エンディングノート   作:酒匂いつき

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二つ目の水

 

「……そりゃ、私なら寝る前に考えるわ」

 

 沈黙を破るように真帆が言った。

 大きな声ではなかった。

 それから、テーブルに置いていた手帳を閉じた。

 誰も、貸して、とか、奢って、とか言わなかった。俺は無意識に、そういう冗談が来ると身構えていたらしい。来なかったことで、今度は何をすればいいかわからなくなった。

 

「まだ、全部片づいたわけじゃないんでしょ」

 

 奈緒先輩が尋ねた。

 

「はい。手続きとか」

「じゃ、今日はここで決めなくていいと思う」

「決めるってほどの話じゃ」

「うん。だから、日曜何時に来るかだけ決めよう」

 

 先輩は、伏せていたスマホを表に返した。

 

 俺は助けられたのだとわかった。

 わかったけれど、たった今話したことに、薄い蓋をされたような気もした。勝手な受け取り方だった。先輩は何も間違っていなかった。

 

「俺、午前から行けます」

「了解。律も?」

「うん」

「栞と真帆は途中で合流。席は、五人並んで座れなくてもいいよね」

 

 真帆が頷いた。

 栞は少し遅れて、うん、と言った。

 

 俺は栞を見た。

 彼女は俺の顔ではなく、テーブルの上の俺の手を見ていた。

 見られていることに気づき、俺は手を膝へ下ろした。

 栞も視線を動かした。

 

「寒い?」

「いや」

「さっき、ずっと手を握りしめてたから」

 

 俺は自分の手を見た。

 指の付け根に、爪の跡が少し残っていた。

 強く握っているつもりはなかった。

 

「冷えてるだけ」

 

 そう答えると、栞は、そっか、と言った。

 それ以上聞かなかった。

 俺はそのことにも、また礼を言いたくなった。

 

 テーブルを離れるとき、律が最後まで残った。

 俺の隣で新聞を鞄へ入れながら、低い声で言った。

 

「俺の番号、お母さんに渡していいよ。本当に」

「うん」

「名前も。よく食べる奴、だけじゃなくて」

「母さんがそう言ってたって、お前に話したっけ」

「いや。俺、よく食うし」

 

 律は俺の顔を見た。

 

「航平」

「何?」

「今日、来てよかった?」

 

 簡単な質問だった。

 なのに俺は、すぐ答えられなかった。

 

 来てよかった。

 馬が走るあいだ、父の死を考えなかった。四人と同じところで笑った。それは本当だった。でも、いま余計なことを話したせいで、この先も同じように会えるかどうかわからなくなった。

 それを全部言うには、出口が近すぎた。

 

「レース、惜しかったな」

 

 俺は言った。

 律は少しだけ目を細めた。

 

「うん。惜しかった」

 

 俺の返事は答えになっていなかったのに、律はそのまま受け取ってくれた。

 そのときの俺には、律がそういうことをどれだけしてくれているのか、数えられなかった。

 

 出口の前で、奈緒先輩が忘れ物を確認した。

 スマホ、財布、傘。いつもの三つだった。

 真帆は、馬券、と付け足した。

 

「当たったやつ?」

「そう。もう払い戻してきたけど」

「じゃ、もう持ってないでしょ」

「あ、そうか」

 

 全員が少し疲れていた。

 栞がカメラを持ち上げた。

 

「これ」

「それ忘れたら大変だね」

 

 奈緒先輩は笑った。

 俺はポケットを確かめた。スマホ、財布、折り畳み傘。父の家の鍵は鞄の内側に入っていた。

 

 父の家の鍵を持っていることを、四人は知らなかった。

 俺の手元に一億二千万円ほど残ることは、知っていた。

 自分について話す順番を、間違えたような気がした。

 

 駅へ向かう途中、乗る路線が違う真帆だけが角を曲がった。

 

「日曜、来れる時間わかったら送る」

「おつかれ」

 

 俺が言うと、真帆は一度立ち止まった。

 

「航平」

「何」

「さっきのこと、私からは誰にも言わないから」

 

 まっすぐな言い方だった。

 俺は、頼む、と答えた。

 真帆は頷き、また歩き出した。

 その背中を見ていると、今日ここへ来てよかったかという律の質問に、さっきより少し答えやすくなった。

 

 奈緒先輩は、家族に連絡するからと駅の外で立ち止まった。

 

「先行ってて。すぐ乗るから」

 

 俺たち三人は改札の近くまで進んだ。

 

 そこで栞が、律の袖を引いた。

 小さい動きだった。

 でも俺には、はっきり見えた。

 

「今日、二人で話せる?」

 

 栞は言った。

 律は驚いたように彼女を見て、それから笑った。

 

「俺もちょうど話したかった」

 

 あんな顔をするんだ、と俺は思った。

 さっき俺に、来てよかったか、と聞いたときより、ずっと明るく見えた。

 栞が俺のほうを向きかけた。

 俺は先に言った。

 

