魔女は実在する   作:ベータテストマン

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■

 

 地下書庫の一番奥に、小さな棚が一つ増えた。

 ガラスケースの中に、一つずつ物が並んでいる。

 シェルズタウンの手配書。ラブーンの額から削り取ったペンキの欠片。ドラム島の桜の花びら。港町の家の、扉の取っ手。観測員たちが持ち帰った、麦わらの少年が触れたものすべてだ。

「実験の結果をご報告します」

 白衣の男が書類を差し出した。

 魔女教の研究班の責任者で、名はハイゼンという。元は世界政府の科学者だった男だ。

「すべてのサンプルにパンドラ様の権能を試しました。結果、すべてで改竄が失敗、もしくは短時間で元に戻りました」

「やはり、そうですか」

 俺は報告書を受け取った。

「規則性はありますか」

「あります。三つ」

 ハイゼンは指を折った。

「一つ。少年の素手が直接触れたものに限られます。服や帽子越しでは効果が薄くなります」

「二つ目は」

「時間と共に効果が薄れます。最初の手配書は一カ月前のもので、現在は改竄の成功率がおよそ三割まで戻っています」

「まあ」

「三つ。効果の強さは、少年の感情に比例しています。怒りや悲しみで強く握ったものほど強く抵抗し、何気なく軽く触れたものは弱くなります」

 俺は報告書を卓に置いた。

「つまり……」

「はい。少年が心のままに動いて触れたものほど、強く残るということです。恐らく、あの悪魔の実の本質が……」

「ええ、わかっています」

 俺は静かに遮った。

 ニカ。太陽の神。解放の象徴。

 固定された事実を拒む力。

 俺の改竄の対極にある能力だ。

「ありがとうございます、ハイゼンさん。素晴らしいお仕事です」

「恐縮です」

 一礼して退室しようとするハイゼンを、俺は呼び止めた。

「ああ、一つお願いがあります。ギルバートさんをお呼びください」

 

 ギルバートは青白い顔で書庫に入ってきた。

 震える手で帽子を握りしめている。

「お呼びでしょうか、パンドラ様」

「ええ。少しお話を聞かせてください」

 俺は椅子を勧めた。

「貴方はシェルズタウンで、麦わらの少年に福音書を渡しましたね」

「は、はい」

「その時、少年の手に触れましたか」

 ギルバートは息を呑んだ。

「……はい。福音書を渡す時に、指先が触れました」

「そうですか」

 俺はにこりと笑った。

「その時、何を感じましたか」

「何とは……」

「何でも構いません。正直に」

 ギルバートは唇を噛み、やがて小さな声で言った。

「……温かかったです」

「温かい」

「はい。あの少年の手は、とても温かかった。そして、触れた瞬間、私は――」

 言葉が途切れた。

「私は初めて、自分が嘘をついていると思いました」

 書庫に沈黙が落ちた。

「魔女教の教えを信じています。本当に。ですがあの瞬間、福音書の三行が、ひどく空虚なものに思えたのです」

「なるほど」

 俺は静かに頷いた。

「ありがとうございます。貴重なお話です」

 それから、ゆっくりと手を伸ばした。

「少しだけ失礼しますね」

 権能を使う。

 ギルバートの頭の中の、あの日の記憶を書き換えようとした。

 ……弾かれた。

 見えない壁に阻まれるように。

 もう一度試す。やはり、弾かれる。

 ギルバートの目が、恐怖で見開かれた。

「パ、パンドラ様……?」

「大丈夫です。何もしていませんよ」

 俺は手を引いた。

 アラバスタの王女の時と同じだ。

 やはり、あの少年が触れた人にまで効果が及んでいる。

 わかってはいた。ただ、改めて目の当たりにすると、背筋が冷える。

「ギルバートさん」

「は、はい」

「貴方にはこれから、本部に留まっていただきます」

「え?」

「観測員の任務は解きます。代わりに、私の傍で働いてください」

 ギルバートの顔が蒼白になった。

 それが何を意味するのか、理解したのだ。

 傍に置く。それは監視されるということ。そして、いつでも処分できるということ。

「……承知いたしました」

 深々と下げた頭の下で、肩が小刻みに震えていた。

 俺は彼を殺さなかった。理由は単純だ。

 貴重なサンプルだからだ。あの少年が触れた人間がどう変化していくのか、何が残るのか。観察する価値がある。

 ……それだけだ。それ以上の理由はない。

 そう自分に言い聞かせた。

 

