スタンドへ移動すると、風の向きが変わった。
パドックでは建物に遮られていた雨が、こちらでは斜めに降っていた。屋根の下へ入ろうとする人たちの流れに乗って、五人で階段を上がった。
奈緒先輩が、足元、と声を掛けた。
真帆が栞の鞄を一つ持ち、律が先に通路の端へ入った。俺は振り返り、後ろから来る栞を待った。
「レンズ、重そうだな」
「今日は軽いほう」
「それで?」
「重いの持ってきたら、航平に持ってもらう」
「いいよ」
栞は階段を一段上がったところで、俺を見た。
「言ったね」
「持つくらいなら」
当たり前の返事をしたつもりだった。
栞はそのあと、少し早く歩いた。
律が確保した場所は、五人が一列に並べるほど広くなかった。前に三人、後ろに二人になる。俺が後ろへ回ると、奈緒先輩に袖をつままれた。
「航平、前。今日いちばん早く来たんだから」
「関係あります?」
「あることにする」
俺は真ん中へ入った。
左に栞、右に律。真帆は律の斜め後ろで、奈緒先輩は俺と栞の間から覗くように立った。
コースの砂は照明を受けて、いつもより暗く見えた。係の車が通った跡に、まっすぐな筋が残っている。あそこをもうすぐ馬が通る。何も起きていない場所が、数分後には、誰かにとって忘れられない場所になる。
父が何度も言っていたことを思い出した。
最後の直線だけ見ても、競馬はわからない。
そのくせ父は、直線に入ると毎回立ち上がった。
俺も、たぶん同じだった。
返し馬でエンディングノートが通ると、栞のカメラが動いた。
俺は名前を呼びそうになって、声を飲み込んだ。聞こえるはずもない。それでも口の中に名前が残った。
「今日、いい感じじゃない?」
律が言った。
「毎回それ言ってる」
「毎回いい感じなんだからしょうがない」
真帆が後ろから、今日の律は来る前に自信ないって言ってた、とばらした。
「馬を見る前と後で変えるのは正常な判断です」
「都合のいい判断ですわね」
奈緒先輩が笑いながら、あと何分、と尋ねた。
俺が時計を見る。
八時六分。
発走まで四分だった。
四分という時間に、しなければならないことは何もなかった。手続きも、連絡も、父の書類の確認もない。そこに立って、馬が走るのを待てばよかった。
俺は自分がいま、ちゃんと待てていることに気づいた。
明日の朝ではなく、四分後を。
ゲート入りは、思っていたより滑らかに進んだ。
一頭だけ、入口の前で足を止めた。係の人が馬の横へ寄った。律が、頼むから普通に出てくれ、と誰に言うでもなく呟いた。
エンディングノートはすでに収まっていた。
場内の画面に、ゲートから少しだけ覗いた顔が映っている。
俺は息を吐いた。
ゲートが開いた。
中継で聞くより短い音だった。
馬群が一つの塊になり、それから少しずつ前後にほどけた。
エンディングノートは中ほどにいた。出遅れてはいない。前へ行く二頭を見ながら、内に入りすぎないところへ落ち着く。
「いい」
律が言った。
俺も同じことを思った。
最初のコーナーに入ると、馬の背中が重なった。騎手の帽子の色だけが、細かく上下して見えた。
スタンドの人たちが、それぞれ違う馬の名前を呼んだ。
同じ音の中で、俺はノートの位置だけを探した。
向正面では、前の二頭が思ったほど競り合わなかった。サンドクレストが少し引いて、外の馬を先に行かせた。
「速くないな」
律が言った。
真帆は何も言わなかった。
俺には時計の感覚まではわからない。ただ、前にいる馬たちが、まだ脚を使い切っていないように見えた。
ノートはその後ろで、首を一定の幅で振っていた。
あと半周。
次のコーナーに近づくにつれて、後ろの馬が外から上がってきた。
ノートの外に、一頭。
さらにもう一頭。
