昨夜から、ほとんど眠れていなかった。
原因は明白である。聖杯戦争が始まったことでも、未知の英霊たちとの戦いが待ち受けていることでもない。もちろん、そうした不安がないわけではなかったが、今の俺を最も疲弊させているのは、もっと直接的で、どうしようもなく騒がしい存在だった。
「おーい、修一! ちょーっとこっちへ来てちょうだい!」
作業場から響いてきた声に、俺は読みかけの新聞を畳んだ。時計は午前九時を指している。間宮電器の開店時刻まで、あと一時間。いつもなら朝食を済ませ、修理を依頼された家電の状態を確認している頃合いだというのに、今日は朝からこの調子である。
「……今度は何ですか、博士」
「いいから早いとこ来るんだよ! バッチリしたもんができたんだがね!」
ため息をつきながら作業場へ向かうと、そこには例によって、緑色のマントを羽織った鉄仮面の男がいた。
キャスター。真名はヴィクター・フォン・ドゥームらしい。らしい、というのは本人は悪魔博士と名乗っているからだ。
世界最高峰の知性を持つ科学者であり、強力な魔術師であり、俺の知る資料によれば、東欧の小国ラトベリアを支配する独裁者でもある。
俺が長い時間を費やし、父親の研究と間宮家の接続魔術を利用して召喚したかったのは、確かにこの男だった。ただし、召喚の結果として現れたのが、日本で放送されていた古いアニメ『宇宙忍者ゴームズ』の悪魔博士だったことについては、未だに納得できていない。
なにしろ、この男は事あるごとに奇妙な名古屋弁を喋る。
しかも、本人は至って真面目なのだ。
「ほれ、見てみろ!」
博士が得意げに指し示した作業机の上には、見慣れない装置が置かれていた。弁当箱ほどの大きさをした金属製の箱から何本もの配線が伸び、その先には小型のブラウン管が接続されている。筐体は古い無線機や測定器の部品を組み合わせて作られているらしく、ところどころに見覚えのあるスイッチや端子が使われていた。
「……これ、店の部品を使いました?」
「おお、そうだよ! おみゃあの店には、なかなか面白いガラクタが揃っとるのう!」
「ガラクタじゃありません。売り物も混じってるんですけど」
「へへへ! 俺様が使ってやったんだから、むしろありがたく思わにゃあいかんぞ!」
まったく、どこまでも偉そうな男である。もっとも、博士の手が加わった装置は、確かに俺が普段扱っている家電とは根本から違っていた。金属製の箱の内部には、電気回路に混じって細い魔術式が組み込まれており、普通なら両立するはずのない二つの技術が、奇妙なほど整然と接続されている。
「それで、これは何の装置なんですか?」
「観測装置だよ。昨夜、おみゃあの店へ忍び込ませてあった虫みたいな使い魔を覚えとるかね?」
「ああ……博士が捕まえたやつですか」
昨夜、博士は店の周囲を探っていた小さな使い魔を発見し、その場で捕獲していた。魔術師が偵察のために使うものとしては珍しくないが、博士は随分と興味を示していた。俺が眠る頃にも、使い魔の残骸を分解しては何やら測定を繰り返していたはずである。
「使い魔の術式を調べてみたんだよ。魔力を使って離れた場所の情報を受け取る仕組みになっとったが、別に生き物を使わにゃあならん理由はにゃあ。そこで、機械を使って似たようなことをやらせてみたんだがね!」
博士がスイッチを操作すると、ブラウン管に細い光の線が現れた。線は小刻みに揺れていたが、博士が装置へ魔力を流すと、その振幅が徐々に変化していく。
「これは?」
「周囲の魔力反応を拾っとるんだよ。まだ試作品だでな、感度も範囲も大したことはにゃあ。ほんだけど、うまく改良すりゃあ、敵の使い魔や魔術式を探すのに使えるだろうが」
