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シェルズタウンの観測員は、ギルバートという名の中年の男だった。
魔女教の一般教徒の中でも古参に入る。元は東の海の小さな港町で、役所勤めをしていた。真面目で几帳面で、嘘をつくのが下手。だからこそ観測員に向いている。
その彼が今、聖堂の床に額をつけていた。
「以上が、ご報告です、パンドラ様」
「ご苦労様でした。顔を上げてください」
ギルバートがゆっくりと顔を上げる。冷や汗が顎の先から滴っていた。
報告の内容はすべて頭に入っている。
モンキー・D・ルフィがロロノア・ゾロを解放したこと。福音書を断ったこと。「嘘ついてんだろ」と言ったこと。そして、新聞でエースの記事を見て表情が変わったこと。
「ギルバートさん」
「は、はい」
「貴方は福音書を、麦わらの少年に渡しましたね」
「は……はい。勧誘の手順に従いまして」
「それで、結果は」
「お、お断りになりました」
「そうでしょうね」
俺は微笑んだ。
「それで構いません。貴方は正しく役目を果たしてくださいました」
ギルバートの顔から、ほんの少しだけ緊張が抜けた。
だが、壁際に控えた幹部たちは誰も緊張を解かない。
彼らは知っているのだ。俺がこういう顔で笑うとき、何かが起きることを。
「ところで、ギルバートさん」
「はい」
「貴方は麦わらの少年に、何を感じましたか?」
「え?」
「感想で構いません。正直にお聞かせください」
ギルバートは口を開けたまま、しばらく言葉を探した。
「……恐ろしい、と思いました」
「まあ」
「ただの子供のように見えました。ですが福音書を渡したとき、あの目が私を見たのです。まるで、私の中身をすべて見透かすように」
その声は震えていた。
「彼は私を、嘘をついていると言いました。私は嘘などついていません。魔女教の教えを信じています。ですがあの少年の前では、自分が嘘をついているような気がして……」
彼はそこで言葉を切った。
「申し訳ありません。支離滅裂で」
「いえ、とても参考になりました」
俺は頷いた。
……やはり、か。
あの少年は、俺の「虚飾」を本能で嗅ぎ取っている。
改竄された記憶や書き換えられた認識を、根本的に受け付けないのかもしれない。理屈ではない。あの少年の生き方そのものが、「嘘」を拒むのだ。
これは使える。そして同時に、危険だ。
紅茶のカップを受け皿に置く。
カチャリという小さな音が、静寂の中にやけに大きく響いた。
「皆さん」
俺は幹部たちを見回した。
「麦わらの少年、モンキー・D・ルフィについて、お伝えしておくことがあります」
大罪司教たちが背筋を伸ばす。
「彼に手を出してはいけません」
沈黙が落ちた。
「これは命令です。例外はありません。彼の行動を妨害すること、彼の周囲の人間を害すること、彼の船を沈めること。すべて禁止です」
ペテルギウスが恐る恐る手を上げた。
「パンドラ様。理由をお伺いしても、よろしいのデスか?」
「いいですよ」
俺は頷いた。
「彼は、私の権能の弱点を知る手がかりになるかもしれないからです」
空気が変わった。幹部たちの顔に驚愕が走る。
俺の権能に弱点があるかもしれない。そんな可能性は、彼らの間で一度も口にされたことがなかった。
「弱点、デスか」
「ええ。あくまで可能性ですが」
隠しても意味はない。俺は正直に言った。
「ですから、まだ彼を殺してはいけません。彼が成長し、私の前に立つまで見守る必要があります」
「しかし、パンドラ様」
口を挟んだのはシリウスだった。泣きそうな顔で俺を見ている。
「あの少年は魔女教に敵意を持っています。放っておけば、いずれ……」
「ええ。魔女教に牙を剥くでしょう」
「でしたら……」
「ですから、見守ると言っているのです」
俺が見つめると、シリウスはびくりと肩を震わせた。
「シリウス司教。貴方は私の言葉に、疑問がありますか?」
「い、いえ、決して」
「そうですか。では、一つお聞きしましょう」
俺は微笑んだ。
「以前、悪魔の実の扱いを好きにして良いと言ったとき、何が起きましたか?」
シリウスの顔が蒼白になった。
「……殺し合いになりました」
「そうですね。何人死にましたか?」
「七名です」
「では今回、もし誰かが勝手に麦わらの少年に手を出したら、どうなると思いますか?」
「……」
「私がその人を殺します」
あっさりと告げた。
「ただし、普通には殺しません。『死ぬこと』を許しません。何度殺しても元に戻します。その人は、私が飽きるまで死ねません」
聖堂に、誰かが息を呑む音が響いた。
これは脅しではない。事実だ。
隣でマルコが静かに目を伏せた。彼はそれがどういうことかを知っている。かつて彼自身がそうされたのだから。もっとも、今の彼にその記憶はないのだが。
「ご理解いただけましたか?」
「は、はい」
「よろしい」
俺は手を叩いた。
「では、この件はこれで終わりです」
誰も動かなかった。幹部たちは全員俯いたまま、石のように固まっている。
……少しやりすぎたかもしれない。
だが、これで麦わらの少年に手を出す馬鹿はいなくなっただろう。
その夜、「大罪の間」で、ライ・バテンカイトスがレグルスに話しかけた。
「ねえ、レグルス」
「……なんだい」
「パンドラ様、あの少年の話をするとき、少し楽しそうだったよね」
「そうかい?」
「うん。いつもの笑顔とは違ったさ」
レグルスは答えず、しばらく黙って壁を見つめていた。
