部誌の原稿を見直していると、五人のページなのに、自分の話が一つも入っていないことに気づいた。
律の分析、真帆の本命、奈緒先輩の待ち合わせ、栞の写真。
それぞれに見出しを付け、長さを揃えた。全員が同じくらい話しているようにすると、紙面はきれいになった。
俺はそのきれいな紙面を見ながら、何かを落とした気がした。
奈緒先輩へ見せると、すぐに指摘された。
「航平のは?」
「俺は聞く係だから」
「でも、五人で応援してるページでしょ」
「最後に一行くらい入れます」
「一行で足りる?」
先輩は原稿を戻した。
怒ってはいなかった。
ただ、本当にわからないという顔をしていた。
「私のところ、半分にしていいよ」
「そんな。せっかく話してもらったのに」
「載せるために話したんじゃないから、全部使わなくていい」
その言葉を聞いて、俺はペンを持ち直した。
話したことは全部、返してもらわなくていい。
俺は父の話を四人にしてから、どこかで、何かが返ってくるのを待っていたのかもしれなかった。
先輩は俺の向かいで、自分の卒論の資料を広げた。
テーブルが狭くなり、俺はノートを少し端へ寄せた。
「ごめんね」
「いえ」
「また寄せた」
「何をですか」
「自分の」
先輩は俺のノートを真ん中へ戻した。
「半分ずつ使おう。机はあるんだから」
俺はノートの角を押さえた。
先輩の資料には、何度も書き直した跡があった。赤と青の線が交差し、余白に細かい字が詰まっていた。
「忙しいんですね」
「今、気づいた?」
「いつも忙しそうですけど」
「そう見せてるだけの日もある」
先輩はペンを口元へ持っていき、噛みそうになってやめた。
「就職、地元でしたっけ」
「うん」
「やりたい仕事なんですか」
聞いてから、少し踏み込みすぎたと思った。
先輩はしばらく考えた。
「やってみたいと思えたお仕事。まだやってないから、好きかどうかまではわからない」
「そうですよね」
「地元に戻りたいのもあるし。親がいるからだけじゃなくて、私があそこで暮らしたい」
俺は頷いた。
誰かの都合ではなく、自分の希望として帰る人がいる。
そのことを、先輩について考えたのは初めてだった。
いつも五人の予定を決めている人だから、先輩の予定は五人の外側にないような気がしていた。
「寂しくなりますね」
俺が言うと、先輩はペンを止めた。
「誰が?」
「……サークルが」
答えたあとで、先輩が聞きたかったのはそれだったのか、少し迷った。
「……そっか」
先輩は頷き、資料へ目を戻した。
俺は、自分もです、と言いそびれた。
その夜、真帆から原稿の訂正が来た。
俺が、好きな馬でも予想は冷静に、とまとめた一文に、線が引かれていた。
冷静じゃないときもある。
こう書くと私がいつも正しいみたいで嫌。
俺は書き直した。
馬券を買うときは、好きな気持ちを一度横に置く。
送り直すと、また返事が来た。
横に置けないときもある。
ていうか、私そんな立派なこと言った?