俺は思わず装置へ顔を近づけた。一般的な魔術師なら、魔力を探るために使い魔や結界を利用する。しかし、博士はそれを機械装置へ置き換えようとしているらしい。しかも、昨夜捕獲した使い魔を参考に、たった一晩で試作品を完成させてしまったのである。
「……すごいですね」
「何を今さら! 俺様を誰だと思っとるんだね!」
その言い方は相変わらずだったが、今回は素直に感心するしかなかった。間宮家にも、魔術と機械を結びつけようとした研究の蓄積はある。父親が異なる世界の情報との接続を研究していたのも、その延長線上にあった。しかし博士は、俺たちが何代もかけて研究してきた技術を、まるで日曜大工のような感覚で扱っている。
その能力が本物であることは、認めざるを得なかった。
「でも、これを作ってどうするんです?」
「なぁんだ、おみゃあ。そんなことも分からんのかね?」
博士は呆れたように両手を広げた。
「敵を調べるんだよ! 聖杯戦争とかいうものには、俺様以外にも英霊が六騎おるんだろうが。どんな奴が出てきとるのかも分からんのに、どうやって勝つつもりなんだね!」
「……なるほど」
「まず観察する。それから調べる。分からんことがあれば実験する。そうして一つずつ答えを出していくんだよ。おみゃあ、そんなことも教わらんかったのかね?」
どうして朝っぱらから、古いアニメの悪役に科学の基本を説教されなければならないのだろう。だが、言っていること自体は至極もっともだった。俺は聖杯戦争に参加することを決めたものの、他のマスターがどのような英霊を召喚したのか、ほとんど把握できていない。
敵を知らなければ、対策の立てようもない。
「分かりました。でも、いきなり敵陣に乗り込んだりしないでくださいよ」
「へへへ! 危険だからこそ調べるんだろうが!」
「そういう意味じゃないんですけど……」
博士は俺の言葉を聞き流し、再び観測装置へ向き直った。どうやら、既に頭の中では次の実験が始まっているらしい。俺はその背中を見つめながら、今夜はせめてまともに眠れることを祈った。
もっとも、その願いが叶わないことになるとは、この時点では想像もしていなかった。
◇
夜の深山町は、昼間とは随分と違った表情を見せていた。
住宅街に並ぶ家々の窓からは柔らかな明かりが漏れ、遠くの道路を走る自動車の音が、静まり返った路地へ時折響いてくる。時計は既に午後十時を回っていた。人通りは少なく、犬の散歩をする住民や帰宅途中の会社員がたまに通り過ぎる程度である。
そんな、ごく普通の住宅街の中を、俺は途方もなく目立つ男と一緒に歩いていた。
「……博士」
「何だね?」
「その格好、どうにかなりません?」
博士は不満そうに振り返った。街灯の光が灰色の鉄仮面に反射し、肩から垂れる緑のマントが夜風に揺れる。どう見ても、普通の人間が夜の住宅街を歩く時の服装ではない。
「なぁんだ、おみゃあ! 俺様の立派な甲冑に文句があるのかね?」
「甲冑の出来の話じゃなくてですね……。どう考えても目立つでしょう、その格好」
「へへへ! そりゃあそうだよ。俺様ほどの大物が、そこらの連中と同じ格好をしとったらおかしいじゃにゃあか!」
「いや、今は大物であることを隠してくださいよ」
俺がいくら説明しても、博士は一向に理解してくれない。いや、理解した上で納得していないのだろう。世界征服を目指す男にとって、自分の姿を隠すという行為そのものが不愉快らしい。
しかし、今夜の目的は敵の情報収集である。
そのために、俺たち自身が目立ってしまっては意味がない。
「……せめて霊体化してくださいよ」
「霊体化?」
「サーヴァントなら、できるでしょう? その格好で街中を歩かれたら、目立って仕方ないんですけど」
「できることと、やりたいことは別だがね! この俺様の立派な甲冑を、わざわざ見えんようにする必要がどこにあるんだよ!」
「聖杯戦争だからですよ。頼みますから、もう少し目立たないようにしてください」
