そこにいていいのに
行くかも、と送った人間がいちばん早く着くのは、少し格好が悪い。
大井競馬場の入口で入場券をしまいながら、俺は四人への言い訳を考えた。講義が早く終わった。電車がちょうど来た。雨が強くなる前に来たかった。どれも半分ずつ本当だったが、残りの半分は、自分でも説明しにくかった。
部屋からここまでの移動中、俺はずっと、話題を準備していた。
父の話をされたら、もう大丈夫と答えない。かといって、まだ眠るのが怖いとも言えない。葬儀は終わった、手続きが残っている、母は元気だ。そのくらいなら答えられる。
競馬場に入ると、準備した言葉が少し遠くなった。
雨は細かかった。
照明の下でだけ見える雨粒が、階段の手すりに細い水の線を作っていた。傘を差している人と差していない人が半々で、売店から出てきた人が紙の皿を上着で覆っていた。
俺はパドックへ向かった。
まだエンディングノートが出てくる時間ではない。知らない馬たちが歩いていた。耳を前へ向けた馬、首を大きく使う馬、地面に落ちた何かを気にしている馬。歩く速度は同じくらいでも、同じ動きではなかった。
手すりの水を、持っていたハンカチで拭いた。
拭いてから、ここに四人来るだろうかと思った。
俺がここで待っているとは、まだ誰にも言っていなかった。
グループを開くと、奈緒先輩が、着いた人からいつものへ、と送っていた。いつもの、がどこかを、四人とも知っているらしかった。
俺も知っていた。
だからそこにいた。
それが妙に嬉しかった。
「行くかもって打った奴が最前列かよ」
後ろから声がした。
律は傘を持たず、髪に雨を載せていた。肩から提げた鞄の口に競馬新聞を挟み、両手は空いている。
「お前、上着って言ったくせに」
「着てるだろ」
「傘は」
「お前あるかなと思って」
「あるけど」
「じゃあ正解」
律は俺の隣に立ち、鞄から新聞を抜いた。湿気で少し波打っている。広げると、真ん中の折り目が何度も開閉した跡で白くなっていた。
俺が覗く前に、律は紙面の半分をこちらへ向けた。
父が死んだことには触れなかった。
「今日、前に行く馬、多くね?」
「どのレース」
「ノートの」
俺たちは馬のことを、時々ノートと呼んだ。短くする必要のないところでもそう呼ぶのは、勝手に近しい気分になりたいからだった。
「二頭くらいだろ」
「いや、三番も行くと思う」
「前走は行けなかったんじゃなくて、控えたんじゃない?」
「そう見えた?」
律は紙面を指した。
俺は上着の内側からスマホを出し、前走の映像を探した。
ここまで持ってきた返事の用意がそのあいだに消えた。
真帆が来たのは、その映像を二回見たころだった。
中内田真帆は、俺と同じ三年だった。誕生日が年明けなので、五人の中ではいちばん若い。サークルでいちばん小さい鞄を持ち、その中にいちばん必要なものが揃っている。
「まだそれ見てるの」
「まだって、お前いま来たじゃん」
「近づいても気づかないから。三番が行くかどうかでしょ」
律が振り返った。
「行くよな?」
「行かなくても私は買わない」
「話が早すぎる」
「締切あるんで」
真帆は手帳を開いた。端に小さく、今日使う金額が書いてあった。俺の視線に気づくと、隠さずに見せた。
「バイト前倒しで上がってきたから、今日はこれだけ」
「応援馬に全部?」
「まさか。ノートは応援、馬券は相談」
「薄情だな」
「応援の声量と買う額、関係ないから」
そう言いながら、真帆は馬の周回のほうを見た。今歩いているのは別のレースの馬だ。それでも一頭ずつ、脚の運びを確かめていた。
彼女はよく、好きと買うを分けて考えた。
俺にはそれができない日があった。
