救護係は、目を合わせない   作:ドコサヘキサエンさん

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02話_置いていく

 揺れで、目が覚めた。

 

 体が、床ごと持ち上がって、落ちる。尻と背中に、固い板の感触。それがまた持ち上がる。目を開けても暗い。においが多すぎた。油と、ぬれた布と、錆と、知らない草のにおい。

 

 頭が重かった。腕も脚も、自分の物ではないみたいに重い。眠る前に、研究員が腕に何かを打った。それが、まだ体の中に残っている。

 

 手首を動かしてみた。縛られていない。足首も。首から下げた札だけが、胸の上で揺れている。

 

 外だ、と思った。

 

 姉さんの言った「外」の中に、俺はいる。窓はなかった。代わりに、頭の上の幌のすきまから、細い光が時々入ってきて、すぐに消えた。光のたびに、雨の粒が幌を叩く音が強くなる。

 

「起きたか」

 

 声がした。荷台の奥、積み上げた箱の陰に、男が一人、座っていた。

 

 光が入るたびに、少しずつ形が見えた。大人の男。上着の襟を立てて、膝の上に何か黒い物を載せている。銃だと分かったのは、三度目の光の時だった。

 

「薬が切れるのが早いな。まあいい。着くまで寝てろ」

 

 男は、それきり俺を見なかった。

 

 俺は、箱にもたれて座り直した。脇腹がまだ痛む。ロロの傷は、ふさがりかけている。それでも、トラックが跳ねるたびに、縫っていない傷の縁が引っぱられた。

 

 前の方から、別の男の声が聞こえる。運転している人だろう。何かを言って、舌打ちをして、ハンドルを叩く音がした。

 

「検問が、また増えてる」

 

 荷台の男が、前に向かって言った。

 

「だから山を行くんだろうが」

 

「この車でか」

 

「この車しかないんだよ。表に出せねえ荷物を、軍のトラックで運べるか」

 

 荷物。俺のことだ、と少し遅れて分かった。

 

 車が大きく傾いた。箱がずれて、俺の肩にぶつかる。男が舌打ちして、箱を押し戻した。押し戻すついでに、俺の肩をつかんで、まっすぐ座らせた。

 

「おとなしくしてろ。お前は道具だ。着いた先で、使う奴らが待ってる」

 

 使う奴ら、という言い方で、だいたい分かった。この国で仕事をしている人たち。ロロと同じ仕事をしている人たち。その人たちが傷を負って帰ってきたら、俺が呼ばれる。白い部屋が、少し遠くに移るだけだ。

 

 しばらく、だれも何も言わなかった。

 

 雨の音と、エンジンの音と、時々タイヤが何かを跳ね飛ばす音。それだけだった。

 

 喉が渇いていた。薬のせいか、口の中が、乾いた布を噛んでいるみたいにざらざらする。唾を飲もうとしても、飲む物がない。

 

 男が、ごそごそと動いた。上着の内側から、金属の水筒を出して、ふたを開ける。自分で一口飲んで、それから、黙って俺の方へ突き出した。

 

 受け取っていいのか、分からなかった。

 

「飲め。着いた時に死なれてたら、俺の責任になる」

 

 水は、ぬるかった。鉄の味がした。それでも、喉の奥まで、しみるように降りていった。二口目を飲もうとしたら、男が手を伸ばして、水筒を取り返した。

 

「それで足りる」

 

 男はふたを閉めて、水筒を内ポケットに戻した。それから、また膝の上の銃に手を置いた。

 

 俺は、男の顔を見なかった。見ないようにしていた。それでも、光が入るたびに、男の顎の下に、剃り残しの白いひげがあるのが見えた。疲れた顔だと思った。研究員たちの顔とは、ちがう疲れ方だった。

 

     *

 

 どれくらい走ったのか、分からない。

 

 幌のすきまの光が、だんだん少なくなった。代わりに、雨の音が大きくなる。道が悪くなったのか、揺れ方が変わった。小さく跳ねるのではなく、大きく左右に振られる。曲がるたびに、体が箱に押しつけられる。

 

「おい、飛ばしすぎだ」

 

 荷台の男が、前に怒鳴った。

 

「夜のうちに抜けないと、朝の巡回に引っかかる」

 

「それで崖から落ちたら、同じだろうが」

 

 運転している男は、答えなかった。代わりに、エンジンの音が高くなった。

 

 次の曲がり角で、何かがおかしくなった。

 

 右に振られるはずの体が、振られなかった。代わりに、床が、ゆっくり斜めになった。ゆっくりだった、と後で思った。本当は速かったのだと思う。でも、その時の俺には、箱が一つずつ浮き上がって、こちらに倒れてくるのが、全部見えた。

