魔女は実在する   作:ベータテストマン

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グランドライン・リヴァース・マウンテン


08

 

■

 

 最初に見えたのは、赤い壁だった。

 世界を一周する大陸、赤い土の大陸(レッドライン)。その巨大な断崖が、水平線の向こうにぬっと現れた。

「うおお! でけェ!」

 ルフィは船首で飛び跳ねた。

 けれど、その歓声に応じる者は誰もいなかった。

 ゾロも、ウソップも、サンジも、ナミも、断崖を無言で見つめている。

 岩肌に、何かがぶら下がっていた。

 船だ。

 十数隻の船が、マストを岩に打ち込まれて宙吊りにされている。帆は破れ、船体は焼け焦げ、風に揺れるたびに軋んだ音を立てていた。

 その甲板や索具に、人の形をしたものが括りつけられている。

 そこに、鳥が群がっていた。

「……なんだ、あれ」

 ウソップの声が裏返った。

「見せしめだ」

 ゾロが短く答える。

「通行を拒んだ連中だろう」

 ナミが小さく息を呑んだ。

 目は逸らさない。ただ、拳を固く握りしめている。爪が掌に食い込んでいた。

 ルフィはそれに気づいた。

 気づいたけれど、やはり何も言わなかった。

 

 リヴァース・マウンテンの麓には、巨大な運河が口を開けていた。

 四つの海から流れ込む海流が山を駆け上がる、世界で唯一の航路。偉大なる航路(グランドライン)への、唯一の安全な入り口だ。

 その手前に、一本の巨大な桟橋が伸びていた。

 先端には、黒い石造りの関所が建っている。黒地に白い魔女の横顔を描いた旗が、何十本も翻っていた。

「関所、だと?」

 サンジが眉をひそめた。

「こんなもんがあるとは聞いてねェぞ」

「五年前にできたそうよ」

 ナミが小さな声で言った。

「魔女教が、グランドラインの安全を守るって名目で」

「安全?」

「通行税を取るの。船の大きさと積荷の価値に応じて。払えない船は……」

 ナミはそこで言葉を切った。

 誰も続きを聞かなかった。壁に吊るされた船が、すべてを物語っていた。

 

 関所の前では、十隻ほどの船が順番を待っていた。

 商船が多く、家族連れの小さな帆船も混じっている。誰もが黙って列に並んでいた。子供を抱いた母親はぎゅっと目を閉じ、商人たちは青い顔で荷を数え直している。

 順番が近づくにつれて、人々の顔から血の気が引いていった。

「ルフィ」

 ゾロが低く言った。

「ここは順番を待つぞ」

「並ぶのか?」

「並ぶしかねェ。迂回路はねェんだ」

 ルフィは不満そうに唇を尖らせた。けれど、仲間の様子を見て、黙って頷いた。

 

