大学を何日休んだか、指で数えたのは、緑川さんが来た日曜日の夕方だった。
履修している授業の連絡画面には、提出期限と教室変更、欠席する場合の手続きが並んでいた。誰かが死んだと書くための欄はなかった。理由を自由に入力できる欄に、父の葬儀のため、と書いた。葬儀はもう終わっていたけれど、父が死んだあとの書類のため、では長すぎる気がした。
大学の近くの部屋へ、着替えを取りに戻った。
駅からの道には、いつもと同じ匂いがした。自転車屋の前に積まれたタイヤと、夕方の仕込みをしている中華料理屋の油。俺の知らない場所へ帰ってきたような気持ちで歩いていたのに、曲がる角では足が迷わなかった。
ポストには、不動産屋の広告と水道の通知が入っていた。
部屋の電気をつけると、出かけた火曜日のままの机があった。途中まで開いた資料、飲みかけのペットボトル、椅子の背に掛けたシャツ。父から電話が来たわけではない。病院の人からだった。それでも俺は、あの日スマートフォンを置いていた場所を見ると、父に呼ばれたような気がした。
洗面台に、歯ブラシが二本あった。
青いのが俺で、白いのが律だった。
伊藤律は俺と同じ三年で、競馬サークルにいるもう一人の男だ。金曜日になると俺の部屋に来て、翌日のレースについて見当違いなことを言い、当たったときだけ自分の発言を正確に覚えている。
この前の金曜日も来る予定だった。
父が亡くなったと連絡したあと、律は「必要なら行く」とだけ送ってきた。俺は「大丈夫」と返した。何が大丈夫なのかは、自分でもわかっていなかった。
律の歯ブラシには、小さい歯磨き粉の蓋が引っ掛かっていた。
あいつはそれを、蓋がなくならない工夫だと言っていた。俺は毎回、歯ブラシを取りにくくする無駄と言っていた。
スマートフォンを出す。
帰ってる、と打った。
だが、少し考えて消した。
着替えを取りに来ただけだった。律が来たら、俺はまた、大丈夫と言ってしまう。だったら最初から呼ばないほうがいい気がした。
冷蔵庫を開けた。少し変な匂いがしてそこを見ると、牛乳の期限が五日過ぎていた。父が死ぬ前に買ったものだった。
捨てるのをためらった自分に驚いた。
父と関係ない。俺が買った牛乳だ。そう思って流しにあけると、白い筋が排水口へ消えた。紙パックをすすいで、潰して、いつもの袋へ入れた。それだけで一つ仕事をした気になった。
しばらくして、律からメッセージが来た。
冷蔵庫の牛乳、たぶん期限切れてる。
俺は画面を見つめた。
もう捨てた、と返した。
返事はすぐだった。
そっか。
講義の資料、あとで送る。
お前の取ってない授業だろ、と打つと、だから別の奴にもらった、と来た。
ありがとう、と返した。
そのあと、少しだけ何かを待った。
今から行く、とか、飯は、とか。
律からは、資料の画像が六枚届いた。斜めに撮られていて、最後の一枚には律の靴が入っていた。
俺は最後の写真まで保存した。
着替えを鞄に詰め、部屋を出る前に、父からもらった米の袋を見た。
二キロは、まだほとんど残っていた。
実家へ持って帰るのは変だと思った。それなら母に食べてもらえるのに、変だと思った。
結局、袋を棚の奥に押し込んだ。
※
父の財産の全体が分かり始めたのは、その日の夜だった。
通帳だけを見ていたときには、もう少し小さい数字だと思っていた。小さいといっても、俺がこれまで自分のものとして見たことのない桁だった。それまでに母と二人で、普通預金と定期預金を分け、証券会社の書類を探し、父が仕事で世話になっていた人に連絡していた。
父は数年前に、小さな会社を人に譲っていた。
それからも頼まれた仕事を引き受けていて、俺には、前と同じように働いているように見えた。朝の電車が少し遅くなり、平日に家にいることが増えた。それくらいの変化だった。
