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ルフィは、腹が減っていた。
小舟の上で仰向けに寝転がり、麦わら帽子で顔を覆っている。空は青く、雲はのんびり流れ、波は穏やかだ。
「腹減ったなァ……」
返事はない。当たり前だ。この小さな舟にはルフィ一人しか乗っていない。
仲間が欲しい。海賊王になるには、最低でも十人は必要だ。船には船長と、剣士と、航海士と、狙撃手と、コックと、音楽家がいる。それがルフィの考えるいい海賊団の条件だった。
だが、今は一人だ。
「しっかし、なんか静かだな、この海」
ルフィは体を起こして、あたりを見回した。
海賊がいない。
東の海は最弱の海と呼ばれている。それでも時々、海賊船とすれ違うはずだった。ところがここ数日、一隻も見ていない。
代わりに見かけるのは、黒い旗の船ばかりだった。
黒地に、白い魔女の横顔。
魔女教の船だ。
ルフィはその旗を見るたびに首を傾げていた。悪い連中には見えなかったからだ。船員たちは手を振ってくれた。「航海の無事を祈る」と、わざわざ声をかけてきた者もいた。
けれど、ルフィは何となくその船に近づきたくなかった。
理由はわからない。ただ、鼻の奥がツンとするのだ。甘い匂いなのに、嫌な匂い。そういう匂いが、あの黒い船から漂ってくる。
ルフィは考えるのをやめた。腹が減っているときに考え事をすると、もっと腹が減る。
夕方、小さな島に着いた。
町の名前はシェルズタウン。海軍の支部がある、そこそこ大きな町だった。
ルフィは舟を桟橋に繋いで町に入った。
食堂を探して歩く。道行く人々は皆、どこか俯いて歩いていた。声を出して笑っている者は一人もいない。
「なんだこの町。みんな元気ねェな」
ルフィは通りがかった食堂の主人に尋ねた。
「おっちゃん、飯くれ!」
「はいよ。……お客さん、旅の人かい?」
「おう! 海賊王になる男だ!」
主人は一瞬固まった。それから慌てて周りを見回し、声を潜めた。
「お客さん、その言葉はあんまり大声で言わない方がいい」
「なんで?」
「この町には、魔女教のハンターさんたちがいるからね」
食堂の隅に、黒い制服の三人組が座っていた。静かに食事をしている。ルフィのことは気にも留めていない様子だった。
「ハンター? 海賊を捕まえる奴らか?」
「そうだよ。ありがたいことに、この町の暴君を倒してくださったんだ」
主人はそう言いながら厨房に引っ込んだ。
その背中が微かに震えているのを、ルフィは見逃さなかった。
飯を三人前平らげたところで、ルフィはようやく落ち着いた。
「ふー、食った食った! おっちゃん、うまかった!」
「ありがとうございます。お代は結構です」
「え? いや、払うぞ。金あるし」
「いえ、本当に。魔女教の方から、旅人さんには食事を無料で振る舞うようにと通達がありまして」
主人はにこやかに笑っていた。だが、その目は笑っていなかった。
ルフィは何か言おうとしてやめた。代わりに麦わら帽子を深くかぶり直して店を出た。
町外れに広場があった。
広場の中央には、巨大な石像が立っている。斧を構えた屈強な男の像だ。
「モーガン大佐」と台座に刻まれていた。
ただし、その像の首は斬り落とされていた。
台座の下には一枚の板が立てかけられている。
『暴君、ここに眠る。魔女教の慈悲により、人々は自由を得た』。
ルフィは板の文字をゆっくり読み終えて広場を見回した。
子供たちが広場で遊んでいる。だが石像の周りには誰も近寄らない。大人たちも広場を通るときは足早に通り過ぎる。
誰も石像を見ようとしない。
一人、鎖で繋がれた男が広場の隅に座り込んでいた。
緑の髪。三本の刀を腰に差している。
その男はルフィを見て、ぼそりと言った。
「……おい、お前」
「ん?」
「何をじろじろ見てやがる」
「お前、何してんだ?」
「見りゃわかるだろ。捕まってんだよ」
男は不機嫌そうに言った。ルフィは近づいて男をまじまじと見た。
「お前、名前は?」
「……ロロノア・ゾロ」
「ゾロか。おれはルフィ。お前、強いのか?」
「おれは世界一の剣豪になる男だ」
ルフィは目を輝かせた。
「へェ! いいな、それ! おれの仲間になれ!」
「は?」
「おれ、海賊王になるんだ。お前、剣士だろ? ちょうど剣士が欲しかったんだ!」
