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ウイスキーピークでの出来事を、ルフィはあまり思い出したくなかった。
歓迎の宴。賞金稼ぎたちの奇襲。ゾロが一人で数十人を斬り伏せた夜。
そしてその翌朝、砂漠の国の王女ビビが一味に加わった。
「アラバスタを救いたいの」
ビビはそう言って、深く頭を下げた。
「バロックワークスの社長が、わたしの国を乗っ取ろうとしているの。でも、わたし一人ではどうにも……」
「いいぞ!」
ルフィはいつもの調子で即答した。
「国、助けようぜ! な、みんな!」
誰も反対しなかった。
ただナミだけが、ほんの少し顔を強張らせた。ルフィはそれを見たが、何も言わなかった。
三日後、船は巨大な密林の島に辿り着いた。
「うおおお! 恐竜だ!」
ルフィは船首で跳ね回った。
ジャングルの奥から鳴き声が響き、木々の間を巨大な影が横切っていく。空気は湿って重く、緑の匂いが鼻の奥まで染み込んでくる。
リトルガーデン。
時間に置き去りにされた、太古の島だ。
「……一年?」
「ええ。この島は、記録が溜まるまでに一年かかると言われているの」
「一年も足止めなんて、冗談じゃないわよ! アラバスタはどうするの!」
「肉とるぞ!」
「恐竜狩るのか!?」
「おう!」
「話を聞きなさいよ!」
ルフィとウソップが目を輝かせ、森へ駆け込んでいく。
サンジはため息をつきながら、包丁を研ぎ始めた。
その背中を、ゾロが横目で見ている。
「機嫌が悪ィな」
「別に」
返事は短かった。
理由は全員がわかっていた。彼はずっと考えているのだ。命の恩人と麦わらの船の、どちらに立つべきなのかを。
森の中で、ルフィは巨大な足跡を見つけた。
「でけェ!」
形は人間の足跡だ。ただし、大きさが桁違いだった。
その先に、巨大な影が立っていた。
「ガババババ! 小さな客人が来たな!」
身長二十メートル以上。赤い髭に、逞しい体。
巨人だった。
「おれはエルバフの戦士、ブロギーだ! よく来たな、小人!」
「うおおお! でけェェ!」
ルフィは大声で叫んだ。
「おれはルフィ! 海賊王になる男だ!」
「ガババババ! 威勢のいい小人だ!」
ブロギーが豪快に笑う。その背後の岩山の上から、もう一人の巨人が顔を出した。
「ゲギャギャギャギャ! おいブロギー! また客人か!」
青い髭の巨人、ドリー。
エルバフの二人の戦士は、百年の間、決着のつかない決闘を続けていた。
その夜、ブロギーの住処で宴が開かれた。
巨大な恐竜の肉が豪快に焼かれる。ルフィは肉に齧りつき、サンジは文句を言いながら調理を手伝い、ウソップは巨人の武勇伝に目を輝かせた。
「エルバフの戦士は誇りに生きる! 誇りを汚された時、初めて泣くのだ!」
「ゲギャギャギャ! そのとおりだ、ブロギー!」
「こ、これが勇敢なる海の戦士か……!」
巨人たちの笑い声は島中に響いた。
「なんだ小人、記録が溜まらんで困っておるのか」
ナミの話を聞いたブロギーが、岩の隙間を探って何かをつまみ出した。巨大な指の間で、小さな記録指針が揺れている。
「一年近く前に来た海賊の忘れ物だ。持ち主は恐竜の腹の中だがな。ずっとここに置いてあったから、記録はもう少しで溜まるはずだ」
ナミは目を丸くして受け取り、覗き込んだ。
「……本当だわ。あと一日もあれば、針が定まる!」
「持っていけ! おれたちには無用のものだ!」
「ゲギャギャギャ! 百年待った男の気は長いが、小人の一年は長かろう!」
ルフィにとって、久しぶりの本物の宴だった。
仲間と笑い、肉を食べ、酒を飲む。誰にも見張られていないと思える夜。
けれどナミの顔は、すぐにまた曇った。手の中の記録指針を握ったまま、浮かない顔で焚き火を見つめている。
「どうしたんだ、ナミ」
「……ううん、なんでもない」
ナミは笑った。
ルフィはそれ以上聞かなかった。
翌日は、朝から島の空気がおかしかった。
鳥の声が止んでいる。恐竜たちの鳴き声も遠い。
代わりに遠くで、鐘のような音が鳴っていた。
「……なんか静かすぎねェか」
ウソップが不安そうに呟いた。
「ログはまだ溜まらねェのか」
「あと数時間ね」
「早く出ようぜ」
「どうしたウソップ、怖ェのか」