進路が狭くなる。
「早く出せ」
俺は小さく言った。
栞のシャッターが鳴った。
ノートは前の馬の後ろで待っていた。無理に押し出すような動きはしない。コーナーの途中で、前にいた馬の尻が一瞬だけこちらを向いた。
直線へ入る。
前が開かなかった。
「ああ、そこ」
律の声が上ずった。
ノートの首が少し外を向く。さらに外には馬がいる。前の馬が下がってくる。俺は自分の肩を右へ動かした。ここで身体を動かしても何にもならないのに、馬の通る隙間を作るつもりでいた。
「外、外」
真帆が言った。
彼女の本命は前にいた。
それでも、いまの声はノートに向けたものだった。
馬群の外へ出たとき、先頭とはもう離れていた。
遅い、と誰かが言った。
俺は聞かなかったことにした。
ノートの脚が伸びた。
一頭を抜いた。
もう一頭の横に並んだ。
「まだ届く!」
自分の声が、耳の内側で大きく響いた。
届く距離かどうかなんて、わからなかった。
ただ、脚はまだ伸びていた。
前の二頭が並んだままゴールへ近づく。ノートが三番手へ上がる。最後の数完歩で、差が少し縮んだ。
そこで終わった。
先頭はサンドクレストだった。
二着の馬の後ろで、エンディングノートの顔がゴールの線を越えた。
俺は手すりに預けていた身体を起こした。
息が切れていた。
走ったのは馬なのに、膝の裏が少し震えていた。
「もう一回、映像見せて」
最初に言ったのは真帆だった。
「当たった?」
奈緒先輩が聞いた。
「単勝は。いまそれより」
真帆は大きな画面を見上げた。
律は、4角の手前で出せただろ、と言った。
栞は、外にもいたじゃん、と返した。
俺も、あそこじゃなくてその前、と口を挟んだ。
映像が流れた。
五人とも黙った。
映像のノートは、俺たちが騒いだところよりずっと前から、少しずつ前の馬との距離を測っていた。外を回れば、そのぶん長く走る。内で待てば、進路が開かないこともある。そのどちらも、見終わった俺たちは知っていた。
「ここ」
律が指した。
「いや、まだ塞がってる」
栞が言う。
「ここなら?」
俺が言った。
真帆は首を振った。
「その前に外が来てる」
画面の中で、ノートがもう一度ゴールした。
誰も完全には納得していなかった。
でも、誰もその場を離れようとしなかった。
俺は笑った。
「何」
律に見られた。
「いや。全員、乗ってないくせに」
「乗ってないから言えるんだよ」
律も笑った。
俺はその答えが、ずいぶん懐かしいように感じた。
※
最終レースまで残った。
真帆は予定していた分を使い終えたから買わないと言い、奈緒先輩は千円札を崩したくないという理由で買わなかった。栞はカメラの画像を確認していた。
律と俺だけが、最後の出馬表を覗いた。
「買う?」
律が聞いた。
「どうしよう」
「迷うならやめとけば」
「お前は」
「迷ってる」
「じゃ、やめとけば」
「俺は迷ったあとで決めたい」
面倒な男だった。
結局、二人とも買わなかった。
馬券がないままレースを見ると、どの馬を見ればいいのか、一瞬迷った。真帆が、あの外の子、歩き方が好き、と言ったので、その馬を見た。人気はなかった。道中も後ろのほうにいた。
最後の直線で一頭だけ抜き、後方のままゴールした。
「一頭抜いた」
真帆が言った。
「うん」
俺は頷いた。
さっきの三着とは違う場所に、同じように最後まで走っている馬がいた。
人の流れが出口へ向かい始めた。
雨はほとんど止んでいたが、屋根から落ちる雫だけが、まだ一定の間隔で音を立てていた。
俺たちは売店の近くのテーブルで、鞄を整理した。栞はカメラをしまい、真帆は手帳に使った額を記入し、奈緒先輩はスマホで日曜日の予定を開いた。
