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地下書庫の一番奥に、小さな棚が一つ増えた。
ガラスケースの中に、一つずつ物が並んでいる。
シェルズタウンの手配書。ラブーンの額から削り取ったペンキの欠片。ドラム島の桜の花びら。港町の家の、扉の取っ手。観測員たちが持ち帰った、麦わらの少年が触れたものすべてだ。
「実験の結果をご報告します」
白衣の男が書類を差し出した。
魔女教の研究班の責任者で、名はハイゼンという。元は世界政府の科学者だった男だ。
「すべてのサンプルにパンドラ様の権能を試しました。結果、すべてで改竄が失敗、もしくは短時間で元に戻りました」
「やはり、そうですか」
俺は報告書を受け取った。
「規則性はありますか」
「あります。三つ」
ハイゼンは指を折った。
「一つ。少年の素手が直接触れたものに限られます。服や帽子越しでは効果が薄くなります」
「二つ目は」
「時間と共に効果が薄れます。最初の手配書は一カ月前のもので、現在は改竄の成功率がおよそ三割まで戻っています」
「まあ」
「三つ。効果の強さは、少年の感情に比例しています。怒りや悲しみで強く握ったものほど強く抵抗し、何気なく軽く触れたものは弱くなります」
俺は報告書を卓に置いた。
「つまり……」
「はい。少年が心のままに動いて触れたものほど、強く残るということです。恐らく、あの悪魔の実の本質が……」
「ええ、わかっています」
俺は静かに遮った。
ニカ。太陽の神。解放の象徴。
固定された事実を拒む力。
俺の改竄の対極にある能力だ。
「ありがとうございます、ハイゼンさん。素晴らしいお仕事です」
「恐縮です」
一礼して退室しようとするハイゼンを、俺は呼び止めた。
「ああ、一つお願いがあります。ギルバートさんをお呼びください」
ギルバートは青白い顔で書庫に入ってきた。
震える手で帽子を握りしめている。
「お呼びでしょうか、パンドラ様」
「ええ。少しお話を聞かせてください」
俺は椅子を勧めた。
「貴方はシェルズタウンで、麦わらの少年に福音書を渡しましたね」
「は、はい」
「その時、少年の手に触れましたか」
ギルバートは息を呑んだ。
「……はい。福音書を渡す時に、指先が触れました」
「そうですか」
俺はにこりと笑った。
「その時、何を感じましたか」
「何とは……」
「何でも構いません。正直に」
ギルバートは唇を噛み、やがて小さな声で言った。
「……温かかったです」
「温かい」
「はい。あの少年の手は、とても温かかった。そして、触れた瞬間、私は――」
言葉が途切れた。
「私は初めて、自分が嘘をついていると思いました」
書庫に沈黙が落ちた。
「魔女教の教えを信じています。本当に。ですがあの瞬間、福音書の三行が、ひどく空虚なものに思えたのです」
「なるほど」
俺は静かに頷いた。
「ありがとうございます。貴重なお話です」
それから、ゆっくりと手を伸ばした。
「少しだけ失礼しますね」
権能を使う。
ギルバートの頭の中の、あの日の記憶を書き換えようとした。
……弾かれた。
見えない壁に阻まれるように。
もう一度試す。やはり、弾かれる。
ギルバートの目が、恐怖で見開かれた。
「パ、パンドラ様……?」
「大丈夫です。何もしていませんよ」
俺は手を引いた。
アラバスタの王女の時と同じだ。
やはり、あの少年が触れた人にまで効果が及んでいる。
わかってはいた。ただ、改めて目の当たりにすると、背筋が冷える。
「ギルバートさん」
「は、はい」
「貴方にはこれから、本部に留まっていただきます」
「え?」
「観測員の任務は解きます。代わりに、私の傍で働いてください」
ギルバートの顔が蒼白になった。
それが何を意味するのか、理解したのだ。
傍に置く。それは監視されるということ。そして、いつでも処分できるということ。
「……承知いたしました」
深々と下げた頭の下で、肩が小刻みに震えていた。
俺は彼を殺さなかった。理由は単純だ。
貴重なサンプルだからだ。あの少年が触れた人間がどう変化していくのか、何が残るのか。観察する価値がある。
