ポケモン現代入り(非公式二次創作)   作:生獣(なまけもの)

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とある商店街シリーズ おかえりの言える場所

 

 

 

 関西の、とある商店街。

 

 夕方五時。

 

「ホー、ホー」

 

 森時計店の看板に止まったホーホーが、いつものように鳴いた。

 

「おう、今日も来たんか」

 

 時計屋の老人が笑う。

 

 その向かいでは、八百屋の山田が売れ残った野菜を並べ直していた。

 

「おっちゃん! 今日はホーホーの方が先に五時を教えてくれたな!」

 

「うちの時計が遅れとるみたいに言うな!」

 

「はっはっは!」

 

 少し離れた惣菜屋からも声が飛んでくる。

 

「山田のおっちゃん! 笑っとらんと昨日のツケ払いや!」

 

「今日こそ払うわ!」

 

「昨日も聞いた!」

 

 そんな、いつも通りの商店街。

 

 その端に、一軒の古い店があった。

 

『田中履物店』

 

 今では珍しくなった、靴の修理屋である。

 

 店主は田中源蔵、七十三歳。

 

 無口で、頑固で、愛想が悪い。

 

 商店街の人間からは、もっぱら「ゲンさん」と呼ばれていた。

 

「ゲンさん! 今日も元気か!」

 

 山田が声をかける。

 

「見たら分かるやろ」

 

「分からんから聞いとんねん!」

 

「ほな元気や」

 

「最初からそう言えや!」

 

 ゲンさんは、鼻を鳴らした。

 

 手元では、古びた革靴の底を直している。

 

 修理を頼まれた靴ではない。

 

 店の棚に、ずっと置いてあった一足だった。

 

 小さな、赤い子供靴。

 

 片方だけ、つま先の革が擦り切れている。

 

 ゲンさんは、それを手に取って眺めた。

 

「……ほんま、よう走り回っとったな」

 

 誰に聞かせるでもなく呟いた。

 

 その時だった。

 

「チコ?」

 

「……ん?」

 

 店先から、聞き慣れない声がした。

 

 顔を上げる。

 

 そこには、小さな緑色のポケモンがいた。

 

 頭に大きな葉っぱ。

 

 首には、丸い蕾のようなもの。

 

 チコリータだった。

 

「……何や、お前」

 

「チコ!」

 

「ここは靴屋やぞ」

 

「チコ?」

 

「草は売っとらん」

 

 チコリータは、首を傾げた。

 

 それから、店先の小さな植木鉢に近づいた。

 

 植木鉢には、枯れかけた朝顔が植わっている。

 

 ゲンさんが水をやるのを、何日か忘れていたものだった。

 

 チコリータは、その朝顔をじっと見ていた。

 

「……何や。気になるんか」

 

「チコ」

 

「枯れとるやろ」

 

 ゲンさんは、そう言って仕事に戻った。

 

 しばらくして顔を上げると、チコリータはいなくなっていた。

 

 それが、最初だった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 翌朝。

 

 ゲンさんが店を開けると、朝顔の鉢の前にチコリータがいた。

 

「……またお前か」

 

「チコ!」

 

「ここに来ても何もないぞ」

 

 チコリータは、朝顔を見ている。

 

 ゲンさんも、つられて鉢を見た。

 

 土が乾いている。

 

「……ああ」

 

 ゲンさんは、頭を掻いた。

 

「水か」

 

 じょうろを持ってきて、朝顔に水をやった。

 

 チコリータは、じっとその様子を見ていた。

 

「……これでええんか」

 

「チコ!」

 

「……何でお前に言われなあかんねん」

 

 ゲンさんは、ぶつぶつ言いながらじょうろを片づけた。

 

 その日の昼。

 

 八百屋の山田がやって来た。

 

「ゲンさん、何や、花に水やっとるやん!」

 

「見たら分かるやろ」

 

「珍しいな! 去年は全部枯らしたくせに!」

 

「うるさいわ」

 

「何かあったんか?」

 

「別に」

 

 ゲンさんは、店の外を顎で示した。

 

「変なポケモンが来よるだけや」

 

 山田が振り返る。

 

 そこには、チコリータがいた。

 

「おお、チコリータやんけ!」

 

「知っとるんか」

 

「政府の図鑑に載っとったで。ジョウトのポケモンや」

 

