翌日の月曜日、銀行の窓口で、俺は同じ書類を三度書いた。
矢作航平。
ふだんは間違えない字なのに、一枚目は父の名前を書きかけた。二枚目は、住所を実家のものにしてしまった。三枚目でようやく、自分の部屋の住所まで正しく書けた。
窓口の人は何も言わず、新しい用紙を出してくれた。
俺の前には透明な仕切りがあり、その向こうの人の声が少しだけ聞き取りにくかった。だから何度も聞き返した。聞き返すたびに、申し訳ないと思った。
必要なものの説明を受けるあいだ、父の名前が何度も出てきた。
その名前の前や後ろに、亡くなられた、とか、被相続人、とか、自分で口にしたことのない言葉が付いた。
母は俺の隣に座っていた。
「ここ、私の名前も要りますか」
母が聞くと、窓口の人は書類を見て、今回は、と説明した。
母は頷いて、鞄から出しかけていた印鑑を戻した。
俺のために持ってきてくれていたのだと、そのとき知った。
離婚した父の財産について、母は受け取る人ではなかった。母はそれを理解していたし、何かを要求しに来たわけでもなかった。それでも、隣に座っている母が少し遠く見えた。
建物を出てから、俺は何か言おうとした。
「昼、何食べる?」
先に母が聞いた。
「なんでも」
「なんでもは困る」
「じゃあ、うどん」
「昨日も食べたじゃない」
「なんでもって言ったら困るって」
母が笑った。
その笑いに乗って、俺も笑えた。
結局、駅ビルの定食屋に入った。母は焼き魚定食で、俺は唐揚げ定食だった。運ばれてきた皿を見ると、唐揚げが一つ多い気がした。数を覚えているほど来た店ではないから、たぶん気のせいだった。
「食べられる?」
「食べれるよ」
母の茶碗には、俺より少ないご飯が盛られていた。
俺は自分の唐揚げを一つ、母の皿へ置いた。
「多いから」
「さっき食べられるって」
「食べられるけど、多い」
母は箸を持ったまま俺を見た。それから、ありがとう、と言った。
俺はその時、母が自分より長く生きると決まっているわけではないことを、テーブルの上で考えた。
父が死ぬまでは、父も母も、自分よりずっと先に大人になった人たちだった。その先の時間については、ぼんやりした順番しかなかった。俺が就職して、二人が年を取って、何度か病院へ行くようになって、そうしていつか、と。
父はその途中を全部飛ばした。
母の箸が魚の骨をよけるところを見ていると、その手がいつか止まるのだと、急にはっきりわかった。
「どうしたの」
「骨、多い?」
「焼き魚だからね」
母はまた笑った。
俺は母が笑うたびに、次も同じように笑うだろうかと考えた。そんなことを考えていると知られたくなくて、ご飯を口に運んだ。
家に戻ると、律から授業の連絡が来ていた。
提出物の期限が一週間延びたらしい。教授が出張するためだという。
俺が頼んだわけじゃないから、安心して。
頼んでくれたのかと思った俺の先を越して、そんな一文まで付いていた。
了解。ありがとう。
それだけ返した。
画面の上にあるサークルのグループは、四日前から止まっていた。
最後の書き込みは奈緒先輩の、今週は各自で、だった。俺の父が亡くなったから中止、と書かれていないことに、少しだけほっとした。そのせいで四人の楽しみがなくなったと思うのはつらかった。かといって、自分抜きで盛り上がっている写真を見るのも、たぶんつらい。
俺はずいぶん面倒なところにいるらしかった。
栞からは個別に、授業で使う本なら持っていく、と来ていた。
真帆からは、返事要らない、とだけ最初に書かれたメッセージがあった。その下に、サークルで立て替えていた四百二十円を送ったので確認してほしい、とある。
返事が要らないなら、確認を求めるのは変じゃないかと思った。
でも残高が四百二十円増えている画面を見て、俺は少し笑った。
真帆はお金のことを、必要以上に重くしない人だった。四百二十円は四百二十円だ。人が死んでも、立て替えた分は返ってくる。
俺は、ほかの三人にも一人ずつ返事をした。
大丈夫という言葉を使わないようにすると、何を書けばいいか、案外難しかった。
栞には、本は部屋にあった、と送った。奈緒先輩には、明日あたり大学へ行く、と送った。真帆には、四百二十円受け取った、と書いた。
律には、もう返事をしていた。
なのにもう一度、その画面を開いた。
牛乳の期限を覚えている男に、何を話せばいいのか考えながら、何も送らず閉じた。
※
大学へ行ったのは、父が亡くなった翌週の火曜日だった。
カレンダーの数字が、自分の見ていないあいだに進んでいた。
朝、実家の台所で母とパンを食べた。母は日曜日から泊まっていた。父と母が離婚してから、この家に母が二晩続けて泊まったことはほとんどなかった。
「今日は帰るね」
母が言った。
「うん」
「冷凍庫の、あれ。右側の容器。明日までに食べて」
「どれ?」
「蓋が青いの」
「全部青いよ」
「じゃあ大きいの」
俺たちは冷凍庫の前で容器を並べ、結局、母が紙に中身を書いた。煮物、鶏、名前のない野菜。名前のない野菜だけが妙に気になった。
「これ何」
「冷蔵庫に残ってたものを炒めたの」