ゾロは呆れた顔でルフィを見た。
「お前、頭大丈夫か? おれはここで三日縛られてんだ。ハンターどもに『魔女教に入れ』ってしつこく言われてな」
「入らねェのか?」
「入るかよ、あんな連中」
ゾロの声には強い嫌悪が滲んでいた。
「あいつら、おれをモーガンと同じ目に遭わせるつもりだ」
「モーガンって、あの像の?」
「ああ。あいつは確かにクソ野郎だった。だがあの殺し方は違う」
ゾロは石像を睨んだ。
「あれは見せしめだ。町の人間全員にあの死に様を見せつけた。三日三晩、広場でな」
ルフィは黙って聞いていた。
「それ以来、この町の人間は誰も笑わなくなった。魔女教の連中が町を歩くたびに全員が頭を下げる。感謝してるって言いながらな」
「……ふーん」
「お前、わかってんのか?」
「わかんねェ。けど」
ルフィは鎖を両手で掴んだ。
「お前が嫌な顔してんのはわかる」
ゴムの腕がぐいっと引っ張られた。
ミシミシと音を立てて、鎖が千切れた。
「お、おいお前!」
「よし、取れた! ゾロ、飯食いに行こうぜ! 腹減ってんだろ?」
ゾロは自由になった手首をさすりながら、信じられないものを見る目でルフィを見た。
それから、小さく吹き出した。
「……お前、バカだな」
「なんだとー!」
「いや、いい。気に入った」
ゾロは立ち上がって、腰の刀を確かめた。
「いいぜ、仲間になってやる。ただし条件がある」
「なんだ?」
「おれが世界一の剣豪になる夢を笑うな。笑ったら斬る」
「笑わねェよ! おれの夢も笑われたらぶっ飛ばすからな!」
二人は顔を見合わせてニヤリと笑った。
その時だった。
「おや、これはこれは」
背後から穏やかな声がした。
振り返ると、黒い制服の男が立っていた。先ほど食堂にいた三人組の一人だ。
「脱走ですか、ロロノア・ゾロさん。困りますね」
「……チッ」
ゾロが刀に手をかける。男は両手を軽く上げて苦笑した。
「いえいえ、争うつもりはありません。ただ、貴方にお伝えしたいことがあって」
「なんだ」
「魔女教は貴方のような剣士を歓迎しています。待遇は保証します。月に百万ベリー。魔女教ハンターとして功績を挙げれば昇進も」
「断る」
「そう仰らず」
男はにこにこと笑っていた。
「では、そちらの麦わら帽子の方はいかがですか?」
ルフィは男をじっと見た。
男の笑顔は、人の良さそうな優しい笑顔だった。
だが、ルフィの鼻はあの甘い匂いを嗅ぎ取っていた。
「いらねェ。おれは海賊王になる男だ」
「ほう。海賊王。これはこれは」
男は微笑んだまま、ルフィに近づいた。
「海賊王は素晴らしい夢です。ですが、世界はもう変わりつつあります」
「変わる?」
「ええ。白ひげは倒れました。ビッグ・マムも魔女教の庇護下に入りました。この世界の覇権は、すでに決まりつつあるのです」
男は懐から小さな黒い冊子を取り出した。
「どうぞ。これを読みください。魔女教の福音書です」
ルフィは受け取った。
表紙をめくる。
三行だけ書いてあった。
――隣人を愛そう。
――困ったら誰かに相談しよう。
――仲間と助け合おう。
「……なんだこれ。いいこと書いてあるじゃねェか」
「そうでしょう。魔女教は愛と助け合いの教えです」
「ふーん」
ルフィは冊子をしばらく見つめて、それから男に返した。
「いらねェ」
「おや」
「だって、お前ら嘘ついてんだろ」
男の笑顔が、一瞬止まった。
「……何故そう思われます?」
「わかんねェ。けど、お前からすげェ嫌な匂いがする。甘ェのに、気持ち悪ィ匂いだ」
ルフィは男をまっすぐに見た。
「ゾロが言ってた。お前らモーガンを見せしめに殺したんだろ」
「……ええ、確かに」
「なんでそんなことした」
「必要だったからです」
男は変わらぬ笑顔で答えた。
「悪を罰することは善です。善を行うために悪を罰する。それが魔女教の教えです」
「でもお前、さっき『愛そう』って書いてあったぞ」
「ええ。隣人を愛そう。私たちはこの町の人々を愛しています」
「じゃあ、なんでみんな怖がってんだ」
男は答えなかった。
その沈黙が、ルフィの質問に対する何よりの答えだった。
ゾロが静かに刀を抜いた。
「おい、麦わら」
「ん?」
「こいつ、斬っていいか」
「ダメだ」
ルフィは手を伸ばしてゾロを制した。
「こいつはまだ何もしてねェ」
「……お前、甘ェな」
