棒をつくたびに、脚の付け根が鳴った。
音がするわけではない。でも、鳴っている、としか言いようがなかった。棒を前に出す。体重をのせる。右脚を引きずって前へ。そのたびに、先生の巻いた包帯の下で、傷が心臓と同じ速さで脈を打つ。どく。どく。ハルの脚から移ってきた、明るい赤の音。
包帯の上から手で触れてみた。まだ濡れていない。先生の巻き方は、きつくて、ずれない。それでも、急に動いたら、また開く。先生がそう言った。分かっていて、出てきた。
十歩ごとに、立ち止まって包帯に触る。濡れていないか。それから、自分の手首の脈を数える。速い。さっきより、また少し速い。額の汗が、冷たかった。
日が傾いていた。
ゲットーは、さっきまでとちがう静かさだった。戦いの音が消えた後の静かさ。その中に、名前を呼ぶ声が、あちこちに浮いている。返事のある声もある。ない声もある。
息のある人を見つけたら、先生のいる路地へ知らせる。それだけ決めて、俺は奥へ歩いた。
途中で三人、見つけた。一人は、足をくじいて動けなくなっていた女の人。家族が探しに来て、背負っていった。一人は、もう冷たくなっていた。
三人目は、崩れた壁の下で、まだ息をしていた。四十くらいの男の人。腰から下が、コンクリートの板の下に入っている。呼ぶと、目を開けて、うめいた。
板に手をかけて、やめた。俺の脚では、持ち上げられない。持ち上げようとして踏んばったら、俺の傷が開く。開いたら、ここで倒れるのが二人になる。
通りに出て、声を張った。手を貸してください、と。日本語で。ブリタニアの顔で。三人目の男の人の名前を呼んでいた女の人が、走ってきた。その後ろから、男の人が二人。
「頭は動かさないで。首を、そのまま」
自分の声が、先生の声に似ているのに気づいた。
「板は、一度に上げてください。少しずつだと、下の人がまた潰れる。上げたら、引きずらずに、戸板に乗せて。シンジュクの診療所の、久我先生の所へ」
男の人たちは、俺の顔を一度だけ見た。それから、何も言わずに、板の両端に手をかけた。
俺は、棒をついたまま、それを見ていることしかできなかった。手を出せば、手伝えば、と体が前に出かける。そのたびに、脚の付け根の脈が、やめろと言った。
だれも、俺の顔のことは言わなかった。それどころではなかったのだと思う。
*
ゲットーの奥へ行くほど、建物の崩れ方がひどくなった。
ナイトメアが通った跡だ。塀が、上から押しつぶされたように倒れている。道路に、大きな足の形のくぼみがいくつも並んでいた。そのくぼみの中に、雨水と、油と、何か赤い物がたまっている。見ないで通り過ぎた。
地下へ下りる階段の口が、瓦礫のあいだに見えた。
昔の、地下を走る電車の通路だと、先生が前に言っていた。戦争の後、だれも使っていない。ゲットーの子どもが、時々中へ入って遊んで、先生に怒られる。
階段の口のそばに、半分崩れた建物があった。壁が二面だけ残って、天井の一部が落ちている。中は、夕方の光の中で薄暗かった。
においがした。
血のにおい。それと、焦げた鉄のにおい。撃ったばかりの銃のにおいだった。
棒をついて、壁の切れ目から中をのぞいた。
兵が、倒れていた。
一人ではなかった。四人、五人。もっと。ブリタニアの兵の服を着た男たちが、床のあちこちに倒れている。銃を持ったまま。みんな、同じような向きで。
近づいた。息を確かめなければ、と思った。兵でも。
一人目の首に指を当てた。冷たかった。脈はなかった。
傷を見た。こめかみに、穴があいていた。その人の右手が、銃を握ったまま、顔の横に落ちていた。銃口が、こめかみの方を向いている。
自分で、撃ったのだ。
二人目も、同じだった。三人目も。銃の向きと、傷の場所が、みんな同じだった。だれかに撃たれたのではない。全員が、自分の銃で、自分を撃っている。
どうして。
分からなかった。兵たちの顔は、どれも、驚いたような形のまま固まっていた。怖がっている顔ではなかった。泣いている顔でもない。自分が何をしているのか分からないまま、何かをした顔。