「日曜は東京でいいんだよね」
先輩が言った。
律が頷く。
「神無月。ダートのほう見たい」
「私、午前は行けないかも」
栞が言った。
「バイト?」
「入れ替わってもらえるか、明日わかる」
真帆は昼過ぎからなら、と言った。
奈緒先輩はそれぞれの時間を聞き、全員が揃う時刻を探した。
いつも通りのやり取りだった。
ふと、俺は父のスマホに来たメッセージのことを思い出した。
明日、いつもの改札でいいか。
父にも、こういう予定があった。
途中までは普通の連想だった。次に出てきた言葉を、口にする前に一度考えればよかった。
「俺が急に死んだら、母さんはお前らに連絡できないよな」
四人の動きが、少しずつ止まった。
俺だけが、その言葉を言うまでにたどった道を知っていた。
律が、最初に口を開いた。
「じゃ、俺の番号渡しとけよ」
軽い調子だった。
話を軽くしたかったのだと思う。
そのまま頷けばよかった。
「番号だけあっても、母さん、お前のこと知らないし」
「伊藤律ですって書いとけば」
「そうじゃなくて」
自分でも、何が違うのかわからなかった。
名前と番号があれば連絡できる。それはそのとおりだった。俺は何を求めているのか説明できないまま、律の簡単な返事を退けようとしていた。
栞がカメラの鞄から手を離した。
「お父さんのお友達に連絡するの、大変だった?」
そう聞かれて、俺はようやく話の始まりに戻れた。
「うん。知らない人から、明日いつもの改札って来て」
四人に、ミドリさんの話をした。
緑の帽子だけではなく名字も緑川だったと話すと、奈緒先輩が少し笑った。その笑いで、俺は続きを話せた。
母と返事を書いたこと。
葬儀が終わるまで知らせられなかった人がいたこと。
自分にも、母が連絡先を知らない友達がいること。
「お母さんに、私たちのこと話してるの?」
栞に聞かれた。
「話してるよ。写真撮る子とか」
「名前は?」
「……栞って言ったことはあると思う」
「思う、か」
栞は笑ったが、少しだけ唇を結んだ。
真帆が自分を指した。
「私は?」
「バイト忙しい子」
「人物紹介、労働時間しかない」
律が笑い、俺も笑った。
ここで終われた。
終わってもよかった。
でも一度話し始めたら、自分が何を怖がっているのかを、もう少しだけわかってもらいたくなった。
「遺言も、書こうと思ってて」
奈緒先輩が、スマホを伏せた。
「今?」
「今のうちに」
答えてから、先輩の言う「今」と俺の言う「今」は、少し違うのだと気づいた。
「母さんに残したいんだけど。母さんが先だったら、俺、ほかに誰もいないから」
誰もいない。
四人の前で、そう言ってしまった。
栞の指が鞄の持ち手を握り直した。
律は俺を見ていた。
俺は急いで付け足した。
「親戚が、って意味で」
「わかってる」
律が言った。
その返事が早すぎて、余計に焦った。
「父さんの残したお金もあって。俺が稼いだわけじゃないし、変なところへ行くのも嫌で。でも母さんに、先に死んだらどうしようって聞くのも変だし」
四人の顔を順番に見た。
誰も茶化さなかった。
それがありがたくて、同時に苦しかった。
「そんなに悩む額なの?」
真帆が聞いた。
たぶん彼女は、話の大きさを知ろうとしただけだった。父の残したお金が数十万円なのか、数百万円なのかで、俺の困り方を想像し直そうとしていた。
俺は答えた。
「一億は超えてる」
真帆の手が止まった。
「株も入れると、一億二千万くらい。税金とか、払うもの引いても、そのくらいになるって」
言い終わってから、周りのテーブルを見た。
人はまばらだった。
誰かに聞かれたかどうかはわからなかった。
四人は、俺が周囲を確かめるところまでじっと見ていた。