……それだけだ。それ以上の理由はない。
そう自分に言い聞かせた。
その夜、大罪の間に司教たちが集められた。
「皆さん、今日から本格的に動きます」
俺は円卓の前に立って告げた。
「目標は麦わらの少年、モンキー・D・ルフィの打倒です。殺害ではありません。『敗北させる』ことです」
幹部たちが顔を見合わせた。
「あ、あの、以前の命令はどうなさるのでしょうか」
レグルスがおずおずと尋ねた。
「変わりません。皆さんが彼に直接手を出すことは、今後も禁じます。皆さんにお願いするのは、そのための準備です」
俺は卓上の地図に、赤い線を引いた。
「計画は四つの段階からなります」
ペテルギウスが身を乗り出す。
「第一段階。『触れさせない』」
俺は指を立てた。
「少年が触れたものに、私の権能は効きません。ですから、少年が触れることのできるすべてを管理します。彼が立ち寄る島の人々を近寄らせません。食事も水も船も、すべてです」
「孤立化は、既に進めているのデス」
「ええ、さらに徹底します」
二本目の指。
「第二段階。『笑わせない』」
大罪司教たちがきょとんとした。
「笑顔を、デスか」
「そうです」
俺は静かに言った。
「ゴムゴムの実の正体は、ヒトヒトの実 幻獣種 モデル『ニカ』。太陽の神ニカは『解放の戦士』であり、『笑い』の象徴です」
「……」
「少年が本当に笑える状況を作らせません。仲間を奪わない代わりに、希望を奪います。笑う理由を一つずつ潰していくのです。それが、彼の覚醒を遅らせる最善の方法です」
円卓が静まり返った。
じゃらり、と鎖が鳴った。シリウスが、包帯の下で小さく息を漏らす。
「ごめんね、パンドラ様。笑いは人の心を一つにする、尊い喜びです。それを奪うのは、あまりに……」
「あまりに残酷、ですか?」
俺は微笑んだ。
「ええ、残酷です。ですが私たちは悪です。悪が覇権を取るためなら、これくらいの残酷さは必要でしょう」
唯一覗く左目が伏せられ、シリウスは俯いた。
「第三段階」
三本目の指。
「『距離』です」
俺は卓上に、小さな石ころを置いた。
「この石に権能を使います」
石が卓上から消えた。
次の瞬間、部屋の反対側の壁際に現れる。
誰も動いていない。ただ、石と卓の間の距離が書き換えられたのだ。
「世界の距離を、少し書き換えます。少年が私に向かって歩いても、決して近づけない。拳を振るっても、決して届かない」
「なるほどね」
ライが感嘆の声を上げた。
「触れられなきゃ、あの力も意味がないってわけだ」
「そのとおりです」
俺は頷いた。
「ただし、この改竄は規模が大きくなるほど、権能の消耗も大きくなります。ですから、第四段階が必要です」
四本目の指。
「『道具』です」
卓上に、巨大な青い結晶が置かれた。
海楼石。
「世界中の海楼石を買い占めます。既に全体のおよそ七割を押さえました。これを武器と拘束具、そして結界として使います」
海楼石は悪魔の実の能力者の力を奪う。ゴムゴムの実も例外ではない。
「少年に海楼石の鎖を巻く。それだけで彼はただの少年になります。その最後の一手は、私が自ら打ちましょう」
円卓に重い静寂が降りた。
これがいかに周到な計画か、誰もが理解していた。
あの少年は強い。成長も早い。それでも、ここまで徹底的に準備された罠から逃れられるか。
「質問はありますか」
「一つだけ」
ロイ・アルファルドが手を挙げた。
「空島にいる『神』を名乗る奴、エネルはどうすんの?」
「ああ、あの方ですか」
俺は卓上に、別の地図を広げた。
白海。空に浮かぶ島々。空島スカイピア。
「エネルはビリビリの実の、雷の
レグルスが静かに頷いた。彼もまた、同じ雷を操る実の能力者である。
「ただし、雷はゴムに効きません。少年がエネルに負けることはないでしょう」
「では……」
「それでも使えます」
俺はにこりと笑った。
「エネルは傲慢な神です。自分を世界の頂点だと信じています。そんな男があの少年と衝突したとき、何が起きるか」
「……少年が勝つのでは」
「ええ、勝つでしょう。エネルは負けます」
