先に行ってて
東京競馬場へ行った二日後の火曜日、学祭に出す部誌の話が持ち上がった。
俺たちのサークルは、名前だけならもっと立派な活動をしていそうだった。
競走文化研究会。
大学へ提出する書類にはそう書いてある。実際には、馬を見るのが好きな五人が集まり、予想を外した理由を、次のレースが始まるまで話していた。
部誌は毎年作っていた。
奈緒先輩が二年生のときに始めて、今年で三冊目になる。予想だけでは開催が終わった途端に読めなくなるから、好きな馬、好きな競馬場、見落としていたレース、そんなものを一人ずつ書く。
今年はエンディングノートのページを増やす予定だった。
栞が写真を出し、真帆が戦績をまとめ、律がレースの展開を書く。奈緒先輩は全体の構成を決め、俺は五人の思い出を聞いて短い文章にする役だった。
「聞くの、航平がいちばんうまいから」
先輩はそう言った。
俺は文章を書けるかどうか聞かれたかったが、書けないとも言いたくなかったので、引き受けた。
部室は、ほかの小さな団体と時間を分けて使う部屋だった。
棚の一段だけが俺たちのもので、古い部誌とクリップと、誰が持ってきたかわからないマグカップが入っている。五人が机を囲むと、もうほとんど余白がなかった。
律はいつも、入口に近い席へ座った。
俺が最後に来たとき、隣へ座れるようにするためだと、以前冗談で言っていた。俺は、遅刻を前提にするな、と返していた。
その日は、律の隣に栞がいた。
俺は反対側へ座った。
栞のノートPCに、写真が並んでいた。律が身を乗り出して、一枚を指していた。
「この続き、この前の店でやる?」
「うん。落ち着いて選びたいし」
「じゃ、今度二人で行こうよ。例の店」
俺は鞄から筆記用具を出しながら、その言葉を聞いた。
例の店。
二人だけが知っている店だった。
俺は一億二千万円の話をした日から、知らない店が一つ増えたのだと考えた。
「何の店?」
聞いてから、聞かないほうがよかったかと思った。
「喫茶店」
律が答えた。
「電源あるとこ。写真選ぶのに」
「へえ」
「航平も、そのうち」
律はそこまで言って、栞を見た。
栞は画面を操作していた。
「うん。そのうち」
俺は自分で返事をして、紙を広げた。
気を遣って誘われるのは嫌だった。
でも、誘われないのはもっと嫌だった。
どちらを選んでも嫌になるなら、相手のせいにはできなかった。
真帆が会計の話を始めた。
印刷代を安くするには、ページ数を一定の単位に揃えたほうがいい。写真を全部カラーにすると、去年より高くなる。配る冊数を決める前に、誰が何ページ書くか決めてほしい。
「律、四ページは長い」
「二年分のレースだぞ」
「二年分の言い訳でしょ」
「分析」
「表を付けて二ページ」
律は不満そうに口を曲げた。
栞が、写真を横に入れれば三ページで、と言った。
真帆は計算し直した。
「航平の聞き書きが二ページなら、いける」
全員が俺を見た。
「二ページにまとめる」
俺は答えた。
できるかどうかより先に、四人の予定がその返事で動くのが嬉しかった。
父の手続きをしているときには、いつも誰かの説明を聞く側だった。ここでは俺の返事を待ってくれる。
俺が何かを持っているからではなく、俺が何かを書くから。
そう思っていたかった。
打ち合わせが終わると、奈緒先輩はゼミへ行き、真帆はバイトへ向かった。
律は栞に、木曜でいい、と聞いた。
栞は、うん、と頷いた。
俺は二人より先に部室を出た。
廊下を歩いていると、律が追いついてきた。
「今日、飯どうする」
「部屋で食う」
「俺も行っていい?」
嬉しいと思った。
その直後に、栞はどうしたんだろうと思った。
「栞と帰らなくていいの」
律が立ち止まりかけた。
「栞、図書館だって」
「そう」
「何で?」
「別に」
俺は歩き続けた。
律も隣へ戻った。
しばらく二人とも黙っていた。
俺のほうから、部屋に来るかどうかをもう一度言うべきだった。でも、いま言ったら埋め合わせになる気がした。
駅へ着く前に、律のスマホが鳴った。
画面を見て、あいつは足を緩めた。
「ごめん、今日やっぱり、あとで用事」
「栞?」
口から出た。
律は俺を見た。
「真帆」
今度は俺が黙った。
「バイト上がりに、ちょっと話す。部誌のことで」
「そっか」
部誌の何を、俺抜きで話すのかは聞かなかった。
律は、じゃ、また明日、と言った。
俺は、うん、と返した。
明日は同じ授業が一つもなかった。
※
木曜日の夕方、駅前の書店で、俺は部誌に使うノートを選んでいた。
メモならスマホで足りる。でも誰かに話を聞くとき、画面を見ながら頷くのは、別のことをしているように見えそうだった。父が仕事で使っていた小さい手帳を思い出し、それに近い大きさのものを探した。
表紙が硬すぎるものは開きにくい。
