救護係は、目を合わせない   作:ドコサヘキサエンさん

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第1章 シンジュクの診療所
03話_目を見ない


 包帯は、煮ると白くなる。

 

 鍋の湯の中で、灰色だった布がゆっくりほどけていく。木の棒で沈めて、裏返して、また沈める。湯気が顔に当たる。朝の診療所は寒い。鍋の前に立っている時だけ、指先が温かい。

 

 奥の部屋から、たばこのにおいが流れてきた。

 

「イオ。湯、いつまで遊んでんだい」

 

「もう上げます」

 

「上げたら、窓の外に干しな。今日は晴れるよ。たぶんね」

 

 久我先生は、そう言って、また咳をした。たばこを吸いながら咳をする。やめればいいのに、と三年言い続けて、三年聞いてもらえていない。

 

 布を鍋から引き上げて、ざるに移す。湯を切る。熱い布を、指先でつまんで、窓の外に張った紐に一枚ずつかけていく。

 

 窓の外は、シンジュクゲットーだ。

 

 崩れたビルの骨組みが、朝の光の中で灰色に立っている。ガラスのない窓がいくつも並んで、その奥は暗い。路地には、昨日の雨がまだ残っていた。遠くの方に、租界の白い建物が、ここからでも見える。あの光の塊を、三年前、俺は坂の上から見た。それから一度も、近くへは行っていない。

 

 あの日から、三年がたった。

 

 倒れていた俺を拾ったのは、久我先生だった。ゲットーで診療所をやっている、闇医者。元は日本の病院の外科医だったらしい。らしい、というのは、先生が自分のことをほとんど話さないからだ。俺も、自分のことをほとんど話さない。それで、三年うまくいっている。

 

 名前を聞かれた時、イオ、と答えた。名字はない、と言ったら、先生は少し考えて、診療所の古い帳面をめくった。

 

「ハーシェル。去年、ここで死んだブリタニア人だよ。身寄りもいなかった。名字くらい、借りたって文句は言わないだろ」

 

 それで、俺は外では、イオ・ハーシェルになった。

 

 窓の下から、小さな声がした。

 

「にいちゃん。それ、旗?」

 

 ハルだった。診療所の二つ先の建物に、お母さんと二人で住んでいる八歳の子。干した包帯を見上げて、首をかしげている。

 

「包帯だよ。煮て、きれいにしたやつ」

 

「じゃあ、けがした人の旗だ」

 

 ハルは一人で納得して、うなずいた。それから、窓の下の水たまりを、わざと踏んで歩いていった。片方の靴の底が、ぱくぱく口を開けていた。先週、転んで膝をすりむいた時も、ハルは泣かなかった。消毒液がしみても、唇をかんで黙っていた。俺はその顔から、少しだけ目をそらした。痛いのに黙っている顔を、俺はよく知っている。

 

 ゲットーでは、身分証を見せろと言う人はほとんどいない。言う人がいるとしたら、軍だけだ。だから、軍が来たら隠れる。それ以外の時は、先生の手伝いをする。包帯を煮る。器具を拭く。湯を沸かす。患者の体を押さえる。傷を洗う。縫うのを手伝う。

 

 三年で、できることが増えた。

 

 増えなかったこともある。

 

 この三年、俺は一度も、あの力を使っていない。

 

     *

 

「ブリタニアの顔だ」

 

 午前中、最初の患者は、田所さんだった。

 

 七十を過ぎた、足の悪いおじいさん。左のすねに、戦争の時の古い傷がある。冬になると、そこが割れて、膿が出る。先生の薬を塗って、包帯を替えに、週に二回来る。

 

 田所さんは、診療所の戸口で、俺の顔を見るなり、いつもと同じことを言った。

 

「わしは、先生に診てもらいに来たんだ」

 

「先生は、今、奥で別の患者さんを」

 

「なら待つ」

 

「すねの包帯を替えるだけです。私がやります」

 

 田所さんは、何も言わずに、椅子に座った。座って、そっぽを向いた。それが、どうぞ、の意味だと、二年目くらいに分かった。

 

 俺は、田所さんの前にしゃがんで、すねの包帯をほどいた。

 

 顔は見ない。

 

