銃声は、俺が田所さんに届く前に鳴った。
一発。乾いた音。田所さんの体が、塀の角で小さく跳ねた。杖が、瓦礫の上を転がっていく。
兵は、それを見届けると、銃を下ろした。腰の無線が何かを言った。兵は短く答えて、通りの反対側へ歩いていった。急いでいなかった。次の戸口を蹴る音が、遠ざかっていった。
俺は、田所さんの脇の下に腕を入れて、崩れた建物の陰まで引きずった。重かった。人の体は、力が抜けると、こんなに重い。
「田所さん」
返事はなかった。息は、あった。浅くて、速い。
上着の前を開けた。みぞおちの少し下に、穴があいていた。小さな穴だった。体を少し傾けて、背中を見た。背中側にも、裂けた穴があった。そこから流れた血が、地面のくぼみにたまっている。
弾は、腹の中を通って、抜けていた。
かばんから布を出して、畳んで、腹の穴に当てた。片手で押さえる。押さえても、田所さんの顔の色は戻らなかった。腹の中で流れている血までは、手では止められない。先生がいても、ここには手術台も、輸血の瓶もない。三年、先生の横で見てきた。この傷は、ここでは助からない傷だった。
目を合わせれば、と思いかけて、やめた。助からない傷を移せば、俺も助からない。
片手で腹を押さえたまま、もう片方の手で、田所さんの手を握った。田所さんの手は、乾いていた。指の節が太くて、爪が割れている。握ると、少しだけ握り返してきた。
田所さんは、目を開けていた。でも、俺の方を見なかった。
空を見ていた。崩れたビルの骨組みのあいだの、細い空を。あるいは、もっと遠くの何かを。
「……ブリタニアの、顔だな」
かすれた声だった。
「はい」
「わしは、先生に、診てもらいに来たんだ」
「先生も、すぐ来ます」
嘘だった。先生がどこにいるのか、俺には分からなかった。
田所さんは、少しだけ口の端を動かした。笑ったのか、痛かったのか、分からなかった。
「……巻き方が、ましに、なった」
それが最後だった。
息が、一つ、長く出ていって、次が来なかった。握っていた手から、力が抜けた。
田所さんは、最後まで、俺の目を見なかった。
それでよかったのか、悪かったのか、分からない。分からないまま、俺は田所さんの目を、手のひらでそっと閉じた。
*
「イオ!」
先生の声が、通りの方から飛んできた。
振り返ると、先生が建物の陰から手招きしている。先生の足元に、女の人が座りこんでいた。腕から血を流している。
「じいさんは」
俺は、首を横に振った。
先生は、一瞬だけ、田所さんの方を見た。それから、たばこを吐き捨てるみたいに息を吐いた。
「……そうかい。なら、こっちだ。手を貸しな」
それから、どれくらいの時間がたったのか、分からない。
先生と二人で、路地を回った。倒れている人を見つける。息があるか確かめる。血が出ていれば押さえる。縛る。動かせる人は、崩れた建物の地下や、壁の厚い所へ運ぶ。隠す。兵の足音が近づいたら、息を殺す。遠ざかったら、また動く。
かすり傷の人もいた。もう息をしていない人もいた。どちらでもない人もいた。先生は、どちらでもない人の前で、一番長く手を動かした。俺は、その人の体を押さえたり、包帯を渡したり、先生の言う場所を指で押したりした。
顔は、見なかった。
傷と、手元だけを見ていた。見ないで済むのが、ありがたかった。
ナイトメアの足音が、ゲットーのあちこちで鳴り続けている。ずん、という音が近づくたびに、地面が震えた。遠くで、また何かが崩れた。
崩れかけた商店の裏で、一人で傷を押さえていた時だった。
足音がした。速い足音。兵の靴ではなかった。
若い男が、倒れこむように駆けこんできた。日本人だった。二十歳くらい。汚れた作業着の上に、軍の物ではない防弾の胴着を着ている。手に、拳銃を持っていた。
右の肩から、血が出ていた。
男は、俺を見て、銃を向けかけた。それから、俺の顔をもう一度見て、ぎょっとした顔をした。
「……ブリタニア人?」
「医者の手伝いです。肩、見せてください」
「なんでブリキ野郎がこんな所に」
「肩を」
男は、俺の手元の包帯と、血のついた指を見た。それから、舌打ちをして、銃を下ろした。
傷を見た。肩の上の方、鎖骨の外側。弾がかすめて、肉を浅くえぐっている。骨には当たっていない。血は出ているけれど、押さえれば止まる。
消毒液をかけると、男は歯を食いしばった。ガーゼを当てて、包帯をきつく巻く。肩は巻きにくい。脇の下を通して、反対の脇へ回す。
「仲間とはぐれた」
男は、巻かれながら、だれに言うでもなく言った。