紙が白すぎるものは、何を書いても目立ちそうだった。
結局、灰色の無地の表紙にした。
レジへ向かう途中、通りに律がいるのが見えた。
栞と一緒だった。
二人は書店の前を通り過ぎ、少し先の喫茶店へ向かった。
例の店だろう。
俺は本棚の隙間から、その入口を見ていた。
律が先に扉を押さえ、栞が中へ入った。栞は振り返って何かを言い、律が笑った。
知っていたはずの光景だった。
それでも、実際に見ると違った。
俺の知らない二人がいた。
いや、知っている二人だった。律はいつも扉を押さえる。栞は店に入る前に席を探す。何も変わっていないのに、二人だけでそれをしていることが、別の関係に見えた。
俺はノートを買った。
店員に袋が要るか聞かれ、要らないと言った。
外へ出ると、喫茶店の窓から律の横顔が見えた。
俺は反対側へ歩いた。
そのあと駅前のカレー屋の前まで行き、扉に手を掛ける前に中を見た。
律はいなかった。
わかっていた。
なのに、確認した自分が嫌になった。
店主に、今日も一人、と言われるところを想像し、向かいの立ち食いそばへ入った。
カレーを食べたいのに、そばを食べた。
律には何の責任もない。
そのことがいちばん腹立たしかった。
金曜日の夜、律は来なかった。
来る約束をしていたわけではなかった。
それでも夕方になると、俺は米をいつもより多く炊いた。冷凍すればいい。明日も食べる。そういう理由をいくつも作って、茶碗二杯分を残した。
九時になっても連絡がなかったので、小分けにして冷凍した。
十時に律から、部誌の原稿を送る、と来た。
届いた原稿は、まだ途中だった。
文章の終わりに、ここから先はまた、と書いてあった。
途中じゃん。
送ると、律は、先に方向だけ、と返した。
俺は文章の中の、エンディングノートが初めて俺たちに勝った日、という一文に線を引いた。
俺たちに勝ったって、どういう意味。
律から、笑っている顔の絵文字が届いた。
全員、別の馬買って外した日。
その日を思い出した。
春の船橋で、俺たちは応援馬の調子が今一つだと話していた。馬はあっさり勝った。誰もその馬の馬券を持っていなかったので、喜び方が少し変だった。
真帆だけが、だから応援と買うのは別、と胸を張った。
奈緒先輩が、外れた人に言われても、と笑った。
栞は勝った写真を何枚も撮った。
律と俺は、次は絶対買うと言って、その次も外した。
俺はその段落に、全員が嬉しそうだったことを足せば、と返した。
律は、いいね、と送ってきた。
続けて「今日眠れそう?」と聞かれた。
俺は画面から目を上げた。
部屋には二人分炊いた米の匂いが残っていた。
たぶん。
そう返すと、律は、それならよかった、と言った。
眠れないと答えたら、あいつは来たのだろうか。
来てほしいから眠れないと言うのは、何か違う気がした。
俺は原稿をもう一度読んだ。
そこにいる俺たちは、全員で同じ馬を見ていた。
※
律に彼女がいたころのことを、俺は覚えていた。
結衣という名前だった。
俺たちのサークルの人ではなく、律のバイト先の知り合いだった。明るいとか大人しいとかで説明しにくい人で、話すとき、相手の冗談が面白くないと無理に笑わなかった。
初めて会ったとき、律が俺のことを、こいつ競馬の話を止めないから、と紹介した。
俺は、お前もだろ、と言った。
結衣は、どっちもなんだね、と返した。
その返事が気に入った。
律は彼女といるとき、少しだけ格好をつけた。
俺の前では食べないと言っていた野菜を食べ、行ったこともない店について詳しいふりをし、あとで俺に店の場所を聞いた。
だから今回、栞の前で嬉しそうにしている律を見ても、不自然には思わなかった。
律は好きな人の前で、ああいう顔をする。
そういう知識を、俺は持っていたつもりだった。
別れた晩、律は俺の部屋へ来た。
一年前の冬だった。
連絡もなく来たので、俺は最初、曜日を一日間違えたのかと思った。
「今日、木曜だぞ」
「知ってる」
「授業の課題?」
「違う」
律は靴を脱がず、玄関に立っていた。
俺は何かあったのだとわかって、先にお湯を沸かした。
あとから考えると、部屋へ入れと言えばよかった。でも俺は、誰かが困っているとき、まず飲み物を用意しようとする。母のやり方をそのまま覚えたのかもしれない。
律はやがて上がり、床へ座った。
「別れた」
短く言った。
俺は、そっか、と答えた。
「何でとか聞かないの」
「話したいなら聞く」
「話しても、俺が格好悪いだけなんだけど」
「今更じゃん」
律は笑った。
それから、少しずつ話した。
大きな事件があったわけではなかった。会う日を決めるとき、どちらかがいつも譲る。譲ったことを口にしないで、別の小さいことで怒る。相手が怒った理由を、律はしばらく勘違いしていた。
結衣が悪いとは言わなかった。
