エンディングノート   作:酒匂いつき

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第二章 カツカレー、一人前
そこにいていいのに


 

行くかも、と送った人間がいちばん早く着くのは、少し格好が悪い。

 大井競馬場の入口で入場券をしまいながら、俺は四人への言い訳を考えた。講義が早く終わった。電車がちょうど来た。雨が強くなる前に来たかった。どれも半分ずつ本当だったが、残りの半分は、自分でも説明しにくかった。

 

 部屋からここまでの移動中、俺はずっと、話題を準備していた。

 父の話をされたら、もう大丈夫と答えない。かといって、まだ眠るのが怖いとも言えない。葬儀は終わった、手続きが残っている、母は元気だ。そのくらいなら答えられる。

 競馬場に入ると、準備した言葉が少し遠くなった。

 

 雨は細かかった。

 照明の下でだけ見える雨粒が、階段の手すりに細い水の線を作っていた。傘を差している人と差していない人が半々で、売店から出てきた人が紙の皿を上着で覆っていた。

 俺はパドックへ向かった。

 まだエンディングノートが出てくる時間ではない。知らない馬たちが歩いていた。耳を前へ向けた馬、首を大きく使う馬、地面に落ちた何かを気にしている馬。歩く速度は同じくらいでも、同じ動きではなかった。

 

 手すりの水を、持っていたハンカチで拭いた。

 拭いてから、ここに四人来るだろうかと思った。

 俺がここで待っているとは、まだ誰にも言っていなかった。

 グループを開くと、奈緒先輩が、着いた人からいつものへ、と送っていた。いつもの、がどこかを、四人とも知っているらしかった。

 

 俺も知っていた。

 だからそこにいた。

 それが妙に嬉しかった。

 

「行くかもって打った奴が最前列かよ」

 

 後ろから声がした。

 律は傘を持たず、髪に雨を載せていた。肩から提げた鞄の口に競馬新聞を挟み、両手は空いている。

 

「お前、上着って言ったくせに」

「着てるだろ」

「傘は」

「お前あるかなと思って」

「あるけど」

「じゃあ正解」

 

 律は俺の隣に立ち、鞄から新聞を抜いた。湿気で少し波打っている。広げると、真ん中の折り目が何度も開閉した跡で白くなっていた。

 俺が覗く前に、律は紙面の半分をこちらへ向けた。

 父が死んだことには触れなかった。

 

「今日、前に行く馬、多くね?」

「どのレース」

「ノートの」

 

 俺たちは馬のことを、時々ノートと呼んだ。短くする必要のないところでもそう呼ぶのは、勝手に近しい気分になりたいからだった。

 

「二頭くらいだろ」

「いや、三番も行くと思う」

「前走は行けなかったんじゃなくて、控えたんじゃない?」

「そう見えた?」

 

 律は紙面を指した。

 俺は上着の内側からスマホを出し、前走の映像を探した。

 ここまで持ってきた返事の用意がそのあいだに消えた。

 

 真帆が来たのは、その映像を二回見たころだった。

 

 中内田真帆は、俺と同じ三年だった。誕生日が年明けなので、五人の中ではいちばん若い。サークルでいちばん小さい鞄を持ち、その中にいちばん必要なものが揃っている。

 

「まだそれ見てるの」

「まだって、お前いま来たじゃん」

「近づいても気づかないから。三番が行くかどうかでしょ」

 

 律が振り返った。

 

「行くよな?」

「行かなくても私は買わない」

「話が早すぎる」

「締切あるんで」

 

 真帆は手帳を開いた。端に小さく、今日使う金額が書いてあった。俺の視線に気づくと、隠さずに見せた。

 

「バイト前倒しで上がってきたから、今日はこれだけ」

「応援馬に全部?」

「まさか。ノートは応援、馬券は相談」

「薄情だな」

「応援の声量と買う額、関係ないから」

 

 そう言いながら、真帆は馬の周回のほうを見た。今歩いているのは別のレースの馬だ。それでも一頭ずつ、脚の運びを確かめていた。

 彼女はよく、好きと買うを分けて考えた。

 