「怖ェよ!」
その時、密林の奥から低い地響きが聞こえてきた。
巨大な足音。
そして同時に、無数の小さな足音。
木々の間から、黒い制服の一団が現れた。
魔女教ハンター。数十人が、整然と隊列を組んでいる。
先頭に立つのは、黒いツバの帽子を被った小柄な男だった。眼鏡の奥の目が笑っている。
「ご機嫌よう、麦わらのルフィ殿」
男はにこりと笑って一礼した。
「魔女教、東の海およびグランドライン前半担当のハンター隊長、ヴェルナーと申します」
「……何の用だ」
ルフィは低く答えた。すでに嫌な予感がしていた。
「ご安心ください。本日は貴方がたに、何の危害も加えません」
ヴェルナーは両手を広げた。
「パンドラ様のお言いつけで、少しお時間を頂くだけです」
「時間?」
「ええ。この島のブロギー殿とドリー殿にお会いしたく」
ルフィの顔が強張った。
「あいつらに何の用だ」
「ご挨拶ですよ」
ヴェルナーは柔らかく笑った。
「彼らは貴方がたに宴を振る舞いました。食事を与え、酒を与え、記録指針まで与えた。素晴らしいお人柄です」
背筋に冷たいものが走った。
「ですからパンドラ様は、お礼を申し上げたいのです」
「やめろ」
「何を、です?」
「あいつらに手を出すな」
「手を出す? とんでもない」
ヴェルナーは大げさに首を振った。
「私どもは、お話に伺うだけです。貴方にも、貴方のお仲間にも、何もしていませんよ?」
その言葉は、確かに嘘ではなかった。
ハンターたちはルフィたちの横を通り過ぎ、密林の奥へ進んでいく。ブロギーの住処の方角だ。
「待て!」
追いかけようとした肩を、ゾロが掴んだ。
「待て、ルフィ」
「離せ!」
「お前が今暴れたら何が起きるか、わかってんだろ」
ゾロの声は低かった。
「ここでも同じ手を使われる」
ルフィは歯を食いしばった。
「……ブロギーはいい奴なんだ。ドリーも」
「わかってる」
「おれと飯食ったんだ。笑ってくれたんだ」
「わかってる」
ゾロはルフィの肩を強く握った。
「だが、今は動けねェ」
拳を握りしめて、ルフィは立ち尽くした。
遠く密林の奥から、巨人の怒号が響いた。
「なんだ貴様らァ!」
ブロギーの声だ。
続いて短い金属音。そして、何かが地面に倒れる重い音。
ルフィは耐えきれず、走り出した。
ゾロもサンジもウソップも後を追う。ビビとナミも、一瞬迷ったのちに続いた。
密林を抜けた先の広場に、ブロギーが倒れていた。
全身を巨大な鎖で縛られ、巨体は動かない。ただ荒い息だけが聞こえる。
「ブロギー!」
「……ル、フィ、か」
声がかすれていた。
「す、すまねェ。不意を突かれて……」
周囲をハンターたちが取り囲んでいる。
広場の中央に、巨大な物体があった。
最初、ルフィにはそれが何なのかわからなかった。
高さ二十メートル近い、白っぽい塊。表面はつるりと固まり、ところどころ透明で内側が透けて見える。
その中に、人影があった。
巨大な人影。青い髭。
ドリーだ。
全身が蝋で固められていた。首から下が完全に白い蝋に埋まり、顔だけが外に出ている。
その頭上に、一本の巨大な芯が立てられていた。
火が灯っている。
溶けた蝋が、頭部を伝ってゆっくりと垂れていく。
「ドリー!」
ブロギーの叫びが広場に響いた。
ドリーの目がゆっくりと開く。
「……ブロギー」
「ドリー、ドリー! しっかりしろ!」
「叫ぶな、ブロギー」
驚くほど静かな声だった。
「エルバフの戦士が、この程度で騒ぐんじゃねェ」
「だが、お前……」
「いいんだ。これもまた戦だ」
ドリーは小さく笑った。
その額から、溶けた蝋がぽたり、ぽたりと垂れている。
熱いはずだ。痛いはずだ。
それなのに、ドリーは笑っている。
ルフィの顔が蒼白になった。
「やめろ」
ヴェルナーに向き直る。
「やめろ、やめろ、やめろォォ!」
「ご安心ください」
ヴェルナーは穏やかに微笑んだ。
「この蝋は特別製でして、およそ六時間かけて、ゆっくりと燃え尽きます。その間、ドリー殿は意識を保ち続けます」
「六時間……」
「作り手をご紹介しましょう」
ヴェルナーが軽く手を上げると、ハンターの列の間から、一人の男が押し出された。
数字の「3」の形に髪を固めた、細身の男だった。顔色は蝋よりも白い。
「Mr.3!」
ビビが息を呑んだ。