エンディングノートが出ると、ついその名前が入った馬券を買いたくなる。外れたあとでも捨てにくい。真帆は、写真と馬券を同じ箱へ入れないほうがいいと言ったことがある。俺の机の引き出しには、同じ袋に入っている。
「航平、ポケット濡れてる」
真帆が言った。
「手すり拭いたから」
「ハンカチで?」
「うん」
「それ、あとで乾くの?」
「……たぶん」
真帆は鞄から小さい袋を出して渡した。
「濡れたの入れときなよ。ポケットいつまでも乾かない」
俺は礼を言い、ハンカチを入れた。
律が横から手を出した。
「俺にも袋」
「何入れるの」
「新聞」
「サイズ見なよ」
真帆はあっさり断った。
俺のために袋を出したことを、特別な出来事にしないその速さに、また少しほっとした。
奈緒先輩は、五人分の飲み物を抱えてきた。
その後ろから栞が、首にカメラを下げてついてきた。
「誰か、一本取って。腕がもう無理」
俺と律が同時に手を出し、同じボトルを掴んだ。
「二人で一本持たなくていいから」
先輩が笑った。
五本とも、同じお茶だった。
いつもなら、誰が何を飲むか先輩は覚えていた。今日は迷ったらしい。
「温かいのにしたんだけど、持ってるうちに手が熱くて。こういうとき、全員の好みを思い出そうとすると大体間違える」
「お茶でいいです」
俺が言うと、先輩は、そう言うと思った、と返した。
「航平は何でもいいって言うから、一応、前に飲んでたやつにした」
「覚えてたんじゃないですか」
「あなたのだけ。律のは覚えたくない。前に変なの買わされたから」
「あれ普通のスポドリですよ」
「色が普通じゃなかった」
栞が俺の隣で、小さく笑った。
杉山栞は、カメラを持っているときと持っていないときで、立つ位置が少し違う。持っていないときは、人の話の輪の端に入ってくる。持っているときは、輪から二歩離れて、誰かの肩越しを覗く。
今日はカメラを持ったまま、俺の隣に来た。
「来られたんだ」
「うん」
「よかった」
そこで会話が終わった。
来ることにした理由は聞かれなかったし、よかった、の理由も足されなかった。
俺はお茶の蓋を回した。
栞のカメラのストラップには、小さな糸のほつれがあった。前からあったのかもしれない。俺はそれを指摘しかけてやめた。指で触って確かめる距離ではなかった。
「今日、写真撮れそう?」
「雨次第かな。レンズ濡れると面倒」
「じゃ、傘持つよ」
「自分も入ってね」
「当たり前だろ」
栞は返事の代わりに、カメラの電源を入れた。
※
五人が揃うと、移動に思ったより時間が掛かった。
売店へ行きたい人、トイレへ行きたい人、次の馬を見たい人が、同時に別の方角を向く。奈緒先輩が集合場所を決め、律が忘れ、真帆がもう一度言い、栞が写真を撮って位置を示す。
俺はそれを見ていた。
しばらくしたら、先輩に、航平も何か言って、と言われた。
「何かって」
「何食べたいか」
「ああ」
「いま、律が焼きそばとカレーを同時に食べようとしてるんだけど」
「食えるだろ」
「止める人が増えなかった」
先輩が肩を落とした。
律は焼きそばを買い、俺は温かい汁物を買った。真帆は持ってきたおにぎりを食べ、栞は唐揚げを一つずつ、紙の器の端から取った。
「ご飯、足りる?」
俺が真帆に聞くと、真帆はおにぎりを少し持ち上げた。
「二個目」
「そうか」
「気を遣うなら唐揚げ一個でいい」
栞が器を差し出した。
真帆は、ありがとう、と取った。
俺が何か差し出す前に、会話は次へ移っていた。
普段なら、そんなことは気にしなかっただろう。今日は、誰かが何かをしてくれるたびに、自分が何を返せるかを考えてしまう。礼を言いそびれないことばかり気にして、言われた言葉を半分しか聞いていないことがあった。
