父のスマートフォンが鳴ったとき、俺は葬儀でもらった紙袋から、割り箸を取り出していた。
袋の底には小さな醤油の容器と、誰も食べなかった煮物がある。昨日はあれほど人がいたのに、弁当の数だけは最後まで合わなかった。足りないと言った人と余っていると言った人が、同じ廊下を往復していたことを覚えている。
食卓で鳴ったのは、聞き慣れた短い音だった。
父は通知音を変えない人だった。買ったときのままの音が気に入っているのか、変え方を調べるのが面倒なのか、俺にはわからない。俺が高校生のときに一度だけ、もっと静かなものにしろと言ったら、静かにしたら聞こえないだろと返された。
画面に、明日の相談が出ていた。
明日、いつもの改札でいいか?
送り主は、ミドリさん。
父が死んだのは火曜日だった。今日は土曜日で、明日は日曜日だった。送り主にとっては、先週の日曜日から次の日曜日までが、何の変更もなく続いていた。
「母さん」
流しの前にいた母が振り返った。黒いブラウスの袖を肘までまくって、湯飲みを洗っていた。食器洗い用の手袋が片方だけ新しくなっていることを、父は知らなかっただろう。母は昨日、古いほうの指先に穴が開いているのを見つけて、駅前で買ってきたのだ。
「ミドリさんって、知ってる?」
「緑の帽子の人じゃない。日曜に。会うたびに缶コーヒーくれる」
「ああ」
顔が浮かんだ。つばの柔らかい帽子をかぶって、パドックでは新聞を頭の上に丸めて掲げる人だ。父はその人を名前で呼んだことがなかった。俺も父に倣って、こんにちは、とだけ言っていた。
「知らせてなかったんだ」
「私、連絡先知らなかったもの」
母は湯飲みを置き、手袋を外した。人さし指がうまく抜けず、反対の手で引っ張って、少し乱暴に流しへ落とした。
父のスマートフォンの暗証番号は、俺の誕生日だった。
それを知っていたのは、親子の仲が特別によかったからでもない。二年くらい前、父が機種を変えたときに俺が設定を手伝った。覚えられる番号にしろと言ったら、父は俺の誕生日を言った。簡単すぎると俺は言い、忘れるよりましだと父は答えた。そのあと変更したかどうかは、試すまで知らなかった。
四つの数字を入れると、画面が開いた。
変更しておけよ、と思った。
そう思ったせいで、返事を書けなくなった。
「なんて送ろう」
母は椅子に座った。昨日、俺が母のために引いておいた椅子だった。正確には、昨日の葬儀場で母のために椅子を足し、帰ってきてからも、いつも父の上着が掛かっていた椅子を空けておいた。母は何も言わず、そこへ座っていた。
「まず、航平だって書かないと」
「うん」
息子の航平です。
そこまでは書けた。そのあとの文章が、やたらと長くなった。
突然のご連絡で申し訳ありません。父は十月十五日に亡くなりました。
申し訳ないのは誰なのだろう。父が死んだことについて、俺が謝っているようにも見えた。消して、急なお知らせになりますが、と入れ直した。母は横から読んでいたが、何も言わなかった。
葬儀は近親者で済ませました、と続けかけて、指が止まった。
近親者なんて、ほとんどいなかった。
父方の祖父母も母方の祖父母も、もういない。両親とも一人っ子で、俺にもきょうだいはいない。昨日の椅子を埋めていたのは父の仕事の知り合いと、俺の知らない昔の友達と、母の顔を見て一瞬だけ判断をためらう人たちだった。
母は父の妻ではなかった。
それなのに、母以外に父の靴のサイズを知っている人が、一人もいなかった。
「葬儀を済ませた、だけでいいんじゃない」
母が言った。
俺は言われたとおりにした。
最後に、生前はお世話になりました、と打った。生前という言葉を、ここ数日で何度も聞いた。紙の上にあるとわかるのに、自分で入力するとひどく遠い言葉だった。父が先週買ってきた食パンも、冷凍庫に入っている餃子も、全部その生前に属しているらしい。
