06話_名簿
「あんた、あの日どこで何を見た」
先生がそう聞いたのは、縫い目の糸を切っている時だった。
俺の右の太ももの付け根。あの日から、何日かたっていた。何日だったのか、はっきりしない。最初の二日は、熱でほとんど覚えていない。三日目に目を覚ました時、先生は言った。裂けたのは、脚へ血を送る太い管そのものではなく、その脇から分かれた枝だった。傷を広げて、出血している所を二か所で縛った。脚の先まで血は通っている。皮膚の縫い目は、その上に、ていねいに並んでいた。
あの日、路地の外へ出た俺は、地下の通路の口のそばで動けなくなっていたらしい。日が暮れても戻らないので、先生がハルのお母さんに頼んで、男の人たちと探しに来た。見つけた時、俺は両手で脚の付け根を押さえたまま、壁と板のすきまで気を失っていた。手は、離していなかったそうだ。
その話を、先生は一度しかしなかった。怒鳴りもしなかった。それが一番こたえた。
「何も」
俺は答えた。天井を見たまま。
先生のはさみが、一度だけ止まった。それから、また動いた。ぱちん、と糸の切れる小さな音。
「そうかい」
先生は、それ以上聞かなかった。
でも、聞かなかったのは、聞くことがないからではないと、俺は知っていた。ハルの脚にあった穴が消えて、俺の脚に同じ穴が開いたのを、先生は見ている。見ていて、何も言わない。
何も、と答えたのは、嘘だった。
緑の髪の女の子。金色の目。嚮団の子か、という声。白い服の大人たちと、遺体を運ぶ長い箱。あの日の夕方のことは、目を閉じると、全部そろって戻ってくる。
先生には、言えなかった。
*
昼前に、ハルが来た。
お母さんに手を引かれて、自分の足で歩いてきた。右脚を少しかばっている。顔の色が、まだ悪い。唇が白っぽくて、目の下が青い。
失った血は、すぐには戻らない。先生が言うには、何週間もかかる。それまでは、走ると息が切れるし、立ち上がると目の前が暗くなる。
「にいちゃん」
ハルは、診療所の椅子に座ると、俺の脚の包帯を見た。
「にいちゃんも、撃たれたの」
「……うん。あの日、運んでる時に」
先生が帳面に、そう書いていたからだ。シンジュクの日、けが人を運んでいて撃たれた、と。俺が熱で寝ているあいだに、先生が書いた。どうしてそう書いたのか、先生は言わなかった。
ハルは、自分の脚と、俺の脚を、見比べた。右の太もも。同じ場所。
何か言いたそうに、口を開けた。それから、閉じた。
「おそろいだね」
それだけ言って、少し笑った。
ハルのお母さんは、先生に何度も頭を下げていた。先生が助けてくれた、と言っていた。先生は、手当てしたのはあたしじゃないよ、と言いかけて、たばこをくわえて黙った。お母さんは、俺にも頭を下げた。でも、顔はちゃんと見てくれなかった。ブリタニアの顔だからではないと思う。お母さんの目は、ずっとハルの方を向いていた。
帰りぎわ、ハルが戸口で振り返った。
「にいちゃん。あのね」
「うん」
「あの時、寒かったけど、痛くなかった」
ハルは、それだけ言って、お母さんに手を引かれていった。
痛くなかった。
その言葉が、太ももの縫い目の上に、しばらく乗っていた。重くはなかった。
*
夜中に、戸が鳴った。
叩く音ではなかった。何かが、戸に寄りかかって、ずり落ちる音。
先生が先に起きた。手に、火のついていないランプを持って、戸口へ行く。閂を外す前に、低い声で聞いた。
「だれだい」
「……扇さんとこの、もんです」
かすれた声だった。
戸を開けると、男が一人、戸口に座りこんでいた。左の脇腹を両手で押さえている。指のあいだから、黒い血がにじんでいた。
あの日の、肩を撃たれた若い男だった。
男は顔を上げて、ランプの明かりの中で、俺を見た。
「……ブリキ野郎」
それから、気を失いかけた。
先生と二人で、男を診察台まで運んだ。俺の脚が鳴った。先生は何も言わずに、男の服をはさみで切った。
弾は、脇腹の外側を斜めに削って抜けていた。先生は傷を洗って広げ、筋肉の表面で止まっているのを確かめた。それでも、腹が痛みだしたらすぐ言え、と何度も念を押した。あの日の、肩の傷の包帯が、まだ巻いたままだった。汚れて、ずれていた。
先生は、傷をきっちりとは閉じなかった。汚れた弾の傷は、閉じると中で膿む。数針だけ、粗く寄せた。俺は、ランプを持って照らした。男の脚を押さえた。男は、歯を食いしばって声を出さなかった。
