エンディングノート   作:酒匂いつき

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第三章 白い歯ブラシ
先に行ってて


 

 東京競馬場へ行った二日後の火曜日、学祭に出す部誌の話が持ち上がった。

 俺たちのサークルは、名前だけならもっと立派な活動をしていそうだった。

 

 競走文化研究会。

 

 大学へ提出する書類にはそう書いてある。実際には、馬を見るのが好きな五人が集まり、予想を外した理由を、次のレースが始まるまで話していた。

 

 部誌は毎年作っていた。

 奈緒先輩が二年生のときに始めて、今年で三冊目になる。予想だけでは開催が終わった途端に読めなくなるから、好きな馬、好きな競馬場、見落としていたレース、そんなものを一人ずつ書く。

 

 今年はエンディングノートのページを増やす予定だった。

 栞が写真を出し、真帆が戦績をまとめ、律がレースの展開を書く。奈緒先輩は全体の構成を決め、俺は五人の思い出を聞いて短い文章にする役だった。

 

「聞くの、航平がいちばんうまいから」

 

 先輩はそう言った。

 俺は文章を書けるかどうか聞かれたかったが、書けないとも言いたくなかったので、引き受けた。

 

 部室は、ほかの小さな団体と時間を分けて使う部屋だった。

 棚の一段だけが俺たちのもので、古い部誌とクリップと、誰が持ってきたかわからないマグカップが入っている。五人が机を囲むと、もうほとんど余白がなかった。

 

 律はいつも、入口に近い席へ座った。

 俺が最後に来たとき、隣へ座れるようにするためだと、以前冗談で言っていた。俺は、遅刻を前提にするな、と返していた。

 

 その日は、律の隣に栞がいた。

 俺は反対側へ座った。

 栞のノートPCに、写真が並んでいた。律が身を乗り出して、一枚を指していた。

 

「この続き、この前の店でやる?」

「うん。落ち着いて選びたいし」

「じゃ、今度二人で行こうよ。例の店」

 

 俺は鞄から筆記用具を出しながら、その言葉を聞いた。

 

 例の店。

 

 二人だけが知っている店だった。

 俺は一億二千万円の話をした日から、知らない店が一つ増えたのだと考えた。

 

「何の店?」

 

 聞いてから、聞かないほうがよかったかと思った。

 

「喫茶店」

 

 律が答えた。

 

「電源あるとこ。写真選ぶのに」

「へえ」

「航平も、そのうち」

 

 律はそこまで言って、栞を見た。

 栞は画面を操作していた。

 

「うん。そのうち」

 

 俺は自分で返事をして、紙を広げた。

 気を遣って誘われるのは嫌だった。

 でも、誘われないのはもっと嫌だった。

 どちらを選んでも嫌になるなら、相手のせいにはできなかった。

 

 真帆が会計の話を始めた。

 印刷代を安くするには、ページ数を一定の単位に揃えたほうがいい。写真を全部カラーにすると、去年より高くなる。配る冊数を決める前に、誰が何ページ書くか決めてほしい。

 

「律、四ページは長い」

「二年分のレースだぞ」

「二年分の言い訳でしょ」

「分析」

「表を付けて二ページ」

 

 律は不満そうに口を曲げた。

 栞が、写真を横に入れれば三ページで、と言った。

 真帆は計算し直した。

 

「航平の聞き書きが二ページなら、いける」

 

 全員が俺を見た。

 

「二ページにまとめる」

 

 俺は答えた。

 できるかどうかより先に、四人の予定がその返事で動くのが嬉しかった。

 父の手続きをしているときには、いつも誰かの説明を聞く側だった。ここでは俺の返事を待ってくれる。

 俺が何かを持っているからではなく、俺が何かを書くから。

 そう思っていたかった。

 

 打ち合わせが終わると、奈緒先輩はゼミへ行き、真帆はバイトへ向かった。

 律は栞に、木曜でいい、と聞いた。

 栞は、うん、と頷いた。

 俺は二人より先に部室を出た。

 廊下を歩いていると、律が追いついてきた。

 

「今日、飯どうする」

「部屋で食う」

「俺も行っていい?」

 

