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最初に見えたのは、赤い壁だった。
世界を一周する大陸、
「うおお! でけェ!」
ルフィは船首で飛び跳ねた。
けれど、その歓声に応じる者は誰もいなかった。
ゾロも、ウソップも、サンジも、ナミも、断崖を無言で見つめている。
岩肌に、何かがぶら下がっていた。
船だ。
十数隻の船が、マストを岩に打ち込まれて宙吊りにされている。帆は破れ、船体は焼け焦げ、風に揺れるたびに軋んだ音を立てていた。
その甲板や索具に、人の形をしたものが括りつけられている。
そこに、鳥が群がっていた。
「……なんだ、あれ」
ウソップの声が裏返った。
「見せしめだ」
ゾロが短く答える。
「通行を拒んだ連中だろう」
ナミが小さく息を呑んだ。
目は逸らさない。ただ、拳を固く握りしめている。爪が掌に食い込んでいた。
ルフィはそれに気づいた。
気づいたけれど、やはり何も言わなかった。
リヴァース・マウンテンの麓には、巨大な運河が口を開けていた。
四つの海から流れ込む海流が山を駆け上がる、世界で唯一の航路。
その手前に、一本の巨大な桟橋が伸びていた。
先端には、黒い石造りの関所が建っている。黒地に白い魔女の横顔を描いた旗が、何十本も翻っていた。
「関所、だと?」
サンジが眉をひそめた。
「こんなもんがあるとは聞いてねェぞ」
「五年前にできたそうよ」
ナミが小さな声で言った。
「魔女教が、グランドラインの安全を守るって名目で」
「安全?」
「通行税を取るの。船の大きさと積荷の価値に応じて。払えない船は……」
ナミはそこで言葉を切った。
誰も続きを聞かなかった。壁に吊るされた船が、すべてを物語っていた。
関所の前では、十隻ほどの船が順番を待っていた。
商船が多く、家族連れの小さな帆船も混じっている。誰もが黙って列に並んでいた。子供を抱いた母親はぎゅっと目を閉じ、商人たちは青い顔で荷を数え直している。
順番が近づくにつれて、人々の顔から血の気が引いていった。
「ルフィ」
ゾロが低く言った。
「ここは順番を待つぞ」
「並ぶのか?」
「並ぶしかねェ。迂回路はねェんだ」
ルフィは不満そうに唇を尖らせた。けれど、仲間の様子を見て、黙って頷いた。
桟橋の上では、黒い制服の魔女教ハンターたちが順番に船を検めていた。
「次」
淡々とした声が響く。
前の商船が接岸し、船長らしき初老の男が慌てて降りてきた。重そうな革袋を抱えている。
「ほ、本日の通行税でございます。規定どおり、荷の二割を」
「確認します」
ハンターの一人が、革袋の中身を手際よく改めた。
「不足しています」
「そ、そんな。規定どおりに……」
「先月、規定が改定されました。三割です」
「え、そ、そんな通知は……」
「掲示板に貼ってあります」
ハンターが指差した先で、小さな紙が風に揺れていた。
船長の顔がさっと青ざめる。
「ど、どうかお慈悲を。この荷が売れなければ、家族が……」
「規定は規定です」
その声に感情はなかった。
「不足分は担保で補っていただきます」
「担保……」
「船員のどなたかを一名」
船長の顔がくしゃりと歪んだ。
「そ、それだけは……」
「では、船を没収します」
桟橋に静寂が落ちた。
甲板に並んだ船員たちは、誰もが固く俯いている。
その中から、一人の若者がそっと一歩前に出た。
「……おれが行きます」
「バカ野郎! お前はまだ結婚もしてねェだろ!」
「いいんです、船長。おれには家族もいないし」
若者は微笑んだ。あまりにも穏やかな笑顔に、見ている誰もが胸を締めつけられた。
「立派な覚悟です」
ハンターは無表情に頷いた。
「では、こちらへ」
桟橋に降り立った若者の右手を、ハンターが取った。
「不足分を納めるまで、貴方の身柄は魔女教の管理下に置かれます。担保が逃亡しないよう、印をつけさせていただきます」
「……え?」
ハンターは懐から、小さな黒い鋏を取り出した。
ルフィの全身が凍りついた。
「待て」
声が出ていた。
体が勝手に動き、船から飛び出していた。
桟橋に着地する。ハンターがゆっくりと顔を上げた。
「……麦わらのルフィ殿」
驚く様子もなく、深く頭を下げる。
「ご到着をお待ちしておりました」
「やめろ」
ルフィは低く言った。
「そいつの指に触るな」
「申し訳ありません。これは規定でして」
「やめろって言ってんだ」
拳が握られ、ゴムの腕が後ろに引かれる。
その瞬間、ハンターが静かに言った。
「どうぞ、お殴りください」
ルフィの動きが止まった。
「我々には、貴方に危害を加えることが許されておりません。貴方が我々を殴っても、反撃はいたしません」
ゆっくりと上げたその顔には、薄い笑みが浮かんでいた。
「ただし」
