救護係は、目を合わせない   作:ドコサヘキサエンさん

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04話_三年ぶり

 銃声は、俺が田所さんに届く前に鳴った。

 

 一発。乾いた音。田所さんの体が、塀の角で小さく跳ねた。杖が、瓦礫の上を転がっていく。

 

 兵は、それを見届けると、銃を下ろした。腰の無線が何かを言った。兵は短く答えて、通りの反対側へ歩いていった。急いでいなかった。次の戸口を蹴る音が、遠ざかっていった。

 

 俺は、田所さんの脇の下に腕を入れて、崩れた建物の陰まで引きずった。重かった。人の体は、力が抜けると、こんなに重い。

 

「田所さん」

 

 返事はなかった。息は、あった。浅くて、速い。

 

 上着の前を開けた。みぞおちの少し下に、穴があいていた。小さな穴だった。体を少し傾けて、背中を見た。背中側にも、裂けた穴があった。そこから流れた血が、地面のくぼみにたまっている。

 

 弾は、腹の中を通って、抜けていた。

 

 かばんから布を出して、畳んで、腹の穴に当てた。片手で押さえる。押さえても、田所さんの顔の色は戻らなかった。腹の中で流れている血までは、手では止められない。先生がいても、ここには手術台も、輸血の瓶もない。三年、先生の横で見てきた。この傷は、ここでは助からない傷だった。

 

 目を合わせれば、と思いかけて、やめた。助からない傷を移せば、俺も助からない。

 

 片手で腹を押さえたまま、もう片方の手で、田所さんの手を握った。田所さんの手は、乾いていた。指の節が太くて、爪が割れている。握ると、少しだけ握り返してきた。

 

 田所さんは、目を開けていた。でも、俺の方を見なかった。

 

 空を見ていた。崩れたビルの骨組みのあいだの、細い空を。あるいは、もっと遠くの何かを。

 

「……ブリタニアの、顔だな」

 

 かすれた声だった。

 

「はい」

 

「わしは、先生に、診てもらいに来たんだ」

 

「先生も、すぐ来ます」

 

 嘘だった。先生がどこにいるのか、俺には分からなかった。

 

 田所さんは、少しだけ口の端を動かした。笑ったのか、痛かったのか、分からなかった。

 

「……巻き方が、ましに、なった」

 

 それが最後だった。

 

 息が、一つ、長く出ていって、次が来なかった。握っていた手から、力が抜けた。

 

 田所さんは、最後まで、俺の目を見なかった。

 

 それでよかったのか、悪かったのか、分からない。分からないまま、俺は田所さんの目を、手のひらでそっと閉じた。

 

     *

 

「イオ!」

 

 先生の声が、通りの方から飛んできた。

 

 振り返ると、先生が建物の陰から手招きしている。先生の足元に、女の人が座りこんでいた。腕から血を流している。

 

「じいさんは」

 

 俺は、首を横に振った。

 

 先生は、一瞬だけ、田所さんの方を見た。それから、たばこを吐き捨てるみたいに息を吐いた。

 

「……そうかい。なら、こっちだ。手を貸しな」

 

 それから、どれくらいの時間がたったのか、分からない。

 

 先生と二人で、路地を回った。倒れている人を見つける。息があるか確かめる。血が出ていれば押さえる。縛る。動かせる人は、崩れた建物の地下や、壁の厚い所へ運ぶ。隠す。兵の足音が近づいたら、息を殺す。遠ざかったら、また動く。

 

 かすり傷の人もいた。もう息をしていない人もいた。どちらでもない人もいた。先生は、どちらでもない人の前で、一番長く手を動かした。俺は、その人の体を押さえたり、包帯を渡したり、先生の言う場所を指で押したりした。

 

 顔は、見なかった。

 

 傷と、手元だけを見ていた。見ないで済むのが、ありがたかった。

 

 ナイトメアの足音が、ゲットーのあちこちで鳴り続けている。ずん、という音が近づくたびに、地面が震えた。遠くで、また何かが崩れた。

 