「航平、聞いてる?」
律に言われた。
「聞いてる」
「じゃ、どっち」
「何が?」
「聞いてねえじゃん」
律は笑って、新聞の印を見せた。
「ノート、今日こっちに入れたほうがいいと思う?」
軸にするか、相手にするかの話だった。
俺は紙面を見た。新聞の端には、律の書いた矢印がいくつもあった。そのうち一つが、馬名ではなく汚れを指していた。
「この矢印は?」
「間違えた」
「何と」
「わかんない。考えてるうちに線だけ引いた」
栞が吹き出した。
律は少し大げさに新聞を畳んだ。
「人の予想、笑うなよ」
「予想の内容は笑ってない」
栞はそう答え、唐揚げの器を畳んだ。
俺は二人のやり取りを見ていた。
前からこんなふうだっただろうか。
そうだった気もするし、少し違う気もした。父のことがあって何日か会わなかっただけなのに、そのあいだにできた小さな親しさを、俺は見落としているのかもしれなかった。
律が栞のカメラを指した。
「今日もゴールで下ろすなよ」
「いつの話してるの」
「忘れられないから」
栞が一瞬、俺を見た。
俺は汁物の蓋を閉めていた。
「いい写真なら、この前も撮っただろ」
何となく間に入ると、栞は、そうなんだけど、と言った。
律はそれ以上からかわなかった。
※
マイルグランプリの出走馬がパドックに出てくるころ、雨は少し弱くなっていた。
それでも地面は濡れていて、馬の蹄が置かれるたびに、薄い光が揺れた。
エンディングノートは、いつものように少し首を下げて歩いていた。
鹿毛の体に、照明が細長く映っていた。顔の白い部分は細く、写真によってはほとんど見えない。初めて見たとき、俺はどこが目印になるのかわからず、ゼッケンの数字ばかり追っていた。
今は、数字を見る前にわかった。
「あ、来た」
俺が言うと、栞がカメラを構えた。
律は新聞を閉じた。
真帆は他の馬を見ていたはずなのに、こちらへ顔を戻した。
奈緒先輩が、久しぶり、と小さく言った。
馬は俺たちを知らなかった。
それでも五人の顔が、同じ方へ向いた。
俺はそのことが好きだった。
馬が一周して戻ってきたとき、栞が少し背伸びをした。
俺は邪魔にならないよう、肩を引いた。
「動かないで」
小声で言われた。
俺はそのまま止まった。
シャッターの音が続いた。
馬が通り過ぎると、栞は画面を覗き、俺へ向けた。
エンディングノートの横顔が写っていた。目の周りの毛の流れまで見える。画面の端に、紺色の袖が入り込んでいた。
「ごめん。邪魔した」
俺は横へずれた。
「そこにいていいのに」
栞はカメラを下ろした。
「袖、入ってるよ」
「わかってる」
「切れるだろ、あとで」
「切らないかも」
栞の目は画面ではなく、俺を見ていた。
俺は何か言おうとしたが、馬がまた回ってきて、栞がカメラを上げた。
それで会話は終わった。
俺はさっきより少しだけ、元の位置へ戻った。
騎手が乗ると、エンディングノートは一度耳を後ろへ向けた。
気にしているのか、合図を聞いているのか、俺にはわからなかった。律は機嫌がよさそうだと言い、真帆はそう見える日と勝つ日は別だと言った。
「お前、本命は?」
「サンドクレスト」
真帆が答えた。
内寄りの枠にいる、先行できる馬だった。
「ノート、応援しろよ」
「だからするって。何回言わせるの」
「馬券で負けて応援で勝つ可能性もあるぞ」
「その逆よりは、まあ、いいかな」
真帆は一度、エンディングノートを見た。
俺はその返事を、覚えておこうと思った。
好きだから同じ選択をするわけではない、ということを、彼女は競馬場では当たり前にやっていた。