01話_白い部屋
番号を呼ばれた。
呼ばれるのは、だれかが死にかけて帰ってきた時だけだった。
寝台から足を下ろすより先に、においが来た。鉄を舐めたような、生ぬるいにおい。白い廊下の向こうから、車輪のきしむ音が近づいてくる。担架だ。押している大人の靴音が二つ、速い。
部屋の扉が開いて、白い光の中に担架が入ってきた。
乗っていたのは、ロロだった。
脇腹を押さえた手の指のあいだから、黒っぽい血がにじんでいる。服の左側が、腰のあたりまで重く濡れていた。顔は紙みたいに白い。それでも口は閉じたままだ。歯を食いしばっているのが、頬の硬さで分かった。
声を出さない。ロロはいつもそうだった。
研究員が二人、担架のそばで紙をめくっていた。ロロの顔は見ずに、傷を負った時刻だけを確かめている。
命じられる前に、俺は担架の横にいた。
ロロの手の上から、自分の両手を重ねて押さえる。血が温かい。手のひらの下で、ロロの腹が浅く上下している。
押さえなきゃ、と思った。押さえれば、血が少しは止まる。前に、世話係の姉さんが転んだ子の膝をそうしていた。
ロロがこうして運ばれてくるのは、三度目だった。一度目は腕、二度目は太もも。どの時も、ロロは声を出さなかった。担架の車輪の音で、俺はもう、乗っているのがロロかどうか分かるようになっていた。
ロロが、目を開けた。
見てしまった。
見るつもりはなかった。人の目を見ると、ろくなことにならない。ここの子どもはみんな、それを知っている。知っていて、俺はロロの顔を見下ろしていた。薄い色の目が、ぼんやりしたまま、俺の方を向いていた。
「ちょうどいい」
研究員の一人が言った。笑っていた。
「手間が省けた。十番、そのまま。目を離すな」
動いていないのに、大人の手が俺の後頭部をつかんだ。顔をロロの方へ、ぐっと押し下げられる。ロロの顔が近い。まつげに、乾いた血が一粒ついている。
研究員が、もう一人に何か言った。紙をめくる音にまぎれて、言葉の端だけが聞こえた。
「前の嚮主にも、この反応を見せたかったな」
「シーツーの話はするな」
シーツー。知らない音だった。人の名前なのかも分からない。ただ、言われた方の声が、急に小さくなったのは分かった。大人たちが名前を小さな声で言う時、その相手はいつも、ここにいる者より偉かった。
考える前に、目の奥が熱くなった。
内側から指で押されるみたいな熱さ。それが目の表面まで上がってきて、何かが浮かぶ。自分では見えない。でも、ロロの目に映った俺の目の中に、赤い形が開くのが、かすかに見えた。前に研究員が、鳥のような印だと言っていた。
ロロの薄い瞳に、俺の目の赤い印が小さく映った。それから、来た。
最初は、冷たかった。左の脇腹の、肋骨の一番下のあたりに、氷を一つ当てられたような感じ。それがすぐに、皮膚が開いたのだと分かる。中に空気が入ってくる。そこへ遅れて、熱が来た。
熱さの下を、ぬるいものが流れた。服の内側を、血が伝って落ちていく。
膝が折れた。床に手をつく。白い床に、自分の手のひらの形の血がつく。ロロの血だ。ロロの血のはずなのに、もう、俺の脇腹からも同じ色が落ちている。
息を吸うと、傷の縁が引きつれた。吐くと、もっと痛い。あばらの内側に、刃物の先がまだ残っているような気がした。刃物はもうない。それなのに、刺された形だけが俺の腹に残っていた。腹は、まだ刺されているつもりで縮んだ。
深くはない、とどこかで分かっていた。前に、研究員が俺の傷を測りながら、筋で止まっている、中には届いていない、と言い合うのを何度も聞いた。だから俺は、自分の体の中の名前をいくつか知っている。知っていても、痛みは少しも減らなかった。
腕に力が入らない。吸える息が浅くなる。浅くしないと痛い。浅くすると苦しい。口の中に、酸っぱい唾がたまる。声を出したら少し楽になるのは知っていた。前に一度、叫んだことがある。研究員の一人が、うるさい、と言って記録の紙に何か書いた。それから俺は、叫ばない。