 崩れかけた商店の裏で、一人で傷を押さえていた時だった。

 

 足音がした。速い足音。兵の靴ではなかった。

 

 若い男が、倒れこむように駆けこんできた。日本人だった。二十歳くらい。汚れた作業着の上に、軍の物ではない防弾の胴着を着ている。手に、拳銃を持っていた。

 

 右の肩から、血が出ていた。

 

 男は、俺を見て、銃を向けかけた。それから、俺の顔をもう一度見て、ぎょっとした顔をした。

 

「……ブリタニア人?」

 

「医者の手伝いです。肩、見せてください」

 

「なんでブリキ野郎がこんな所に」

 

「肩を」

 

 男は、俺の手元の包帯と、血のついた指を見た。それから、舌打ちをして、銃を下ろした。

 

 傷を見た。肩の上の方、鎖骨の外側。弾がかすめて、肉を浅くえぐっている。骨には当たっていない。血は出ているけれど、押さえれば止まる。

 

 消毒液をかけると、男は歯を食いしばった。ガーゼを当てて、包帯をきつく巻く。肩は巻きにくい。脇の下を通して、反対の脇へ回す。

 

「仲間とはぐれた」

 

 男は、巻かれながら、だれに言うでもなく言った。

 

「無線が……どっかから、指示が来てんだよ。その通りに動いたら、勝てるかもしれねえって」

 

 何の話か、分からなかった。分からないまま、包帯の端を留めた。

 

「終わりです。しばらく腕を上げないで」

 

「上げなきゃ撃てねえだろ」

 

 男は立ち上がった。肩を一度回して、顔をしかめた。それから、拳銃を握り直して、商店の裏口から外をうかがった。

 

「……あんがとよ、ブリキ野郎」

 

 そう言って、走っていった。戦いの音のする方へ。

 

 手当てをしても、戻っていく人がいる。戻っていく先で、また撃たれるかもしれない。そうしたら、だれかがまた押さえる。押さえる人がいなければ、そこで終わる。

 

 考えている暇はなかった。

 

     *

 

 泣き声が聞こえないのに気づいたのは、その少し後だった。

 

 路地の奥。崩れた階段の下。小さな体が、横向きに丸まっていた。

 

 ハルだった。

 

 診療所に、よく来る子だ。八歳。お母さんと二人で、診療所の二つ先の建物に住んでいる。転んで膝をすりむいた時も、熱を出した時も、ハルは泣かなかった。痛くても、声を出さない。俺は、それを見るたびに、少しだけ目をそらしたくなった。

 

 今も、ハルは泣いていなかった。

 

 右の太ももの付け根に近い所が、ズボンの上から真っ黒に濡れていた。地面にも、広がっている。広がり方が、速い。

 

「ハル」

 

 しゃがんで、ズボンをはさみで切った。

 

 穴が、二つあった。前と、少し外側。弾は、抜けている。それはよかった。よくなかったのは、穴から出てくる血の色と、出方だった。暗い赤ではない。明るい赤が、脈に合わせて、どく、どく、と押し出されてくる。

 

 太い血の管が、切れている。

 

 止血帯を出した。でも、巻く場所がなかった。傷が、脚の付け根に近すぎる。止血帯は、傷より体に近い側に巻かないと効かない。ここでは、その「体に近い側」が、もうほとんど残っていなかった。

 

 両手を重ねて、傷に押しつけた。体重をかける。

 

 ハルが、小さく体をよじった。声は出さない。脚が、ばたつく。押さえた手の下から、血がにじみ出てくる。止まらない。八歳の細い脚に、どこまで体重をかけていいのか、分からなかった。かけすぎたら、骨が折れるかもしれない。かけなければ、止まらない。

 

 手の下で、ハルの脚が、だんだん冷たくなっていく気がした。

 

「先生!」

 

 叫んだ。返事はなかった。先生は、通りの向こうで、別のだれかを診ている。ここからは遠い。

 

