日曜日の朝、律は約束の時刻より八分早く駅にいた。
俺は十分前に着いていたので、二分だけ勝った。
「競走じゃないんだから」
そう言うと、律は、お前が先に時計見ただろ、と返した。
あいつの手には紙袋があった。駅前のパン屋の名前が入っている。
「朝飯?」
「うん。お前のもある」
「食ってきた」
「じゃ、昼」
「何買ったんだよ」
「カレーパン」
「朝から?」
「朝に売ってたから」
律は袋を開き、一つだけ俺へ渡した。断っても自分の鞄に押し込まれることがわかっていたので、受け取った。
ありがとう、と言うと、律は少し笑った。
水曜日のことを聞くなら、今だった。
栞と何を話したのか。
付き合うことになったのか。
俺は一度、口を開いた。
「今日、栞何時だっけ」
「十時半くらい。交代できたって」
律はすぐ答えた。
知っているんだな、と思った。
グループを確認すると、栞は昨夜その時間を送っていた。俺が読んでいなかっただけだった。
自分の早合点に気づいても、一度動いた気持ちはすぐ戻らなかった。
東京競馬場は、大井より空が広く感じた。
スタンドの大きさのせいなのか、昼間だからなのか、俺にはわからない。建物の上に薄い雲が広がり、遠くの芝は雨を忘れたように明るかった。
奈緒先輩はもう着いていた。
「早いですね」
「今日は席、探したかったから」
「俺たちも来るのに」
「みんな来てから探すより、先に見つけておいたほうが楽でしょ」
理屈はそのとおりだった。
先輩はすでに、前の列に二席、後ろの列に三席という場所を見つけていた。通路を挟まず、話すときに振り返れば届く距離だった。
「三つと二つなんですか」
「五つ横に、って思って歩いてたら、もっとなくなりそうで」
「十分です」
俺は前の二席を見た。
並んでいた。
日当たりもよく、前の人の頭が邪魔になりにくそうだった。
栞がカメラを持って座り、隣に律がいるところを想像した。
少し嫌だった。
嫌だったから、俺からその配置を決めようと思った。
自分で決めれば、置いていかれたのとは違う。
栞は約束どおりの時間に来た。
今日は軽いレンズだけ、と言いながら、やはり大きな鞄を持っていた。俺が、前の席空いてるよ、と言うと、栞は頷いて階段を下りた。
「こっち、正面から撮れるだろ」
「レースによるけどね」
「律、栞の荷物見てやってよ」
律は俺を見た。
「お前は?」
「後ろ。真帆来るし」
奈緒先輩が何かを言おうとした。
俺は先に、自分の鞄を後ろの席へ置いた。
「ここなら五人で話せるし。ほら、二人座って」
二人、を少し強く言ったつもりだった。
栞は前の席に座った。律もその隣に座った。
俺は後ろから、二人の肩が並ぶのを見た。
似合っていると思った。
そう思うと、なおさら気分が悪かった。
栞はカメラを構え、一枚撮った。
画面を確認し、首を傾げた。
もう一枚撮った。
それから立ち上がった。
「やっぱりこっち」
後ろの列へ戻ってきて、俺の隣に座った。
「いや、そこ真帆が」
「真帆、どこでもいいって言ってたよ」
「でも」
栞は鞄を前の席に置いたまま、カメラだけ抱えていた。
律も上着を持って戻ってきた。
「なんでお前まで」
「一人で前にいても」
「栞が前にいればいいだろ」
言ってから、少し露骨すぎたと思った。
奈緒先輩が、とうとう声を上げて笑った。
俺は先輩を見た。
「何ですか」
「ごめん。鞄だけ、仲よく並んでるから」
前の二席には、栞のカメラバッグと律の鞄が置かれていた。
本当に仲がよさそうに、背もたれに寄り掛かっていた。
俺は言い返せなかった。
律は俺の右へ座り、栞は左にいた。奈緒先輩は通路に立って笑っている。
「これだと一人座れないですよ」
「航平が何か一生懸命だから、待ってたんだけど」
「一生懸命って」
「席、交代でいいじゃない。レースごとに見たいところ違うし」
先輩は栞の鞄を指した。
「ひとまず荷物を人の代わりに座らせるの、終わりにしよう」
俺たち三人は、もう一度立ち上がった。
律が俺の背中を軽く叩いた。
「お前、今日何してんの」
「別に」
何してるんだろう、と俺も思った。
※
真帆が来たとき、席の配置はすでに三回変わっていた。
事情を聞いた真帆は、前の席へ座った。
「私、ここでいい。足伸ばせる」
そう言って、おしまいにした。
奈緒先輩が隣に座り、後ろには、俺を挟んで律と栞が並んだ。
俺だけが、一仕事失敗したような気分だった。
今日の目当ては、神無月ステークスだった。
