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円卓の中央に、一枚の紙を置いた。
大罪司教たちが、一斉にそれを覗き込む。
そこには、俺の字で短い文が書かれていた。
『魔女教の者は、麦わらのルフィ、およびその船員の身体と船と命に、直接の害を与えてはならない』
「以前、私は皆さんに『手を出してはいけない』と申し上げました」
俺は紅茶を一口含んだ。
「ですが、あの命令は少し曖昧でした。あれでは皆さんが迷われてしまいます。迷った結果、勝手に動く人が出てしまうかもしれません」
全員が息を潜めている。
「ですから今日から、この文を正式なルールとします」
ペテルギウスが恐る恐る口を開いた。
「パンドラ様。以前のお言葉には『周囲の人間を害することも禁止』とあったのデスが……」
「ええ。ですから更新するのです」
俺は微笑んだ。
「周囲の人間への扱いは、私の許可した範囲に限ります。許可なく動いてはいけません。ですが、許可があれば……」
「……動いて良い、と」
「そうです」
誰かがごくりと喉を鳴らした。
じゃらり、と鎖の鳴る音がした。全身を包帯で覆ったシリウスが、唯一覗く左目を潤ませている。何も言わない。ただ、包帯に涙を染み込ませている。
それが彼女なりの返事なのだと、俺は知っている。
「さて、ここからは遊びの時間です」
俺は指を組んだ。
「ルールとは、守るためのものではありません。穴を楽しむためのものです」
ライ・バテンカイトスがくすりと笑った。
「じゃあパンドラ様、その穴ってのは?」
「いくつかあります。順にお話ししましょう」
一つ目。
「外部への委託です」
俺は卓上の地図を指差した。
「この島には、バロックワークスという犯罪組織が拠点を置いています。社長の名はサー・クロコダイル。素性は元海賊です」
「あの、七武海の候補にも名前が挙がっていた……」
「ええ。そして彼らの運営資金のおよそ四割は、黒の福音銀行からの融資です」
レグルスが目を見開いた。
「つまり、バロックワークスは……」
「私の顧客です。私が命令すれば動きます。ですが、私は命令しません」
紅茶のカップを、静かに卓に置く。
「ただひとつ、情報を渡すだけです。『麦わらの少年がグランドラインに入った。懸賞金は三千万。一味の中に美しい航海士がいる』と」
「そ、それだけで動くのでしょうか」
「動きます。彼らは賞金稼ぎでもあります。そして――」
一拍置く。
「あの組織は、私たちが手を下さずとも、勝手に麦わらの一味に牙を剥きます。魔女教のルールには一切抵触しません」
誰も何も言わなかった。
ペテルギウスだけが恍惚とした表情で、首を大きく傾けた。
「ああ、なんと……脳が、脳が震えるのデス!」
「二つ目は、情報です」
俺は卓上に、小さな新聞の切り抜きを並べた。
「麦わらの少年の懸賞金を、三千万から一億に上げます。罪状を少しずつ増やしましょう。海軍基地の襲撃、民間人への暴行、魔女教の聖域への冒涜」
「冒涜、とは」
「ラブーンの焼き印を塗り潰したことです」
ライがくつくつと笑った。
「それは事実だね」
「ええ。事実も少し角度を変えて書けば、立派な罪状になります」
もう一枚の切り抜きを取り出す。
「それと、ウソップさんのお父様についてです」
幹部たちの視線が集まった。
「ヤソップはまだ生きています。海軍のある施設に収容されています。ですが、新聞にはこう書かせます」
俺は一文を読み上げた。
『元ロジャー海賊団の狙撃手ヤソップ、獄中死』
「……嘘、デスか」
「今は嘘です。ですが、いつか本当になるかもしれません」
微笑んだまま続ける。
「これは彼の航路のどこかで、彼の目に触れるようにします。直接渡してはいけません。偶然見つけさせる。それが肝心です」