 嬉しいと思った。

 その直後に、栞はどうしたんだろうと思った。

 

「栞と帰らなくていいの」

 

 律が立ち止まりかけた。

 

「栞、図書館だって」

「そう」

「何で?」

「別に」

 

 俺は歩き続けた。

 律も隣へ戻った。

 しばらく二人とも黙っていた。

 俺のほうから、部屋に来るかどうかをもう一度言うべきだった。でも、いま言ったら埋め合わせになる気がした。

 

 駅へ着く前に、律のスマホが鳴った。

 画面を見て、あいつは足を緩めた。

 

「ごめん、今日やっぱり、あとで用事」

「栞?」

 

 口から出た。

 律は俺を見た。

 

「真帆」

 

 今度は俺が黙った。

 

「バイト上がりに、ちょっと話す。部誌のことで」

「そっか」

 

 部誌の何を、俺抜きで話すのかは聞かなかった。

 律は、じゃ、また明日、と言った。

 俺は、うん、と返した。

 

 明日は同じ授業が一つもなかった。

 

 

 

     ※

 

 

 

 木曜日の夕方、駅前の書店で、俺は部誌に使うノートを選んでいた。

 メモならスマホで足りる。でも誰かに話を聞くとき、画面を見ながら頷くのは、別のことをしているように見えそうだった。父が仕事で使っていた小さい手帳を思い出し、それに近い大きさのものを探した。

 表紙が硬すぎるものは開きにくい。

 紙が白すぎるものは、何を書いても目立ちそうだった。

 結局、灰色の無地の表紙にした。

 

 レジへ向かう途中、通りに律がいるのが見えた。

 栞と一緒だった。

 二人は書店の前を通り過ぎ、少し先の喫茶店へ向かった。

 例の店だろう。

 俺は本棚の隙間から、その入口を見ていた。

 律が先に扉を押さえ、栞が中へ入った。栞は振り返って何かを言い、律が笑った。

 

 知っていたはずの光景だった。

 それでも、実際に見ると違った。

 俺の知らない二人がいた。

 いや、知っている二人だった。律はいつも扉を押さえる。栞は店に入る前に席を探す。何も変わっていないのに、二人だけでそれをしていることが、別の関係に見えた。

 

 俺はノートを買った。

 店員に袋が要るか聞かれ、要らないと言った。

 外へ出ると、喫茶店の窓から律の横顔が見えた。

 俺は反対側へ歩いた。

 そのあと駅前のカレー屋の前まで行き、扉に手を掛ける前に中を見た。

 律はいなかった。

 

 わかっていた。

 

 なのに、確認した自分が嫌になった。

 店主に、今日も一人、と言われるところを想像し、向かいの立ち食いそばへ入った。

 カレーを食べたいのに、そばを食べた。

 律には何の責任もない。

 そのことがいちばん腹立たしかった。

 

 金曜日の夜、律は来なかった。

 来る約束をしていたわけではなかった。

 それでも夕方になると、俺は米をいつもより多く炊いた。冷凍すればいい。明日も食べる。そういう理由をいくつも作って、茶碗二杯分を残した。

 九時になっても連絡がなかったので、小分けにして冷凍した。

 

 十時に律から、部誌の原稿を送る、と来た。

 届いた原稿は、まだ途中だった。

 文章の終わりに、ここから先はまた、と書いてあった。

 

 途中じゃん。

 

 送ると、律は、先に方向だけ、と返した。

 俺は文章の中の、エンディングノートが初めて俺たちに勝った日、という一文に線を引いた。

 

 俺たちに勝ったって、どういう意味。

 

 律から、笑っている顔の絵文字が届いた。

 

 全員、別の馬買って外した日。

 

 その日を思い出した。

 

 春の船橋で、俺たちは応援馬の調子が今一つだと話していた。馬はあっさり勝った。誰もその馬の馬券を持っていなかったので、喜び方が少し変だった。

 

 真帆だけが、だから応援と買うのは別、と胸を張った。

 奈緒先輩が、外れた人に言われても、と笑った。

 栞は勝った写真を何枚も撮った。

 律と俺は、次は絶対買うと言って、その次も外した。

 