頭の上で、担架がきしんだ。
ロロが、体を起こしていた。
自分の脇腹を見下ろしている。服は破れて、血で重いままだ。けれど、その下の皮膚は閉じている。傷は、もうない。血の跡だけが、乾きかけて残っている。
ロロは、俺を見なかった。
研究員の一人が、ロロに何か聞いた。痛みは、動けるか、次はいつ出られる。ロロは短く答えた。声はかすれていたけれど、震えてはいなかった。
俺は床に座ったまま、自分の脇腹を手で押さえていた。押さえる手が、さっきロロの手の上に重ねていた手と同じだった。押さえる相手が、変わっただけだ。
「十番は、いつもの部屋へ。止血だけしておけ」
研究員が、紙に何か書きながら言った。もう一人がうなずいて、俺の腕をつかむ。
部屋を出る時、扉のところで、ロロが一度だけ振り返った。
何も言わなかった。礼も、謝る言葉もなかった。ここでは、だれもそんなことを言わない。言う理由がないからだ。ロロは仕事をして、傷を負って帰ってきた。俺は、それを引き受けるための道具だ。道具に礼を言う人はいない。
それでもロロは、振り返った。
薄い色の目が、一瞬だけ、俺の脇腹のあたりを見た。それから、廊下へ歩き出した。二歩目で一度、壁に手をついた。傷はなくなっても、流れた血までは戻らない。研究員はそれを見ても、紙に何か書いただけだった。次はいつ出せるか、と言う声が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。
*
いつもの部屋には、窓がない。
子どもの寝る部屋には、どこにも窓はない。白い壁と、白い天井と、白い明かり。夜になると明かりが少し暗くなる。それで夜だと分かる。外がどうなっているのかを、俺は知らない。
寝台の横の水差しは、空だった。だれかが入れ替えに来るのを待つより、乾いた唇をなめている方が早い。喉が鳴るたびに、脇腹に響いた。
止血はされた。縫われたのではない。ガーゼを当てられて、きつく巻かれただけだ。研究員は、ふつうの速さで治るのか、何日で動けるのかを、記録したいのだと思う。前の時もそうだった。
寝台の上で、横を向いて丸くなる。上を向くと傷が引っぱられる。左を下にすると、もっと痛い。右を下にして、膝を胸に寄せる。それが一番ましだった。
脇腹の痛みは、波になってきた。
大きな波が来るたびに、息を止める。止めているあいだに、波が引くのを待つ。引いたら、少しだけ吸う。その繰り返しだ。数を数えるといい、と前に気づいた。波と波のあいだに、いくつ数えられるか。今夜は、十二まで数えられる時と、四までしか数えられない時がある。
それとは別に、目の奥が痛かった。
脇腹とはちがう痛みだ。鈍くて、深い。目玉の裏を、太い指でずっと押されているみたいだった。力を使った後は、いつもこうなる。脇腹は、少しずつでも治っていく。目の奥の痛みは、治るのではなく、ただ引いていく。そしてまた使えば、また来る。
声は出さなかった。
扉が、そっと開いた。
明かりの暗い廊下から、だれかが入ってくる。足音が軽い。研究員の靴ではない。布の靴で、床をこするように歩く人は、ここに一人しかいない。
世話係の姉さんだった。
年長の子どもの中で、一番上の人だ。小さい子の食事を運んだり、寝台の布を替えたり、熱を出した子のそばにいたりする。研究員は、姉さんのことも番号で呼ぶ。俺たちは、姉さん、と呼ぶ。名前を知らないからだ。
「起きてる?」
小さな声だった。
うなずくと、姉さんは寝台の横にしゃがんで、手に持っていた箱を床に置いた。包帯と、ガーゼと、水の入った器。
「替えるね。巻き方、ひどいから」
研究員の巻いた包帯を、姉さんはゆっくりほどいていった。ガーゼが傷に貼りついていて、はがす時に、引っぱられる。息を止める。姉さんは手を止めて、俺が息を吐くのを待ってから、また少しはがす。