誰も声を出さなかった。
ただマルコだけが、卓の端でわずかに眉を寄せた。
「三つ目」
俺は卓上の小さな写真を、指でつまんだ。
金髪のスーツ姿の青年だ。
「サンジさんです」
ロイ・アルファルドが小さく首を傾げた。
「そいつ、パンドラ様に恩があるんじゃなかったっけ?」
「ええ、だからこそです」
写真を卓に戻す。
「彼を聖堂に招待します。『命を助けた方と、一度ゆっくりお話ししたい』と」
「それは……」
「彼が来たら、お茶を振る舞います。そして尋ねます。『あの麦わらの少年との旅は、楽しいですか』と」
俺の声は柔らかかった。
「彼が『楽しい』と答えたら、こう言います。『それは良かった。ですが、その少年はいずれ、貴方の大切な人たちを不幸にします』と」
円卓に冷たい風が吹いたような気がした。
「彼は悩むでしょう。恩人と仲間の間で。その悩みこそが、麦わらの一味にひびを入れます」
「……僕には思いつきもしません。見事なお手並みです」
レグルスが、か細い声で言った。
「ありがとうございます」
俺は小さく頭を下げた。
「四つ目は、少し残酷かもしれません」
全員が顔を上げた。
「周囲の人間です」
卓の端の小さな箱を開ける。中には、何枚もの手帳の写しが入っていた。
「観測員たちの記録です。麦わらの少年が旅の途中で、優しくしてもらった人々。食事を出してくれた人、船を渡してくれた人、ひと言励ましてくれた人」
俺はその一枚を取り出した。
「シェルズタウンの食堂の主人。彼が少年に食事を振る舞ったのは、通達どおりです。ですがその後、手配書の載った新聞を厨房の奥に隠しました。そして、『ありがとうよ、坊主』と呟きました」
観測員ギルバートの、几帳面な字だった。
「これは、魔女教の教えに背く行いです」
「ごめんね、パンドラ様」
口を挟んだのはシリウスだった。機械めいた高い声が、円卓に響く。
「それは、人として当たり前の喜びではありませんか。誰かを想い、誰かに感謝する。怒りなどより、ずっと尊い心のはずです」
「ええ、当然のことです。人としてごく当たり前の優しさです」
俺は頷いた。
「ですが、魔女教のルールの外にある優しさです」
包帯の隙間の左目が、くしゃりと歪んだ。
「パンドラ様……」
「シリウス司教、貴方は泣いています。それは貴方の優しさです。私はそれを咎めません」
俺は静かに続けた。
「ただし、実行は貴方にお任せします。三日以内に」
シリウスは長い間、黙っていた。やがて、小さく頷く。腕の鎖が、床の上で小さく鳴った。
「……ありがとう。ごめんね」
誰に向けた言葉なのかは、わからなかった。
包帯に染みきらなかった涙が、ぽたりと卓に落ちた。
「これが四つ目の穴です」
俺は全員を見回した。
「麦わらの少年に好意を示した人間は、必ず報いを受けます。三日以内に。例外はありません」
ペテルギウスが息を荒げた。
「それでは少年は……」
「ええ、孤立します」
俺は静かに言った。
「彼が立ち寄る島の人々は、彼を避けるようになります。優しくした者が不幸になるのを見ているからです。少年自身は傷つきません。仲間も傷つきません。ただ、世界が彼を拒絶するのです」
円卓の上に、重い沈黙が降りた。
誰かの微かなすすり泣きが聞こえる。シリウスのものか、他の誰かのものか、俺にはわからなかった。
「誰にも手を出していません。ただ、世界が勝手にそうなるだけです」
俺はにこりと笑った。
「完璧なルール遵守でしょう?」
誰も答えられなかった。
会議のあと、俺は一人、聖堂の窓辺に立っていた。
背後で足音がした。
「……パンドラ様」
マルコだった。
いつもの眠たげな余裕がない。目が少し揺れている。