 

 だれかが叫んだ。前の男か、荷台の男か、分からない。

 

 それから、音が消えた。

 

     *

 

 気がつくと、雨が顔に当たっていた。

 

 幌が、なくなっていた。正確には、幌の布が裂けて、骨組みごと横に倒れていた。荷台が横倒しになっている。俺は、荷台の板と、地面のあいだに半分はさまって倒れていた。

 

 背中が痛い。頭も痛い。でも、手と足は動く。脇腹の傷が、また開いたのが分かった。ぬるいものが服の内側を流れている。

 

 這い出した。

 

 泥と、割れたガラスと、つぶれた草。雨のせいで、何もかもが黒く光って見えた。少し離れた所で、トラックの前の方が、木にぶつかって止まっている。運転席の窓が割れて、中が見えない。いや、見えた。見えたけれど、見ないことにした。運転していた男の腕が、窓の外に垂れていた。指の先から、雨が落ちていた。動かなかった。

 

 においがした。

 

 油のにおい。さっき荷台でかいだのと同じ。でも、ずっと強い。目にしみる。トラックの下から、黒い水たまりが広がっている。雨と混ざって、虹みたいな色の膜が浮いていた。

 

「……おい」

 

 声がした。

 

 荷台の向こう側。横倒しになった荷台の、端のあたり。

 

 荷台の男だった。

 

 仰向けに倒れている。下半身が、倒れた荷台の縁の下に入っていた。両脚の、膝から下が、板の下で、ありえない形に押しつぶされているのが分かった。それから、胸。上着の前が、黒くぬれていた。雨ではない。息をするたびに、胸の右側から、泡の混じった音がする。

 

 研究員たちが話していたのを思い出した。胸の音。泡。中まで届いている、と言っていた。あの時、言われていたのは俺の傷ではなかった。よその子の傷だった。その子は、次の日からいなかった。

 

「おい、ガキ」

 

 男が、首だけをこちらに向けた。

 

「こっちへ来い。……目を、見ろ」

 

 分かった。この人は知っている。俺が何をする道具なのか。だから、ここへ運んでいた。

 

 近づいた。足がふるえていた。男のそばにしゃがむ。雨が、男の顔を叩いている。目は開いていた。俺の方を見ている。見ようとしている。

 

 目を合わせれば、と思った。

 

 目を合わせれば、目の奥が熱くなって、印が浮かぶ。そうしたら、どれか一つを、こっちへ移せる。

 

 どれを。

 

 胸を移せば、俺が死ぬ。目を合わせなくても、それは分かった。泡の音のする傷。中まで届いている傷。あれを丸ごと引き受けたら、この雨の中で、俺は息ができなくなる。だれも、それを引き受けてはくれない。

 

 片脚の傷だけなら、移せるかもしれない。一度に移せるのは、一つだけだ。つぶれた脚は、命を持っていかない。たぶん。でも、脚を移したら、俺が歩けなくなる。この人は、脚が治っても、胸の傷で死ぬ。俺は、つぶれた脚で、燃える車のそばに残る。

 

 油のにおいが、強くなった。

 

 トラックの前の方で、小さな音がした。ぱち、と何かがはじけるような音。それから、運転席の割れた窓の奥に、オレンジ色の光が見えた。

 

「早く、しろ」

 

 男が言った。声がかすれていた。泡の音が混じる。

 

「目を、見ろ。命令だ」

 

 命令。

 

 白い部屋で、何度も聞いた言葉だった。十番、そのまま。目を離すな。命令に従うと、傷が来る。傷が来ても、だれも何も言わない。それが、道具の仕事だった。

 

 俺は、男の顔を見た。見ないように、と思いながら、見てしまいそうになった。顎の下の、剃り残しの白いひげ。水筒の、鉄の味。

 

 それで足りる、と言った声。

 

 オレンジ色の光が、大きくなった。熱が、背中の方から来る。雨が、じゅっと音を立てて蒸発する。

 

 俺は、目をそらした。

 

 男の目から。

 

 立ち上がった。男が何かを言った。聞こえなかった。聞かなかった。背中を向けて、走った。

 

 泥の中で、足がすべる。転ぶ。手をつく。割れたガラスが手のひらに刺さった。立ち上がって、また走る。斜面を下る方へ。木と木のあいだへ。暗い方へ。

 

 後ろで、音がした。

 

 音というより、空気が殴ってきた。背中を押されて、斜面を転がり落ちる。木の根に肩を打つ。泥を飲む。止まった時、上の方が、昼間みたいに明るかった。

 

