眠くなったのは、十一時半だった。
目の奥が重くなり、読んでいた資料の同じ行を二度読んだ。それまでは普通だった。部屋を片づけ、風呂に入り、明日の天気を確かめた。翌日の二十三日、水曜日は雨が降るらしかった。
ベッドへ横になり、電気を消した。
隣の部屋で、何かが床に落ちた。
その音を最後に、自分が何も聞かなくなることを想像した。
父も、最後の晩は眠かったのだろうか。
医師から聞いた説明と、自分が想像している父の最後は、同じではなかった。俺は父の最後の数時間を見ていない。誰にも見えていない時間があった。その空白に、勝手な絵を何度も入れてしまう。
歯を磨いて、スマホを充電器につないで、明日のために何かを出しておく。そうやって、父は明日の分まで生活したのだと思う。
俺のスマホも充電中だった。
明日の目覚ましは七時四十分に設定してある。
その数字をもう一度確かめたくなって、画面をつけた。
七時四十分。
ちゃんと入っていた。
画面を伏せると、かすかに鼓動の音が聞こえた。聞こうとしているから聞こえるのだとわかっていた。わかっても、聞くのをやめられなかった。
水を飲みに立った。
コップに半分だけ水を入れた。喉は渇いていなかった。飲んでも何も変わらなかったので、もう半分足した。
台所の小さい窓に、自分の顔が映っていた。
父に似ていると言われるのは、眉の形だった。
俺は窓の前で眉を動かした。変な顔になった。父がこんな顔をしたことはないだろうと思い、少しだけ息が抜けた。
でもベッドへ戻ると、また同じところへ戻った。
朝まで起きていればいい。
そう考えるのは簡単だった。
ただし、明日の朝まで起きていても、明日の夜は来る。明後日も、その次も来る。眠らないことを続けるには、父の残したお金よりずっと多くのものが要りそうだった。
俺は電気をつけて、机に座った。
何かやることが欲しかった。
授業の資料を開いたが、頭に入らない。競馬の結果を見ようとして、先週のレースに父がもういなかったことを思い出した。実家の片づけの予定を作ろうとして、母にいつ来られるか聞かなければならないと気づいた。
母も眠っているはずだった。
母が眠っているということが、また怖かった。
連絡しようとしてやめた。寝ている人を起こして無事を確かめることを始めたら、俺は毎晩母を起こすだろう。
引き出しに、便箋が入っていた。
大学に入るとき、祖母の仏前に手紙を書けと母に言われて買ったものだ。結局そのときは一枚しか使わず、残りがずっとあった。
一枚を机に置いた。
上に、遺言、と書いた。
書いてから、自分で少し驚いた。
死にたいのではなかった。
死にたくないから、書いていた。
自分の手が届くところで、何か一つでも決められれば、わけのわからない順番に割り込める気がした。
財産は、母に。
その一行は簡単だった。
父から自分へ来たものを、母へ渡したい。母が何に使うかまでは、決めなくていいと思った。父と俺を思い出すためだけに使う必要もない。旅行でも、新しい冷蔵庫でも、昔好きだった馬のところへ通う費用でも。
そこまで考えると、少しだけ息がしやすくなった。
次の行へ移った。
母が先に亡くなっていた場合。
ペンが止まった。
相手が思いつかなかった。
母の名前は知っているし、住所も、電話番号も、好きな食べ物も知っている。そこに生きている人を、条件の一つとして紙から消すことが、うまくできなかった。
俺は母が亡くなっていた場合、と書いて、先に、を後から足した。
先とか後とかを付ければ、少しでも遠くなる気がした。
ならなかった。
父が生きていたら、父に、で終わっただろうか。
たぶん終わらなかった。父が先にいなくなったとき、とまた書いただろう。順番を二つ作れば、三つ目が要った。俺の知っている人を全員並べても、最後の一人がいつまで生きるかは決められない。
律の名前を思い浮かべた。
そんな大金をあいつに渡したら、どうするだろう。
最初はカツカレーを大盛りにするかもしれない。次にパソコンを買い替えて、旅行へ行って、それから困るだろう。俺がいない金曜日に、俺から来たお金で何かを買うことになる。
栞ならカメラだろうか。
真帆なら教習所の費用で、奈緒先輩なら、と考えたところで、俺はペンを置いた。
四人に何を買わせたいのかを考えているのではなかった。
俺がいなくなったあとに、四人がどう暮らすのかを、勝手に覗こうとしていた。
それは俺が知らなくていいことなのかもしれない。
でも、知らなくていいと言われると、余計に寂しかった。
※
翌日、大学の図書館で、遺言について書かれた本を一冊借りた。
検索端末に文字を入れるとき、後ろに人がいないか振り返った。誰も俺の検索語など見ていなかった。隣の端末では、学生がレポートの題らしい長い言葉を入力していた。
本は思っていたより薄かった。
法学の棚の前で立ち読みし、書き方の説明より先に、何度でも考え直せる、という趣旨の文章に目が止まった。俺は一度書いたら変えられないものだと思っていたらしい。
そのことに少し安心し、それから、考え直す自分が生きている前提で読んでいたことに気づいた。
俺は未来の自分がいない場合だけを、準備しようとしていた。
いる場合の自分は、来週の授業の提出物すら出していない。