「バロックワークスの幹部よ! ドルドルの実の、蝋人間……!」
「そちらのMr.3殿は、黒の福音銀行に大きな借りがおありでして。今回はそのご返済です」
「……こんなものは、芸術ではないガネ」
Mr.3は誰とも目を合わせず、呻くように言った。
「魔女教の薬を混ぜられた蝋だガネ。一度固まれば、もう私にも操れん。こんなものを作るために、私の能力はあるのではないガネ……」
「お静かに」
ヴェルナーの一言で、Mr.3は口を閉ざした。
「さて。ブロギー殿には手を下しません。鎖も、ドリー殿の最期が済めば解いて差し上げます」
ヴェルナーは、倒れた巨人を見下ろした。
「百年戦い続けた友が燃え尽きるのを、動けぬまま最後まで見届けていただく。それがブロギー殿への報いです」
ブロギーの喉から、獣のような唸り声が漏れた。
「お前らァ……」
「麦わらのルフィ殿」
ヴェルナーは静かに言った。
「もう一度申し上げます。私どもは貴方がたには、一切手を出していません。この件は、貴方がたと親しくしてくださった巨人の方々への、パンドラ様のお礼です」
全員が、その言葉の意味を理解した。
「蝋を砕けば、ドリー殿はその場で死にます。蝋が体に癒着していますから」
ルフィの息が止まった。
「貴方が動かなければ、ドリー殿は六時間かけて燃え尽きます。どちらを選ぶかは、貴方の自由です」
広場に沈黙が落ちた。
誰も息をしていなかった。
「……クソが」
サンジが絞り出すように言った。
「いくら何でも、ひでェだろ」
「ええ、残酷ですね」
ヴェルナーは困ったように笑った。
「ですがパンドラ様は、こうも仰いました。『優しさには報いが必要です』と」
サンジの咥えていた煙草が、ぽとりと地面に落ちた。
信じられないものを見るように、目が見開かれている。
命の恩人と慕っていた、あの人が。
これを命じた。
サンジの膝が、がくりと折れた。
誰も彼を支えなかった。ビビは両手で口を覆って震え、ナミはずっと俯いたまま、肩を小刻みに揺らしている。
「ルフィ!」
ドリーが叫んだ。力強い声だった。
「小人! こっちを見ろ!」
ルフィは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「ドリー……ごめん、ごめんな。おれ……」
「何を謝る」
ドリーは笑った。
額から頬へ流れる蝋は、涙のようにも見えた。
「おれは嬉しかったぞ」
「え?」
「久しぶりの客人だ。ブロギーと百年、二人きりだったこの島に、お前たちが来てくれた」
声は穏やかだった。
「楽しかった。肉も酒もうまかった。お前の笑顔も気に入った。ゲギャギャギャ」
「やめろよ、そんな最後みてェに……」
「最後だ」
ドリーははっきりと言った。
「だから聞け、ルフィ。お前は泣くな」
「え……」
「海賊王になるんだろう。なら、こんなところで泣くな。前を見ろ」
ルフィは唇を噛みしめた。血が滲む。
「ブロギーのことは頼んだぞ。あいつは頑固だ。おれがいなくなったら、一人でくたばりそうだ」
「ドリー……」
「それと」
ドリーはヴェルナーを見た。
その目は、燃え盛る炎のようだった。
「魔女の使いよ。貴様の主人に伝えろ」
「何をでしょう」
「エルバフの戦士は死んでも屈しない。我らの誇りは、貴様らの鎖では縛れん」
ヴェルナーはわずかに眉を上げた。
「承りました。必ずお伝えします」
その声は、どこか愉快そうでさえあった。
それから六時間、誰もその場を離れなかった。
ブロギーは鎖に縛られたまま、友を見つめ続けた。
ルフィは一度も目を逸らさなかった。ゾロが何度か、その腕を掴んだ。止めるためではない。支えるためだった。
ビビは途中で膝をつき、嗚咽した。ナミは耳を塞いだまま動かない。ウソップは顔を覆い、地面に蹲っていた。
サンジはいつの間にか立ち上がり、そのまま立ち続けていた。顔から表情が消えていた。
Mr.3は蝋の塊の足元に座り込み、両手をその表面に当てていた。ハンターたちは、彼が役目の後始末をしているのだと思ったらしい。誰も咎めなかった。
蝋はゆっくりと燃えていく。髭の焦げる匂いが、広場に漂った。
ドリーは声を上げなかった。
ただ時折、小さく何かを呟いていた。
エルバフの古い歌だった。戦士が死ぬ時に歌う歌。