鋏が、若者の指に当てられる。
「貴方が一発殴るたびに、この方の指が一本減ります。十本すべてなくなれば、次は残りの船員の方々です」
若者の顔から笑みが消えた。
ルフィの拳が震えた。
商船の船長が膝から崩れ落ちる。
「や、やめてくれ……頼む……」
「パンドラ様の命令なのです」
ハンターは穏やかに続けた。
「麦わらの少年に手を出してはいけない。ですが、麦わらの少年が暴れた場合は、周囲の者が代わりに責任を負う。そういう規則になっております」
誰かが泣いていた。
桟橋のあちこちで、人々が俯いたまま肩を震わせている。
誰もルフィを責めなかった。
けれど、誰もルフィを見なかった。
ただ全員が、同じことを考えていた。
早くこの少年が消えてくれればいいのに、と。
「……ルフィ」
背後からゾロの声がした。
「戻れ」
「でも」
「戻れ」
静かで、重い声だった。
「お前がここで暴れても、誰も救えねェ」
ルフィは動けなかった。
ハンターの目がじっとこちらを見つめている。試す目だった。この少年がどこまで堪えられるのか。どこで折れるのか。
ルフィはゆっくりと拳を下ろした。
歯を食いしばる。唇が切れて、血が一筋、顎を伝った。
「……ありがとうございます」
ハンターは丁寧に一礼した。
「では、続けます」
鋏が動いた。
短い悲鳴が桟橋に響いた。
本当に短かった。若者が自分の手で口を塞いだからだ。
誰にも聞かせまいとしたのだろう。
血が桟橋の木板に、静かに染みていった。
ルフィはそれを最後まで見ていた。
一秒も、目を逸らさなかった。
商船が通行を許されたのは、それから十分後だった。
船長は若者を抱えて甲板に運んだ。若者は青白い顔で、それでも微笑んでいた。
「船長、すみません。足を引っ張って」
「……何を言ってやがる。お前は立派だ」
船長の声は涙に濡れていた。
商船はゆっくりと、運河の入り口へ吸い込まれていった。
桟橋に立ち尽くすルフィの傍に、ハンターが歩み寄る。
「お待たせいたしました、麦わらのルフィ殿」
「……」
「貴方がたの船は、通行税が免除されております。パンドラ様からの特別の計らいです」
ハンターは深々と頭を下げた。
「どうぞお通りください。良い旅を」
ルフィはハンターを睨んだ。
その目には怒りも憎しみもあった。けれど、それ以上に深いものがあった。
悲しみだった。
「……おれは」
小さく、絞り出すように言う。
「絶対に、お前らを許さねェ」
「承知しております」
ハンターは変わらぬ笑顔で答えた。
「パンドラ様も、それを望んでおられます」
ルフィは踵を返し、船へ戻った。
仲間たちは誰も何も言わなかった。
ウソップは青い顔で膝を抱え、サンジは煙草を手の中で握り潰し、ゾロは無言で刀の柄を握っている。
ナミは船の隅で顔を伏せていた。その肩が震えている。
ルフィは彼女のすぐ傍に座り、何も言わず、ただ隣にいた。
しばらくして、ナミが小さく呟いた。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、ルフィは聞き返さなかった。
「おれの方こそ、ごめんな」
「え?」
「おれ、殴れなかった」
「……あんたのせいじゃない」
顔を上げたナミの頬は、涙で濡れていた。
「あんたのせいじゃないの」
その声は嗚咽に掻き消された。
ルフィは麦わら帽子を、ナミの頭にぽんと載せた。
「ちょ、ちょっと」
「泣いてもいいぞ」
「……ばか」
ナミは帽子で顔を隠した。
船はリヴァース・マウンテンの流れに飲み込まれた。
山を駆け上がる海流に、船は激しく揺れる。けれど船上の誰もが、その揺れをほとんど感じていなかった。
頂上を越え、一気に下った先で、視界が開けた。
偉大なる航路の入り口。
そこに、巨大な影が浮かんでいた。
「うおお!?」
ウソップが悲鳴を上げた。
「で、でけェ! なんだ、あれ!」
島のように巨大なクジラが、水面から顔を覗かせていた。その頭がゆっくりと船に寄ってくる。
額には無数の傷痕が刻まれていた。
最も新しいものは、焼き印だった。
黒い、魔女の横顔。
ルフィは息を止めた。
クジラは悲しげな目で船を見つめている。
「ラブーン、やめなさい」
岬の小さな灯台から、花びらのような白髪の老人が駆けてきた。医者の白衣を着ている。
「すまない、客人。この子に悪気はないんだ。ただ……」
老人はルフィの顔を見て、言葉を切った。
麦わら帽子。手配書で見た顔。
「……君が、麦わらのルフィか」
「おっさんは?」
「私はクロッカス。この双子岬で灯台守をやっている」
老人の目は疲れ切っていた。けれど、その奥には深く静かな怒りが宿っていた。
「この子はラブーン。五十年、ここで仲間を待っている」
「仲間?」
「ルンバー海賊団。この子をここに残して航海に出た、音楽家の海賊団だ」