貸出機に本を置くと、機械は何も尋ねず、返却日を表示した。
十一月の数字だった。
十一月までこの本を持っていていいのだと思った。
何でもない許可が、その日はありがたかった。
昼休みに、奈緒先輩と中庭で会った。
国枝奈緒は四年生で、俺たちの小さな競馬サークルの会長だった。正式な会員は五人しかいない。大学の冊子に載せるための書類だけは、人数の多いサークルと同じだけあった。
先輩は紙の束を抱えていた。
「授業、戻れた?」
「はい。すみません、大丈夫です。いろいろ」
「私、何もしてないよ」
「先週、各自って」
「ああ。私も卒論あったし」
先輩は抱えた紙を少し上げた。
どこまでが本当なのか、俺にはわからなかった。でもその紙の角が折れているのを見ていると、先輩にも自分の忙しさがあるのだとわかった。
「部室、今日は閉めるかも。私、鍵返しに行くから」
「今日、何かあるんですか」
「大井」
先輩はそこで言葉を止めた。
「律から、まだ?」
「何が?」
「じゃ、来ると思う。連絡」
先輩のスマホが鳴った。
画面を見て、小さく息を吐いた。
「ごめん、ゼミ。私、行くね。無理しないで、って言うとまた大丈夫って言いそうだから、言わない」
「もう言ってますよ」
「そうだった」
先輩は笑って、紙を抱え直した。
去りぎわに、一枚だけ紙が落ちた。俺が拾うと、卒業後の住所を書く欄があった。
何も書かれていない欄を見て、先輩はそれを裏返した。
「ありがとう」
俺は、先輩があと半年もしないうちに大学からいなくなることを、その白い欄で思い出した。
※
午後、実家へ寄って、父のスマホを充電した。
ずっと電源を入れておくべきなのか、契約をどうするのか、決めることはまだいくつもあった。父の友達の連絡先も、全部はわかっていない。
ミドリさんとのやり取りを開いた。
最初の、明日、いつもの改札でいいか、が残っていた。
俺が返事をしなかったら、緑川さんは駅で父を待ったのだろうか。
しばらく待って、電話して、電源が入っている父のスマホを、誰もいないこの食卓で鳴らしたのだろうか。
それを想像して、俺は自分のスマホを取り出した。
俺が死んだら、母は律に連絡できるだろうか。
律という名前は、何度か母に話していた。金曜日に泊まりに来る友達、とも言った。母は、ああ、よく食べる子ね、と返した。会ったことはなかった。
伊藤という名字を母が知っているかは、怪しかった。
栞は写真を撮る子で、真帆はバイトが忙しい子、奈緒先輩は卒業する人。それくらいにしか説明していなかった。
もし母が大学に連絡して、サークルに聞いてくださいと言ったら、そこから四人へ届くのかもしれない。
でも、俺の死んだことが、知らない窓口をいくつも通って四人へ行くのは、嫌だった。
母は俺の部屋にある白い歯ブラシを、誰のものかわからず捨てるのだろう。
俺は自分が死ぬことより、その歯ブラシを捨てられることを、しばらく考えていた。
お金の行き先と、知らせたい相手は、同じではなかった。
一億二千万円を誰に渡すかは決められなくても、律には知らせてほしい。栞にも、真帆にも、奈緒先輩にも。
そういうことを書く紙も要るのだと、ようやく思った。
自分の部屋へ帰ると、時計は三時を回っていた。
遅い昼食に、母の作った名前のある野菜炒めを温め、炊いておいたご飯と食べた。器を洗っていると、スマホが鳴った。
律だった。
今日の大井、エンディングノート出るぞ。
俺、講義終わったらいつものとこにいる。
来るか、とは書いていなかった。
俺は流しの前で、その二行を何度も読んだ。
エンディングノート。
大学一年の秋から、俺たちが応援している馬だった。
最初に名前を見つけたのは俺だ。ずいぶん変な名前だと思った。デビューしたばかりなのに、もう終わりの支度をしているみたいだった。父に話すと、何を書いたっていいノートだろ、と言った。
馬は船橋の厩舎にいて、砂の上を走る。前へ行きすぎず、でも最後まで諦めず、曲がり終わるころに外から伸びてくる。俺たちは何度も、もう少し早く出していればと言い、その次には、早く出したら最後がもたないと言い合った。
あの馬についてなら、父が死ぬ前と同じことを、いまも言える気がした。
出走するのは、マイルグランプリだった。
十月二十三日、水曜日。
俺は出馬表を開いた。
馬名の隣に、四歳とあった。初めて見たときは二歳だった。馬も二年、年を取っていた。俺が大学に入ってから過ごした時間を、あの馬もどこかで走っていた。
机の上には、書きかけの便箋があった。
母が先に亡くなっていた場合。
その下は白かった。
俺は便箋を裏返した。
返事の画面を開き、行く、と書いて、消した。
出かけるまでに気が変わるかもしれない。大学へ行っただけで精一杯だったのかもしれない。大井に着いてから、四人の顔を見る前に引き返すかもしれない。
行くかも、と送った。
律はすぐに既読にした。
わかった。
雨っぽいから上着。
言われなくても持っていく、と返そうとして、やめた。
クローゼットを開けた。母が買ってくれた紺色の上着が、ハンガーから片方だけずり落ちていた。袖を引いて直し、椅子の背へ掛けた。
次の予定のために何かを出しておく。
父もそうしたのだろうと思った。
その考えはまだ怖かった。
俺は、上着をクローゼットへ戻さなかった。