 見るのは、包帯と、傷と、自分の手元だけだ。田所さんの顔は、たぶん、いつものように窓の方を向いている。見なくても分かる。見ないで済むのは、ありがたかった。

 

 人の目を見ない。それが、この三年で身についた、一番大きな癖だった。

 

 患者の目を見ると、怖くなる。目が合った瞬間、あの熱さが来るんじゃないか、と思う。けがをしている人と目が合えば、目の奥が熱くなって、勝手に何かが始まってしまうかもしれない。三年、一度も使っていない。だから、使い方を忘れていてほしかった。忘れていなかったら、と考えるのが怖かった。

 

 だから、患者とは、傷を見て話す。

 

 傷は正直だ。腫れていれば腫れている。膿んでいれば膿んでいる。顔とちがって、何も隠さない。

 

 古い包帯の下の傷は、先週より少しましだった。赤みが引いている。膿も少ない。傷のまわりを指の腹で押して、熱を持っていないか確かめる。足の指の先を軽くつまむ。白くなった爪が、すぐに赤く戻る。血は、足の先まで通っている。ぬるま湯で洗って、先生の軟膏を塗る。

 

「しみますか」

 

「しみん」

 

 しみているのは、すねの筋肉が硬くなったのを見れば分かる。でも、田所さんがしみないと言うなら、しみないのだ。

 

 新しい包帯を巻く。足首から上に向かって、少しずつ重ねる。きつすぎると血が止まる。ゆるいとずれる。白い部屋で、姉さんが巻いてくれた包帯を思い出す。ゆるいのに、ずれない巻き方。三年たっても、あれと同じにはならない。

 

 巻き終わってから、包帯と肌のあいだに指を一本差しこんでみる。入る。きつすぎない。

 

「終わりました。三日後に、また」

 

 田所さんは、立ち上がった。杖をついて、戸口へ向かう。

 

 礼は言わない。田所さんが礼を言ったことは、一度もない。

 

 戸口で、田所さんは、一度だけ立ち止まった。

 

「……先週より、巻き方がましだ」

 

 それだけ言って、出ていった。

 

 俺は、包帯の切れ端を拾いながら、少しだけ手が止まった。

 

 先生が、奥から顔を出した。たばこをくわえたまま。

 

「なんか言われたかい」

 

「巻き方がましだって」

 

「へえ。あのじいさんにしちゃ、上出来の褒め言葉だ」

 

 先生は、鼻で笑って、また奥へ引っこんだ。

 

     *

 

 昼を過ぎたころ、外がざわつき始めた。

 

 最初は、遠くで人が走る足音だった。それから、話し声。ゲットーの昼は静かだ。働きに出られる大人は、租界の外れの工場へ行っている。残っているのは、年寄りと、子どもと、働けない人たち。その人たちが、通りに出て、何かを言い合っている。

 

 窓から顔を出すと、隣の建物の女の人が、こっちを見上げた。

 

「軍が来てるって。テロリストを追ってるんだってさ」

 

「テロリスト?」

 

「毒ガスを盗んだ連中だって。トラックごと、このへんに逃げ込んだって」

 

 毒ガス、という言葉が、通りの声にまじって何度も聞こえた。

 

 先生が、奥から出てきた。たばこを、灰皿に押しつけて消す。

 

「戸、閉めな。窓もだ」

 

「患者さんは」

 

「来る奴は、裏から来る。表は閉めとけ」

 

 先生の声は、いつもより低かった。

 

 先生は、棚の前に立って、手早く物を数え始めた。

 

「水は」

 

「瓶に三本。鍋にも残ってます」

 

「止血帯」

 

「二本。往診かばんに一本」

 

「ガーゼは今朝の分で全部だね。……床下、空けときな。だれか運びこむかもしれない」

 

 床下の物置の板を外して、中の箱を奥へ押しやった。人ひとりが横になれるくらいの隙間ができる。三年前、軍の見回りが来た時、俺が隠れた場所だ。

 

 窓を閉めた。戸を閉めて、閂をかけた。診療所の中が暗くなる。干していた包帯を、取りこむ暇がなかった。窓の外で、白い布が、風に揺れているのが、すきまから見えた。

 

 遠くで、低い音がした。

 

 地面の下から響くような音。ずん、と一度。少し間をおいて、もう一度。窓のガラスが、かすかに鳴った。

 