俺は最初のメモを読み返した。
真帆が言ったのは、応援馬でも買わない日はある、だった。
俺が勝手に、その言葉をきれいな考え方へ変えようとしていた。
そのまま載せる。
そう送ると、真帆は、お願い、と返した。
少しして、もう一文来た。
あと、私、あの春のレースは本当に悔しかったから。
馬券は外れたのに、嬉しかっただけ、みたいにしないで。
俺は画面を見て笑った。
嬉しかったし、悔しかった。
両方そのまま書けばよかったのだ。
俺は真帆の段落を直し、律の段落も読み返した。
格好よくしたつもりで、律の言い訳を削りすぎていた。
栞の言葉は、まだ聞いていなかった。
俺はノートの空いているページに、自分がその馬を見つけた日、と書いた。
※
大学一年の秋。
部室で古い新聞を見ていたら、変な名前の馬がいた。
エンディングノート。
死ぬ前に書くものを、走り始めたばかりの馬の名前にするのが、妙に気になった。
そのとき俺は、父も母もずっと元気だと思っていた。
死ぬ前に何かを書くことは、ずっと年を取ってからの宿題だった。
馬名を声に出すと、真帆が「長くない?」と言った。
俺たちは一文字ずつ数えた。
エ、ン、デ、ィ、ン、グ、ノ、ー、ト。
九つだった。
律が、小さいイも一つだろ、と言い、栞が、いま数えたよ、と返した。
奈緒先輩は、名前で覚えられたなら、もう応援する理由はあるね、と言った。
そのころ、五人が一緒に出かけるようになって、まだ半年も経っていなかった。
俺は最初、律に誘われて部室へ行った。
入学してすぐ、必修の授業で隣になった男が、ノートの端に馬の絵を描いていた。すごく下手だった。首が短く、脚が六本あるように見えた。
俺が笑うと、律は、馬だよ、と説明した。
馬なのはわかる、と答えたら、じゃあ笑うなと言われた。
それで話すようになった。
奈緒先輩は当時二年生で、新入生の勧誘に苦労していた。競馬という言葉だけで馬券の話だと思われることが多く、写真を撮るだけでも、馬を見るだけでもいいと説明するのに時間が掛かったらしい。
栞はその写真を撮るの一言で来た。体験加入した写真サークルよりも、どうやらこっちの方が落ち着くらしい。
真帆は、馬券を買わなくても予想を比べることはできる、という説明が面白かったと言った。年明け生まれの彼女は、俺たちより長く、紙の上の予想だけで競馬を見ていた。
奈緒先輩だけが、一足早く二十歳になっていた。
それでも馬券の買えない俺たちへ代わりに買ってくるようなことはしなかったし、俺たちも頼まなかった。誰が当てたかを争うのには、紙と鉛筆があれば足りた。
俺の父は、そんなサークルがあるのか、と少し驚いた。
馬券を買わずに一日いられるのか、と聞かれたので、父さんは買ってても一日外れるじゃん、と返した。
父は、それとこれは違う、と言った。
違うのはわかっていた。
でも、俺たちには俺たちの見方があった。
最初に五人で観戦した日は、競馬場へ着くまでに二人が道を間違えた。
律と俺だった。
栞は案内の地図を写真に撮っていた。真帆は交通費を正確に覚えていた。奈緒先輩は二人を迎えに、わざわざ一つ手前の角まで戻った。
俺はそのときから、自分がこの五人の中で何をすればいいか考えていた。
道案内はできない。写真も上手くない。計算は遅く、予想は律と同じくらい外れた。
ただ、人の予想を聞くのは好きだった。
どうしてその馬なのかと聞くと、四人はそれぞれ違うことを話した。時計、歩き方、昔見たレース、名前。それを全部聞いてから馬を見ると、ただの出馬表が、少し違って見えた。
奈緒先輩が、航平は聞くのがうまい、と言ったのは、そのころだった。
俺は褒められたと思った。
聞く側にいれば、ここにいていいのだと思った。
いつのまにか、自分の予想を言うのは最後になった。
最後まで聞けば、四人の誰にも近くない答えを選ぶことができる。時には、四人のうち誰かと同じ答えを、偶然そうなったふりで言うこともできる。
それがずるいことだと、はっきり考えたことはなかった。