俺は頷いた。
「問題は、その後です」
「後?」
「エネルが倒れたあと、スカイピアは空白地帯になります。黄金の都シャンドラ、伝説の巨大な黄金の鐘……それらがすべて、手付かずのまま残ります」
ライの目が輝いた。
「いただきます、ってことだね」
「ええ、戦後の空島を」
俺は空島の地図に、小さな駒を置いた。
「エネルが麦わらの少年と戦う間、魔女教は静観します。そしてすべてが終わった後に、『復興支援』の名目で空島に入ります。黄金も土地も住民も、すべて庇護下に置きます」
「アラバスタの時と同じだね」
「ええ、同じです」
俺は笑みを深めた。
「勝者を決めるのは戦いではありません。その後の後始末を、誰が取り仕切るかです」
会議はそこで終わった。
司教たちが順に退室していく。
残ったのは俺と、扉の傍に静かに立つマルコだけだった。
「パンドラ様」
「どうしました」
「一つ聞いてもいいかよい」
「ええ」
「麦わらの坊主を倒したあと、どうするつもりだよい」
俺は少し考えた。
「殺すか、という意味ですか」
「ああ」
「……そうですね」
窓の外には、夜の海が広がっている。
「殺しはしません。ただ、折ります」
「折る……」
「ええ。希望も自由も笑顔もすべて取り上げて、ただの人形にして差し上げます。そして――」
俺は小さく笑った。
「世界で最も安全な場所、つまり私の手の中で、生かし続けます」
マルコがわずかに息を呑んだ。
「それは……」
「ひどいと思いますか」
「……いや」
マルコは頭を下げた。
「パンドラ様が決めたことだよい」
声は平坦だった。けれど、その手は背中で微かに震えていた。
俺はそれに気づかないふりをした。
一人になってから、俺は地下書庫に戻った。
ガラスケースから、皺だらけの手配書を取り出す。笑顔の少年。
権能を使い、無表情に書き換える。
写真は一瞬、無表情になった。けれど数秒後、また笑った。
「……やはり、な」
小さく呟く。
以前より、戻るまでの時間が少しだけ長くなっている。時間と共に効果が薄れているのだ。
ならば、いずれこの手配書も完全に改竄できるようになる。
けれど、少年が新しく何かに触れるたびに、新しい抵抗が生まれる。きりがない。
……だから、触れさせないのだ。
麦わら帽子の少年を見つめる。
この笑顔を、俺は奪おうとしている。
胸の奥がちくりと痛んだ。
やはりこれは、罪悪感なのだろうか。
……いや、違う。これはただの疲れだ。
首を振り、手配書をケースに戻そうとして、手が止まった。
少年の笑顔が、ほんの少しだけ悲しそうに見えた気がした。
……錯覚だろう。
俺は乱暴にケースを閉め、鍵をかけた。
それから、ふと報告書の一文を思い出した。
ドクトリーヌ・くれはが言っていたという。
『寂しそうだった』
三十年前に改竄した記憶の、残り香。
誰が寂しそうだったのか。その答えを、俺は知っている気がした。
けれど、知りたくなかった。
地下書庫の扉を閉める。
その背後で、ガラスケースの中の桜の花びらが、微かに揺れた気がした。
風など吹いていないのに。
翌朝、ライ・バテンカイトスが報告に来た。
「パンドラ様、空島に向かう船が見つかったよ」
「どちらの船ですか」
「麦わらの一味さ。ジャヤって島から、
「そうですか」
俺は頷いた。
「では、予定どおりに」
「はーい。ハンターを三人つけとくよ。接触はしないでね」
「ええ。ただ見ているだけで構いません」
ライが一礼して退室した。
卓の上の紅茶に手を伸ばす。湯気が立ち昇っている。
一口飲む。
甘かった。けれど、味がほとんどしなかった。
窓の外の空はよく晴れている。
その遥か上に雲の海があり、神を名乗る男がいる。
あの少年はそこへ向かう。そしてそこでもまた、俺の計画の一部に組み込まれる。
すべては順調だ。
それなのに、どうしてこんなにも胸が静かにざわつくのだろう。
俺は答えを探すのをやめた。ただ紅茶を飲み干して、静かに言った。
「……勝つのは私です」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。