「……僕は、怖いよ」
「何がさ?」
「パンドラ様に弱点があるという可能性が、だよ」
ライは目を丸くした。
「なんで? 弱点があった方が……」
「違う」
レグルスは首を振った。
「パンドラ様が本当に無敵なら、僕たちの安全は保障される。パンドラ様が勝ち続ける限り、僕たちも勝ち続ける権利を持っていられるんだ」
彼は拳を握りしめた。
「でも、弱点があるなら……いつか負ける日が来る。そのとき、僕たちは――」
レグルスは言葉を切った。ライは少し考えて、肩をすくめる。
「そのときはそのときだよ」
「君は気楽だね」
「まあね。俺たちは腹が満たされりゃ、それでいいのさ」
二人はそれ以上、何も話さなかった。ただ、同じ不安を胸の奥に抱えていることだけは、互いにわかっていた。
同じ頃、俺は一人、聖堂の窓辺に立っていた。
夜の海を見つめながら、頭の中でいくつかの可能性を組み立てる。
麦わらの少年に手を出さない。これは決定事項だ。
だが、「手を出さない」ことと「何もしない」ことは違う。
たとえば東の海。あの海域には今、魔女教の影響力が大きく及んでいる。ハンターたちが町を巡回し、海賊を狩り、民衆に福音書を配っている。
少年はこれから、その中を旅することになる。
彼は何を見るだろう。
人々の怯えた笑顔。見せしめにされた死体。感謝の言葉を強要される日常。
それはすべて事実だ。何も偽っていない。
そして少年は、それを見るたびに魔女教への怒りを募らせていくだろう。その怒りが、彼を強くする。
「……面白いですね」
小さく呟いた。
敵を育てる。普通なら愚策だ。だが、俺の場合は違う。
弱点を見つけるために、敵を最強にまで育てる。そして、その敵が俺の弱点を突いてきたとき、それが本当に弱点なのかを確かめる。
弱点なら、そこで対処する。弱点でないなら、そのとき少年は俺の最高の仲間になる。
どちらに転んでも損はない。
……この考え方は、たぶん性格が悪い。だが、悪が覇権を取るには、このくらいでちょうどいい。
「マルコさん」
「なんだよい、パンドラ様」
マルコが音もなく現れた。
「東の海の配置を見直してください」
「見直す、ってのは」
「ハンターの人数を減らします。麦わらの少年の航路に沿って、巡回を最小限にしてください」
マルコがわずかに眉を寄せた。
「減らすのかよい?」
「ええ。ただし、完全にはなくしません。あくまで『偶然』を装います」
窓の外を見たまま、俺は続けた。
「少年が立ち寄る町では、魔女教の一番酷い部分を見せます。ただし、手は出しません。直接接触させず、ただ見せるだけです」
「見せるだけ、か」
「ええ。それだけで十分です」
マルコはしばらく考えて、静かに頷いた。
「わかったよい。すぐに手配する」
深く頭を下げる彼に、俺はふと思い出して付け加えた。
「それと、もう一つ。新聞社に指示を出してください。海軍にも話を通しておきましょう」
「何をだよい」
「麦わらの少年の懸賞金を、少しだけ上げてください」
「……あの坊主は、まだ大したことはしてねェよい」
「ええ。ですから、嘘の記事を書かせます」
俺は微笑んだ。
『麦わらのルフィ、海軍基地を襲撃、大佐を殺害』
マルコの眠たげな目が、わずかに開いた。
「だが、あれは……」
「モーガン大佐の死体は広場にあります。魔女教が殺したものです。ですが、新聞では少年が殺したことにします」
これも虚飾だ。
事実をほんの少しだけずらす。それだけで世界は少年を「危険な海賊」だと認識する。
少年は懸賞金と敵と注目を背負い、それらを糧に強くなる。
「少年はこれから、海軍に追われる身になります。世間の目には、魔女教にも追われているように映るでしょう。それでも彼は進むはずです」
窓ガラスに手を当てると、ひんやりとした感触が指先に伝わった。
「その結果、少年が私のところまで来られたなら――」
窓に映る自分の顔が笑っていた。
「そのときは、全力でお相手いたしましょう」
マルコは黙って頭を下げた。その肩が小さく震えている。恐れなのか敬愛なのか、俺にもわからなかった。
翌朝、東の海のすべての新聞の一面に、大きな見出しが踊った。
『モンキー・D・ルフィ、懸賞金三千万ベリー 海軍大佐殺害の容疑』
小さな顔写真が載っていた。麦わら帽子の少年の笑顔だ。
東の海の人々は、それを見て口々に囁いた。
「あの子が……」
「怖いわねェ」
「魔女教の方々が早く捕まえてくださるといいんだが」
ただ、一部の人間だけは違う反応を見せた。
シェルズタウンの食堂の主人は、新聞を静かに畳み、そっと厨房の奥に隠した。
「……ありがとうよ、坊主」
誰にも気づかれないよう、一人で小さく呟く。
あの日、少年が笑って「うまかった」と言ってくれたことを、彼は一生忘れなかった。
その言葉は、魔女教の目の届かない厨房の奥で、小さく消えた。
俺は聖堂の大きな椅子に深く座っていた。
紅茶はすっかり冷めている。それでも一口飲んだ。
冷めた紅茶は、少し苦かった。
「……ルフィ」
名前を口の中で転がしてみる。
原作の主人公。海賊王になる男。ゴムゴムの実の、いや、ニカの持ち主。
そして、俺の敵。
「いつか、お会いしましょう」
小さく微笑む。
その笑顔が何のためのものなのか、俺自身にもよくわからなかった。
色々と見返して調整したり書き直したりしました。
感想ありがとうございます。
最終章まで書き終わっております。
30話くらいで終わります。(追加やもう少し書きたいことできたら変わると思われ)