「じゃ、俺行くわ」

「航平、電車」

「まだあるだろ」

「そうじゃなくて」

 

 律が何か言いかけた。

 俺は手を上げた。

 

「頑張れよ」

「何を?」

 

 律は本当にわからない顔をした。

 とぼけているのだと思った。

 栞も、少し戸惑っていた。

 

 俺は二人に背を向け、改札を通った。

 振り返らなかった。

 振り返ったら、気を遣わせると思った。

 

 

 

     ※

 

 

 

 電車は思っていたより空いていた。

 座席の端に座り、鞄を膝へ置いた。上着の袖がまだ少し湿っていた。栞の写真に写った袖だった。

 窓に、ホームの柱と自分の顔が交互に映った。

 

 律と栞。

 その組み合わせを、俺は今まで真面目に考えたことがなかった。

 二人とも同じ学年で、馬を見るのが好きで、会えばよく言い合っていた。律は栞の写真を褒めるし、栞は律が予想を外したとき遠慮なく笑う。好きになってもおかしくない。

 おかしくないどころか、自然なことだった。

 俺がその自然なことを知らずに、今日は父の話と、自分が死ぬ話と、大金の話をしたのだ。

 早く二人きりになりたかったのかもしれない。

 そう考えると、駅で急いで離れた自分は、少しだけまともなことをした気がした。

 

 スマホが振動した。

 栞からだと思ってしまい、そんなわけがないと自分で思い直した。

 母だった。

 

 雨、大丈夫だった?

 

 上着着た、と返した。

 それ、傘の代わりにはならないでしょ、と来た。

 俺は傘もあると書いた。

 母は、そう、と返した。

 そこで、今日四人に父の財産の話をした、と送るべきか迷った。

 

 送らなかった。

 母に怒られるのが嫌だったのか、母を心配させるのが嫌だったのかは、区別できなかった。

 

 電車が次の駅に着いた。

 乗ってきた人が、俺の隣に座った。少し酒の匂いがした。俺は窓のほうへ肩を寄せた。

 律なら、席を選ぶとき、まず俺の隣が空いているか見ただろう。

 どうでもいい癖を思い出した。

 今夜はもう、隣に来ない。

 そんな当たり前のことを、乗り換える駅までずっと考えていた。

 

 大学の近くの駅へ戻ると、カレー屋の看板がまだ光っていた。

 店の名前は「すずき」だった。

 俺は最初、定食屋だと思って入った。メニューのほとんどはカレーで、申し訳程度に生姜焼きがあった。店主に、カレー屋さんですか、と聞いたら、そういうつもりでやってる、と返された。

 

 それ以来、俺と律はそこへ通っていた。

 律はカツカレーに卵を付ける。俺は付けない。俺たちが何度通っても、店主は一応、注文を聞く。聞かずに決めるのは嫌なのだという。

 

 扉を開けると、鈴が鳴った。

 

「いらっしゃい」

 

 店主がこちらを見て、水を二つ置いた。

 聞かずに決めない人でも、水は二つ出すらしかった。

 

「あれ、今日は一人?」

「今日だけっすよ」

 

 俺はすぐ答えた。

 早すぎたと思った。

 店主は、そう、とだけ言った。

 

「カツカレー。普通で」

「はいよ」

 

 俺はいつもの席へ向かった。

 律が隣にいるときは、手前に俺、奥に律が座る。律は壁際の小さい棚にスマホを置きたがるからだ。俺は落としそうで嫌だった。

 

 今日はどちらにも座れた。

 なのに、いつもの手前に座った。

 奥の水はそのままだった。

 片づけてくださいと言えばよかったのだが、店主はカツを揚げ始めていたし、俺も喉が渇いていた。一つ飲み終えたらもう一つ飲めばいいと思った。

 

 テレビには、知らない商店街が映っていた。

 出演者が焼き立ての何かを食べ、熱いと言っていた。俺は画面を見るふりをしながら、スマホの通知を待った。

 

 律から来るとしたら、何だろう。

 栞と付き合うことになった。

 そんな報告を、あいつはその晩にするだろうか。先に栞へ、航平に言っていいかと聞くのかもしれない。俺は二人にとって、そういうふうに話題にされる人になる。

 

 おめでとう、と返す。

 何か冗談を付ける。

 金曜の泊まりは当分なしだな、と。

 それがどれくらい寂しいかは書かない。

 俺はまだ何も起きていないことへの返事を、何種類も用意した。

 

「熱いよ」

 

 カツカレーが来た。

 カツはいつものように六切れだった。

 俺は右端から食べる。律は真ん中の厚いところから食べる。父は全部をルーに沈めて、衣が柔らかくなってから食べた。

 

 それを思い出し、俺はスプーンを止めた。

 父とこの店へ来たことはなかった。

 来ればよかったと思った。

 でも、父のカツの食べ方にまた文句を言うだけだった気もした。

 

「味、変ですか」

 