自分が全部悪いとも言わなかった。
何度か、ちゃんと聞けばよかった、と言った。
俺はそれを聞いた。
何か気の利いたことを言おうとは思わなかった。相手を忘れろとか、次がいるとか、そういう言葉は、そのときの律が話している人を雑にする気がした。
夜中に腹が減ったので、二人で冷凍うどんを食べた。
卵が一個しかなかった。
俺が律の器へ入れようとすると、あいつは半分にしようと言った。
「生卵を?」
「混ぜてからにしよう」
「面倒くさい」
「じゃ、俺も要らない」
「何でだよ」
結局、俺たちは鍋に卵を入れ、二人分へ適当に分けた。
律のほうが多くなった。
俺は何も言わなかった。
明け方、律は床に敷いた布団で眠った。
俺は隣のベッドで、天井の小さい染みを見ていた。
自分が起きていれば、隣で寝ている奴が急にひとりぼっちにはならないような気がした。
翌朝、律は、助かった、と言った。
「何が?」
「昨夜」
「うどん?」
「それも」
そのあとから、律は金曜日に泊まっていくようになった。
翌日の競馬のためだと、俺は思っていた。
思い出しながら、俺は洗面台の白い歯ブラシを見た。
泊まらなくなっても、それだけは残っていた。
片づける場所がわからず、そのままにした。
取っておくのとは違う。
捨てる理由がないだけだ。
父が保証書を残していたときも、こんな言い方をしたのかもしれなかった。
※
十一月に入ると、学内の木の下に落ち葉が溜まるようになった。
部誌の締切は近づいていた。
俺は四人に同じ質問を送った。エンディングノートを見たレースで、いちばん覚えているのはどれか。初めて知ったとき、名前をどう思ったか。次にどんなレースを見たいか。
律の返事は長かった。
真帆の返事は箇条書きだった。
奈緒先輩は、みんなと最初に行った日、と書いたあと、でも原稿用ならもう少しちゃんと答える、と付け足した。
栞は「会って話していい?」と返してきた。
俺は、もちろん、と送った。
律に先に聞かなくていいのかと考えたが、部誌の話をするだけだった。聞くほうが変だった。
昼休み、部室へ行くと、律と真帆がいた。
二人は何かを見ながら話していたが、俺が入ると真帆が画面を暗くした。
「おつかれ」
律が言った。
「二人で何してた」
「予定」
真帆が答えた。
「印刷?」
「それも」
それも、のほかに何があるのかは、説明されなかった。
俺は椅子へ座った。
机の上には、小さなチョコの袋があった。真帆のバイト先で余った試供品だという。
「食べていいよ」
「うん」
俺が一つ取ると、律も取った。
「あんた、さっき二つ食べたよね?」
真帆が言った。
「個数制限あった?」
「他人の分まで食べないっていう常識がある」
律は袋に戻した。
俺は自分の一個を二つに割り、半分を律へやった。
「甘やかすな」
真帆が言った。
「半分だろ」
「そういうところだよ」
何がそういうところなのかわからなかった。
律はチョコを口へ入れ、少しだけ黙った。
真帆も、窓のほうを見た。
俺は一人で、部誌のページ割りについて話し始めた。
その日、律はバイト帰りの真帆を迎えに行くことになった。
あとから知ったのではない。
俺の前で、何時に上がる、と聞いていた。
真帆は、八時半だけど、と答えた。
「じゃ、駅まで行く」
「待たせるかもよ」
「いいよ」
律は簡単に言った。
栞とのことを相談するのだろうか。
真帆は恋愛相談に向いているようには見えなかったが、話を変に飾らないから、律には合うのかもしれない。
俺には相談しないのだと思った。
俺は父を亡くしたばかりで、夜眠れるかどうか聞かれる人間だった。そんな相手に、彼女との嬉しい話をするのは、遠慮するだろう。
それもわかる。
わかるのに、気を遣われていることがまた嫌だった。
翌日には、律が奈緒先輩へ声を掛けていた。
「先輩、先に二人で決めていいですか」
俺は廊下の角を曲がったところで、その言葉を聞いた。
奈緒先輩は俺に気づき、少しだけ表情を変えた。
「あ、航平。部室?」
「はい。原稿置きに」
「あとで見るね」
律は、先に行ってて、と俺に言った。
俺は先に行った。
部室には鍵が掛かっていた。
廊下で待った。
待ちながら、俺だけ先に行かされるのが最近増えたと思った。
先に帰る。
先に座る。
先に食べる。
俺が先に何かをしているあいだに、四人は残って何かを決めていた。
俺が遺産の話をしたせいなのだろうか。
その考えが浮かび、すぐに打ち消した。
お金が目当てなら、俺を遠ざける理由がない。
むしろ近づいてくるはずだ。
そんなふうに考える自分が、四人を値踏みしているようで気持ち悪かった。
鍵を開けに来た奈緒先輩に、俺はいつもより明るく挨拶した。
先輩は俺の顔を見て、少しだけ何か言いたそうにした。
でも「原稿できた?」と聞くだけだった。