「ふうん」

 

「植物が好きなんやろなあ」

 

 山田は、朝顔を見た。

 

「……なるほどな」

 

「何や」

 

「ゲンさんより、あの子の方が花の世話できそうやな!」

 

「帰れ!」

 

 山田の笑い声が、商店街に響いた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 それから、チコリータは時々やって来るようになった。

 

 毎日ではない。

 

 二日続けて来ることもあれば、三日ほど姿を見せないこともある。

 

 朝顔の鉢のそばで、日向ぼっこをする。

 

 葉っぱを揺らして、風を受ける。

 

 夕方になると、どこかへ帰っていく。

 

 ゲンさんは、特に構わなかった。

 

 野生のポケモンだ。

 

 餌をやったり、触ったりするつもりはない。

 

 ただ、朝顔に水をやるようにはなった。

 

「……ほら、水やったぞ」

 

「チコ!」

 

「お前のためちゃうからな」

 

「チコ?」

 

「花のためや」

 

 チコリータは、嬉しそうに葉っぱを揺らした。

 

 ゲンさんは、鼻を鳴らした。

 

 そんな日が、何日か続いた。

 

 ある日。

 

 チコリータが、店の中を覗き込んでいた。

 

「……こら、入ったらあかん」

 

「チコ?」

 

「ここは仕事場や」

 

 ゲンさんは、手を止めずに言った。

 

 チコリータは、店先から動かなかった。

 

 ただ、棚の上をじっと見ている。

 

 そこには、あの赤い子供靴があった。

 

「……それか」

 

 ゲンさんは、靴を手に取った。

 

「古い靴や」

 

「チコ」

 

「……もう、誰も履かん」

 

 ゲンさんは、靴のつま先を親指で撫でた。

 

 それから、そっと棚に戻した。

 

 チコリータは、何も言わずに見ていた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 ある日

 

 商店街に、一人の若い女性がやって来た。

 

 白いシャツに、紺色のスカート。

 

 肩には、小さな鞄。

 

 女性は、田中履物店の前で足を止めた。

 

「……お父さん」

 

 ゲンさんが顔を上げる。

 

 女性を見た。

 

 それから、すぐに視線を落とした。

 

「……何しに来た」

 

「何しにって……帰ってきたんやけど」

 

「連絡もなしにか」

 

「電話したやん」

 

「出とらん」

 

「出てよ!」

 

 女性は、ため息をついた。

 

 ゲンさんの娘、真由だった。

 

 三十二歳。

 

 大阪市内で働いている。

 

 実家を出てから、もう十年以上になる。

 

「……元気そうやね」

 

「見たら分かるやろ」

 

「相変わらずやなあ」

 

 真由は、少しだけ笑った。

 

 それから、店の中を見回した。

 

「……まだ、ここでやってるんや」

 

「当たり前や」

 

「そろそろ休んでもええんちゃう?」

 

「余計なお世話や」

 

 ゲンさんは、靴の修理に戻った。

 

 真由は、黙ってその背中を見ていた。

 

 しばらくして。

 

「……お父さん」

 

「何や」

 

「……うち、結婚することになってん」

 

 ゲンさんの手が止まった。

 

 けれど、顔は上げなかった。

 

「……そうか」

 

「……うん」

 

「相手は」

 

「会社の人」

 

「……そうか」

 

 それだけだった。

 

 真由は、少しだけ俯いた。

 

「……それだけ?」

 

「何がや」

 

「……何でもない」

 

 真由は、小さく笑った。

 

「……ほな、また来るわ」

 

「……おう」

 

 真由は、店を出ていった。

 

 ゲンさんは、しばらく動かなかった。

 

 それから、ゆっくり顔を上げた。

 

 店の外。

 

 真由の後ろ姿は、もう見えなかった。

 

「……結婚か」

 

 小さく呟いた。

 

 その時。

 

「チコ?」

 

 店先から、声がした。

 

 チコリータがいた。

 

「……何や」

 

「チコ」

 

「……何でもないわ」

 

 ゲンさんは、また手元の靴に目を落とした。

 

 けれど。

 

 針を持つ手は、しばらく動かなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その日の夕方。

 

 ゲンさんは、森時計店へ行った。

 

 珍しいことだった。

 

「……おう、ゲンさん」

 

 時計屋の老人が顔を上げる。

 