「どうしました?」
「いや、その……」
マルコは言い淀んだ。
「さっきの計画で、少し気になることがあるんだよい」
「どうぞ」
「ヤソップって名前に、聞き覚えがある気がしてよい」
俺はゆっくりと振り返った。
マルコの瞳が、わずかに焦点を失っている。
「ロジャー海賊団の元狙撃手……あそことは昔、オヤジも……」
「マルコさん」
俺は静かに名前を呼んだ。
「疲れていますか」
「いや、そんなことは……」
「疲れていますね。無理をさせてしまいました」
彼の頬に、そっと手を当てる。
権能を使った。一瞬で済んだ。
マルコの瞳から揺らぎが消え、静かな敬愛の色が戻る。
「……悪かったよい、パンドラ様。少しぼんやりしてたみてェだ」
「いいのですよ。しっかり休んでください」
「ああ、そうさせてもらうよい」
マルコは深く頭を下げ、聖堂を出ていった。
扉が静かに閉まる。
……改竄が解けかかっていた。以前よりも早い。
やはり、どこかおかしい。
ルフィの存在が、この世界に影響を与えているのかもしれない。あの少年の名が広まるほどに、周囲の人間が少しずつ「何か」を思い出し始めている。
それは俺の権能の弱点に繋がるヒントだ。だが同時に、危険な兆候でもある。
窓の外では、夕焼けが水面を赤く染めていた。
赤い。まるで、あの桟橋に染み込んだ血の色のように。
……いや、考えすぎだ。
俺は首を振って、気を取り直した。
その夜、ギルバートの手帳に新しい記録が加わった。
『シェルズタウン、食堂の主人。魔女教の教えに背いた行いにより処分』
それだけだった。処分の内容は記されていない。
ギルバートはその一行を書き終えて、ペンを置いた。
手が震えていた。何度も書き直そうとした。けれど、どう書いても同じだった。
自分が何をしているのか、わからなくなった。ただの観測員だ。命令に従っているだけだ。
それなのに、胸の奥が冷たい水のように重かった。
窓の外では、東の海の夜風が吹いていた。その風の中に、かすかに焦げた匂いが混じっていた。
翌朝、シェルズタウンの通りには人だかりができていた。
かつて食堂があった場所は、真っ黒な更地になっていた。店の看板だけが焼け残り、地面に転がっている。
『まんぷく亭』
子供たちが遠巻きに見つめている。大人たちは誰も近づかず、誰も話さなかった。
ただ一人、老婆が通りの隅で手を合わせていた。その手のひらが、微かに震えている。
「あの坊主に関わったからだ」
すぐ傍の若い女が、びくりと体を震わせた。
「そんなこと言っちゃいけないよ」
「でも、そうだろう」
老婆の目に涙が浮かんでいた。
「あの人は、ただ飯を出しただけなのに……」
若い女は何も答えなかった。
その場にいた誰もが、何も答えなかった。
ただ全員の心の奥底に、同じ冷たい感情が芽生えていた。
――麦わらの少年に関わってはいけない、と。
その感情こそが、パンドラの狙ったものだった。
聖堂で、俺は報告書を読み終えた。
窓の外には、穏やかな午後の光が広がっている。
ルフィ。お前は今どこにいる。
世界が少しずつお前を拒絶し始めていることに、気づいているか。
お前の笑顔がいつまで続くのか、それを見るのが楽しみだ。
……そう思っているはずだった。
けれど、報告書の最後の一行を読んで、手が止まった。
『食堂の主人は最期に、「あの坊主は悪くねェ」と言い残しました』
小さな字だった。ギルバートの字ではない。別の観測員の字だ。
俺はその一行をしばらく見つめ、ゆっくりと報告書を閉じた。
紅茶を一口飲む。
冷めていた。苦かった。
「……ルールは守るためじゃない」
小さく呟いた。
「穴を楽しむためにある」
自分に言い聞かせるように。
それでもなぜか、紅茶の味は少しも甘くならなかった。