「まったく、面倒くさいのう! 仕方にゃあ、特別に見せたるわ!」
博士は大げさに両腕を広げ、緑色のマントを翻した。
その仕草だけでも十分に目立つというのに、本人は何やら得意げに胸を張っている。俺は呆れながら、次に何が起こるのか見守っていた。
そして。
「オロロンチョチョパァ~」
「…………」
博士の姿が、ふっと薄くなった。鈍い光を放っていた甲冑も、夜風に揺れていた緑のマントも、次第に輪郭を失っていく。最後には鉄仮面の奥に見えていた二つの目まで消え、そこには何も残らなかった。
霊体化そのものは成功したらしい。
それはいい。
問題は、その直前に発せられた言葉だった。
……何だ、今の。
俺はしばらく立ち尽くしていた。聞き間違いかと思い、先ほどの声を頭の中で繰り返してみる。
オロロンチョチョパァ。
駄目だ。
口元が緩む。
『へへへ! どうだね、修一! これで満足かね?』
頭の中に博士の声が響いた。どうやら念話に切り替えたらしいが、俺はそれどころではなかった。今にも吹き出しそうになるのを堪えながら、必死に表情を取り繕う。
「……はい。ありがとうございます」
『ふん! まったく、注文の多いマスターだのう!』
「……すみません」
俺はわずかに俯き、唇を噛んだ。
笑うな。
ここで笑ってはいけない。
相手は恐るべき科学者であり、強大な魔術師であり、今回の聖杯戦争における俺の切り札なのだ。そんな人物が霊体化の際に何を叫ぼうと、別におかしなことではない。少なくとも、笑っていい理由にはならない。
……いや、どう考えてもおかしいだろ。
『おーい、修一! 何をぼさっとしとるんだね!』
「い、いや、何でもありません……!」
どうにか笑いを飲み込み、俺は再び歩き始めた。
この時の俺は、まだ知らなかった。
この掛け声を、もう一度聞かされることになるとは。
◇
遠坂家の屋敷は、深山町の一角に建っていた。
冬木市の管理者であり、聖杯戦争を始めた御三家の一つでもある遠坂家。その屋敷は、長年にわたって継承されてきた魔術の蓄積を物語るように、周囲へ強い結界を張り巡らせていた。俺程度の魔術師でも、近づけば異様な魔力の気配を感じ取れる。
「……博士、本当にここまで来る必要があったんですか?」
俺たちは屋敷から少し離れた、高台の一角にいた。木々の間から遠坂邸の屋根が見えるものの、敷地そのものへは踏み込んでいない。周囲には古い石垣と雑木林が広がっており、夜間に人が通ることはほとんどない場所だった。
『何だね? おみゃあが強い魔術師の家があると言っとったんだろうが』
「言いましたけど、直接見に行こうとは言ってませんよ」
『へへへ! 近くで調べんことには分からんこともあるだろ。遠くから眺めるだけじゃ、細かい魔力の変化まで拾えんのだよ』
「……なるほど」
そう言われると、反論しにくい。
博士は朝から観測装置の改良を続け、夜になる頃には携帯用の小型測定器まで完成させていた。現在、その装置は俺の肩から下げた鞄の中に収まっている。試作品だけあって性能は限定的だが、魔力反応の変化を記録することくらいはできるらしい。
ただし、実際に測定器を調整するには、博士自身が実体化して操作する必要があった。
『修一。鞄を開けてくれんかね』
「……まさか、ここで実体化するつもりですか?」
『そうだよ。あの屋敷の結界を、ちょーっと調べたいんだがね』
「できれば目立たないようにお願いしますよ」
『分かっとる、分かっとる!』
本当に分かっているのだろうか。
俺が鞄を開くと、すぐ隣の空間に淡い光が集まり始めた。霊体化していた博士が姿を現し、緑のマントと鉄仮面が夜の闇の中へ浮かび上がる。
実体化する時には、特に何も言わなかった。
……ということは。