「……ナイトメアだね」

 

 先生が言った。

 

 ナイトメア。軍の、人が乗って動かす、大きな機械。ゲットーに来るのは、めったにない。来る時は、何かを壊しに来る時だ。

 

 ずん、という音が、だんだん近くなる。それに、別の音がまじり始めた。

 

 ぱらぱらぱら、と、乾いた音。

 

 銃声だった。

 

 一つではなかった。あちこちから聞こえる。通りの向こう。もっと向こう。そして、悲鳴。人の、高い声。走る足音が、さっきとはちがう速さになっている。逃げる足音だった。

 

「テロリストを追ってるんじゃないね、ありゃ」

 

 先生が、戸口のすきまから外をのぞいて、つぶやいた。

 

「撃ってるのは、通りの連中だ」

 

 俺も、すきまに顔を寄せた。

 

 通りの先で、人が倒れていた。走っていた人が、急に、糸が切れたみたいに。その向こうで、もう一人。軍の服を着た兵が、銃を構えて歩いてくる。急いでいない。一軒ずつ、戸口を蹴っている。

 

 遠くで、もっと大きな音がした。

 

 建物が崩れる音。遠すぎて、どこなのか分からない。ゲットーのずっと奥の方。土煙が、ビルの向こうに上がるのが、すきまから見えた。何が起きているのか、ここからは何も分からない。ただ、ゲットー全部が、何かに襲われているのだと分かった。

 

 気がついたら、俺は医療かばんをつかんでいた。

 

 棚の下の、いつもの場所。止血帯と、包帯と、消毒液と、はさみ。先生が往診に持っていく、古い革のかばん。つかんだ手が、勝手に動いていた。

 

「どこ行く気だい」

 

 先生の声が、背中に刺さった。

 

「外です」

 

「出るな」

 

 先生は、戸の前に立った。俺より背が低い。たばこのにおいがする。

 

「出たら、撃たれる。あんたはブリタニアの顔だ。兵に見つかりゃ、なんでこんなところにいるのか聞かれる。日本人に見つかりゃ、ブリタニアの回し者だと思われる。どっちに見つかっても、ろくなことにならない」

 

 分かっていた。全部、先生の言うとおりだった。

 

 でも、通りで、人が倒れていた。

 

 倒れた人の中には、まだ息をしている人がいるかもしれない。血が出ていても、押さえれば止まる人がいるかもしれない。押さえる人がいなければ、止まらない。

 

「倒れてる人がいます」

 

「知ってるよ」

 

「押さえれば、止まるかもしれない」

 

 先生は、俺の顔を見上げた。

 

 俺は、先生の目を見なかった。見られなかった。先生の、肩のあたりを見ていた。肩の向こうの、戸の閂を。

 

 先生は、長い息を吐いた。

 

 それから、舌打ちをした。大きな舌打ちだった。

 

「……馬鹿だね。あんたも、あたしも」

 

 先生は、くわえていない方の手で、棚から自分の往診かばんを取った。新しいたばこを一本くわえて、火はつけずに、閂を外した。

 

「あたしの後ろを歩きな。勝手に走るんじゃないよ」

 

「はい」

 

 戸を開けた。

 

 外の空気は、さっきとちがうにおいがした。土煙と、何かが焼けるにおいと、知っているにおい。白い部屋で、担架が入ってくる前にかいだにおい。

 

 血のにおいだった。

 

 通りに出た。先生が先に立つ。俺は後ろにつく。ずん、という音が、また地面を揺らす。崩れた塀の向こう、人の背丈の倍ほどの高さを、機械の頭がゆっくり横切った。

 

 通りの先の方を見た。

 

 さっきの兵が、まだいた。銃を構えている。その銃口の先に、だれかがいた。

 

 杖をついている。足を引きずっている。逃げようとして、逃げきれていない。崩れた塀の角で、杖が瓦礫に引っかかって、膝をついた。

 

 田所さんだった。

 

 三日後に、また、と言ったばかりだった。

 

 兵の銃口が、ゆっくり、そちらへ向いた。

 

 先生が、何か叫んだ。聞こえなかった。

 

 あたしの後ろを歩きな、と言われていた。勝手に走るなと。分かっていた。全部、分かっていた。

 

 俺は、走り出していた。

 

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