縫い終わって、水を飲ませると、男は少しだけしゃべった。
名前は、大吾。扇グループの、一番下っ端だと言った。
あの日から、兵が、ゲットーのあちこちで、テロリストの残りを探している。毒ガスを盗んだ連中の仲間を。大吾たちは、ばらばらに隠れていた。今夜、隠れ場所に兵が来た。大吾は、仲間を逃がすために、わざと音を立てて反対の方へ走った。兵を引きつけて、路地を何本も走って、最後に撃たれた。
「なんで、ここに」
俺が聞くと、大吾は、天井を見たまま答えた。
「……ここしか、知らなかった。肩、巻いてもらった時、ブリキ野郎が、シンジュクの診療所の、って」
言っていない、と思った。でも、肩を巻いた時、俺の手に先生の往診かばんがあった。かばんの横に、診療所の名前が、白い字で書いてある。
「扇さんたちは」
「知らねえ。逃げたと思う。……逃げた方向、俺は知らねえ方がいいんだよ。捕まった時のために」
大吾は、そう言って、目を閉じた。
先生は、診察台の横で、長いこと黙っていた。それから、床下の物置の板を外した。
「朝になったら、兵が来る。この辺は、まだ回ってないからね。そいつは、ここに入れときな」
三年前、俺が隠れた場所だった。
*
朝、兵が来た。
八人。先頭の男が、隊長格らしかった。三十くらいの、ブリタニア人。軍服の襟がきっちりしていて、靴が汚れていない。ゲットーの泥を、まだ踏み慣れていない靴だった。
隊長は、戸口に立って、先生に紙を見せた。ブリタニアの言葉で、ゆっくり、大きな声で読み上げた。日本人には分からないと思っているような読み方だった。
テロリストの捜索。協力を求める。新しい銃の傷のある、若い日本人の男。かくまった者も、同罪とする。
先生は、紙を見もしないで、どうぞ、と言った。
兵たちが入ってきた。棚を開ける。診察台の下をのぞく。奥の部屋の寝台をめくる。薬の瓶を一つずつ手に取って、ラベルを見る。
床下の板は、俺の足の下にあった。
俺は、診察台の横の椅子に座っていた。右脚をのばして。動けない患者のふりではなかった。本当に、長く立っていると、まだ目の前が暗くなる。
兵の一人が、部屋の隅のくず入れを蹴った。
倒れたくず入れから、丸めた包帯がこぼれた。
昨夜の、大吾の包帯だった。脇腹から取った、血でぐっしょり濡れたガーゼ。肩から外した、古い汚れた包帯。まだ、乾いていなかった。
兵が、それを指でつまみ上げた。隊長を呼ぶ。
隊長は、包帯を見て、それから部屋の中を見回した。棚。寝台。診察台。床。
床を、見た。
視線が、床の板の継ぎ目の上を、ゆっくり動いていく。先生は、たばこに火をつけようとして、つけられないでいた。
このままでは、床を剥がされる。
剥がされたら、大吾が見つかる。かくまった者も、同罪。先生も。
俺は、立ち上がった。
「すみません。……傷が」
小さな声で言って、脚を引きずって、奥の部屋へ入った。兵の一人がついてこようとして、隊長が手で止めた。足の悪い子どもが便所に行くくらいのことは、見逃すつもりらしかった。
奥の部屋の戸を閉めた。
ズボンをおろす。太ももの付け根の包帯をほどく。縫い目が並んでいる。先生がていねいに縫った、小さな結び目の列。
深い所の枝は、二か所で縛ってある。先生はそう言った。ここで開くのは、皮膚と、その下の肉だけだ。死にはしない。血は出る。
棚の上の、糸切りばさみを取った。
息を止めた。
縫い目の端に、はさみを入れた。一つ切る。結び目をつまんで抜く。二つ。三つ目で、目の前が白くなった。四つ目で、膝が勝手に笑った。まだつながりきっていない傷の縁に、指をかけた。押し開いた。中から、温かいものがにじんできた。あの日ほど速くはない。でも、止まらない。
声は、出さなかった。
包帯は、巻き直さなかった。ズボンを上げる。布が、すぐに太ももに張りつく。赤い色が、外へにじみ出てくる。
戸を開けて、戻った。
兵たちが、俺を見た。それから、俺のズボンを見た。右の太ももに広がった、手のひらほどの赤い染みを。歩くたびに、その下へ新しい血がにじむのを。
先生は、何も言わなかった。
俺の脚を見て、それから俺の顔を見た。俺は先生の目を見なかった。見なくても、先生の顔の形は分かった。
先生は、診察台の引き出しから、患者の帳面を出した。開いて、隊長の前に置いた。
「この子のだよ。シンジュクの日に、けが人を運んでて撃たれた。そのくず入れの包帯も、この子のさ。夜中に、傷が開いたもんでね」
