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レグルス・コルニアスは、床に額をこすりつけたまま動かなかった。
その隣で、ベルメールも同じように深く頭を下げている。
応接間は静かだった。窓の外では、ミカンの木が風に揺れている。
「顔を上げてください」
俺はできるだけ穏やかな声を出した。
「別に、叱りに来たわけではありません」
レグルスは顔を上げなかった。肩が小刻みに震えている。一度に数千人を相手にしても顔色ひとつ変えない男が、である。
「申し訳ありません、パンドラ様」
「何が、でしょう」
「ナミが家を出て、麦わらの一味に加わったことです。僕の力では止められませんでした」
「ええ、報告は受けています」
俺はソファにゆっくりと腰かけた。
ナミが麦わらの船に乗ったことは、観測員からの報告で知っている。夜な夜な電伝虫で、この家に連絡を入れていることも。
「ベルメールさん」
「は、はい」
ベルメールが顔を上げた。蒼白だった。
「ナミさんは、なぜそんなことをしたのでしょう」
「……あの子は」
ベルメールは唇を噛んだ。
「ただ、海が見たかっただけです。世界中の海を描きたいと……」
「それだけ、ですか?」
「それだけだと思います。魔女教のことは、あの子なりに考えていました。優しい人たちだと信じてもいました。でも同時に――」
言葉が途切れた。
「同時に、何かが引っかかっていた、と」
「……はい」
彼女は小さく頷いた。
「あの子は聡い子です。この家の地下で何が行われているのか、完全には知らなくても、感じていたのだと思います」
レグルスの肩がぴくりと動いた。
応接間の空気が一段冷える。誰も何も言わなかった。
俺は微笑んだ。
「素晴らしいですね」
「……え?」
「素晴らしいと言ったのです。貴方がたの娘さんは、実に優秀な観測員になれます」
レグルスが勢いよく顔を上げた。
「パ、パンドラ様。それは……僕には父親としての権利が……いえ、出過ぎたことを申しました」
「ナミさんには、このまま麦わらの一味にいてもらいましょう」
ベルメールの顔が強張った。
「で、ですが、パンドラ様、あの子は……」
「ええ。あの子はあの少年の仲間になります。あの少年が何を見て、何を感じ、どう成長していくのかを、一番近くで見られる立場です」
俺は指を一本立てた。
「ただし、条件が一つだけあります」
「条件……」
「ナミさんに真実を知らせてはいけません。こちらから接触することも禁止です。彼女には、彼女の意思で旅を続けていただきます」
ベルメールが息を呑んだ。
「それは、つまり……」
「ええ。私は彼女を、人質にもスパイにも利用しません」
一拍置く。
「少なくとも、今は」
その「今は」の一語が、部屋の空気に重く沈んだ。
ベルメールは何か言いかけて、やめた。レグルスはまた額を床に押し付ける。
「……ありがとうございます、パンドラ様」
「いえいえ」
俺は立ち上がった。
「貴方がたの家族は、私の庭に咲く大切な花です。花を踏みにじるのは簡単ですが、枯らすのは惜しいですから」
そう告げて、部屋を出た。
扉が閉まる直前、背後で小さな音がした。ベルメールの押し殺した嗚咽だった。
その音を、俺は聞かなかったことにした。
……いや、本当は聞いていた。
だが、それがどうした。悪が覇権を取るには、花を愛でる余裕も必要だ。
愛でるだけだ。守るとは言っていない。
廊下を歩きながら、俺は小さく笑った。我ながら、実にいい性格をしている。
■
ローグタウンは変わった町だった。
大きな町で、人も多く、活気もある。それなのに、どこか静かだった。通りを歩く人々の足音が、やけに揃って聞こえるのだ。
「うおお! でけェ町だな!」
ルフィは目を輝かせて通りを走り回った。
「おい、落ち着け」
「だって、ゾロ見ろよ! あの塔、すげェ高ェぞ!」
「あれは処刑台だ」
ゾロの声は低かった。
町の中央広場に、巨大な処刑台がそびえていた。かつてゴール・D・ロジャーが最期の言葉を残した場所である。
今、その周囲には花がびっしりと敷き詰められている。魔女教の信者たちが毎日供えているのだという。
台の正面には、大きな石碑が立っていた。
『時代はここで終わり、ここから始まった。魔女教教祖パンドラ』