「これでいい?」
「うん」
送信した。
二人で画面を見続けた。すぐに返ってきたら困るし、返ってこなくても困る。俺はスマートフォンを卓上に伏せ、それからやっぱり表にした。
母が湯を沸かした。
台所で電気ケトルが鳴って、ほとんど同時に、卓上でも音がした。
知らずにすみません。
先週、コーヒーおごってもらったのに。
そのあとに、お悔やみの言葉が続いていた。
俺はそこまで読んで、もう一度最初の二行に戻った。
先週。
父は先週、誰かにコーヒーをおごっていた。
病院から電話が来て、俺が大学を出るまでの何分間かでもなく、医師が廊下で口を開くまでの短い間でもなく、もっと手前で、父は紙のカップを二つ持っていたのだろう。いつもの買い方で、砂糖を入れるかどうかも知っていて、一つを相手に渡したのだろう。
母が俺の前に湯飲みを置いた。
「冷たいお茶しかなかったから」
「うん」
熱かった。持つと親指が痛かった。
俺は両手で湯飲みを包んだまま、父が死んだ火曜日から先週の日曜日までを、何度も逆に数えた。
たった二日だった。
たった二日しか離れていないところに、父がおごったコーヒーがあった。
※
父は物を取っておく人だった。
正確には、要らなくなったと判断する作業を先送りする人だった。食器棚のいちばん上には、十年前に俺が修学旅行で買った湯飲みが入っていた。側面に城の絵があり、取っ手がなかった。取っ手のある湯飲みなんてないか、と考えたところで、自分がひどく眠いことに気づいた。
よく眠れなかったわけではない。眠った時間を覚えていなかった。
昨夜は三時過ぎまで起きていたはずなのに、時計を見ると朝だった。ソファに座っていて、手には領収書の束を持っていた。眠っているあいだの自分がどこにいたのか、考えようとすると気持ち悪くなった。
昼すぎ、母と一緒に父の机の引き出しを開けた。
上から二段目に、保証書のファイルがあった。とっくに壊れた炊飯器の保証書と、今使っている炊飯器の保証書が隣り合っていた。父は買い替えのときに古いほうを捨てない。そのくせ、俺が昔使っていた自転車の説明書だけは見当たらない。
「自転車、取ってあるの?」
「ない。大学入る前に処分した」
「じゃ、説明書もなくていいでしょ」
母の言うことは正しかった。
そういう小さい正しさに、一つずつ掴まっていれば、土曜日はどうにか進んだ。
机の天板には、父の右手がよく置かれていた場所だけ、薄く艶が出ていた。そこへ腕を載せると、自分の肘は少し手前に余った。父のほうが座高が高かったのかもしれない。そんなことも知らなかった。
引き出しの底から、俺が小学生のころの通知表が出てきた。
「やめてくれよ」
「見てないわよ」
「見てるだろ」
「字が丁寧です、って書いてある」
「そこだけ読まなくていい」
母は笑った。笑い終わると、通知表を膝の上に置いて、しばらく裏表紙を撫でていた。
父と母が離婚したのは、俺が中学に入ってすぐのころだった。
その前から喧嘩は少なかった。喧嘩になる手前で、片方が黙り、もう片方が用事を思い出したように部屋を出た。俺は音量の大きい家の子供を少し羨ましいと思っていた。何を怒っているか、少なくともわかるからだ。
離婚のあと、両親は不思議なくらい普通に話すようになった。
母は週に何度かこの家に来たし、父も俺を連れて母の家へ行った。外から見ると、前と何が違うのか、わからなかったかもしれない。母は自分の家へ帰る時間になると、食器を全部洗わずに帰った。父はそれに何も言わなくなった。変化は、俺が小さいころに想像していた家族崩壊よりずっと細かいところにあった。
戸籍が違うということを、父は一度だけ説明してくれた。
俺はそのとき、母の名前が消えた紙を思い浮かべた。でも、それからも母は母だった。学校に持っていく雑巾を一緒に縫い、俺の靴下の左右が違うことに気づき、大学に合格した日は父より先に泣いた。