「野菜炒めでいいだろ」
「そうね」
紙に野菜炒めと書き足された。
何でも名前が付けば片づくのかもしれないと思った。
父の死亡、相続、大学への復帰。今の自分のしていることにも、全部名前が付いていた。その名前の内側で、俺は父のスニーカーを揃えられず、母の作った野菜をどう呼ぶかで揉めていた。
母が先に家を出た。
駅と反対の方向へ歩く背中を、玄関から見送った。母は途中で忘れ物に気づいたように振り返り、手を上げた。
俺も上げた。
それから母は角を曲がった。
鍵を閉める音が、思ったより大きかった。
大学では、誰もが少しずつ俺を知っていた。
父が亡くなったことを知っている人、欠席していたことだけ知っている人、そもそも俺の名前を覚えていない人。挨拶のたびに、そのどれなのかを判断しなければならなかった。
ゼミの先生は、研究室の扉を半分開けたまま、今後の提出物について簡単に説明してくれた。
「遅れるものがあったら、先に連絡してください」
「はい」
「理由は、毎回書かなくていいですから」
その言葉がありがたかった。
理由を書くと、父をもう一回死なせるような気がしていた。そんな表現を先生に伝える必要はなかった。ただ、ありがとうございます、と言った。
研究室を出ると、廊下の奥で律が自販機に小銭を入れていた。
俺に気づき、缶を二本取り出した。
「いま、一本しか買ってないだろ」
「前のもある」
「ぬるいやつ?」
「温度で友情を測るなよ」
渡された缶は、ちゃんと冷えていた。
律の髪は、前に会ったときより短かった。耳の上がすっきりしている。俺はその変化を見つけたことに、なぜか腹が立った。自分の見ていないところで髪を切るくらい当然なのに、時間が律にも流れていたことを、急に突きつけられた気がした。
「どうした、俺の耳に何か付いてる?」
「髪切ったなって」
「土曜。切りすぎた」
「別に」
「別に、って似合うのか似合わないのか」
「似合うよ」
律が少し黙った。
「そりゃどうも」
俺は缶を開けた。炭酸が指に飛んだ。
父の話が出ると思っていた。
律は、次の授業の教室が変わった話をした。教授が映像を流すのに手間取り、学生が前へ出て直したことを、まるで大事件のように話した。
俺は途中で二回笑った。
二回目に笑ったあと、喉が痛くなった。
「昼どうする」
律が聞いた。
「食堂かな」
「混んでるよ」
「じゃ、どこでも」
「どこでもって言ったな。あとで文句言うなよ」
結局、食堂へ行った。
律は混んでいると言いながら、空くところを見つけるのがうまかった。席を立ちかけた人たちの前を、あまり急がない速度で通り、空いた椅子を自然に引いた。
四人掛けだった。
向かいの二席には、あとから知らない学生が座った。
俺は既に受け取ってトレーを持っているのに、食券をポケットにしまおうとして、もう店員に渡したことに気づいた。空のポケットを探る手を、律は見ていなかったふりをした。
「水、取ってくる」
俺が立つと、律は自分のコップを差し出した。
「ついでに」
「自分で行けよ」
「ついでだって」
コップを二つ持って給水機へ向かった。
今の俺に水を運ばせる人がいることが、妙にありがたかった。
席へ戻ると、早くも平らげた律は唐揚げを一個だけ残していた。
「食う?」
「なんで」
「多かった」
「お前が?」
「俺にだって多い日はある」
昨日、母と行った定食屋を思い出した。
俺は唐揚げをもらった。律の皿には、よく見るとマヨが一箇所だけ残っていた。あいつは最後の一個をそこへ付けるつもりだったのかもしれない。
「ありがとう」
「唐揚げでしみじみするなよ」
「してない」
そのあと、二人で次の授業へ向かった。
階段の途中で、律が何か言いかけた。
でも後ろから人が来て、俺たちは横に並べなくなった。教室に入ると、空いた席が別々の列にしかなかった。律は窓側へ行き、俺は廊下側に座った。
その距離からでも、律が配布資料を後ろへ回し忘れたことは見えた。
後ろの学生に肩を叩かれて、あいつは慌てて紙を回した。
俺はそれを見て、また笑った。
夕方、自分の部屋へ戻ると、外はまだ明るかった。
実家へ帰ろうか迷った。
でも母はもういないし、明日も大学に来る。往復する理由を考えると、父の家に一人で泊まるためだけに電車へ乗ることになる。
俺は父からもらった米を炊いた。
炊飯器の蓋を開けると、蒸気が顔に当たった。茶碗に盛る量がよくわからず、少なめにしたら足りなくなって、あとで足した。
食べ終わってから、母に、米炊いた、と送った。
返事は、知ってるお米? だった。
変な質問だと思ったが、父からもらったやつ、と返すと、母はそう、とだけ送ってきた。
しばらくして、向こうから夕飯の写真が届いた。
焼き魚と、俺が持たされなかったほうの野菜炒めだった。
母の食卓には、箸が一膳しかなかった。
当たり前のことだった。母は何年も一人で暮らしている。俺が気づいたのが今日だっただけだ。
俺は自分の空の茶碗を撮って送った。
何も写ってないじゃない、と返ってきた。
食べた証拠、と打った。
その短いやり取りが終わると、部屋の中が、急に静かになった。