その文字を、ルフィはじっと見つめた。
広場では信者たちが膝をつき、祈りを捧げている。低い声が響いた。
「隣人を愛そう」
「困ったら誰かに相談しよう」
「仲間と助け合おう」
同じ言葉が、何度も、何度も繰り返される。まるで呪文のようだった。
ナミがルフィの袖をそっと引いた。
「……行きましょう。ここ、長居する場所じゃないわ」
「おう」
ルフィは素直に頷いた。
ナミの顔色が悪い。昨夜からずっとそうだった。ルフィは気づいていたが、何も聞かなかった。
「なァ、ナミ」
「何?」
「飯、食うか?」
「……うん」
ナミは小さく笑った。
その時、広場の向こうからざわめきが聞こえた。
「おい、あれ、麦わらじゃないか」
「手配書の……」
「三千万の海賊だ」
人々が足を止め、こちらを見ている。誰も近づいてこない。声もかけてこない。ただ遠巻きに見ているだけだ。
「……なんで誰も捕まえに来ねェんだ?」
ウソップが不思議そうに呟いた。
「ハンターがいるはずなのに」
「パンドラさんの命令だろうな」
サンジが静かに答えた。全員の視線が集まる。
「この町のハンターは動かねェ。『麦わらの少年に手を出すな』って通達が出てる」
「なんでお前が知ってんだ」
「バラティエに来たハンターたちが話してた」
サンジは煙草に火をつけた。
「理由は聞かされてねェらしい。ただ、そういう命令なんだと」
ルフィは黙って聞いていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……見張られてんのか、おれたち」
「そうなるな」
ゾロが低く答える。
「手は出されてねェ。それがかえって不気味だ」
誰も何も言わなかった。
その時、背後から陽気な声が響いた。
「ギャハハハハ! そこの麦わら小僧ども!」
振り返ると、赤い鼻の道化が立っていた。派手な服に大きなブーツ。背後には大勢の手下を従えている。
「おれ様はバギー! バギーズデリバリーの船長、ハデに参上だァ!」
「バギー?」
ルフィが首を傾げた。
「誰だ、お前。その赤っ鼻、なんだ?」
「誰が赤っ鼻だ、てめェ!! おれ様は東の海に名を轟かせた大海賊だぞ!」
「そうなのか?」
「そうだ! 独立して間もねェが、今から貴様らの首をハデに頂く!」
バギーがナイフを投げた。切っ先がルフィの顔へ一直線に飛ぶ。
ガキン、と音がした。
ルフィは、ナイフを歯で受け止めていた。
「はひふんは(何すんだ)!」
「なっ……!?」
バギーが目を丸くする。ルフィはナイフを手に取り、そのまま投げ返した。
「うおおっ!?」
バギーの体がバラバラに分かれ、ナイフは空を切った。
「すげェ! お前、バラバラになるのか! 面白ェな!」
「やかましい! おい、野郎ども! こいつらをハデにぶっ殺せェ!」
手下たちが一斉に武器を構えた。
その瞬間、広場の空気が変わった。
冷たい風が吹いた。
足音が、ゆっくりと近づいてくる。
手下たちが全員、動きを止めた。誰も振り返らない。けれど全員の顔色が、同時に真っ青になった。
「あれあれ、何やってるのさ、バギー」
明るい声が広場に響いた。
人垣が左右に割れる。
立っていたのは、小柄な少年だった。伸び放題の濃い茶色の髪に、黒い外套。人懐っこい笑みを浮かべている。
ただ、その目だけが、ぞっとするほど静かだった。
鼻の奥がツンとする。あの甘い匂いだ。
「ラ、ライ様……」
バギーの声が震えていた。
「どうして、ここに……」
「パンドラ様の命令だよ」
ライ・バテンカイトスは軽い足取りで歩いてきた。彼が一歩進むたびに、周囲の人間が一歩後ずさる。
「ねえバギー。今月の上納金、三日遅れてるよね」
「そ、それは、えっと、その……」
「それに、パンドラ様は『麦わらの少年に手を出すな』って通達したはずだけど。知ってた?」
「し、知りませんでした! 本当です! おれ様はただ手配書の……」
「そっか」
ライはにこりと笑った。
「じゃあ、知らなかったってことにしといてあげるよ」
バギーは安堵の息を漏らしかけた。
「ただし」
ライの声が、少しだけ低くなった。
「遅れた上納金の利息と、命令を聞き逃した罰として――」
その視線が、バギーの背後の手下の一人に向いた。
「そこの君、前に出なよ」
手下がひぃっと悲鳴を上げた。