昨日、葬儀の受付で母が少し立ち止まったとき、俺は声を掛けるべきだった。
結局、椅子を一つ動かしただけだった。
「これ、航平が持っていく?」
母が通知表を差し出した。
「父さんが取っておいたんだろ。ここでいいよ」
「そう」
同じ引き出しへ戻した。
戻したあとで、ここでいい、とはいつまでのことだろうと思った。
この家をどうするかも、まだ決まっていなかった。父は賃貸に住んでいた。俺が大学の近くで部屋を借りたあと、一人で広いところに住んでいても仕方ないと言いながら、引っ越さなかった。来たとき寝る場所がないと困るだろ、と俺には言っていた。
寝る場所なら、布団一枚分あれば足りた。
それでも父は、俺の部屋の机をそのまま残した。
俺は押し入れから空の段ボールを出して、捨てるものと持ち帰るものを書くつもりで油性ペンを探した。ペンは食器棚の小さい引き出しにあった。父と母が離婚する前から、そこにある。
箱に何も書けなかった。
母が黙ってもう一つ箱を組み立てた。
「今日は、書類だけにしよ」
「うん」
俺はペンの蓋を閉めた。いつもの場所へ戻そうとして、何日後にここを空けるかも決まっていないのに、ちゃんと戻す必要があるのだろうかと思った。
でも、ほかに置く場所を知らなかった。
日曜日の朝、ミドリさんからまた連絡が来た。
もしよろしければ手を合わせに伺いたい、とあった。初めて、フルネームが書いてあった。
緑川という名字だった。
緑の帽子のせいだけではなかったらしい。
母がそれを読んで、「そうだったの」と言った。
「知らなかったの?」
「緑の帽子で覚えてたから」
「父さんも?」
「さすがにお父さんは知ってたでしょう」
その、さすがに、のあとに、二人とも少し自信がなくなった。
午後に来た緑川さんは、帽子を手に持っていた。俺の記憶より髪が白かった。父と同じくらいの年だと思っていたが、話すと、十歳近く年上だった。
「背が伸びたね」
そう言われて、最後に会ったのがいつだったか数えた。大学に入ってから、俺は父と一緒に競馬場へ行くことが減っていた。自分の友達と行くようになったからだ。
緑川さんは仏壇の前で手を合わせ、それから立ち上がるときに、小さく膝を叩いた。
父について何か特別な話をしてくれるかと思った。
そういう話はなかった。
「この間、あいつ、靴を間違えてたんだよ」
「靴?」
「左右で色が少し違った。同じの買い足したんだって。古い片方と新しい片方、履いてきてた」
母が目を閉じた。
「あの人、それ、やるんです」
「帰ったら揃えるって言ってたよ」
俺は玄関を見た。
父のスニーカーが揃っていた。色は左右で同じに見えた。でも、よく見たら、つま先の汚れ方が違うのかもしれない。今見に行くと、緑川さんの話を聞いていないことになる気がして、座ったままでいた。
競馬の話になった。
父は先週、最後のレースで少しだけ当てたらしい。だからコーヒーをおごったのだという。いくらだったかは、緑川さんも覚えていなかった。
「大きいのを当てたわけじゃないからね。あいつ、大きいのを当てたときは、黙るんだよ」
「そうなんですか」
「君に何か買って帰るときだけ、財布しまうのが早かった」
買ってもらったものを、順番に思い出そうとした。
おもちゃ。ゲーム。高校の入学祝いの時計。
最後に父からもらったのは、米だった。
実家に寄ったとき、余っているからと二キロの袋を持たされた。重いからいいと断ったら、重いのと要らないのは違うだろと言われた。
あの米は、まだ大学の近くの部屋にあった。
俺は、最後に何を買ってもらったのか尋ねられたわけでもないのに、答えを用意したまま湯飲みを持った。
緑川さんが帰るとき、玄関で靴を見た。
父のスニーカーは、右だけ少し白かった。
母には言わなかった。
言ったら母が揃え直してしまう気がした。