 俺にはそれができない日があった。

 エンディングノートが出ると、ついその名前が入った馬券を買いたくなる。外れたあとでも捨てにくい。真帆は、写真と馬券を同じ箱へ入れないほうがいいと言ったことがある。俺の机の引き出しには、同じ袋に入っている。

 

「航平、ポケット濡れてる」

 

 真帆が言った。

 

「手すり拭いたから」

「ハンカチで?」

「うん」

「それ、あとで乾くの?」

「……たぶん」

 

 真帆は鞄から小さい袋を出して渡した。

 

「濡れたの入れときなよ。ポケットいつまでも乾かない」

 

 俺は礼を言い、ハンカチを入れた。

 律が横から手を出した。

 

「俺にも袋」

「何入れるの」

「新聞」

「サイズ見なよ」

 

 真帆はあっさり断った。

 俺のために袋を出したことを、特別な出来事にしないその速さに、また少しほっとした。

 

 奈緒先輩は、五人分の飲み物を抱えてきた。

 その後ろから栞が、首にカメラを下げてついてきた。

 

「誰か、一本取って。腕がもう無理」

 

 俺と律が同時に手を出し、同じボトルを掴んだ。

 

「二人で一本持たなくていいから」

 

 先輩が笑った。

 五本とも、同じお茶だった。

 いつもなら、誰が何を飲むか先輩は覚えていた。今日は迷ったらしい。

 

「温かいのにしたんだけど、持ってるうちに手が熱くて。こういうとき、全員の好みを思い出そうとすると大体間違える」

「お茶でいいです」

 

 俺が言うと、先輩は、そう言うと思った、と返した。

 

「航平は何でもいいって言うから、一応、前に飲んでたやつにした」

「覚えてたんじゃないですか」

「あなたのだけ。律のは覚えたくない。前に変なの買わされたから」

「あれ普通のスポドリですよ」

「色が普通じゃなかった」

 

 栞が俺の隣で、小さく笑った。

 

 杉山栞は、カメラを持っているときと持っていないときで、立つ位置が少し違う。持っていないときは、人の話の輪の端に入ってくる。持っているときは、輪から二歩離れて、誰かの肩越しを覗く。

 今日はカメラを持ったまま、俺の隣に来た。

 

「来られたんだ」

「うん」

「よかった」

 

 そこで会話が終わった。

 来ることにした理由は聞かれなかったし、よかった、の理由も足されなかった。

 俺はお茶の蓋を回した。

 栞のカメラのストラップには、小さな糸のほつれがあった。前からあったのかもしれない。俺はそれを指摘しかけてやめた。指で触って確かめる距離ではなかった。

 

「今日、写真撮れそう?」

「雨次第かな。レンズ濡れると面倒」

「じゃ、傘持つよ」

「自分も入ってね」

「当たり前だろ」

 

 栞は返事の代わりに、カメラの電源を入れた。

 

 

 

     ※

 

 

 

 五人が揃うと、移動に思ったより時間が掛かった。

 売店へ行きたい人、トイレへ行きたい人、次の馬を見たい人が、同時に別の方角を向く。奈緒先輩が集合場所を決め、律が忘れ、真帆がもう一度言い、栞が写真を撮って位置を示す。

 俺はそれを見ていた。

 しばらくしたら、先輩に、航平も何か言って、と言われた。

 

「何かって」

「何食べたいか」

「ああ」

「いま、律が焼きそばとカレーを同時に食べようとしてるんだけど」

「食えるだろ」

「止める人が増えなかった」

 

 先輩が肩を落とした。

 律は焼きそばを買い、俺は温かい汁物を買った。真帆は持ってきたおにぎりを食べ、栞は唐揚げを一つずつ、紙の器の端から取った。

 

「ご飯、足りる?」

 

 俺が真帆に聞くと、真帆はおにぎりを少し持ち上げた。

 

「二個目」

「そうか」

「気を遣うなら唐揚げ一個でいい」

 

 栞が器を差し出した。

 真帆は、ありがとう、と取った。

 俺が何か差し出す前に、会話は次へ移っていた。

 普段なら、そんなことは気にしなかっただろう。今日は、誰かが何かをしてくれるたびに、自分が何を返せるかを考えてしまう。礼を言いそびれないことばかり気にして、言われた言葉を半分しか聞いていないことがあった。