 桟橋の上では、黒い制服の魔女教ハンターたちが順番に船を検めていた。

「次」

 淡々とした声が響く。

 前の商船が接岸し、船長らしき初老の男が慌てて降りてきた。重そうな革袋を抱えている。

「ほ、本日の通行税でございます。規定どおり、荷の二割を」

「確認します」

 ハンターの一人が、革袋の中身を手際よく改めた。

「不足しています」

「そ、そんな。規定どおりに……」

「先月、規定が改定されました。三割です」

「え、そ、そんな通知は……」

「掲示板に貼ってあります」

 ハンターが指差した先で、小さな紙が風に揺れていた。

 船長の顔がさっと青ざめる。

「ど、どうかお慈悲を。この荷が売れなければ、家族が……」

「規定は規定です」

 その声に感情はなかった。

「不足分は担保で補っていただきます」

「担保……」

「船員のどなたかを一名」

 船長の顔がくしゃりと歪んだ。

「そ、それだけは……」

「では、船を没収します」

 桟橋に静寂が落ちた。

 甲板に並んだ船員たちは、誰もが固く俯いている。

 その中から、一人の若者がそっと一歩前に出た。

「……おれが行きます」

「バカ野郎! お前はまだ結婚もしてねェだろ!」

「いいんです、船長。おれには家族もいないし」

 若者は微笑んだ。あまりにも穏やかな笑顔に、見ている誰もが胸を締めつけられた。

「立派な覚悟です」

 ハンターは無表情に頷いた。

「では、こちらへ」

 桟橋に降り立った若者の右手を、ハンターが取った。

「不足分を納めるまで、貴方の身柄は魔女教の管理下に置かれます。担保が逃亡しないよう、印をつけさせていただきます」

「……え?」

 ハンターは懐から、小さな黒い鋏を取り出した。

 ルフィの全身が凍りついた。

「待て」

 声が出ていた。

 体が勝手に動き、船から飛び出していた。

 桟橋に着地する。ハンターがゆっくりと顔を上げた。

「……麦わらのルフィ殿」

 驚く様子もなく、深く頭を下げる。

「ご到着をお待ちしておりました」

「やめろ」

 ルフィは低く言った。

「そいつの指に触るな」

「申し訳ありません。これは規定でして」

「やめろって言ってんだ」

 拳が握られ、ゴムの腕が後ろに引かれる。

 その瞬間、ハンターが静かに言った。

「どうぞ、お殴りください」

 ルフィの動きが止まった。

「我々には、貴方に危害を加えることが許されておりません。貴方が我々を殴っても、反撃はいたしません」

 ゆっくりと上げたその顔には、薄い笑みが浮かんでいた。

「ただし」

 鋏が、若者の指に当てられる。

「貴方が一発殴るたびに、この方の指が一本減ります。十本すべてなくなれば、次は残りの船員の方々です」

 若者の顔から笑みが消えた。

 ルフィの拳が震えた。

 商船の船長が膝から崩れ落ちる。

「や、やめてくれ……頼む……」

「パンドラ様の命令なのです」

 ハンターは穏やかに続けた。

「麦わらの少年に手を出してはいけない。ですが、麦わらの少年が暴れた場合は、周囲の者が代わりに責任を負う。そういう規則になっております」

 誰かが泣いていた。

 桟橋のあちこちで、人々が俯いたまま肩を震わせている。

 誰もルフィを責めなかった。

 けれど、誰もルフィを見なかった。

 ただ全員が、同じことを考えていた。

 早くこの少年が消えてくれればいいのに、と。

「……ルフィ」

 背後からゾロの声がした。

「戻れ」

「でも」

「戻れ」

 静かで、重い声だった。

「お前がここで暴れても、誰も救えねェ」

 ルフィは動けなかった。

 ハンターの目がじっとこちらを見つめている。試す目だった。この少年がどこまで堪えられるのか。どこで折れるのか。

 ルフィはゆっくりと拳を下ろした。

 歯を食いしばる。唇が切れて、血が一筋、顎を伝った。

「……ありがとうございます」

 ハンターは丁寧に一礼した。

「では、続けます」

 鋏が動いた。

 短い悲鳴が桟橋に響いた。

 本当に短かった。若者が自分の手で口を塞いだからだ。

 誰にも聞かせまいとしたのだろう。

 血が桟橋の木板に、静かに染みていった。

 ルフィはそれを最後まで見ていた。

 一秒も、目を逸らさなかった。

 

 商船が通行を許されたのは、それから十分後だった。

 船長は若者を抱えて甲板に運んだ。若者は青白い顔で、それでも微笑んでいた。

「船長、すみません。足を引っ張って」

「……何を言ってやがる。お前は立派だ」

 船長の声は涙に濡れていた。

 商船はゆっくりと、運河の入り口へ吸い込まれていった。

 桟橋に立ち尽くすルフィの傍に、ハンターが歩み寄る。

「お待たせいたしました、麦わらのルフィ殿」

「……」

「貴方がたの船は、通行税が免除されております。パンドラ様からの特別の計らいです」

 ハンターは深々と頭を下げた。

「どうぞお通りください。良い旅を」

 ルフィはハンターを睨んだ。

 その目には怒りも憎しみもあった。けれど、それ以上に深いものがあった。

 悲しみだった。

「……おれは」

 小さく、絞り出すように言う。

「絶対に、お前らを許さねェ」

「承知しております」

 ハンターは変わらぬ笑顔で答えた。

「パンドラ様も、それを望んでおられます」

 