「どうしたんや」

 

「……ちょっとな」

 

 ゲンさんは、店の椅子に腰を下ろした。

 

 時計屋の老人は、何も聞かなかった。

 

 湯呑みを一つ、差し出した。

 

「……茶ぁ飲むか」

 

「……もらうわ」

 

 二人は、しばらく黙っていた。

 

 壁の時計が、こちこちと音を立てている。

 

 やがて、ゲンさんが口を開いた。

 

「……娘がな」

 

「うん」

 

「結婚するらしい」

 

「……おお」

 

 老人は、少しだけ笑った。

 

「そら、おめでたいな」

 

「……そうやな」

 

「……嬉しないんか」

 

「嬉しいわ」

 

 ゲンさんは、即答した。

 

 それから、少しだけ顔をしかめた。

 

「……嬉しいに決まっとる」

 

 老人は、黙って頷いた。

 

「……せやけどな」

 

 ゲンさんは、湯呑みを見つめた。

 

「……何言うたらええか、分からんかった」

 

「……そうか」

 

「……おめでとう、くらい言うたらよかった」

 

 老人は、小さく笑った。

 

「……今から言うたらええやん」

 

「……今さらか」

 

「今さらでも、ええやろ」

 

 ゲンさんは、黙っていた。

 

 時計屋の老人は、窓の外を見た。

 

 看板の上には、いつものホーホーがいた。

 

「……うちの家内もな」

 

 老人が言った。

 

「生きとるうちに、もっと色々言うといたらよかった思うこと、ようあるで」

 

 ゲンさんは、顔を上げた。

 

「……そうか」

 

「……せや」

 

 老人は、少しだけ笑った。

 

「……言えるうちに言うとき」

 

 ゲンさんは、しばらく黙っていた。

 

 それから、ゆっくり頷いた。

 

「……そうやな」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 翌日。

 

 ゲンさんは、棚の上の赤い子供靴を手に取った。

 

 真由が小さかった頃の靴だった。

 

 まだ、三歳か四歳の頃。

 

 毎日、商店街を走り回っていた。

 

『お父さん!』

 

 小さな声が、今でも耳に残っている。

 

『見て! はやいやろ!』

 

 そう言って走って、転んで、泣いた。

 

 膝を擦りむいても、次の日にはまた走っていた。

 

『お父さん、くつなおして!』

 

 何度も、何度も。

 

 ゲンさんは、その度に靴を直した。

 

 つま先が破れたら縫い直す。

 

 底が剥がれたら貼り直す。

 

 汚れたら磨いてやる。

 

 小さな靴だった。

 

 それでも。

 

 娘がどこへでも走っていけるように。

 

 そう思って、直していた。

 

「……ほんま」

 

 ゲンさんは、靴を見つめた。

 

「……よう走る子やった」

 

 その時。

 

「チコ?」

 

 店先から、声がした。

 

 チコリータだった。

 

「……おう」

 

 ゲンさんは、少しだけ笑った。

 

「今日も来たんか」

 

「チコ!」

 

「……ちょうどええ」

 

 ゲンさんは、赤い靴を持ち上げた。

 

「……これな」

 

 チコリータは、首を傾げた。

 

「娘の靴や」

 

「チコ?」

 

「……昔は、こんなに小さかったんや」

 

 ゲンさんは、少しだけ笑った。

 

「……今度、嫁に行くんやと」

 

「チコ」

 

「……立派になったもんや」

 

 ゲンさんは、靴を見つめた。

 

「……わし、何もしてやれんかった気ぃするけどな」

 

 チコリータは、じっと見ていた。

 

「……仕事ばっかりで」

 

 ゲンさんは、少しだけ俯いた。

 

「……遊びにも、よう連れていってやれんかった」

 

 チコリータは、葉っぱを揺らした。

 

 ふわり。

 

 店先に、柔らかな草の香りが漂った。

 

 ゲンさんは、顔を上げた。

 

「……何や」

 

「チコ!」

 

 チコリータは、朝顔の鉢の方を向いた。

 

 そこには。

 

 小さな花が、一輪咲いていた。

 

 ずっと枯れかけていた朝顔。

 

 毎日、水をやるようになってから、少しずつ元気を取り戻していた。

 

「……おお」

 

 ゲンさんは、目を細めた。

 