「い、いやです、いやです! ライ様、どうか!」
「前に出なって」
ライはもう一度、静かに告げた。手下は泣きながら前に出た。
バギーは何も言えず、ただ顔を背けた。
それから何が起きたのか、ルフィは見なかった。
ゾロがルフィの肩を掴み、体の向きを変えさせたからだ。
「見るな」
その声は低く、硬かった。
「でも……」
「見るな」
「いただきます」
背後で、楽しそうな声がした。
続いて、短い音が聞こえた。
それから、広場は静かになった。
ルフィは拳を握りしめた。ゾロの手が肩から離れる。
ウソップは顔を青くして震え、サンジは煙草を噛み潰していた。ナミは俯いたまま、一言も発しない。
ライはバギーの前に立った。
「君の商いはまだ必要なんだ。だから、これで終わりにしてあげる」
「あ、ありがとうございます、ライ様……」
バギーの声は掠れていた。
「次はないよ。パンドラ様はお優しいけど、二度目はお許しにならないからさ」
「は、はい」
「じゃあ、行きなよ。残りの手下を連れてね」
バギーは深々と頭を下げ、逃げるように広場を去った。手下たちも全員、顔を伏せたままその後を追う。
広場には、ルフィたち五人とライ、そして遠巻きに見つめる信者たちだけが残った。
ライはゆっくりとルフィに向き直った。
「お騒がせしたね、麦わらのルフィ」
おどけた仕草で、頭を下げる。
「俺たちは魔女教大罪司教、『暴食』担当、ライ・バテンカイトス。モンキー・D・ルフィ、か。いいね、いいよ、実に美味そうな名前だ。でも、今は我慢しないとね」
「……なんで助けたんだ」
「助ける?」
ライは首を傾げた。
「助けたつもりなんてないよ。パンドラ様の命令を守っただけさ」
「命令?」
「そう。『麦わらの少年に手を出すな』。それがすべて」
ライはにこりと笑った。
「君に危害を加える奴は、魔女教の誰であっても許されない。同盟組織の奴でもね」
「……お前らは、おれをどうしたいんだ」
「さあ? 俺たちの知ったことじゃないよ」
ライは肩をすくめた。
「パンドラ様が君に会いたがってる。それだけは確かだけどね」
「会いたがってる?」
「うん。新世界でお待ちしてる、ってさ」
ルフィはライをじっと見つめた。
「じゃあ、伝えとけ」
「何を?」
「おれは行く。ぶっ飛ばしに行く」
ライはしばらく何も言わなかった。それから、静かに笑った。
「承りました。必ず伝えるよ」
彼はもう一度、深く一礼した。
そのとき、視線がふとナミの方へ動いた。ほんの一瞬だった。
ナミは顔を伏せたまま動かない。肩が小さく震えている。
ライは何も言わず、わずかに口元を緩めた。
まるで、知っている人間を見つけたような微笑みだった。
ルフィはそれを見逃さなかった。けれど、やはり何も言わなかった。
「それじゃ、良い旅を」
黒い外套が、人混みの中に溶けるように消えた。
広場に、ようやく風が戻ってきた。
ルフィは長い間動かなかった。やがて、処刑台を見上げる。
その頂上に、かつてロジャーは立っていた。笑っていたという。
「……すげェな」
ぽつりと呟いた。
「海賊王は、あんなところで笑って死んだのか」
誰も答えなかった。
ルフィは麦わら帽子を押さえた。
「おれは、あそこで死なねェ」
「当たり前だ」
ゾロが静かに言った。
「お前はまだ海賊王になってねェ」
「おう」
ルフィは振り返った。
ゾロ、ウソップ、サンジ、そしてナミ。仲間たちの顔が並んでいる。誰もが少しずつ、疲れた顔をしていた。
「行こう、
ルフィはニッと笑った。
「飯、食ってからな!」
ウソップが思わず吹き出した。
「結局それかよ!」
「当たり前だ!」
笑い声が、広場に小さく響いた。この町では久しぶりに聞く、本物の笑い声だった。
遠巻きに見ていた信者たちがざわめく。
「……あの人たち、笑っている」
「不謹慎な」
「いや、でも……」
若い女性が、そっと胸に手を当てた。
「なんだか、とても眩しかった」
その言葉を、誰も咎めなかった。
けれどその女性の名前は、その夜、魔女教の観測員の手帳に小さく書き留められた。
世界は見ているのだ。
笑う者を。
そして、笑わなくなった者を。
一日2話ペースの投稿ですが、そのままで良いとかもっと増やしてとか減らしても良いとかあれば。
最終章まで見直して修正したのであとは投稿するだけの状態です。