会社を譲ったときのお金と、それまで貯めた分と、株式があった。
専門家から送られてきた一覧を、母が印刷した。端の数字を見てから、別のページを見て、もう一度最初に戻った。
「これ、全部お父さんの?」
「そうらしい」
「同じの二回足してない?」
「俺も聞いた」
紙の上の数字を、俺が大学の授業で使っている電卓で足してみた。
支払うものを見込んでも、手元に残る財産は、だいたい一億二千万円になるという説明だった。株価が変わるから確定した金額ではないし、手続きが終わってすぐ全部自由になるわけでもない。説明の言葉は何度も聞いた。最後まで残ったのは、一億二千万円だった。
俺はまず、学費が払える、と思った。
あと一年半。
就職がうまくいかなくても、来年の授業料も心配しなくていい。部屋の家賃も、駅までの定期も、いま壊れかけているゲーミングパソコンも。
そう考えて、紙の両端を押さえた。
指が浮かないようにするためだった。
母に顔を見られたくなかった。
父がいなくなったことで、俺は助かったと思ったのだ。
「航平」
呼ばれて顔を上げた。
「これ、二千円」
母が見ていたのは、違う紙だった。
父の口座から毎月振り込まれていた小さな金額を、母は爪の先で指していた。
「まだ払ってたんだ、あの人」
「何の?」
「牧場。ほら、昔、三人で行った」
思い出すまで少しかかった。砂利の道と、入口の木の看板と、俺の手からニンジンを取った馬。父が写真を撮り、母が馬の鼻先を撫でていた。
「やめ忘れてたんじゃない?」
俺が言うと、母はすぐには返事をしなかった。
それから、紙を少し自分のほうへ寄せた。
「そうかもね」
そうは思っていない声だった。
俺は一億二千万円のほうへ目を戻した。
母は二千円の振込先を、手帳に書き写した。
※
父がどれくらいのお金を持っているか、俺は生きている父に聞いたことがなかった。
聞く用事がなかったのだと思っていた。でも、たぶん用事がなかったわけではない。高校のとき、私立大学の学費を調べたこともあるし、大学に入って部屋を借りるときには、家賃の上限を父に聞いた。父は八万円台までなら助かると言った。俺はその言葉から、父の財布の大きさを勝手に決めていた。
部屋を選んだときのことを思い出した。
駅から十二分と書かれた物件は、坂があった。父と俺が歩くと十五分掛かった。不動産屋の人が、慣れればもう少し早くなりますと言い、父が、慣れたら坂が平らになるんですかと聞いた。
嫌味ではなかった。本気で聞く調子だった。
俺は慌てて笑い、父の袖を引いた。
結局、その部屋を借りた。
駅から近い部屋より七千円安かったからだ。七千円が一年でいくらになるか、父はその場で暗算した。今、父の残した数字を見ていると、あの暗算が何のためだったのか、わからなくなった。
「お父さん、ケチだった?」
母に聞いてみた。
母は冷蔵庫の野菜室を覗いていた。使えそうなものを出して、夕飯を作ると言っていた。
「ケチなところと、そうじゃないところがあった」
「どっちが多かった?」
「自分ではケチじゃないと思ってたでしょうね」
母は少し曲がったニンジンを一本取り出した。
「航平に、どう思われてるかは気にしてたけど」
「俺?」
「部屋、遠かった?」
「遠いってほどじゃない」
「だったらいいんじゃない。歩いてるうちに、いい店見つけたとか」
カレー屋を思い出した。
駅から近い部屋にしていたら、あの道は通らなかった。
だから父のお金の使い方が正しかった、と結びつけるのも変だった。それでも、あの店のカウンターに座っている律の横顔は、七千円の計算から少しだけ続いていた。
母がニンジンを洗いながら言った。
「本人に聞けたらよかったね」
それは俺が聞こうとしていたことに、いちばん近い返事だった。