「……咲いたんか」

 

 チコリータが、嬉しそうに鳴いた。

 

「チコ!」

 

 ゲンさんは、しばらく花を見ていた。

 

 それから、赤い靴へ目を戻した。

 

「……そうか」

 

 小さく呟いた。

 

「……まだ、間に合うか」

 

     ◇ ◇ ◇

 

 数日後。

 

 真由のもとに、一通の封筒が届いた。

 

 差出人は、田中源蔵。

 

「……お父さん?」

 

 真由は、不思議そうに封筒を開けた。

 

 中には、手紙が一枚。

 

 そして、一枚の写真が入っていた。

 

 写真には、小さな赤い子供靴が写っている。

 

 見覚えがあった。

 

「……これ」

 

 真由は、思わず声を漏らした。

 

 幼い頃、いつも履いていた靴。

 

 何度も転んで、何度も修理してもらった靴。

 

 いつの間にか履けなくなって、忘れていた靴だった。

 

 手紙には、短い文章が書かれていた。

 

『真由へ。

 

 結婚するそうやな。

 

 おめでとう。

 

 小さい頃、お前はよう走る子やった。

 

 靴を何回直しても、すぐに破って帰ってきよったな。

 

 あの頃は、もう少し大事に履けと怒ったけど、今思えば、元気に走り回っとったんやから、それでよかったんやろな。

 

 お父さんは、口が下手や。

 

 この前も、何も言えんかった。

 

 けど、嬉しかったで。

 

 ほんまに、おめでとう。

 

 これからも、好きなところへ歩いていき。

 

 靴が壊れたら、また直したる。

 

 父より』

 

 真由は、何度も読み返した。

 

 それから、写真を見た。

 

 赤い靴。

 

 小さな、小さな靴。

 

「……もう」

 

 真由は、笑った。

 

 けれど。

 

 目から、涙がこぼれた。

 

「……ほんま、あのお父さんは」

 

 声が震えた。

 

「……今さら、こんなん送ってきて」

 

 真由は、手紙を胸に抱いた。

 

 しばらく、そのまま動かなかった。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 それから、一週間後。

 

 田中履物店の前に、一台の車が止まった。

 

「……お父さん!」

 

 真由だった。

 

 その隣には、背の高い若い男性がいた。

 

「……何や、また来たんか」

 

 ゲンさんが顔を上げる。

 

「来たらあかんの?」

 

「……別に」

 

 真由は、少しだけ笑った。

 

「……紹介したい人がおるねん」

 

 男性が、深く頭を下げた。

 

「初めまして。真由さんと結婚する予定の者です」

 

 ゲンさんは、男性をじっと見た。

 

 しばらくして。

 

「……靴」

 

「……はい?」

 

「……靴、脱いでみ」

 

「えっ?」

 

 真由が目を丸くした。

 

「お父さん!?」

 

「ええから」

 

 男性は、戸惑いながら靴を脱いだ。

 

 ゲンさんは、その靴を手に取った。

 

 底を見る。

 

 踵を見る。

 

 つま先を見る。

 

 そして。

 

「……よう歩いとる靴やな」

 

「……はい」

 

「……仕事、忙しいんか」

 

「……そうですね。結構歩き回る仕事なので」

 

「……そうか」

 

 ゲンさんは、靴を返した。

 

「……大事に履きや」

 

「……はい」

 

 それから。

 

 少しだけ、顔を上げた。

 

「……娘も、大事にしてやってくれ」

 

 男性は、真剣な顔で頷いた。

 

「……はい。必ず」

 

 真由は、少しだけ目を見開いた。

 

 それから。

 

「……お父さん」

 

 小さく呟いた。

 

 ゲンさんは、顔を背けた。

 

「……何や」

 

「……ありがとう」

 

「……別に」

 

 真由は、笑った。

 

 目に、少しだけ涙が浮かんでいた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 その日の夕方。

 

 商店街は、いつもより少し賑やかだった。

 

「ゲンさんの娘さん、結婚するんやって!」

 

 惣菜屋の福田が、大きな声で言った。

 

「聞いたで!」

 

 八百屋の山田が笑う。

 

「めでたいなあ!」

 

「ほんまや!」

 

 文房具店の中村も、店から顔を出した。

 

「……ほな、お祝いの色紙でも作るか」

 