 その夜、大罪の間に司教たちが集められた。

「皆さん、今日から本格的に動きます」

 俺は円卓の前に立って告げた。

「目標は麦わらの少年、モンキー・D・ルフィの打倒です。殺害ではありません。『敗北させる』ことです」

 幹部たちが顔を見合わせた。

「あ、あの、以前の命令はどうなさるのでしょうか」

 レグルスがおずおずと尋ねた。

「変わりません。皆さんが彼に直接手を出すことは、今後も禁じます。皆さんにお願いするのは、そのための準備です」

 俺は卓上の地図に、赤い線を引いた。

「計画は四つの段階からなります」

 ペテルギウスが身を乗り出す。

「第一段階。『触れさせない』」

 俺は指を立てた。

「少年が触れたものに、私の権能は効きません。ですから、少年が触れることのできるすべてを管理します。彼が立ち寄る島の人々を近寄らせません。食事も水も船も、すべてです」

「孤立化は、既に進めているのデス」

「ええ、さらに徹底します」

 二本目の指。

「第二段階。『笑わせない』」

 大罪司教たちがきょとんとした。

「笑顔を、デスか」

「そうです」

 俺は静かに言った。

「ゴムゴムの実の正体は、ヒトヒトの実 幻獣種 モデル『ニカ』。太陽の神ニカは『解放の戦士』であり、『笑い』の象徴です」

「……」

「少年が本当に笑える状況を作らせません。仲間を奪わない代わりに、希望を奪います。笑う理由を一つずつ潰していくのです。それが、彼の覚醒を遅らせる最善の方法です」

 円卓が静まり返った。

 じゃらり、と鎖が鳴った。シリウスが、包帯の下で小さく息を漏らす。

「ごめんね、パンドラ様。笑いは人の心を一つにする、尊い喜びです。それを奪うのは、あまりに……」

「あまりに残酷、ですか?」

 俺は微笑んだ。

「ええ、残酷です。ですが私たちは悪です。悪が覇権を取るためなら、これくらいの残酷さは必要でしょう」

 唯一覗く左目が伏せられ、シリウスは俯いた。

「第三段階」

 三本目の指。

「『距離』です」

 俺は卓上に、小さな石ころを置いた。

「この石に権能を使います」

 石が卓上から消えた。

 次の瞬間、部屋の反対側の壁際に現れる。

 誰も動いていない。ただ、石と卓の間の距離が書き換えられたのだ。

「世界の距離を、少し書き換えます。少年が私に向かって歩いても、決して近づけない。拳を振るっても、決して届かない」

「なるほどね」

 ライが感嘆の声を上げた。

「触れられなきゃ、あの力も意味がないってわけだ」

「そのとおりです」

 俺は頷いた。

「ただし、この改竄は規模が大きくなるほど、権能の消耗も大きくなります。ですから、第四段階が必要です」

 四本目の指。

「『道具』です」

 卓上に、巨大な青い結晶が置かれた。

 海楼石。

「世界中の海楼石を買い占めます。既に全体のおよそ七割を押さえました。これを武器と拘束具、そして結界として使います」

 海楼石は悪魔の実の能力者の力を奪う。ゴムゴムの実も例外ではない。

「少年に海楼石の鎖を巻く。それだけで彼はただの少年になります。その最後の一手は、私が自ら打ちましょう」

 円卓に重い静寂が降りた。

 これがいかに周到な計画か、誰もが理解していた。

 あの少年は強い。成長も早い。それでも、ここまで徹底的に準備された罠から逃れられるか。

「質問はありますか」

「一つだけ」

 ロイ・アルファルドが手を挙げた。

「空島にいる『神』を名乗る奴、エネルはどうすんの?」

「ああ、あの方ですか」

 俺は卓上に、別の地図を広げた。

 白海。空に浮かぶ島々。空島スカイピア。

「エネルはビリビリの実の、雷の自然(ロギア)系能力者です」

 レグルスが静かに頷いた。彼もまた、同じ雷を操る実の能力者である。

「ただし、雷はゴムに効きません。少年がエネルに負けることはないでしょう」

「では……」

「それでも使えます」

 俺はにこりと笑った。

「エネルは傲慢な神です。自分を世界の頂点だと信じています。そんな男があの少年と衝突したとき、何が起きるか」

「……少年が勝つのでは」

「ええ、勝つでしょう。エネルは負けます」

 俺は頷いた。

「問題は、その後です」

「後?」

「エネルが倒れたあと、スカイピアは空白地帯になります。黄金の都シャンドラ、伝説の巨大な黄金の鐘……それらがすべて、手付かずのまま残ります」