 

「航平、聞いてる?」

 

 律に言われた。

 

「聞いてる」

「じゃ、どっち」

「何が?」

「聞いてねえじゃん」

 

 律は笑って、新聞の印を見せた。

 

「ノート、今日こっちに入れたほうがいいと思う?」

 

 軸にするか、相手にするかの話だった。

 俺は紙面を見た。新聞の端には、律の書いた矢印がいくつもあった。そのうち一つが、馬名ではなく汚れを指していた。

 

「この矢印は?」

「間違えた」

「何と」

「わかんない。考えてるうちに線だけ引いた」

 

 栞が吹き出した。

 律は少し大げさに新聞を畳んだ。

 

「人の予想、笑うなよ」

「予想の内容は笑ってない」

 

 栞はそう答え、唐揚げの器を畳んだ。

 俺は二人のやり取りを見ていた。

 前からこんなふうだっただろうか。

 そうだった気もするし、少し違う気もした。父のことがあって何日か会わなかっただけなのに、そのあいだにできた小さな親しさを、俺は見落としているのかもしれなかった。

 律が栞のカメラを指した。

 

「今日もゴールで下ろすなよ」

「いつの話してるの」

「忘れられないから」

 

 栞が一瞬、俺を見た。

 俺は汁物の蓋を閉めていた。

 

「いい写真なら、この前も撮っただろ」

 

 何となく間に入ると、栞は、そうなんだけど、と言った。

 律はそれ以上からかわなかった。

 

 

 

     ※

 

 

 

 マイルグランプリの出走馬がパドックに出てくるころ、雨は少し弱くなっていた。

 それでも地面は濡れていて、馬の蹄が置かれるたびに、薄い光が揺れた。

 

 エンディングノートは、いつものように少し首を下げて歩いていた。

 鹿毛の体に、照明が細長く映っていた。顔の白い部分は細く、写真によってはほとんど見えない。初めて見たとき、俺はどこが目印になるのかわからず、ゼッケンの数字ばかり追っていた。

 今は、数字を見る前にわかった。

 

「あ、来た」

 

 俺が言うと、栞がカメラを構えた。

 律は新聞を閉じた。

 真帆は他の馬を見ていたはずなのに、こちらへ顔を戻した。

 奈緒先輩が、久しぶり、と小さく言った。

 馬は俺たちを知らなかった。

 それでも五人の顔が、同じ方へ向いた。

 俺はそのことが好きだった。

 

 馬が一周して戻ってきたとき、栞が少し背伸びをした。

 俺は邪魔にならないよう、肩を引いた。

 

「動かないで」

 

 小声で言われた。

 俺はそのまま止まった。

 シャッターの音が続いた。

 馬が通り過ぎると、栞は画面を覗き、俺へ向けた。

 エンディングノートの横顔が写っていた。目の周りの毛の流れまで見える。画面の端に、紺色の袖が入り込んでいた。

 

「ごめん。邪魔した」

 

 俺は横へずれた。

 

「そこにいていいのに」

 

 栞はカメラを下ろした。

 

「袖、入ってるよ」

「わかってる」

「切れるだろ、あとで」

「切らないかも」

 

 栞の目は画面ではなく、俺を見ていた。

 俺は何か言おうとしたが、馬がまた回ってきて、栞がカメラを上げた。

 それで会話は終わった。

 俺はさっきより少しだけ、元の位置へ戻った。

 

 騎手が乗ると、エンディングノートは一度耳を後ろへ向けた。

 気にしているのか、合図を聞いているのか、俺にはわからなかった。律は機嫌がよさそうだと言い、真帆はそう見える日と勝つ日は別だと言った。

 

「お前、本命は?」

「サンドクレスト」

 

 真帆が答えた。

 内寄りの枠にいる、先行できる馬だった。

 

「ノート、応援しろよ」

「だからするって。何回言わせるの」

「馬券で負けて応援で勝つ可能性もあるぞ」

「その逆よりは、まあ、いいかな」

 

 真帆は一度、エンディングノートを見た。

 俺はその返事を、覚えておこうと思った。

 好きだから同じ選択をするわけではない、ということを、彼女は競馬場では当たり前にやっていた。

 

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