「おお、ええやん!」

 

「ドーブルにも描いてもらうか?」

 

「野生の子やから、無理強いしたらあかんで!」

 

「分かっとるわ!」

 

 そんな会話が、商店街に響く。

 

 ゲンさんは、店の前でその様子を見ていた。

 

「……騒がしい連中や」

 

 そう呟きながら。

 

 口元は、少しだけ緩んでいた。

 

 その時。

 

「チコ!」

 

 足元から声がした。

 

 チコリータだった。

 

「……おう」

 

 ゲンさんは、しゃがんだ。

 

「……お前も来たんか」

 

「チコ!」

 

「……今日は、ええ日やったわ」

 

 チコリータは、首を傾げた。

 

「……娘がな」

 

 ゲンさんは、少しだけ笑った。

 

「……幸せになりそうや」

 

「チコ!」

 

「……そうか。お前もそう思うか」

 

 チコリータは、葉っぱを揺らした。

 

 ふわり。

 

 柔らかな草の香りが漂う。

 

 ゲンさんは、朝顔を見た。

 

 花が、三輪咲いていた。

 

「……お前のおかげやな」

 

 ゲンさんは、ぽつりと呟いた。

 

 チコリータは、首を傾げた。

 

「チコ?」

 

「……いや、何でもない」

 

 ゲンさんは、少しだけ笑った。

 

「……ありがとな」

 

 チコリータは、嬉しそうに鳴いた。

 

     ◇ ◇ ◇

 

 それから、しばらくして。

 

 田中履物店の店先に、新しい看板が置かれた。

 

『靴の修理、承ります』

 

 その下に、小さな文字が追加されていた。

 

『子供靴も、お気軽にどうぞ』

 

 それを見た山田が、笑った。

 

「ゲンさん! 子供靴も始めたんか!」

 

「昔からやっとるわ!」

 

「ほな、何で今さら書いたんや!」

 

「……別に」

 

 ゲンさんは、少しだけ顔を背けた。

 

 山田は、にやりと笑った。

 

「……孫の靴でも直すつもりか?」

 

「気ぃ早いわ!」

 

「はっはっは!」

 

 商店街に、笑い声が響いた。

 

 その日の夕方。

 

 ゲンさんは、店を閉めようとしていた。

 

 シャッターを半分下ろす。

 

 朝顔の鉢を、少し奥へ移動する。

 

 その時。

 

「チコ!」

 

 いつもの声がした。

 

「……おう」

 

 ゲンさんは、顔を上げた。

 

 チコリータが、店の前にいた。

 

 今日も、朝顔のそばに座っている。

 

「……もう店じまいやぞ」

 

「チコ」

 

「……お前も、そろそろ帰り」

 

 チコリータは、葉っぱを揺らした。

 

 それから、ゆっくりと商店街の奥へ歩いていった。

 

 ゲンさんは、その後ろ姿を見送った。

 

 小さな緑色の背中。

 

 頭の葉っぱが、歩くたびに揺れている。

 

 やがて、角を曲がって見えなくなった。

 

「……また来いや」

 

 ゲンさんは、ぽつりと呟いた。

 

 それから、店の中へ戻った。

 

 棚の上には、あの赤い子供靴が置いてある。

 

 綺麗に磨かれた、小さな靴。

 

 その隣には、真由から届いた写真が飾られていた。

 

 真由と、その婚約者。

 

 二人とも、笑っている。

 

 ゲンさんは、写真を眺めた。

 

 それから、小さく笑った。

 

「……おかえり」

 

 誰に向けた言葉だったのか。

 

 自分でも、よく分からなかった。

 

 ただ。

 

 久しぶりに、そう言いたくなった。

 

 商店街の外では、夕暮れの風が吹いていた。

 

 時計屋のホーホーが鳴く。

 

 八百屋のオタチが、今日も最後の見張りをしている。

 

 惣菜屋からは、福田の大きな笑い声が聞こえてくる。

 

 文房具店の前では、ドーブルが新しい絵を描いていた。

 

 そして。

 

 田中履物店の前には、明日もきっと、小さな緑色のポケモンがやって来る。

 

 特別なことは、何もない。

 

 ただ、誰かが誰かを思っている。

 

 誰かが誰かの帰りを待っている。

 

 そんな場所が、今日もここにあった。

 

 

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