俺はノートに、その日のことを書いた。
五人で最初に出かけた日のレース結果は、もう覚えていない。でも帰りの電車で、真帆が自分の予想の理由を途中までしか話せていないと言ったことは覚えている。
俺が続きを聞くと、真帆は顔を上げた。
律は途中で眠り、栞はカメラの画面を見ていた。奈緒先輩は乗り換えの駅を確かめていた。
真帆は俺だけに、負けた馬を選んだ理由を最後まで話した。
俺は、それでもその馬を見つけたんだからいいじゃん、と言った。
真帆は、何がいいの、と聞いた。
俺は、次も見たいんだろ、と返した。
彼女は少し考え、うん、と言った。
次の週、その馬の出走予定を最初に見つけたのは真帆だった。
俺は部誌の原稿へ、勝ち負けより、次も見たいと思ったことを覚えている、と書いた。
それは、聞き書きではなく、俺の文章だった。
翌日の夕方、律にその話をすると、あいつは電車で眠ったことだけ覚えていなかった。
「俺、寝てた?」
「隣の人の肩に、頭が乗りそうだった」
「それは起こせよ」
律は俺のノートを覗いた。
「航平の話、そこ?」
「まだ途中」
「いいじゃん」
「何が」
「お前が見つけたって話。最初に見つけたの、お前なんだから」
俺はペンを止めた。
父の残したものをどうするかという話ばかりしているうちに、自分が誰かへ持っていったものもあることを、忘れていた。
新聞にあった、小さな一行だった。
それを四人に見せたことは、俺がしたことだった。
※
栞が四枚の写真をグループへ送った。
競馬場で撮ったものだった。
一枚目は奈緒先輩だった。口を開けて何か言っている。片手には飲み物があり、もう片方の手は、画面の外にいる誰かを指していた。
奈緒先輩は、よりによってこれ?、と返した。
栞は、いちばん先輩らしいから、と言う。
二枚目は真帆だった。
馬券を半分に折って、上着のポケットへしまっていた。少し俯いているが、口の端が上がっていた。
真帆は、当たったやつじゃん、と送った。
律が、金の顔!、と返した。
真帆は、あんたは外れた顔なら何枚でもあるでしょ、と言い返す。
三枚目は律だった。
カメラに向かって笑っていた。
片眉が少し上がっていた。何かを言う直前か、言い終わったあとか。俺はその表情を知っていた。でもカメラへこんなにまっすぐ顔を向ける律は、あまり見たことがなかった。
栞が撮ったからだと思った。
四枚目は俺だった。
顔が写っていなかった。
首から下だけで、手に新聞を持っている。上着の袖口に、少しだけ白いシャツが見えていた。
なんで俺だけ首から下?
送ると、栞が答えた。
カメラ向けると逃げるじゃん。
律が、犯人みたい、と書いた。
真帆が、新聞で身元わかりそう、と返した。
奈緒先輩は、背中しかない写真もあったよ、と追加した。
俺は、顔以外なら使っていい、と送った。
その言葉は本心だった。
写真に撮られると、どんな顔をすればいいかわからない。笑ってと言われると、口だけ動かしてしまう。栞にも何度か、いま普通でよかったのに、と言われたことがあった。
だから顔がないのは、俺のせいだった。
それでも、律の写真をもう一度開いた。
指で少し大きくした。
目のところを見る。
栞のほうを見ていた。
正確にはカメラを見ていたのだが、その向こうには栞がいた。
俺は画像を閉じ、もう一度開いた。
自分の写真は、一度しか見なかった。
母から電話が来た。
父の服をどうするかという話だった。
「冬物、航平が着られそうなの、置いとく?」
「サイズ合わないと思う」
「一枚、上着なら」
「今度見てからでいい?」
「いいよ」
電話の向こうで、ハンガーがぶつかる音がした。
母は父の家にいた。
「一人でやってる?」
「今日は少しだけ」
「俺も行くって」
「わかってる。全部はやらないから」
母は少し笑った。
「そっちは何してたの」
「友達の写真見てた」
「馬?」
「人」
「へえ。珍しい」
俺は何も言わなかった。
母は、今度見せて、と言った。