クロッカスはラブーンの額をそっと撫でた。
「彼らは必ず戻ってくると約束した。だが、戻ってこなかった」
低い声だった。
「五年前、魔女教が関所を作ったとき、ハンターたちがこの子に見せたんだ」
「何を」
「彼らの旗だ」
ルフィの目が細まった。
「ルンバー海賊団は、五十年前の航海で死んでいた。魔女教はそれを知っていた。そして、この子に教えたのだ」
クロッカスの手が震えていた。
「『お前の仲間は死んだ。待っても無駄だ』と。証拠の旗を、この子の目の前で燃やしてな」
「……なんで、そんなこと」
「この子が通行の邪魔になるからだ」
老人は苦しげに続けた。
「ラブーンは仲間を待ち続けて、毎日、赤い壁に頭を打ちつけていた。その地響きが通行に支障をきたしていた。だから魔女教は、この子を絶望させて静かにさせようとした」
「それで」
「確かに静かになった。だが、同時に……」
クロッカスは額の焼き印を見つめた。
「壊れた」
ラブーンの目から涙が流れていた。その瞳は、どこか虚ろだ。
もう誰も待っていない。それなのに、この場所から動けない。
「その焼き印を押したのもハンターたちだ。魔女教の所有物である、という印としてな」
ルフィは黙って聞いていた。
やがて船首に立ち、巨大な額に手を伸ばす。
「ラブーン」
クジラの目が、ルフィを見つめた。
「おれはルフィ。海賊王になる男だ」
手を置いたのは、焼き印の真上だった。
「お前の仲間は死んじまった。でも、お前が待ってたことを、おれは忘れねェ」
ラブーンの目が、わずかに見開かれた。
「おれはこれからグランドラインを一周する。そんで、必ずここに戻ってくる」
「ルフィ」
ナミが小さく呟いた。
「ここは魔女教の監視下よ。何かしたら……」
「わかってる」
ルフィは振り返らずに答えた。
「でも、やる」
ウソップからペンキの缶を借りて肩に担ぎ、ラブーンの額に登る。
焼き印の上に、大きなバツ印を描いた。
その上に、麦わら帽子の海賊旗を描く。
笑う髑髏だ。お世辞にも上手いとは言えない。
「……ヘタだな、お前」
ウソップが、鼻を啜りながら呟いた。
それでも、それは世界政府にも魔女教にも従わない、自由の旗だった。
「これで、もうお前は魔女教のものじゃねェ」
ルフィはラブーンの額をぽんと叩いた。
「お前は、おれの友達だ」
ラブーンの目から、大粒の涙が溢れ出した。
クジラは静かに、海に顔を沈めた。
それは感謝の仕草だった。
灯台の窓から、黒い制服のハンターが一人、その光景を見ていた。
彼は何もしなかった。ただ手帳を取り出し、一行書き込んだ。
『麦わらのルフィ、ラブーンの焼き印を塗り潰す』
それだけだった。
パンドラの命令には「手を出すな」とある。だから、彼は何もできなかった。
その夜、クロッカスは一人、灯台の頂上に立っていた。
夜の海に、麦わらの船の小さな灯りが遠ざかっていく。
「……すまんな、少年」
小さく呟いた。
「私は君に、何もしてやれなかった」
胸ポケットの中で、小さな子電伝虫が鳴った。
老人はそれを取り出した。
「……はい、クロッカスです」
受話器の向こうから、穏やかな少女の声が聞こえた。
『ご苦労様でした、クロッカスさん』
「パンドラ様」
声が震えた。
『麦わらの少年は、ラブーンに旗を描きましたね』
「……はい」
『素晴らしいです。実に良い物語ですね』
受話器の向こうで、小さく紅茶を啜る音がした。
『焼き印はそのままにしておいてください。旗が上から描かれた状態のままで』
「な、なぜ」
『象徴としてふさわしいからです』
クロッカスは息を止めた。
『あの子は魔女教の焼き印の上に、自由の旗を描きました。その事実はいずれ、東の海にもグランドラインにも伝わります。すると、何が起きるでしょう』
「……」
『彼を慕う人間が増えます。そして、彼を憎む人間も増えます。そのどちらも、私にとっては都合が良いのです』
静かな声だった。どこか楽しげでさえあった。
『ですから貴方は、今までどおり灯台を守っていてください。貴方の孫娘さんも、変わらずお元気ですよ』
クロッカスの顔が、一瞬強張った。
「……はい」
『それでは、おやすみなさい』
電伝虫が静かに切れた。
老人はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと手を伸ばし、灯台の灯りを点ける。
夜の海に光が広がった。
その光は、麦わらの船を遠くまで照らしていた。
まるで、行く先を示すように。
あるいは、見送るように。
老人はその光を見つめながら、小さく祈った。
あの少年がどうか、あの魔女の掌の上から逃れられますように、と。
自由を願う祈りを捧げながら、老人は同時に知っていた。
その祈りがどれほど虚しいものなのかを。