「無線が……どっかから、指示が来てんだよ。その通りに動いたら、勝てるかもしれねえって」
何の話か、分からなかった。分からないまま、包帯の端を留めた。
「終わりです。しばらく腕を上げないで」
「上げなきゃ撃てねえだろ」
男は立ち上がった。肩を一度回して、顔をしかめた。それから、拳銃を握り直して、商店の裏口から外をうかがった。
「……あんがとよ、ブリキ野郎」
そう言って、走っていった。戦いの音のする方へ。
手当てをしても、戻っていく人がいる。戻っていく先で、また撃たれるかもしれない。そうしたら、だれかがまた押さえる。押さえる人がいなければ、そこで終わる。
考えている暇はなかった。
*
泣き声が聞こえないのに気づいたのは、その少し後だった。
路地の奥。崩れた階段の下。小さな体が、横向きに丸まっていた。
ハルだった。
診療所に、よく来る子だ。八歳。お母さんと二人で、診療所の二つ先の建物に住んでいる。転んで膝をすりむいた時も、熱を出した時も、ハルは泣かなかった。痛くても、声を出さない。俺は、それを見るたびに、少しだけ目をそらしたくなった。
今も、ハルは泣いていなかった。
右の太ももの付け根に近い所が、ズボンの上から真っ黒に濡れていた。地面にも、広がっている。広がり方が、速い。
「ハル」
しゃがんで、ズボンをはさみで切った。
穴が、二つあった。前と、少し外側。弾は、抜けている。それはよかった。よくなかったのは、穴から出てくる血の色と、出方だった。暗い赤ではない。明るい赤が、脈に合わせて、どく、どく、と押し出されてくる。
太い血の管が、切れている。
止血帯を出した。でも、巻く場所がなかった。傷が、脚の付け根に近すぎる。止血帯は、傷より体に近い側に巻かないと効かない。ここでは、その「体に近い側」が、もうほとんど残っていなかった。
両手を重ねて、傷に押しつけた。体重をかける。
ハルが、小さく体をよじった。声は出さない。脚が、ばたつく。押さえた手の下から、血がにじみ出てくる。止まらない。八歳の細い脚に、どこまで体重をかけていいのか、分からなかった。かけすぎたら、骨が折れるかもしれない。かけなければ、止まらない。
手の下で、ハルの脚が、だんだん冷たくなっていく気がした。
「先生!」
叫んだ。返事はなかった。先生は、通りの向こうで、別のだれかを診ている。ここからは遠い。
ハルの唇の色が、変わっていく。紙みたいに白い。白い部屋で見た、ロロの顔と同じ色。
使えば、と思った。
三年、使っていない。忘れていてほしかった。でも、忘れていないことは、たぶん、ずっと分かっていた。
使えば、ハルの傷は消える。俺の脚に、同じ傷が開く。同じ場所に。同じだけ血が出る。
でも、俺の脚なら。
自分の脚なら、遠慮なく体重をかけられる。骨が折れたって、俺の骨だ。ばたつく脚を押さえる必要もない。俺の脚は、俺が言えば動かない。
それに、見られるかもしれない。だれかに。兵に。この路地のどこかにいる、だれかに。三年隠してきたものが、ここで見つかるかもしれない。見つかったら、白い部屋の大人たちに届くかもしれない。
ハルの目が、うっすらと開いた。
焦点が合っていなかった。でも、俺の方を向いていた。泣いていない。こんな時まで、泣かない。
「……にいちゃん」
ハルは、俺をそう呼ぶ。最初からそうだった。ブリタニアの顔だとも、ハーシェルだとも呼ばない。
俺は、ハルの目を見た。
三年ぶりに、人の目を、正面から。
目の奥が、熱くなった。
忘れていなかった。内側から指で押されるような熱さ。それが目の表面まで上がってきて、何かが開く。ハルの濡れた目の中に、赤い印が小さく映った。
ハルの傷の重さが、ぼんやり伝わってくる。深い。放っておけば、ハルの命を持っていく。けれど、傷そのものは、すぐに押さえればまだ止められる。田所さんの傷とは、ちがう。
来た。
右の太ももの付け根に、焼けた杭を打ちこまれたみたいだった。
熱いのと、冷たいのと、痛いのが、一度に来て、どれがどれだか分からなかった。膝が勝手に折れて、地面に尻をついた。ズボンの内側を、ぬるいものが、すごい勢いで流れていく。どく、どく、と、自分の心臓の音に合わせて。
声は、出さなかった。
はさみで、自分のズボンも切った。穴が二つ。前の穴の方が、脈に合わせて血を吐いている。指を入れて、いちばん強く噴く場所を押さえる。空いた手でガーゼをつかみ、奥から詰めた。視界が白くなる。それでも詰める。もう入らなくなるまで押しこんで、上に残りを重ね、両手を重ねた。地面に横になって、肩ごと体重をかけた。