隊長は、帳面をのぞきこんだ。日付と、傷の場所と、縫った日。先生の字が、並んでいた。先生が、本当に書いていた物だった。
隊長は、帳面から顔を上げて、俺を見た。
見られた。顔を。じっと。
「ブリタニア人だな」
ブリタニアの言葉だった。
「なぜ、ゲットーにいる。租界の者か」
答えられなかった。何と答えればいいのか、分からなかった。
「ハーシェルだよ」
先生が、横から言った。日本語だった。
「うちで手伝いをしてる、ハーシェル。親がいなくてね。ここで拾った」
隊長は、先生を見て、また俺を見た。
「名前は」
今度は、俺に聞いていた。
先生は、もう、ハーシェルと言ってしまった。ここで別の名前を言えば、先生が嘘をついたことになる。名前を言わなければ、もっと怪しまれる。
借りた名前を、答えるしかなかった。
「……イオ・ハーシェル、です」
隊長は、部下から、捜索先を記録する用紙を受け取った。診療所の場所を書いた行の下に、何かを書き足した。ペンの先が、紙をこする音。俺の名前が、軍へ持ち帰られる紙に、書きこまれていく音。
それから、用紙を部下に返して、兵たちに手で合図した。
出ていった。床の板には、だれも手をかけなかった。
*
先生は、黙って、俺を診察台に寝かせた。
ズボンを切った。開いた傷を見て、一度だけ、深く息を吐いた。それから、傷を洗った。指で、深い所まで開いていないことを確かめた。残った糸を、一本ずつ抜いた。痛み止めの注射は、ほんの少ししか残っていなかった。先生は、それを全部使った。
縫い直しは、それでも、最初の時より痛かった。最初の時は、熱で半分しか覚えていない。今度は、全部覚えていた。針が皮膚を通るたびに、太ももの筋が勝手に跳ねた。先生は、そのたびに手を止めて、跳ねるのが収まるのを待った。
声は、出さなかった。
最後の結び目を作って、糸を切って、先生は、はさみを置いた。
「……ばか」
一度だけ、そう言った。
それ以上は、何も言わなかった。たばこに火をつけて、窓の方を向いて、煙を吐いた。
床下の板が、内側から、そっと押し上げられた。
大吾が、顔を出した。板のすきまから、全部聞いていたのだと思う。俺の顔と、血で汚れた診察台と、床に落ちた赤いズボンを、順番に見た。
「……お前」
何か言おうとして、言葉が見つからない顔をしていた。
ブリキ野郎、とは言わなかった。でも、ほかの呼び方も、見つからないみたいだった。
大吾は、結局、何も言わずに、床下からはい出した。脇腹を押さえて、壁にもたれて座った。そして、俺の方を見ないようにしていた。俺が人の目を見ないのとは、ちがう理由で。
*
夕方、先生がテレビをつけた。
診療所の、古い小さなテレビ。画面の端が、少し緑がかっている。
軍の会見だった。偉そうな軍人が、何かを読み上げている。総督が、亡くなった。テロによって。殺した疑いで、兵士を一人、捕まえた。名誉ブリタニア人の、軍の兵士だという。
画面に、捕まった兵の写真が映った。日本人の顔をした、若い兵士だった。俺と、あまり年が変わらないように見えた。
シンジュクのことも、言っていた。テロリストが毒ガスを使った。軍は、それを鎮圧した。
ゲットーで死んだ人たちのことは、言わなかった。田所さんのことも。
先生は、たばこをくわえたまま、画面を見ていた。何も言わなかった。
壁にもたれていた大吾が、画面をにらんでいた。
「……濡れ衣だろ、あれ」
だれに言うでもない声だった。
「あの日、総督を殺したのが、あんな兵隊なわけがねえ」
どうして分かるのか、とは聞かなかった。大吾も、それ以上は言わなかった。
しばらくして、大吾が、ぽつりと言った。
「それとさ。……シンジュクの時の、無線の声。あいつから、扇さんたちに、また連絡が来たらしい」
無線の声。あの日、肩を巻いている時に、大吾が口走っていた。どこかから指示が来ている。その通りに動いたら、勝てるかもしれない。
「だれなんですか」
「知らねえ。だれも、顔を見たことがねえんだ」
大吾は、脇腹を押さえて、目を閉じた。
テレビの中で、軍人が、会見を終えて頭を下げた。
俺は、自分の太ももの、縫い直したばかりの縫い目に、そっと手を置いた。今朝、あの用紙に書きこまれた名前のことを考えていた。
イオ・ハーシェル。
借りた名字と、姉さんがくれた名前。その二つが、軍へ戻る紙の上に残った。