 俺はその段落に、全員が嬉しそうだったことを足せば、と返した。

 律は、いいね、と送ってきた。

 続けて「今日眠れそう?」と聞かれた。

 

 俺は画面から目を上げた。

 部屋には二人分炊いた米の匂いが残っていた。

 

 たぶん。

 

 そう返すと、律は、それならよかった、と言った。

 眠れないと答えたら、あいつは来たのだろうか。

 来てほしいから眠れないと言うのは、何か違う気がした。

 俺は原稿をもう一度読んだ。

 そこにいる俺たちは、全員で同じ馬を見ていた。

 

 

 

     ※

 

 

 

 律に彼女がいたころのことを、俺は覚えていた。

 結衣という名前だった。

 俺たちのサークルの人ではなく、律のバイト先の知り合いだった。明るいとか大人しいとかで説明しにくい人で、話すとき、相手の冗談が面白くないと無理に笑わなかった。

 

 初めて会ったとき、律が俺のことを、こいつ競馬の話を止めないから、と紹介した。

 俺は、お前もだろ、と言った。

 結衣は、どっちもなんだね、と返した。

 その返事が気に入った。

 

 律は彼女といるとき、少しだけ格好をつけた。

 俺の前では食べないと言っていた野菜を食べ、行ったこともない店について詳しいふりをし、あとで俺に店の場所を聞いた。

 だから今回、栞の前で嬉しそうにしている律を見ても、不自然には思わなかった。

 律は好きな人の前で、ああいう顔をする。

 そういう知識を、俺は持っていたつもりだった。

 

 別れた晩、律は俺の部屋へ来た。

 一年前の冬だった。

 連絡もなく来たので、俺は最初、曜日を一日間違えたのかと思った。

 

「今日、木曜だぞ」

「知ってる」

「授業の課題?」

「違う」

 

 律は靴を脱がず、玄関に立っていた。

 俺は何かあったのだとわかって、先にお湯を沸かした。

 あとから考えると、部屋へ入れと言えばよかった。でも俺は、誰かが困っているとき、まず飲み物を用意しようとする。母のやり方をそのまま覚えたのかもしれない。

 

 律はやがて上がり、床へ座った。

 

「別れた」

 

 短く言った。

 俺は、そっか、と答えた。

 

「何でとか聞かないの」

「話したいなら聞く」

「話しても、俺が格好悪いだけなんだけど」

「今更じゃん」

 

 律は笑った。

 それから、少しずつ話した。

 

 大きな事件があったわけではなかった。会う日を決めるとき、どちらかがいつも譲る。譲ったことを口にしないで、別の小さいことで怒る。相手が怒った理由を、律はしばらく勘違いしていた。

 

 結衣が悪いとは言わなかった。

 自分が全部悪いとも言わなかった。

 何度か、ちゃんと聞けばよかった、と言った。

 俺はそれを聞いた。

 何か気の利いたことを言おうとは思わなかった。相手を忘れろとか、次がいるとか、そういう言葉は、そのときの律が話している人を雑にする気がした。

 

 夜中に腹が減ったので、二人で冷凍うどんを食べた。

 卵が一個しかなかった。

 俺が律の器へ入れようとすると、あいつは半分にしようと言った。

 

「生卵を?」

「混ぜてからにしよう」

「面倒くさい」

「じゃ、俺も要らない」

「何でだよ」

 

 結局、俺たちは鍋に卵を入れ、二人分へ適当に分けた。

 律のほうが多くなった。

 俺は何も言わなかった。

 

 明け方、律は床に敷いた布団で眠った。

 俺は隣のベッドで、天井の小さい染みを見ていた。

 自分が起きていれば、隣で寝ている奴が急にひとりぼっちにはならないような気がした。

 翌朝、律は、助かった、と言った。

 

「何が?」

「昨夜」

「うどん?」

「それも」

 

 そのあとから、律は金曜日に泊まっていくようになった。

 翌日の競馬のためだと、俺は思っていた。

 

 思い出しながら、俺は洗面台の白い歯ブラシを見た。

 泊まらなくなっても、それだけは残っていた。

 片づける場所がわからず、そのままにした。

 取っておくのとは違う。

 捨てる理由がないだけだ。

 