「写真撮る子、上手なんでしょ」
「うん」
「名前、何だった?」
「栞」
「栞さん、ね」
その名前を母が口にしたことで、栞が少し違う場所へ来たような気がした。
俺は写真を送ろうとして、やめた。
本人の知らないところへ顔の写真を渡していいか、わからなかった。
そういえば、俺が寝られるかどうか、四人はどこまで話しているのだろう。
考えかけて、またやめた。
疑う理由を探しているみたいで嫌だった。
※
金曜日の帰り、律と電車で一緒になった。
隣に立って、吊革を持った。
車内は混んでいて、律の肩が俺の上着に触れた。あいつは、悪い、と言って少し身体を引いた。
以前なら謝らなかった距離だった。
俺が神経質になっているだけかもしれなかった。
「部誌の原稿、読んだ」
律が言った。
「変なとこあった?」
「俺の発言、格好よくなってる」
「そう?」
「もうちょっと馬鹿だったと思う」
「紙に残すんだから、多少は」
「盛った?」
「削った」
律が笑った。
俺も笑った。
そのまま、普通に帰れたはずだった。
乗り換え駅まであと二つというところで、俺は言った。
「お前に彼女できたら、カツカレーは当分お預けかな」
冗談の調子にした。
律が笑って、そんなわけないだろと言えば、それで済む話だった。
あいつは笑わなかった。
俺を見た。
「お前、それでいいの?」
車輪の音が大きくなった。
一瞬、聞き間違えたかと思った。
「何が」
「今言ったこと」
「いや。そういうもんだろ」
「そういうもんって」
律は吊革を持ち替えた。
俺は窓の広告を見た。見たことのない講座の案内があった。誰でも始められる、と書かれていた。今の会話をどう終えるか教えてくれる講座があれば、受けたいと思った。
「別に、彼女優先になるのは普通じゃん」
「航平」
名前を呼ばれた。
俺は律を見た。
「お前は、来てほしいの?」
ドアの上の表示が、次の駅を知らせた。
そこが俺の乗り換える駅だと思った。
来てほしい。
そう言えばよかった。
でも、それは律の恋人から時間を取ることになるのではないかと思った。
まだ恋人がいるかどうかも聞いていないのに、俺はその見えない人の顔色を窺っていた。
「無理に来なくていいよ」
言ってしまった。
律の顔が、少しだけ固くなった。
「無理かどうかは、俺が決めるけど」
「そうだな」
電車が止まった。
人が動き、俺と律の間に鞄が一つ入った。
「じゃ、また」
俺は降りた。
律はドアの向こうにいた。
何か言おうとした顔のまま、ドアが閉まった。
電車が動き出してから、俺は初めて、一つ手前の駅で降りてしまったことに気づいた。
ホームの案内板を見上げた。
知っている駅名だったが、乗り換える路線はなかった。
次の電車を待つ列へ並んだ。
律に、駅間違えた、と送れば、笑ってくれただろう。
送れなかった。
あの会話から逃げるために降りたことが、ばれる気がした。
部屋へ帰ると、洗面台の白い歯ブラシを持ち上げた。
乾いていた。
使っていないのだから当然だった。
俺は水で軽くすすぎ、元の場所へ戻した。
勝手に洗うなと律は言うかもしれない。
でも乾いたまま埃が付くよりはいいと思った。
そうやって言い訳を作るのが、最近ずいぶんうまくなった。
机の上でスマホが光った。
栞からだった。
部誌の写真、一緒に選んでくれる?
来週、授業終わったあと。
俺は画面を読んだ。
律と行っていた店だろうか。
栞は、駅の向こうの喫茶店、と続けて送ってきた。
やっぱり同じ店だった。
俺は、いいよ、と返した。
何時なら空いているかを送ると、栞はすぐその時刻に決めた。
その日は律と同じ授業がある。
授業が終わってから、俺だけ栞に会う。
律に言うべきだろうか。
画面を閉じ、洗面台のほうを見た。
さっき俺がすすいだ歯ブラシの先に、水滴が残っていた。
俺は栞のメッセージへ戻り、待ち合わせの場所を確認した。
来週の予定を一つ決めたあとで、明日の自分がどう過ごすのかは、まだ決まっていなかった。