背中が、冷たくなった。
理由は分からない。分からないのに、知っている気がした。こういうことができる力が、世界のどこかにあると。研究員たちが、ひそひそ話していた。人の体に、人の心に、何かをさせる力。俺のとは、ちがう種類の力。
ここで何かが起きた。理由を考えるより先に、奥の白い服が目に入った。
*
倒れた兵たちの奥に、もう一人いた。
兵の服ではなかった。白い、体にぴったりした服を着ている。袖が長くて、腕を体の前で縛れるようになっている。暴れる子どもに研究員が着せていた服に、似ていた。
女の子だった。
俺より、少し上くらいに見える。緑色の長い髪が、床の血だまりの上に広がっていた。仰向けに倒れている。目は、閉じていた。
額の、真ん中に、穴があいていた。
近くの兵の銃が、そっちを向いて落ちていた。この子は、自分で撃ったのではない。撃たれたのだ。兵たちが自分を撃つ、その前に。
首に、指を当てた。
脈は、なかった。
手首でも確かめた。なかった。胸に耳を当てた。何も聞こえなかった。
目は、閉じていた。
目を閉じている人には、あの力は使えない。目が合わなければ、何も始まらない。それに、使えたとしても、額の真ん中を撃たれた傷なんて、移せば俺が死ぬ。最初から、俺にできることは何もなかった。
それでも、女の子のまぶたが、少しだけ開いているのが気になった。閉じきっていない。細いすきまから、白目が、ほんの少しだけ見えている。
田所さんの目を閉じた時のことを、思い出した。
手を伸ばした。手のひらで、女の子のまぶたを、そっと下ろそうとした。
その手の下で、まぶたが、動いた。
開いた。
金色の目だった。
まっすぐに、俺を見ていた。
目の奥が、熱くなった。
考える前だった。ハルの時と同じ。内側から指で押されるような熱さが、目の表面まで上がってくる。印が開く。女の子の金色の目の中に、俺の目の赤い印が小さく映るのが見えた。
来る、と思った。
額の真ん中の、あの穴が。移せば死ぬ傷が。まだ傷は来ていない。重さが流れこんでくる前なら、目をそらせば止められる。今なら、まだ。
でも、来なかった。
何も、来なかった。
熱は目まで上がってきているのに、その先がない。傷の重さも、痛みも、冷たさも、何ひとつ流れてこない。ハルの時は、目を合わせた瞬間に、深い、でも止められる、と分かった。今は、傷が目の前に見えているのに、重さだけが伝わってこない。目の前にいるはずの相手が、力の中では空白になっていた。
生まれて初めて、あの力が、空を切った。
目の奥の熱が、行き場をなくして、ゆっくり引いていく。引いた後に、鈍い痛みだけが残った。
女の子は、まばたきもしなかった。
金色の目が、俺の目を見ていた。俺の目の、印を。ずっと近くで。
その顔に、驚きはなかった。怖がってもいなかった。ただ、何かを読んでいる顔だった。研究員が、記録の紙を読む時の顔に似ていた。
「……子どもの、くせに」
かすれた声だった。喉の奥に、まだ血が残っているような声。
「契約したのは」
女の子の唇が、ゆっくり動いた。
「子どもの姿の、男か」
体が、こわばった。
自分で分かった。肩が上がって、指が固まって、息が止まった。棒を握っていた手に、力が入りすぎて、木のささくれが手のひらに刺さった。
子どもの姿の、男。
一番奥の部屋。長い金色の髪。小さな手。あの人の前では、研究員たちも、だれも声を出さなかった。俺の目に、この印をくれた人。
なぜ、この子が、それを。
答えなかった。答えられなかった。でも、答えなかったことが、答えになったのだと分かった。
女の子の目が、少しだけ細くなった。
「……嚮団の子か」
その言葉を、嚮団の外で、初めて聞いた。
三年、だれにも言わなかった。先生にも。ハルにも。言わなければ、だれも知らないはずだった。焼けたトラックと一緒に、なくなったはずだった。