ブロギーがそれに合わせて、低く歌い始めた。
二人の巨人の歌声が、静かな密林に響いた。
とても悲しい歌だった。
やがて、片方の声だけになった。
日が傾きかけた頃、最後の炎が消えた。
ドリーはもういなかった。
広場に残ったのは、焦げた巨大な蝋の塊と、立ち昇る一筋の煙だけだった。
ブロギーの鎖が解かれた。
ヴェルナーは、座り込んだままのMr.3を見下ろした。
「Mr.3殿。ドリー殿の肌に、薄く別の蝋を張っておいででしたね。熱を和らげるために」
Mr.3の肩がびくりと跳ねた。
「融資は本日をもって打ち切りです。続きは本部で伺いましょう」
「……焼け石に水だったガネ」
Mr.3は力なく呟いた。
ハンターたちが両脇を固める。Mr.3は抵抗もせず立ち上がり、引き連れられるまま、密林の中へ消えていった。残りのハンターたちも、何も言わずその後に続く。
ヴェルナーだけが最後に振り返り、深く一礼した。
「お疲れ様でした、麦わらのルフィ殿。パンドラ様もきっとお喜びになります」
ルフィは動かなかった。
地面に座り込んだまま、燃え尽きた蝋の残骸を見つめている。
その背中に、低い声がかかった。
「……ルフィ」
「ブロギー」
「お前のせいではない」
ブロギーは巨大な手を、ゆっくりと地面に置いた。
「あいつはお前を気に入っていた。友のために笑って死んだ。それがエルバフの戦士の誇りだ」
「でも……」
「泣くな」
その声が震えた。
「泣くのはおれの役目だ。戦士の誇りを汚された、おれのな。お前は前を見ろ」
大きな目から、大粒の涙が流れた。
百年の友を失った男の涙だった。
ルフィは立ち上がり、麦わら帽子を深く被り直した。
「ブロギー」
「なんだ」
「おれ、あいつらをぶっ飛ばす」
低く、静かな声だった。いつものルフィの声ではなかった。
「魔女もハンターも、全部。おれがぶっ飛ばす」
ブロギーは何も言わず、ただ深く頷いた。
その夜、麦わらの船はリトルガーデンを出航した。
船上では誰も口を開かなかった。
ブロギーから貰った記録指針の針が、次の島を指している。けれど、誰もそれを見なかった。
ナミは甲板の隅で膝を抱えていた。その手には、小さな子電伝虫が握られている。
じっと見つめ、やがてゆっくりと手を振り上げた。海に投げ捨てようとしたのだ。
けれど、その手は空中で止まった。
震えながら、ゆっくりと下りていく。
ナミは電伝虫を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。誰にも聞かれないように。誰にも気づかれないように。
ルフィは船首に座り、夜の海を見つめていた。
泣いてはいなかった。ただ、拳を強く握りしめていた。
その背中を、ゾロが少し離れた場所から見守っている。
「……あいつ、変わっちまったな」
「ああ」
いつの間にか隣にサンジが立っていた。新しい煙草に火をつける手が、微かに震えている。
「おれはあの人を信じてた」
「……」
「恩人だと思ってた。優しい人だと」
声が掠れた。
「おれはバカだ」
「お前がバカなんじゃねェ」
ゾロは静かに答えた。
「あの女が、そう見せてただけだ」
二人はそれ以上何も言わず、並んで夜の海を見つめていた。
船は静かに波を切って進んでいった。
聖堂で、俺はヴェルナーからの報告書を読み終えた。
『ドリー、処分完了。最期までエルバフの誇りを保ったとのこと。ブロギー、見届けをもって報い完了。Mr.3、本部へ連行』
紅茶を一口含む。
傍らに、マルコが静かに控えていた。
「パンドラ様」
「どうしました」
「あの坊主は、これで変わるだろうよい」
「ええ。少し良い顔になると思います」
報告書を卓に置き、窓の外を見る。
夜の海。
あの少年は今、この海のどこかで拳を握りしめている。
それを想像すると、胸の奥に何かがちくりと刺さった。
……罪悪感だろうか。
まさか。
俺は悪だ。混沌・悪だ。それは変わらない。
けれど、ドリーの最期の言葉が頭から離れなかった。
『エルバフの戦士は死んでも屈しない』
紅茶を飲み干し、カップを置く。
「……面白いですね」
小さく呟いた。
「実に面白い世界です」
その声が少しだけ震えていたことに、俺は気づかないふりをした。
3話投稿してみました。