 トラックが燃えていた。

 

 荷台も、箱も、裂けた幌も。俺がさっきまで寝ていた所も。荷台には、俺の上着が残っていた。出発の前に、研究員が俺の腕から血を抜いて、小さな瓶に入れていた。手当ての時に、相手の血と合うかどうか調べるのに使う、と言っていた。その瓶も、荷台の箱の中にあった。

 

 全部、燃えていた。

 

 男の声は、もう聞こえなかった。

 

 俺は、斜面の途中で、泥の中に座っていた。雨が、顔を流れていく。手のひらの切り傷から、血がにじんでいる。脇腹の傷からも。どちらも、俺の傷だった。だれかから移ってきたのではない、俺だけの傷。

 

 目の奥は、痛くなかった。

 

 使わなかったからだ。

 

     *

 

 それから何日歩いたのか、正確には分からない。

 

 川の音のする方へ下りていった。川があれば、水がある。水があれば、しばらくは生きていられる。だれに教わったのでもない。体の方が、勝手にそっちへ歩いた。

 

 燃える前に、トラックのそばの泥の中から、水筒を一つ拾っていた。荷台から投げ出されていたのだと思う。あの男の水筒だった。ふたに、小さなへこみがあった。その水筒に、川の水を汲んで歩いた。

 

 斜面を転がった時に、男の上着の、ちぎれた袖のあたりが、俺の体に引っかかっていた。袖の中から、紙に包んだ乾パンが三枚出てきた。一日に一枚ずつ食べた。四日目からは、何も食べなかった。

 

 夜は、木の根のくぼみで丸くなった。脇腹の傷は、少しずつふさがっていった。手のひらの切り傷も。ふさがっていくのを感じるたびに、研究員の声を思い出した。ふつうの速さで治るのか。何日で動けるのか。記録する人は、もういなかった。

 

 何度も、男の顔を思い出した。思い出したくなかった。思い出すと、目をそらした時の、首のねじれる感じが戻ってきた。

 

 五日目か、六日目の夕方。

 

 川沿いの道が、急に開けた。木がなくなって、坂の上に出る。風が強い。下の方に、平らな土地が広がっていた。

 

 遠くに、光があった。

 

 光の塊。白と、黄色と、少しだけ青。地面から空に向かって、四角い光がいくつも立っている。それが、夕方の暗さの中で、だんだん明るくなっていく。あれが街なのだと、本で見たことのない俺にも分かった。たくさんの人がいて、たくさんの窓がある場所。

 

 姉さん、と思った。

 

 窓、たくさん、あったよ。

 

 光の塊の手前に、もう一つ、広い場所があった。

 

 そこには、光がほとんどなかった。崩れた建物の影が、黒くぎざぎざに並んでいる。ところどころに、小さな火が見える。たき火か、ランプか。光の塊と、その暗い場所のあいだには、太い線のようなものが引かれていた。壁なのか、道なのか、遠すぎて分からなかった。

 

 どちらへ行くか、考えた。

 

 光の方には、人がたくさんいる。人がたくさんいるところには、きっと大人がいる。白い服の大人が。俺を番号で呼ぶ大人が。俺が何をする道具か知っている大人が。

 

 暗い方へ歩いた。

 

 坂を下りて、草の道を歩いて、崩れた塀の間を抜けた。足が、思うように上がらない。何度もつまずいた。水筒の水は、とっくになくなっていた。

 

 崩れた建物の陰で、膝が折れた。

 

 立ち上がろうとして、できなかった。地面のコンクリートが冷たい。頬をつけると、少しだけ気持ちよかった。

 

 足音がした。

 

 ゆっくりした足音。一人。こっちへ近づいてくる。止まる。

 

 においがした。たばこのにおい。研究員たちは、たばこを吸わなかった。知らないにおいだった。焦げた草みたいで、苦くて、少しだけ甘い。

 

「なんだい、こりゃ」

 

 女の人の声だった。かすれていて、早口で、怒っているみたいな声。

 

 顔を上げられなかった。目を開けていられなかった。目を合わせたら、と思った。目を合わせても、この人がけがをしていなければ、何も起きない。分かっていても、もう、だれの目も見たくなかった。

 

 足音が、すぐそばまで来た。しゃがむ気配。乾いた手が、俺の首に触った。脈を探す指だった。研究員と同じ場所を探している。でも、研究員より、ずっと乱暴で、ずっと温かかった。

 

 あの日、と、ずっと後になって思う。

 

 あの日、俺は初めて、自分の命を勘定に入れた。

 

 そして、それを最後にしようと決めたのは、たばこのにおいのする手に、首の脈を探されている時だった。

 

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