 店主に聞かれた。

 

「いえ。全然」

「ならよかった」

 

 それ以上は聞かれなかった。

 俺はカツを食べた。

 衣が音を立てた。

 そうやって食べるのが正しいと思っていたのに、今日は、その音のあとに父の反論がないことが気になった。

 

 食べ終わるまで、律から連絡は来なかった。

 俺は二つ目の水を飲んだ。

 店主はグラスを見たが、何も言わなかった。

 

「ごちそうさまでした」

「またどうぞ」

 

 財布を出した。

 父の財産の数字を知ってからも、カツカレーの値段は同じだった。千円札を出して、戻ってきた硬貨を財布へ入れた。その手順に変化がないことが、少し不思議だった。

 

 店を出て、坂を上がった。

 駅に近い部屋より家賃が七千円安い、父と一緒に選んだ部屋へ帰った。

 

 

 

     ※

 

 

 

 玄関で靴を脱ぐと、部屋に何か違う匂いがした。

 自分の服に付いた雨と、カレーの匂いだった。

 俺は上着を脱ぎ、椅子へ掛けた。袖のところだけ、少し色が濃かった。

 

 グループには、奈緒先輩から、無事帰宅、と来ていた。

 真帆は、今電車、と返していた。

 栞と律からの返信は、まだなかった。

 俺は、帰った、と送った。

 誰に向けて報告したのか、自分でもわからなかった。

 

 風呂を沸かすあいだ、今日のレースをもう一度見た。

 画面の中では、ノートが何度見ても同じところで待たされた。俺が知っている結果へ向かって、何度でも走った。

 そのたびに、もう少し早く外へ出られれば、と思った。

 結果を知っているほうが、かえって待つのがつらかった。

 

 栞から写真が一枚届いた。

 グループへではなく、俺個人へのメッセージだった。

 ゴール後、引き揚げていくエンディングノートの写真だった。

 馬の首に汗が浮き、鼻先から細い線のように水が落ちていた。走り終えた体が、まだ熱を持っているように見えた。

 

 今日の。取り急ぎ一枚。

 

 ありがとう、と返した。

 いい写真だな、と続けた。

 栞は、ぶれてなくてよかった、と返してきた。

 俺は、律と話せた? と打った。

 

 消した。

 何かが決まったなら、向こうから言うだろう。

 決まっていないなら、俺が聞くのは邪魔だった。

 結局、次どこだろうな、と送った。

 

 まだわからないけど、次も見たい。

 

 栞の返事を見て、俺は、うん、とだけ返した。

 栞の言う「次」に、自分が含まれているかどうかは、わからなかった。

 

 律から連絡が来たのは、風呂から出たあとだった。

 

 帰れた?

 

 グループに書いた、と返すと、今見た、と来た。

 何を話していたら、グループを見るのを忘れるのだろう。

 俺はそんなことを考える自分に、うんざりした。

 

 カレー食った。

 

 送ると、すぐ返事が来た。

 

 ずるい。

 

 俺は笑った。

 

 お前、用事あっただろ。

 

 律の入力中の表示が、しばらく出て、消えた。

 また出た。

 

 そうだけど。

 日曜、何時に出る?

 

 俺は時刻を調べた。

 朝から行くなら、大学の最寄り駅で会える。律は俺の部屋へ前の日に来るのかもしれない。そう思って、金曜か土曜どうする、と聞きかけた。

 でも、栞と付き合い始めたばかりなら、週末を俺の部屋で使うのは変だ。

 

 俺は日曜日の集合時刻だけ送った。

 律は、了解、と返した。

 そのあと、今日は来てくれてよかった、と来た。

 俺は画面を見つめた。

 レースのあとに聞かれた質問へ、まだ答えていなかった。

 

 俺も。

 

 それだけ送った。

 足りない気がしたが、何を足しても、その二文字を薄めるような気がした。

 律からは、寝ろよ、と来た。

 俺は、そっちも、と返した。

 

 ベッドへ入ると、また静かになった。

 今日も怖くなるだろうか。

 

 やはり、なった。

 

 でも、怖くなる前に、いくつか思い出すことがあった。

 

 手すりを拭いたハンカチ。五本同じお茶。栞の写真に入った俺の袖。真帆が本命よりもノートを気にして、外へ出ろと声を掛けたこと。律の新聞に書かれた、馬名ではなく汚れを指していた矢印。

 そのうちのどこかで、俺はしばらく、自分が死ぬことを忘れていた。

 忘れられた時間があったことに、いま気づいた。

 

 スマホを枕元に置きかけて、父へ送ろうと思って撮った写真のことを思い出した。

 競馬場に着いたとき、雨のパドックを撮ったものだ。

 送る相手がいないと気づいて、そのままになっていた。

 俺は写真を開いた。

 自分の指が、写真の端に少し写っていた。

 父みたいな撮り方だな、と思った。

 

 写真は消さずに、スマホを置いた。

 

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