姉さんの手は、冷たかった。冷たい手で傷のまわりを拭かれると、熱が少し逃げる気がした。
「また、ロロ?」
「うん」
「……そう」
姉さんはそれ以上、聞かなかった。新しいガーゼを当てて、包帯を巻いていく。研究員よりずっとゆるい。ゆるいのに、ずれない。どう巻いたらそうなるのか、俺は見ていたかった。でも、首を動かすと傷が痛いので、天井を見ていた。
巻き終わると、姉さんは器の水を少し、俺の口元に運んだ。空の水差しを見て、何も言わずに自分の器の水を全部くれた。飲むと、喉の奥のすっぱさが薄まった。
「ねえ」
姉さんが、寝台の端に指を置いた。
「十番、って呼ばれるの、嫌じゃない?」
考えたことがなかった。番号は、名前の代わりではない。番号は、番号だ。ここの子どもはみんな番号で、そういうものだと思っていた。
俺が黙っていると、姉さんは少し笑った。
「外へ行っても、十番って呼ばれるのかな」
そう言って、床に落ちていた俺の札を拾い上げた。首から下げるための、小さな金属の札。番号が彫ってある。止血の時に外されて、そのまま床に落ちていたらしい。
姉さんは、札の「1」を爪でなぞり、それから隣の丸をなぞった。
「前に、小さい子に読む本を探してて、空の本を見つけたの。字は半分しか読めなかったけど」
研究員の部屋の棚から、借りてきたのだという。返すまでの一晩、姉さんはそれを寝台の下に隠して読んだ。
「木星っていう大きな星のそばを、小さな月が回ってるんだって。その月の名前。外の国の字で、IとO。イオ」
姉さんは、確かめるように、もう一度言った。
「十番の札に、ちょっと似てるでしょ。番号より、こっちの方がいいよ。あんたは、イオ」
俺は、自分の口の中で、同じ音を作ってみた。声には出さなかった。
イオ。
変な音だと思った。短くて、軽くて、どこにも引っかからない。月というものを、俺は見たことがない。
「嫌なら、別のを考える」
姉さんが言った。俺は、首を横に振った。それだけで脇腹が痛んだけれど、振った。
姉さんは札を、俺の手に握らせた。冷たい金属が、手のひらの中で少しずつぬるくなっていく。
それから、姉さんは、少しだけ黙った。
「明日の朝、イオは、外へ運ばれるんだって」
外、と頭の中で言い直してみた。見たことがないから、何も浮かばなかった。
「エリア11。海の向こうの、ブリタニアが取った国。そこで仕事をしてる人たちの、手当てに使うって」
手当て、ではない、と思った。俺がするのは手当てではない。今日ロロにしたことだ。
「研究員の人たちが、話してるのを聞いたの。朝早く」
姉さんは包帯を箱に片づけながら言った。俺の方は見なかった。
「外って」
俺は聞いた。脇腹に響かないように、小さい声で。
「窓、ある?」
姉さんは、すぐには答えなかった。
暗い明かりの中で、姉さんの顔がどんな形をしていたのか、俺は思い出せない。そっちを向けなかったからだ。目を合わせたら、と思った。目を合わせても、姉さんにけがはない。移すものは何もない。分かっていても、人の顔を見るのが、もう怖かった。
「あるよ。たぶん、たくさん」
姉さんはそう言って、立ち上がった。箱を拾い、ほどいた古い包帯を丸めて中に入れる。
扉の前で、姉さんは足を止めた。
「イオ」
呼ばれた。番号ではなく。
「明日は、見送りに来られないかもしれない」
どうして、と聞く前に、扉が閉まった。
明かりが、また少し暗くなった。
俺は札を握ったまま、横を向いて丸くなった。脇腹の波が来る。息を止める。数える。目の奥の痛みも、まだ引かなかった。
来られない、のと、来ない、のは、ちがう。
そのちがいを考えようとしたところで、波が大きくなった。数が、四で途切れる。
札は、もう冷たくなかった。俺は親指で、「10」の彫りを何度もなぞった。
イオ。
声に出さずに、もう一度だけ作った。それから、次の波を待った。