先ほどの掛け声は、やっぱり必要なかったのではないだろうか。
そんな疑問が頭をよぎったが、尋ねるのはやめておいた。下手に蒸し返せば、また笑いそうになるからだ。
博士は俺から測定器を受け取ると、地面に膝をつき、装置の調整を始めた。鉄の指が小さなスイッチを操作するたびに、画面の光が僅かに変化していく。しばらくして、博士が低く唸った。
「……ふうん。なかなか立派な結界だのう」
「そりゃあ、遠坂家ですからね」
「へへへ。ほんだけど、少々古臭いところもあるぞ。魔力の流れは安定しとるが、監視範囲を広げるために感度を落としとる部分があるようだのう」
博士はそう言って、測定器の表示を確認した。
「あの屋敷の中には、なかなか強い魔力反応がある。少なくとも、そこらの魔術師が相手じゃにゃあな」
「……遠坂時臣でしょうか」
「さあのう。まだ何とも言えん。ほんだけど、こりゃあ調べる価値があるぞ」
博士は満足げに頷いた。
その時だった。
測定器の針が、大きく揺れた。
「……ん?」
博士が顔を上げる。
俺も反射的に遠坂邸へ視線を向けた。
屋敷の屋根に、一つの黒い影が現れていた。
人影である。
しかし、その動きは明らかに普通の人間のものではなかった。屋根の上を音もなく移動し、まるで重力など存在しないかのように高い場所へ跳躍する。黒い外套を纏い、顔には髑髏を思わせる仮面をつけていた。
「……サーヴァント?」
俺の呟きに、博士が僅かに首を傾げる。
「ほう。あいつがそうかね」
「多分……。少なくとも、普通の人間じゃありません」
「ふうん」
博士は再び測定器を確認した。
黒装束の英霊が屋敷の結界へ近づくと、それに応じて魔力反応が変化している。どうやら、遠坂邸へ侵入しようとしているらしい。しかし、そのやり方にはどこか奇妙なところがあった。
屋根の上を移動する姿は、確かに素早い。
だが、隠密行動としてはあまりにも目立っていた。
「……おみゃあ、あいつは何をしとると思う?」
「侵入しようとしてるんじゃないですか?」
「そりゃあ見りゃ分かるがね。俺様が聞いとるのは、どうしてあんなやり方を選んだのかってことだよ」
博士は鉄仮面の奥から、じっと屋敷を見つめていた。
「敵の本拠地へ忍び込むんなら、わざわざあんな目立つ場所に姿を現す必要はにゃあだろうが」
「……単に、結界を突破するためじゃ?」
「かもしれんのう」
博士は否定しなかった。
ただ、その声には明らかな疑念が含まれていた。
俺はもう一度、屋敷へ視線を向けた。
確かに、妙ではある。
相手が暗殺や偵察を得意とする英霊なら、こんなに目立つ侵入方法を選ぶだろうか。逆に正面から襲撃するつもりなら、ここまで慎重に動く必要もないように思える。
考えているうちに、屋敷の上空で魔力が膨れ上がった。
「……っ!」
俺は思わず息を呑んだ。
黒装束の男から少し離れた場所に、黄金の光が現れたのである。
いや、光ではない。
人だ。
全身を黄金の鎧に包んだ男が、屋敷の上空に立っていた。
遠くからでも分かるほど、凄まじい存在感だった。まるで周囲の空気そのものが、その男の出現によって変化してしまったかのようである。俺は魔術師として優れているわけではないが、それでも直感的に理解できた。
あれは、今まで見てきたどんな魔術師とも違う。
正真正銘の英霊だ。
「……何だよ、あいつ」
思わず声が漏れた。
博士も、さすがに興味を惹かれたらしい。測定器を持ち上げ、黄金の男へ向けている。
「ほほう。こりゃあ、また大層なのが出てきたのう」
その直後、黄金の男の背後で空間が歪んだ。
金色の光が幾つも浮かび上がり、その中から武具が姿を現す。
剣、槍、斧。形状も大きさも異なる武器が、まるで陳列された商品であるかのように空中へ並んでいった。
俺は目を見開いた。
「……武器が、空中から?」
「ふうん……」