ダートの千四百。エンディングノートは出ない。俺たちは応援馬が走らない日にも競馬場へよく来る。予想が当たることも外れることもあったが、誰かの予想の理由を聞くのは、結果とは別に面白かった。
真帆は前の席から振り返って、前走の位置取りについて話した。
奈緒先輩は、そこだけ見ても距離が違う、と言った。
律は血統の話を持ち出した。
栞は、パドックで見てから、といつも通りだった。
俺は四人の話を聞きながら、手元の出馬表に小さく印を付けた。
自分の印は一つだけだった。
「航平は?」
律が覗き込んだ。
「これかな」
「理由は」
「前走、外回った割に最後止まってない」
「お、俺と同じ」
律は嬉しそうに自分の新聞を見せた。
同じ馬の欄に、あいつの大きな丸があった。
同じ馬を選んだことが、こんなに嬉しい日もあるのだと思った。
栞が反対側から覗いた。
「私は違うかな」
「まだパドック見てないだろ」
「新聞だけなら。これ」
栞の指は、少し下の馬を指した。
俺はその理由を聞いた。
栞は、前にここで撮った写真の話をした。走り終わったあとも、耳がずっと前を向いていたという。
「それ、予想なの?」
律が聞いた。
「私の予想」
栞は言い切った。
俺は笑った。
律と栞も笑った。
二人が同時に笑うところを見て、また少しだけ落ち着かなくなった。
昼になると、律が栞に声を掛けた。
「何食う?」
「まだ決めてない」
「列見てから?」
「うん」
俺は、じゃあ二人で、と言いかけた。
その前に、栞が俺を見た。
「航平は?」
「パンあるから」
律が朝くれたカレーパンを出した。
「あ、俺もあった」
律が言った。
「お前が買ったんだろ」
「忘れてた」
栞は二人の袋を交互に見た。
「二人で買ったの?」
「俺が駅で」
律が答えた。
「航平に?」
「ついで」
栞は、ふうん、と言った。
俺は彼女が少し不機嫌になったように感じた。
律は自分の分だけ買えばよかったのだろうか。
栞と付き合い始めたなら、朝のパンだって栞に買ってくるべきだったのかもしれない。
俺は自分の袋を差し出した。
「栞、食う?」
「いい」
すぐ断られた。
やっぱり気を悪くしたらしい。
律は俺を見て、それから栞を見た。
「じゃ、俺これ食うから、あとで何か買いに行こう」
「……うん」
栞の返事は短かった。
俺はパンをかじった。
冷えていても、十分うまかった。
味がわかることが、余計に気まずかった。
※
神無月ステークスの前に、俺たちはパドックへ降りた。
栞はカメラを持ち、真帆は鞄を席に残さないと言い、奈緒先輩は帰りの集合場所を確認した。
五人で歩くと、どうしても横一列にはならない。
俺は律と栞の後ろへ入った。
しばらく歩くと、律が振り返った。
「何で後ろにいるんだよ」
「混んでるから」
「こっち空いてる」
律は横へずれた。
俺が並ぶと、栞も少し歩幅を緩めた。
結局、真帆と奈緒先輩が前へ行き、俺は律と栞の間に入った。
人の恋を手伝うのは、思っていたより難しかった。
パドックで栞が目を付けた馬は、落ち着いて歩いていた。
律と俺が選んだ馬は、何か気になるものがあるらしく、周回のたびに同じ場所で首を上げた。
「大丈夫かな」
律が言った。
「さっきまで自信あっただろ」
「今の情報を入れてる」
真帆が横で、また変わった、と笑った。
俺は栞のほうを見た。
栞は馬を見ていた。俺にも律にも目を向けず、ファインダーを通して、光の角度を探していた。
その横顔を見ると、彼女はただ今日の写真を撮りに来たのかもしれないと思った。
俺だけが一日中、別のことを考えていた。
申し訳なくなって、馬へ目を戻した。
レースでは、俺と律の選んだ馬が先行した。
直線へ向いたときには、いい位置にいた。俺たちは声を上げた。
残り二百メートルで、外から栞の選んだ馬が来た。
律が、あ、と言った。
俺も、あ、と言った。
栞は声を出さずに、カメラで馬を追っていた。
最後はその馬が前へ出た。
俺たちの馬は、三着まで下がった。
「耳、前向いてたもんな」
律が言った。
「そこなの?」
真帆が笑った。
栞は画面を確認しながら、ほら、と言った。
写真の馬は、ゴールのすぐあとで、確かに耳を前へ向けていた。
俺は、いい写真、と言った。
栞は俺に画面を寄せた。
律が反対側から覗いた。
三人の肩が近づいた。
さっきまで俺が作ろうとしていた二人きりの距離より、その三人で一つの画面を見る距離のほうが、ずっと自然だった。
そう気づいてしまったことを、俺は誰にも言わなかった。