に足止めを食らい、今やルートごと消滅しかけているらしいな。ざまあみろ。だが、怪我の功名というべきか。あの風穴から齎される『天然メモリ』と『転生者』の情報は、我が財団にとって、ガイアメモリの次のステージへ進むための最高の素材だ。天然のガイアメモリ、とても魅力的じゃないか! ミュージアムが壊滅した今、もう一度風都に手を出す理由が出来た……!」
エージェントはタブレットの画面を指先で叩き、比島日和の顔写真を拡大した。
近くに居た連中に命じた。
「一年観察してきた。これ以上の逸材は居ない。転生者、比島日和。そして、彼女に憑依している謎のエネルギー体。彼女たちを拘束し、その脳内にある『未知の知識』を残らず絞り出せ。彼女は我が財団の最高機密だ」
闇の中から、複数の不気味な影が音もなく平伏し、そして消えてしていく。
歴史の分岐点。
街を守るために涙を拭う二人で一人の仮面ライダーW。
己の生存のためだけに冷酷に武器を振るうただのW。
実利のために風穴を狙い、今度こそ風都を直接支配せんとする財団X。
誰も知らない、もう一つの『仮面ライダーW』の物語が今、冷たい風と共に幕を開ける。