「甘くねェ。おれ、もうこいつらがいい奴らじゃねェってわかってる」
ルフィは男に向き直った。
「ご理解感謝します」
男は恭しく頭を下げた。
「では、私どもはこれで失礼します。貴方がたの旅の無事を祈っております」
男は背を向けて歩き去った。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、ルフィは動かなかった。
「……行ったな」
「ああ」
ゾロが刀を納めた。
「お前、本当にあいつらと戦う気か?」
「戦う」
ルフィは即答した。
「だって、あいつらムカつく」
「理由が単純だな」
「それが一番大事だろ」
ゾロは苦笑した。
その夜、二人は町の宿に泊まった。宿の主人は金を受け取らなかった。理由を聞くと魔女教の通達だという。
布団に入ったルフィは、天井を見つめていた。
ゾロが隣で寝息を立てている。
ルフィは起き上がって窓の外を見た。
町の向こうに海が広がっている。波の音がかすかに聞こえる。
そのとき、ふと枕元の新聞が目に入った。
宿の主人が置いていったものだ。ルフィは何気なくそれを開いた。
一面には大きな見出しが踊っていた。
『魔女教、ビッグ・マム海賊団を討伐! 新世界の秩序回復!!』
写真が載っていた。
黒い聖堂の前に、白金の髪の少女が立っている。顔ははっきり写っていなかった。ただ、その後ろに無数の人影が並んでいた。
ルフィは新聞のページをめくりながら読んでいった。
三面。五面。八面。
十二面の片隅に、小さな記事があった。
『ポートガス・D・エース、海軍へ引き渡し。魔女教、報奨金五億五千万ベリーを受領』
ルフィの手が止まった。
しばらく動かなかった。
新聞の文字を、何度も、何度も読み返した。
「……エース」
小さな声が漏れた。
ルフィの兄貴だ。何年も会っていない。海に出てから一度も連絡がなかった。それでも、どこかで元気にやっているだろうと思っていた。
それが、海軍へ引き渡された。
五億五千万ベリーで売られた。
ルフィは新聞をゆっくり畳んだ。
麦わら帽子の影で、その表情は見えなかった。
翌朝、ゾロはルフィの様子がおかしいことに気づいた。
笑っていない。
飯を食べている最中も、ほとんど喋らなかった。
「おい、麦わら」
「ん」
「何かあったのか」
「……ゾロ」
ルフィは箸を置いた。
「おれ、行かなきゃなんねェ場所ができた」
「どこだ」
「魔女に会いに行く」
ゾロが目を丸くした。
「魔女教の教祖か? あの虚飾の魔女とかいう」
「ああ」
「何のために」
「エースを取り返す」
ルフィの声は静かだった。
けれどその静けさの下には、ゾロでさえぞくりとするほどの強い強い感情が渦巻いていた。
「あいつは、おれの兄ちゃんを売りやがった」
ゾロはそれ以上何も聞かなかった。
ただ、小さく頷いた。
「付き合ってやる」
「ほんとか?」
「ああ。ただし一つだけ言っておく」
ゾロは真剣な目でルフィを見た。
「あの魔女は、お前が思ってるよりずっとヤバい」
「わかってる」
「いや、わかってねェ。あいつは四皇を二人落とした奴だ。お前が今勝てる相手じゃねェ」
「わかってる。だから強くなる」
ルフィは麦わら帽子を押さえた。
「仲間を集める。世界中の強ェ奴を仲間にする。そして、あいつをぶっ飛ばす」
「……そうか」
ゾロは口の端を少しだけ上げた。
「じゃあ、おれが最初の仲間ってわけか」
「おう! よろしくな、ゾロ!」
ルフィはいつもの満面の笑みを浮かべた。
その笑顔があまりにも眩しくて、ゾロは一瞬目を細めた。
二人は宿を出た。
空はよく晴れていた。
港に向かう道すがら、通りの向こうから黒い船の旗が見えた。
魔女教の船だ。
ルフィはその旗をまっすぐに見つめた。
船の甲板に一人の男が立っていた。
望遠鏡でこちらを見ている。
昨日の男とは別人だ。だが、同じあの笑顔を浮かべていた。
見られている。
ルフィはそれに気づいていた。
あの船だけじゃない。きっと、この島のあちこちに魔女教の目がある。
世界中が、あの魔女の目になっている。
……それでも。
ルフィは笑った。
「待ってろよ、魔女」
小さな声で呟いた。
「おれは、海賊王になる男だ」
風が麦わら帽子を揺らした。
遠く、水平線の彼方で誰かが紅茶を飲んでいるような気がした。
甘い匂いがした。