 父が保証書を残していたときも、こんな言い方をしたのかもしれなかった。

 

 

 

     ※

 

 

 

 十一月に入ると、学内の木の下に落ち葉が溜まるようになった。

 部誌の締切は近づいていた。

 俺は四人に同じ質問を送った。エンディングノートを見たレースで、いちばん覚えているのはどれか。初めて知ったとき、名前をどう思ったか。次にどんなレースを見たいか。

 

 律の返事は長かった。

 真帆の返事は箇条書きだった。

 奈緒先輩は、みんなと最初に行った日、と書いたあと、でも原稿用ならもう少しちゃんと答える、と付け足した。

 栞は「会って話していい?」と返してきた。

 俺は、もちろん、と送った。

 律に先に聞かなくていいのかと考えたが、部誌の話をするだけだった。聞くほうが変だった。

 

 昼休み、部室へ行くと、律と真帆がいた。

 二人は何かを見ながら話していたが、俺が入ると真帆が画面を暗くした。

 

「おつかれ」

 

 律が言った。

 

「二人で何してた」

「予定」

 

 真帆が答えた。

 

「印刷?」

「それも」

 

 それも、のほかに何があるのかは、説明されなかった。

 

 俺は椅子へ座った。

 机の上には、小さなチョコの袋があった。真帆のバイト先で余った試供品だという。

 

「食べていいよ」

「うん」

 

 俺が一つ取ると、律も取った。

 

「あんた、さっき二つ食べたよね?」

 

 真帆が言った。

 

「個数制限あった?」

「他人の分まで食べないっていう常識がある」

 

 律は袋に戻した。

 俺は自分の一個を二つに割り、半分を律へやった。

 

「甘やかすな」

 

 真帆が言った。

 

「半分だろ」

「そういうところだよ」

 

 何がそういうところなのかわからなかった。

 律はチョコを口へ入れ、少しだけ黙った。

 真帆も、窓のほうを見た。

 俺は一人で、部誌のページ割りについて話し始めた。

 

 その日、律はバイト帰りの真帆を迎えに行くことになった。

 あとから知ったのではない。

 俺の前で、何時に上がる、と聞いていた。

 真帆は、八時半だけど、と答えた。

 

「じゃ、駅まで行く」

「待たせるかもよ」

「いいよ」

 

 律は簡単に言った。

 

 栞とのことを相談するのだろうか。

 真帆は恋愛相談に向いているようには見えなかったが、話を変に飾らないから、律には合うのかもしれない。

 

 俺には相談しないのだと思った。

 俺は父を亡くしたばかりで、夜眠れるかどうか聞かれる人間だった。そんな相手に、彼女との嬉しい話をするのは、遠慮するだろう。

 それもわかる。

 わかるのに、気を遣われていることがまた嫌だった。

 

 翌日には、律が奈緒先輩へ声を掛けていた。

 

「先輩、先に二人で決めていいですか」

 

 俺は廊下の角を曲がったところで、その言葉を聞いた。

 奈緒先輩は俺に気づき、少しだけ表情を変えた。

 

「あ、航平。部室?」

「はい。原稿置きに」

「あとで見るね」

 

 律は、先に行ってて、と俺に言った。

 

 俺は先に行った。

 部室には鍵が掛かっていた。

 廊下で待った。

 待ちながら、俺だけ先に行かされるのが最近増えたと思った。

 先に帰る。

 先に座る。

 先に食べる。

 俺が先に何かをしているあいだに、四人は残って何かを決めていた。

 

 俺が遺産の話をしたせいなのだろうか。

 その考えが浮かび、すぐに打ち消した。

 お金が目当てなら、俺を遠ざける理由がない。

 むしろ近づいてくるはずだ。

 そんなふうに考える自分が、四人を値踏みしているようで気持ち悪かった。

 

 鍵を開けに来た奈緒先輩に、俺はいつもより明るく挨拶した。

 先輩は俺の顔を見て、少しだけ何か言いたそうにした。

 

 でも「原稿できた?」と聞くだけだった。

 

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