博士は小さく唸った。
「こいつは面白い。単純な物質生成じゃなさそうだのう」
そんなことを言っている場合ではなかった。
黄金の男が片手を動かすと、宙に浮いていた武具が一斉に放たれたのである。
凄まじい速度だった。
黒装束の英霊は必死に身を翻したが、次々に襲いかかる武器を避けきることはできなかった。屋根の一部が砕け、魔術的な光が夜空を照らす。最後の一撃が放たれた時、黒い影は大きく揺らぎ、その姿が光の粒子へと変わっていった。
……終わった。
あまりにも呆気なかった。
黒装束の英霊が現れてから、まだ大した時間は経っていない。それなのに、黄金の男はほとんど動くこともなく、敵を圧倒してしまった。
「……博士」
「何だね?」
「今の、見ました?」
「見とったよ。へへへ、なかなかバッチリした武器を持っとるじゃにゃあか」
博士は感心したように頷いた。
しかし、その目は依然として屋敷へ向けられている。
「……ほんだけど、妙だのう」
「またですか?」
「あの黒いやつだよ。あんな派手に忍び込んで、あっさりやられてまった。何だか、わざわざ見つかりに来たみたいじゃにゃあか」
俺は黒装束の英霊が消えた場所を見つめた。
確かに、そう言われれば不自然だった。
しかし、今の俺には判断できるだけの材料がない。
「……どうでしょうね。単に、相手が強すぎたのかもしれませんよ」
「その可能性もあるのう。まだ分からんことだらけだがね」
博士は測定器の電源を落とした。
「ま、今夜はこれくらいにしとくかね。あの金ピカの兄ちゃんについては、もう少し調べにゃあいかんぞ」
「……そうですね。さすがに、あんな相手とは戦いたくないです」
「何を言っとる! 俺様を誰だと思っとるんだね!」
「いや、今は勝てるかどうか分からないでしょう」
「へへへ! それを調べるために来たんだろうが!」
博士は胸を張った。
俺はまたため息をついた。
これ以上ここにいるのは危険だ。遠坂邸であれだけ派手な戦闘が起きた以上、周囲を警戒する魔術師が現れても不思議ではない。できれば、今すぐにでも撤退したかった。
「……博士、とにかく帰りましょう。霊体化してください」
「なぁんだ、またかね!」
「またです。というか、最初からずっと霊体化していてくださいよ」
「まったく、注文ばっかり多い奴だのう!」
博士は不満そうに両腕を広げた。
俺はその仕草を見て、嫌な予感を覚えた。
……まさか。
「オロロンチョチョパァ~」
「ぶっ……!」
駄目だった。
今度こそ、完全に駄目だった。
「ぶっ、ふふっ……!」
慌てて口を押さえたが、もう遅い。一度込み上げてきた笑いは、そう簡単には収まらなかった。目の前では、博士の姿が先ほどと同じように薄くなり、緑のマントも鉄仮面も消えようとしている。
それが、余計におかしかった。
なぜ二度も。
なぜ、よりによって。
世界征服を目指す天才科学者が、霊体化するたびに、あんな妙な言葉を叫ばなければならないのだろう。
「……ははっ、ははははっ!」
とうとう堪えきれず、俺は腹を抱えて笑い出してしまった。
『な、何がおかしいんだね!?』
「だ、だって……はははっ! 博士、今の……!」
『何だね!? 俺様のバッチリした掛け声に、何か文句でもあるのかね!』
「掛け声って……! はははっ! 霊体化するだけなのに、何で毎回そんな……!」
『必要かどうかは俺様が決めるんだよ! おみゃあ、俺様の美学というものが分からんのかね!』
「いや、分かりませんって……! あははははっ!」
俺はもう、完全に笑いのツボへ入っていた。
考えてみれば、相手は世界的な頭脳を持つ科学者なのだ。それも、ただの科学者ではない。強力な魔術を操り、異世界から英霊として召喚され、一国の支配者として君臨したことさえあるという男である。