 ルフィは踵を返し、船へ戻った。

 仲間たちは誰も何も言わなかった。

 ウソップは青い顔で膝を抱え、サンジは煙草を手の中で握り潰し、ゾロは無言で刀の柄を握っている。

 ナミは船の隅で顔を伏せていた。その肩が震えている。

 ルフィは彼女のすぐ傍に座り、何も言わず、ただ隣にいた。

 しばらくして、ナミが小さく呟いた。

「……ごめんなさい」

 誰に向けた言葉なのか、ルフィは聞き返さなかった。

「おれの方こそ、ごめんな」

「え?」

「おれ、殴れなかった」

「……あんたのせいじゃない」

 顔を上げたナミの頬は、涙で濡れていた。

「あんたのせいじゃないの」

 その声は嗚咽に掻き消された。

 ルフィは麦わら帽子を、ナミの頭にぽんと載せた。

「ちょ、ちょっと」

「泣いてもいいぞ」

「……ばか」

 ナミは帽子で顔を隠した。

 

 船はリヴァース・マウンテンの流れに飲み込まれた。

 山を駆け上がる海流に、船は激しく揺れる。けれど船上の誰もが、その揺れをほとんど感じていなかった。

 頂上を越え、一気に下った先で、視界が開けた。

 偉大なる航路の入り口。

 そこに、巨大な影が浮かんでいた。

「うおお!?」

 ウソップが悲鳴を上げた。

「で、でけェ! なんだ、あれ!」

 島のように巨大なクジラが、水面から顔を覗かせていた。その頭がゆっくりと船に寄ってくる。

 額には無数の傷痕が刻まれていた。

 最も新しいものは、焼き印だった。

 黒い、魔女の横顔。

 ルフィは息を止めた。

 クジラは悲しげな目で船を見つめている。

「ラブーン、やめなさい」

 岬の小さな灯台から、花びらのような白髪の老人が駆けてきた。医者の白衣を着ている。

「すまない、客人。この子に悪気はないんだ。ただ……」

 老人はルフィの顔を見て、言葉を切った。

 麦わら帽子。手配書で見た顔。

「……君が、麦わらのルフィか」

「おっさんは?」

「私はクロッカス。この双子岬で灯台守をやっている」

 老人の目は疲れ切っていた。けれど、その奥には深く静かな怒りが宿っていた。

「この子はラブーン。五十年、ここで仲間を待っている」

「仲間?」

「ルンバー海賊団。この子をここに残して航海に出た、音楽家の海賊団だ」

 クロッカスはラブーンの額をそっと撫でた。

「彼らは必ず戻ってくると約束した。だが、戻ってこなかった」

 低い声だった。

「五年前、魔女教が関所を作ったとき、ハンターたちがこの子に見せたんだ」

「何を」

「彼らの旗だ」

 ルフィの目が細まった。

「ルンバー海賊団は、五十年前の航海で死んでいた。魔女教はそれを知っていた。そして、この子に教えたのだ」

 クロッカスの手が震えていた。

「『お前の仲間は死んだ。待っても無駄だ』と。証拠の旗を、この子の目の前で燃やしてな」

「……なんで、そんなこと」

「この子が通行の邪魔になるからだ」

 老人は苦しげに続けた。

「ラブーンは仲間を待ち続けて、毎日、赤い壁に頭を打ちつけていた。その地響きが通行に支障をきたしていた。だから魔女教は、この子を絶望させて静かにさせようとした」

「それで」

「確かに静かになった。だが、同時に……」

 クロッカスは額の焼き印を見つめた。

「壊れた」

 ラブーンの目から涙が流れていた。その瞳は、どこか虚ろだ。

 もう誰も待っていない。それなのに、この場所から動けない。

「その焼き印を押したのもハンターたちだ。魔女教の所有物である、という印としてな」

 ルフィは黙って聞いていた。

 やがて船首に立ち、巨大な額に手を伸ばす。

「ラブーン」

 クジラの目が、ルフィを見つめた。