 ライの目が輝いた。

「いただきます、ってことだね」

「ええ、戦後の空島を」

 俺は空島の地図に、小さな駒を置いた。

「エネルが麦わらの少年と戦う間、魔女教は静観します。そしてすべてが終わった後に、『復興支援』の名目で空島に入ります。黄金も土地も住民も、すべて庇護下に置きます」

「アラバスタの時と同じだね」

「ええ、同じです」

 俺は笑みを深めた。

「勝者を決めるのは戦いではありません。その後の後始末を、誰が取り仕切るかです」

 

 会議はそこで終わった。

 司教たちが順に退室していく。

 残ったのは俺と、扉の傍に静かに立つマルコだけだった。

「パンドラ様」

「どうしました」

「一つ聞いてもいいかよい」

「ええ」

「麦わらの坊主を倒したあと、どうするつもりだよい」

 俺は少し考えた。

「殺すか、という意味ですか」

「ああ」

「……そうですね」

 窓の外には、夜の海が広がっている。

「殺しはしません。ただ、折ります」

「折る……」

「ええ。希望も自由も笑顔もすべて取り上げて、ただの人形にして差し上げます。そして――」

 俺は小さく笑った。

「世界で最も安全な場所、つまり私の手の中で、生かし続けます」

 マルコがわずかに息を呑んだ。

「それは……」

「ひどいと思いますか」

「……いや」

 マルコは頭を下げた。

「パンドラ様が決めたことだよい」

 声は平坦だった。けれど、その手は背中で微かに震えていた。

 俺はそれに気づかないふりをした。

 

 一人になってから、俺は地下書庫に戻った。

 ガラスケースから、皺だらけの手配書を取り出す。笑顔の少年。

 権能を使い、無表情に書き換える。

 写真は一瞬、無表情になった。けれど数秒後、また笑った。

「……やはり、な」

 小さく呟く。

 以前より、戻るまでの時間が少しだけ長くなっている。時間と共に効果が薄れているのだ。

 ならば、いずれこの手配書も完全に改竄できるようになる。

 けれど、少年が新しく何かに触れるたびに、新しい抵抗が生まれる。きりがない。

 ……だから、触れさせないのだ。

 麦わら帽子の少年を見つめる。

 この笑顔を、俺は奪おうとしている。

 胸の奥がちくりと痛んだ。

 やはりこれは、罪悪感なのだろうか。

 ……いや、違う。これはただの疲れだ。

 首を振り、手配書をケースに戻そうとして、手が止まった。

 少年の笑顔が、ほんの少しだけ悲しそうに見えた気がした。

 ……錯覚だろう。

 俺は乱暴にケースを閉め、鍵をかけた。

 それから、ふと報告書の一文を思い出した。

 ドクトリーヌ・くれはが言っていたという。

『寂しそうだった』

 三十年前に改竄した記憶の、残り香。

 誰が寂しそうだったのか。その答えを、俺は知っている気がした。

 けれど、知りたくなかった。

 地下書庫の扉を閉める。

 その背後で、ガラスケースの中の桜の花びらが、微かに揺れた気がした。

 風など吹いていないのに。

 

 翌朝、ライ・バテンカイトスが報告に来た。

「パンドラ様、空島に向かう船が見つかったよ」

「どちらの船ですか」

「麦わらの一味さ。ジャヤって島から、突き上げる海流(ノックアップストリーム)に乗るつもりみたいだね」

「そうですか」

 俺は頷いた。

「では、予定どおりに」

「はーい。ハンターを三人つけとくよ。接触はしないでね」

「ええ。ただ見ているだけで構いません」

 ライが一礼して退室した。

 卓の上の紅茶に手を伸ばす。湯気が立ち昇っている。

 一口飲む。

 甘かった。けれど、味がほとんどしなかった。

 窓の外の空はよく晴れている。

 その遥か上に雲の海があり、神を名乗る男がいる。

 あの少年はそこへ向かう。そしてそこでもまた、俺の計画の一部に組み込まれる。

 すべては順調だ。

 それなのに、どうしてこんなにも胸が静かにざわつくのだろう。

 俺は答えを探すのをやめた。ただ紅茶を飲み干して、静かに言った。

「……勝つのは私です」

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 

 

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