 ハルの唇の色が、変わっていく。紙みたいに白い。白い部屋で見た、ロロの顔と同じ色。

 

 使えば、と思った。

 

 三年、使っていない。忘れていてほしかった。でも、忘れていないことは、たぶん、ずっと分かっていた。

 

 使えば、ハルの傷は消える。俺の脚に、同じ傷が開く。同じ場所に。同じだけ血が出る。

 

 でも、俺の脚なら。

 

 自分の脚なら、遠慮なく体重をかけられる。骨が折れたって、俺の骨だ。ばたつく脚を押さえる必要もない。俺の脚は、俺が言えば動かない。

 

 それに、見られるかもしれない。だれかに。兵に。この路地のどこかにいる、だれかに。三年隠してきたものが、ここで見つかるかもしれない。見つかったら、白い部屋の大人たちに届くかもしれない。

 

 ハルの目が、うっすらと開いた。

 

 焦点が合っていなかった。でも、俺の方を向いていた。泣いていない。こんな時まで、泣かない。

 

「……にいちゃん」

 

 ハルは、俺をそう呼ぶ。最初からそうだった。ブリタニアの顔だとも、ハーシェルだとも呼ばない。

 

 俺は、ハルの目を見た。

 

 三年ぶりに、人の目を、正面から。

 

 目の奥が、熱くなった。

 

 忘れていなかった。内側から指で押されるような熱さ。それが目の表面まで上がってきて、何かが開く。ハルの濡れた目の中に、赤い印が小さく映った。

 

 ハルの傷の重さが、ぼんやり伝わってくる。深い。放っておけば、ハルの命を持っていく。けれど、傷そのものは、すぐに押さえればまだ止められる。田所さんの傷とは、ちがう。

 

 来た。

 

 右の太ももの付け根に、焼けた杭を打ちこまれたみたいだった。

 

 熱いのと、冷たいのと、痛いのが、一度に来て、どれがどれだか分からなかった。膝が勝手に折れて、地面に尻をついた。ズボンの内側を、ぬるいものが、すごい勢いで流れていく。どく、どく、と、自分の心臓の音に合わせて。

 

 声は、出さなかった。

 

 はさみで、自分のズボンも切った。穴が二つ。前の穴の方が、脈に合わせて血を吐いている。指を入れて、いちばん強く噴く場所を押さえる。空いた手でガーゼをつかみ、奥から詰めた。視界が白くなる。それでも詰める。もう入らなくなるまで押しこんで、上に残りを重ね、両手を重ねた。地面に横になって、肩ごと体重をかけた。

 

 自分の脚なら、遠慮しなくていい。

 

 痛みが、頭のてっぺんまで突き抜けた。息が止まる。止めたまま、数を数えた。一、二、三。四で、目の前が暗くなりかける。五。六。数分は、手を離してはいけない。先生がそう言っていた。百まで数えて、もう一度、百まで。

 

 どく、どく、という流れが、少しずつ、弱くなっていった。

 

 手の下で、ガーゼが重く湿っている。でも、あふれては来ない。

 

 目の奥が、痛み始めた。三年ぶりの、あの鈍い痛み。目玉の裏を、太い指でずっと押されているような。忘れていなかった。

 

 顔を上げると、ハルが、上半身を起こしていた。

 

 自分の脚を見ている。切られたズボンの下、血でまっ赤に汚れた肌。でも、そこにあったはずの穴は、もうない。血の跡だけが残っている。

 

 ハルは、ふるえていた。

 

 歯が、かちかちと鳴っている。唇は白いままだ。傷は消えても、流れた血は戻らない。ハルの体の中から出ていった分は、地面に吸われて、もう戻ってこない。

 

 この力で、終わりではなかった。

 

「にいちゃん……寒い」

 

 ハルが言った。初めて、ハルの口から、弱音を聞いた。

 

「寒いな。……すぐ、先生が来る」

 

 今度は、嘘ではなかった。路地の入り口に、足音がしていた。

 

     *

 

 先生は、何も聞かなかった。

 

 路地に駆けこんできて、ハルを見て、俺を見た。地面の血だまりを見た。ハルの脚の、穴のない血の跡を見た。俺の脚の、両手の下でつぶれているガーゼを見た。

 

 見ただけだった。

 

 先生は、ハルの横にしゃがみこんで、すぐに手を動かし始めた。自分の上着を脱いで、ハルの体にかける。ハルの両脚を、崩れた階段の段に乗せて、高くする。往診かばんから、細い管と、平たい袋を出す。ハルの腕の血管を探して、針を刺す。袋を、俺に渡した。

 

「持ってな。高く」

 

 点滴だった。先生が、いつも往診かばんの底に一つだけ入れている物。

 

 俺は、寝転がったまま片手で自分のガーゼを押さえ、もう片方の手で点滴の袋を高く持った。腕がふるえた。先生が、ハルの体をさすりながら、何か低い声で話しかけている。ハルの歯の音が、少しずつ小さくなっていった。

 

 しばらくして、先生が、俺の方を見ないまま、言った。

 

「ほら」

 

 投げてよこしたのは、崩れた建物から引き抜いたらしい、長い木の棒だった。

 

「杖の代わりだ。その脚じゃ、まっすぐ歩けないだろ」

 

 それだけだった。どうしてその脚になったのかも、ハルの傷がどこへ行ったのかも、先生は聞かなかった。

 

 先生は、自分のかばんから、厚い当て布と包帯を出した。俺のガーゼの上に当て布を盛り、太ももから腰へ、骨盤を回すようにして、手早く、きつく巻いた。ゆるくなくて、ずれない。姉さんとはちがう巻き方だった。

 

「動くんじゃないよ。動いたら、また開く」

 

 その時、音が変わった。

 

 銃声が、止んだ。

 

 ナイトメアの足音も、止んだ。急に、ゲットー全部が、息を止めたみたいに静かになった。

 

 遠くの通りで、軍の車が止まる音がした。車の上の拡声器から、男の声が流れてくる。割れた音で、よく聞き取れない。ただ、言葉の端が、何度も繰り返された。戦闘を、停止せよ。総督の、名において。

 

 だれも、すぐには動かなかった。

 

 しばらくして、どこかで、だれかが泣き始めた。それが合図だったみたいに、あちこちから、声が聞こえ始めた。名前を呼ぶ声。泣く声。だれかを探す声。

 

 先生は、ハルの脚をさすっていた手を止めて、長い息を吐いた。

 

「……休みな」

 

 俺に言ったのだと分かった。

 

「あんたはもう、十分働いた。ハルはあたしが診てる。そこで横になってな。その棒は、ハルを家まで運ぶ時に、あたしにつかまって歩くための物だ。勘違いするんじゃないよ」

 

 先生は、ハルの点滴の落ち方を見ながら、俺の方は見なかった。

 

 俺は、木の棒を握った。

 

 包帯の下は、まだ重い。脚の付け根が、心臓の音に合わせて痛む。目の奥も痛い。三年ぶりの痛みが、二つ。立ち上がったら、目の前が暗くなるかもしれない。

 

 それでも、路地の外では、まだ名前を呼ぶ声がしていた。

 

 呼んでも返事のない人の中に、まだ間に合う人がいるかもしれない。

 

 包帯の結び目に、手を当てた。濡れていない。棒を地面について、体を持ち上げる。目の前が、一度だけ白くなって、戻ってきた。

 

 先生は、ハルの腕の針を留め直していた。両手がふさがっていた。

 

 俺は、棒をついて、路地の外へ出た。

 

「イオ! この馬鹿、戻りな!」

 

 背中に、先生の声が飛んできた。先生は、ハルのそばを離れられない。分かっていて、俺は振り返らなかった。

 

 それが、先生を一番怒らせるやり方だと知っていて。

 

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