自分の脚なら、遠慮しなくていい。
痛みが、頭のてっぺんまで突き抜けた。息が止まる。止めたまま、数を数えた。一、二、三。四で、目の前が暗くなりかける。五。六。数分は、手を離してはいけない。先生がそう言っていた。百まで数えて、もう一度、百まで。
どく、どく、という流れが、少しずつ、弱くなっていった。
手の下で、ガーゼが重く湿っている。でも、あふれては来ない。
目の奥が、痛み始めた。三年ぶりの、あの鈍い痛み。目玉の裏を、太い指でずっと押されているような。忘れていなかった。
顔を上げると、ハルが、上半身を起こしていた。
自分の脚を見ている。切られたズボンの下、血でまっ赤に汚れた肌。でも、そこにあったはずの穴は、もうない。血の跡だけが残っている。
ハルは、ふるえていた。
歯が、かちかちと鳴っている。唇は白いままだ。傷は消えても、流れた血は戻らない。ハルの体の中から出ていった分は、地面に吸われて、もう戻ってこない。
この力で、終わりではなかった。
「にいちゃん……寒い」
ハルが言った。初めて、ハルの口から、弱音を聞いた。
「寒いな。……すぐ、先生が来る」
今度は、嘘ではなかった。路地の入り口に、足音がしていた。
*
先生は、何も聞かなかった。
路地に駆けこんできて、ハルを見て、俺を見た。地面の血だまりを見た。ハルの脚の、穴のない血の跡を見た。俺の脚の、両手の下でつぶれているガーゼを見た。
見ただけだった。
先生は、ハルの横にしゃがみこんで、すぐに手を動かし始めた。自分の上着を脱いで、ハルの体にかける。ハルの両脚を、崩れた階段の段に乗せて、高くする。往診かばんから、細い管と、平たい袋を出す。ハルの腕の血管を探して、針を刺す。袋を、俺に渡した。
「持ってな。高く」
点滴だった。先生が、いつも往診かばんの底に一つだけ入れている物。
俺は、寝転がったまま片手で自分のガーゼを押さえ、もう片方の手で点滴の袋を高く持った。腕がふるえた。先生が、ハルの体をさすりながら、何か低い声で話しかけている。ハルの歯の音が、少しずつ小さくなっていった。
しばらくして、先生が、俺の方を見ないまま、言った。
「ほら」
投げてよこしたのは、崩れた建物から引き抜いたらしい、長い木の棒だった。
「杖の代わりだ。その脚じゃ、まっすぐ歩けないだろ」
それだけだった。どうしてその脚になったのかも、ハルの傷がどこへ行ったのかも、先生は聞かなかった。
先生は、自分のかばんから、厚い当て布と包帯を出した。俺のガーゼの上に当て布を盛り、太ももから腰へ、骨盤を回すようにして、手早く、きつく巻いた。ゆるくなくて、ずれない。姉さんとはちがう巻き方だった。
「動くんじゃないよ。動いたら、また開く」
その時、音が変わった。
銃声が、止んだ。
ナイトメアの足音も、止んだ。急に、ゲットー全部が、息を止めたみたいに静かになった。
遠くの通りで、軍の車が止まる音がした。車の上の拡声器から、男の声が流れてくる。割れた音で、よく聞き取れない。ただ、言葉の端が、何度も繰り返された。戦闘を、停止せよ。総督の、名において。
だれも、すぐには動かなかった。
しばらくして、どこかで、だれかが泣き始めた。それが合図だったみたいに、あちこちから、声が聞こえ始めた。名前を呼ぶ声。泣く声。だれかを探す声。
先生は、ハルの脚をさすっていた手を止めて、長い息を吐いた。
「……休みな」
俺に言ったのだと分かった。
「あんたはもう、十分働いた。ハルはあたしが診てる。そこで横になってな。その棒は、ハルを家まで運ぶ時に、あたしにつかまって歩くための物だ。勘違いするんじゃないよ」
先生は、ハルの点滴の落ち方を見ながら、俺の方は見なかった。
俺は、木の棒を握った。
包帯の下は、まだ重い。脚の付け根が、心臓の音に合わせて痛む。目の奥も痛い。三年ぶりの痛みが、二つ。立ち上がったら、目の前が暗くなるかもしれない。
それでも、路地の外では、まだ名前を呼ぶ声がしていた。
呼んでも返事のない人の中に、まだ間に合う人がいるかもしれない。
包帯の結び目に、手を当てた。濡れていない。棒を地面について、体を持ち上げる。目の前が、一度だけ白くなって、戻ってきた。
先生は、ハルの腕の針を留め直していた。両手がふさがっていた。
俺は、棒をついて、路地の外へ出た。
「イオ! この馬鹿、戻りな!」
背中に、先生の声が飛んできた。先生は、ハルのそばを離れられない。分かっていて、俺は振り返らなかった。
それが、先生を一番怒らせるやり方だと知っていて。