それを、額に穴のあいた、名前も知らない女の子が、目を見ただけで言い当てた。
逃げなきゃ、と思った。
思ったのに、脚が動かなかった。傷のせいではなかった。
女の子のまぶたが、ゆっくり下りていった。開いた時と同じくらい、ゆっくり。金色が、細くなって、消えた。額の穴は、まだそこにあった。でも、その縁が、さっきより、ほんの少し小さくなっているような気がした。気のせいかもしれない。夕方の光が、暗くなってきていた。
首に、もう一度指を当てた。
脈は、なかった。
なのに、さっき、この子は目を開けて、しゃべった。
*
立ち上がろうとして、膝が抜けた。
壁に手をついた。目の前が、ざらざらした灰色になる。耳の奥で、高い音が鳴っている。脚の付け根に手をやると、包帯の表面が、さっきより温かかった。湿っている。指先を見ると、薄く赤い。
開きかけている。
両手で、包帯の上から押さえた。体重をかける。百まで数える。先生の声が、頭の中で、馬鹿、と言った。
足音がした。
階段の口の方から。一人ではない。重い靴の音が、何人分も。それに、軽い足音がまじっている。話し声。ブリタニアの言葉。
考える前に、体が動いた。棒を拾って、壁の切れ目の陰へ。崩れた天井の板と、壁のあいだの、狭いすきまに体をねじこむ。脚の付け根が、悲鳴を上げた。声は出さなかった。両手は、包帯の上から離さなかった。
息を殺した。
入ってきたのは、兵が四人と、白い服の大人が三人だった。
白い服を見た瞬間、喉の奥が、ひゅっと鳴った。
白衣。研究員と同じ形の、白い上着。腕に、軍の印のついた布を巻いている。顔は、知らない顔だった。嚮団の大人たちではない。軍の人たちだ。それでも、体が勝手に縮んだ。
白衣の一人が、倒れた兵たちを見回して、短く何か言った。別の一人が、記録の紙のような物に何かを書きこむ。兵たちは、仲間の死体には目もくれずに、奥へ進んだ。
女の子のところで、止まった。
「いた。拘束服の娘だ」
白衣の一人が言った。ブリタニアの言葉だった。三年ゲットーにいても、それくらいは分かる。
「状態は」
「頭部に被弾。脈拍なし。……死亡と記録する。研究所の預かり物だそうだ。中身がどうであれ、持ち帰れと言われている」
白衣の大人は、それ以上、女の子を見なかった。どこかから頼まれた仕事を、片づけに来ただけの顔だった。
兵が二人がかりで、大きな箱を運びこんできた。遺体を運ぶための、長い箱だった。ふたを開ける。中は、白い布が敷かれている。
兵たちが、女の子の体を持ち上げた。乱暴ではなかった。でも、丁寧でもなかった。物を運ぶ手つきだった。研究員たちが、眠らせた子どもを運ぶ時の手つきと同じだった。
女の子が、箱の中に寝かされる。緑の髪が、白い布の上に広がる。
ふたが、持ち上げられた。
閉じる、その直前だった。
女の子の目が、もう一度だけ開いた。
金色の目が、箱の中から、まっすぐに、こっちを見た。
俺が隠れている、壁と板のすきまを。この暗さで、見えるはずがない。それなのに、見ていた。迷わずに。最初から、俺がどこにいるか知っていたみたいに。
目は合わなかった、と思う。俺の方が、先にそらしたから。
それでも、そらす前の一瞬で、見えた。
金色の目は、まず俺の目に止まった。印の浮かんでいた場所に。それから、包帯の上から押さえている俺の手に下りた。最後に、俺の首に。シャツの襟からのぞく、細い鎖に。先生にも見せたことのない、「10」の札を下げている鎖に。
順番に。一つずつ。研究員が、記録の紙の欄を埋めていく時と、同じ順番で。
嚮団の大人たちと、同じ種類の目だった。
ふたが閉まった。
兵たちが箱を持ち上げて、階段の口の方へ運んでいく。白衣の大人たちが、その後に続く。足音が遠ざかって、消えた。
俺は、すきまの中で、しばらく動けなかった。
脚の付け根が、心臓の音で鳴っている。目の奥が、鈍く痛む。手のひらに、木のささくれが刺さったままだった。
抜こうとして、指がふるえて、うまくつまめなかった。