そんな人物が、霊体化するたびに「オロロンチョチョパァ」と叫ぶ。
しかも大真面目に。
どう考えても反則だった。
『ええい! いつまで笑っとるんだね! そんなにおかしいんなら、もう一度実体化したるぞ!』
「や、やめてください……! ははっ……もう、分かりましたから……!」
『ふん! まったく、品のないマスターだのう!』
……どっちがだ。
そう言い返したかったが、もはやまともに声を出すことすらできなかった。腹が痛い。涙まで出てきた。こんなに笑ったのは、いつ以来だろうか。
俺は木の幹に片手をつき、どうにか息を整えようとした。
その時だった。
「――ほう。随分と愉しげではないか、雑種」
聞き覚えのない声が、頭上から響いた。
それは低く、冷たい声だった。あまりにも突然のことで、俺は一瞬、博士が喋ったのかと思った。しかし違う。今まで頭の中へ直接響いていた念話とは、明らかに声の届き方が異なっている。それに何より、その声には他者を見下すことを当然とするような、底知れない傲慢さがあった。
「……え?」
反射的に顔を上げた俺は、その場で固まった。
石垣の上に、一人の男が立っていた。全身を覆う黄金の鎧、鮮烈な赤い瞳、そして眼下の人間をまるで取るに足らない存在であるかのように見下ろす表情。見間違えるはずもない。つい先ほど、遠坂邸の上空で黒装束の英霊を一方的に圧倒した、あの男だった。
笑いが止まった。
本当に、一瞬で。
「我の庭先で、随分と耳障りな笑い声を上げるものだな。雑種」
黄金の英霊は、冷ややかな目で俺を見つめていた。
……終わった。
真っ先に頭へ浮かんだのは、その一言だった。
◇
ギルガメッシュは、不機嫌だった。
遠坂時臣の求めに応じ、取るに足らない暗殺者を始末した。それだけでも十分に退屈な仕事だったというのに、今度は自らの近くで何者かが下品な笑い声を上げていたのである。最初は無視するつもりだった。雑種どもが何をしていようと、いちいち関心を向ける価値などない。しかし、あまりにも愉快そうに笑っているものだから、僅かばかり気が向いた。
一体、何を見てあれほど笑っているのか。
その程度の好奇心だった。
ところが、声のする方へ目を向けたギルガメッシュは、予想していなかったものを発見した。
若い男が一人。年の頃は二十代半ばといったところか。見たところ、その身に宿す魔力は大したものではない。魔術師としても二流、いや、それ以下かもしれなかった。しかし、その青年のすぐ傍らには、通常の人間とは明らかに異なる気配が漂っている。
英霊のものと思われる魔力の残滓。
その事実に、ギルガメッシュは僅かに目を細めた。
「……ほう?」
どうやら、ただの通行人ではないらしい。
それに、男の右手には見覚えのある紋様が刻まれていた。聖杯によって選ばれたマスターの証。もっとも、ギルガメッシュにとっては、そのような資格を得たところで雑種の価値が変わるわけでもない。
「貴様もまた、聖杯を求める愚か者の一人か」
英雄王は、つまらなそうに言い放った。
自分の身の程も知らず、英霊を従えて聖杯を奪い合う。その滑稽な営みには、多少の見世物としての価値があるかもしれない。だが、それだけのことだ。眼下の青年がどのような願いを抱いていようと、ギルガメッシュの知ったことではなかった。
もっとも、その傍らに潜む英霊が何者なのかについては、少々興味があった。
◇
俺は動けなかった。
目の前の男がサーヴァントであることは疑いようがない。それも、並の英霊ではない。先ほどの戦闘を見ていれば嫌でも分かる。あの男は黒装束のサーヴァントを相手に、ほとんどその場を動くことさえせず、次々と武具を放って圧倒してしまったのである。
しかも、こちらは完全に不意を突かれていた。
何しろ、俺が笑っていたせいだ。
聖杯戦争に参加したマスターが、自分のサーