魔女は実在する   作:ベータテストマン

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■

 

 円卓の中央に、一枚の紙を置いた。

 大罪司教たちが、一斉にそれを覗き込む。

 そこには、俺の字で短い文が書かれていた。

 

『魔女教の者は、麦わらのルフィ、およびその船員の身体と船と命に、直接の害を与えてはならない』

 

「以前、私は皆さんに『手を出してはいけない』と申し上げました」

 俺は紅茶を一口含んだ。

「ですが、あの命令は少し曖昧でした。あれでは皆さんが迷われてしまいます。迷った結果、勝手に動く人が出てしまうかもしれません」

 全員が息を潜めている。

「ですから今日から、この文を正式なルールとします」

 ペテルギウスが恐る恐る口を開いた。

「パンドラ様。以前のお言葉には『周囲の人間を害することも禁止』とあったのデスが……」

「ええ。ですから更新するのです」

 俺は微笑んだ。

「周囲の人間への扱いは、私の許可した範囲に限ります。許可なく動いてはいけません。ですが、許可があれば……」

「……動いて良い、と」

「そうです」

 誰かがごくりと喉を鳴らした。

 じゃらり、と鎖の鳴る音がした。全身を包帯で覆ったシリウスが、唯一覗く左目を潤ませている。何も言わない。ただ、包帯に涙を染み込ませている。

 それが彼女なりの返事なのだと、俺は知っている。

「さて、ここからは遊びの時間です」

 俺は指を組んだ。

「ルールとは、守るためのものではありません。穴を楽しむためのものです」

 ライ・バテンカイトスがくすりと笑った。

「じゃあパンドラ様、その穴ってのは?」

「いくつかあります。順にお話ししましょう」

 

 一つ目。

「外部への委託です」

 俺は卓上の地図を指差した。

 偉大なる航路(グランドライン)の最初の島、ウイスキーピーク。

「この島には、バロックワークスという犯罪組織が拠点を置いています。社長の名はサー・クロコダイル。素性は元海賊です」

「あの、七武海の候補にも名前が挙がっていた……」

「ええ。そして彼らの運営資金のおよそ四割は、黒の福音銀行からの融資です」

 レグルスが目を見開いた。

「つまり、バロックワークスは……」

「私の顧客です。私が命令すれば動きます。ですが、私は命令しません」

 紅茶のカップを、静かに卓に置く。

「ただひとつ、情報を渡すだけです。『麦わらの少年がグランドラインに入った。懸賞金は三千万。一味の中に美しい航海士がいる』と」

「そ、それだけで動くのでしょうか」

「動きます。彼らは賞金稼ぎでもあります。そして――」

 一拍置く。

「あの組織は、私たちが手を下さずとも、勝手に麦わらの一味に牙を剥きます。魔女教のルールには一切抵触しません」

 誰も何も言わなかった。

 ペテルギウスだけが恍惚とした表情で、首を大きく傾けた。

「ああ、なんと……脳が、脳が震えるのデス!」

 

「二つ目は、情報です」

 俺は卓上に、小さな新聞の切り抜きを並べた。

「麦わらの少年の懸賞金を、三千万から一億に上げます。罪状を少しずつ増やしましょう。海軍基地の襲撃、民間人への暴行、魔女教の聖域への冒涜」

「冒涜、とは」

「ラブーンの焼き印を塗り潰したことです」

 ライがくつくつと笑った。

「それは事実だね」

「ええ。事実も少し角度を変えて書けば、立派な罪状になります」

 もう一枚の切り抜きを取り出す。

「それと、ウソップさんのお父様についてです」

 幹部たちの視線が集まった。

「ヤソップはまだ生きています。海軍のある施設に収容されています。ですが、新聞にはこう書かせます」

 俺は一文を読み上げた。

 

『元ロジャー海賊団の狙撃手ヤソップ、獄中死』

 

「……嘘、デスか」

「今は嘘です。ですが、いつか本当になるかもしれません」

 微笑んだまま続ける。

「これは彼の航路のどこかで、彼の目に触れるようにします。直接渡してはいけません。偶然見つけさせる。それが肝心です」

 誰も声を出さなかった。

 ただマルコだけが、卓の端でわずかに眉を寄せた。

 

「三つ目」

 俺は卓上の小さな写真を、指でつまんだ。

 金髪のスーツ姿の青年だ。

「サンジさんです」

 ロイ・アルファルドが小さく首を傾げた。

「そいつ、パンドラ様に恩があるんじゃなかったっけ?」

「ええ、だからこそです」

 写真を卓に戻す。

「彼を聖堂に招待します。『命を助けた方と、一度ゆっくりお話ししたい』と」

「それは……」

「彼が来たら、お茶を振る舞います。そして尋ねます。『あの麦わらの少年との旅は、楽しいですか』と」

 俺の声は柔らかかった。

「彼が『楽しい』と答えたら、こう言います。『それは良かった。ですが、その少年はいずれ、貴方の大切な人たちを不幸にします』と」

 円卓に冷たい風が吹いたような気がした。

「彼は悩むでしょう。恩人と仲間の間で。その悩みこそが、麦わらの一味にひびを入れます」

「……僕には思いつきもしません。見事なお手並みです」

 レグルスが、か細い声で言った。

「ありがとうございます」

 俺は小さく頭を下げた。

 

「四つ目は、少し残酷かもしれません」

 全員が顔を上げた。

「周囲の人間です」

 卓の端の小さな箱を開ける。中には、何枚もの手帳の写しが入っていた。

「観測員たちの記録です。麦わらの少年が旅の途中で、優しくしてもらった人々。食事を出してくれた人、船を渡してくれた人、ひと言励ましてくれた人」

 俺はその一枚を取り出した。

「シェルズタウンの食堂の主人。彼が少年に食事を振る舞ったのは、通達どおりです。ですがその後、手配書の載った新聞を厨房の奥に隠しました。そして、『ありがとうよ、坊主』と呟きました」

 観測員ギルバートの、几帳面な字だった。

「これは、魔女教の教えに背く行いです」

「ごめんね、パンドラ様」

 口を挟んだのはシリウスだった。機械めいた高い声が、円卓に響く。

「それは、人として当たり前の喜びではありませんか。誰かを想い、誰かに感謝する。怒りなどより、ずっと尊い心のはずです」

「ええ、当然のことです。人としてごく当たり前の優しさです」

 俺は頷いた。

「ですが、魔女教のルールの外にある優しさです」

 包帯の隙間の左目が、くしゃりと歪んだ。

「パンドラ様……」

「シリウス司教、貴方は泣いています。それは貴方の優しさです。私はそれを咎めません」

 俺は静かに続けた。

「ただし、実行は貴方にお任せします。三日以内に」

 シリウスは長い間、黙っていた。やがて、小さく頷く。腕の鎖が、床の上で小さく鳴った。

「……ありがとう。ごめんね」

 誰に向けた言葉なのかは、わからなかった。

 包帯に染みきらなかった涙が、ぽたりと卓に落ちた。

「これが四つ目の穴です」

 俺は全員を見回した。

「麦わらの少年に好意を示した人間は、必ず報いを受けます。三日以内に。例外はありません」

 ペテルギウスが息を荒げた。

「それでは少年は……」

「ええ、孤立します」

 俺は静かに言った。

「彼が立ち寄る島の人々は、彼を避けるようになります。優しくした者が不幸になるのを見ているからです。少年自身は傷つきません。仲間も傷つきません。ただ、世界が彼を拒絶するのです」

 円卓の上に、重い沈黙が降りた。

 誰かの微かなすすり泣きが聞こえる。シリウスのものか、他の誰かのものか、俺にはわからなかった。

「誰にも手を出していません。ただ、世界が勝手にそうなるだけです」

 俺はにこりと笑った。

「完璧なルール遵守でしょう?」

 誰も答えられなかった。

 

 会議のあと、俺は一人、聖堂の窓辺に立っていた。

 背後で足音がした。

「……パンドラ様」

 マルコだった。

 いつもの眠たげな余裕がない。目が少し揺れている。

「どうしました?」

「いや、その……」

 マルコは言い淀んだ。

「さっきの計画で、少し気になることがあるんだよい」

「どうぞ」

「ヤソップって名前に、聞き覚えがある気がしてよい」

 俺はゆっくりと振り返った。

 マルコの瞳が、わずかに焦点を失っている。

「ロジャー海賊団の元狙撃手……あそことは昔、オヤジも……」

「マルコさん」

 俺は静かに名前を呼んだ。

「疲れていますか」

「いや、そんなことは……」

「疲れていますね。無理をさせてしまいました」

 彼の頬に、そっと手を当てる。

 権能を使った。一瞬で済んだ。

 マルコの瞳から揺らぎが消え、静かな敬愛の色が戻る。

「……悪かったよい、パンドラ様。少しぼんやりしてたみてェだ」

「いいのですよ。しっかり休んでください」

「ああ、そうさせてもらうよい」

 マルコは深く頭を下げ、聖堂を出ていった。

 扉が静かに閉まる。

 ……改竄が解けかかっていた。以前よりも早い。

 やはり、どこかおかしい。

 ルフィの存在が、この世界に影響を与えているのかもしれない。あの少年の名が広まるほどに、周囲の人間が少しずつ「何か」を思い出し始めている。

 それは俺の権能の弱点に繋がるヒントだ。だが同時に、危険な兆候でもある。

 窓の外では、夕焼けが水面を赤く染めていた。

 赤い。まるで、あの桟橋に染み込んだ血の色のように。

 ……いや、考えすぎだ。

 俺は首を振って、気を取り直した。

 

 その夜、ギルバートの手帳に新しい記録が加わった。

 

『シェルズタウン、食堂の主人。魔女教の教えに背いた行いにより処分』

 

 それだけだった。処分の内容は記されていない。

 ギルバートはその一行を書き終えて、ペンを置いた。

 手が震えていた。何度も書き直そうとした。けれど、どう書いても同じだった。

 自分が何をしているのか、わからなくなった。ただの観測員だ。命令に従っているだけだ。

 それなのに、胸の奥が冷たい水のように重かった。

 窓の外では、東の海の夜風が吹いていた。その風の中に、かすかに焦げた匂いが混じっていた。

 

 翌朝、シェルズタウンの通りには人だかりができていた。

 かつて食堂があった場所は、真っ黒な更地になっていた。店の看板だけが焼け残り、地面に転がっている。

 

『まんぷく亭』

 

 子供たちが遠巻きに見つめている。大人たちは誰も近づかず、誰も話さなかった。

 ただ一人、老婆が通りの隅で手を合わせていた。その手のひらが、微かに震えている。

「あの坊主に関わったからだ」

 すぐ傍の若い女が、びくりと体を震わせた。

「そんなこと言っちゃいけないよ」

「でも、そうだろう」

 老婆の目に涙が浮かんでいた。

「あの人は、ただ飯を出しただけなのに……」

 若い女は何も答えなかった。

 その場にいた誰もが、何も答えなかった。

 ただ全員の心の奥底に、同じ冷たい感情が芽生えていた。

 ――麦わらの少年に関わってはいけない、と。

 その感情こそが、パンドラの狙ったものだった。

 

 聖堂で、俺は報告書を読み終えた。

 窓の外には、穏やかな午後の光が広がっている。

 ルフィ。お前は今どこにいる。

 世界が少しずつお前を拒絶し始めていることに、気づいているか。

 お前の笑顔がいつまで続くのか、それを見るのが楽しみだ。

 ……そう思っているはずだった。

 けれど、報告書の最後の一行を読んで、手が止まった。

 

『食堂の主人は最期に、「あの坊主は悪くねェ」と言い残しました』

 

 小さな字だった。ギルバートの字ではない。別の観測員の字だ。

 俺はその一行をしばらく見つめ、ゆっくりと報告書を閉じた。

 紅茶を一口飲む。

 冷めていた。苦かった。

「……ルールは守るためじゃない」

 小さく呟いた。

「穴を楽しむためにある」

 自分に言い聞かせるように。

 それでもなぜか、紅茶の味は少しも甘くならなかった。

 

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