「おれはルフィ。海賊王になる男だ」

 手を置いたのは、焼き印の真上だった。

「お前の仲間は死んじまった。でも、お前が待ってたことを、おれは忘れねェ」

 ラブーンの目が、わずかに見開かれた。

「おれはこれからグランドラインを一周する。そんで、必ずここに戻ってくる」

「ルフィ」

 ナミが小さく呟いた。

「ここは魔女教の監視下よ。何かしたら……」

「わかってる」

 ルフィは振り返らずに答えた。

「でも、やる」

 ウソップからペンキの缶を借りて肩に担ぎ、ラブーンの額に登る。

 焼き印の上に、大きなバツ印を描いた。

 その上に、麦わら帽子の海賊旗を描く。

 笑う髑髏だ。お世辞にも上手いとは言えない。

「……ヘタだな、お前」

 ウソップが、鼻を啜りながら呟いた。

 それでも、それは世界政府にも魔女教にも従わない、自由の旗だった。

「これで、もうお前は魔女教のものじゃねェ」

 ルフィはラブーンの額をぽんと叩いた。

「お前は、おれの友達だ」

 ラブーンの目から、大粒の涙が溢れ出した。

 クジラは静かに、海に顔を沈めた。

 それは感謝の仕草だった。

 

 灯台の窓から、黒い制服のハンターが一人、その光景を見ていた。

 彼は何もしなかった。ただ手帳を取り出し、一行書き込んだ。

 

『麦わらのルフィ、ラブーンの焼き印を塗り潰す』

 

 それだけだった。

 パンドラの命令には「手を出すな」とある。だから、彼は何もできなかった。

 

 その夜、クロッカスは一人、灯台の頂上に立っていた。

 夜の海に、麦わらの船の小さな灯りが遠ざかっていく。

「……すまんな、少年」

 小さく呟いた。

「私は君に、何もしてやれなかった」

 胸ポケットの中で、小さな子電伝虫が鳴った。

 老人はそれを取り出した。

「……はい、クロッカスです」

 受話器の向こうから、穏やかな少女の声が聞こえた。

『ご苦労様でした、クロッカスさん』

「パンドラ様」

 声が震えた。

『麦わらの少年は、ラブーンに旗を描きましたね』

「……はい」

『素晴らしいです。実に良い物語ですね』

 受話器の向こうで、小さく紅茶を啜る音がした。

『焼き印はそのままにしておいてください。旗が上から描かれた状態のままで』

「な、なぜ」

『象徴としてふさわしいからです』

 クロッカスは息を止めた。

『あの子は魔女教の焼き印の上に、自由の旗を描きました。その事実はいずれ、東の海にもグランドラインにも伝わります。すると、何が起きるでしょう』

「……」

『彼を慕う人間が増えます。そして、彼を憎む人間も増えます。そのどちらも、私にとっては都合が良いのです』

 静かな声だった。どこか楽しげでさえあった。

『ですから貴方は、今までどおり灯台を守っていてください。貴方の孫娘さんも、変わらずお元気ですよ』

 クロッカスの顔が、一瞬強張った。

「……はい」

『それでは、おやすみなさい』

 電伝虫が静かに切れた。

 老人はしばらく動かなかった。

 やがて、ゆっくりと手を伸ばし、灯台の灯りを点ける。

 夜の海に光が広がった。

 その光は、麦わらの船を遠くまで照らしていた。

 まるで、行く先を示すように。

 あるいは、見送るように。

 老人はその光を見つめながら、小さく祈った。

 あの少年がどうか、あの魔女の掌の上から逃れられますように、と。

 自由を願う祈りを捧げながら、老人は同時に知っていた。

 その祈りがどれほど虚しいものなのかを。

 

 

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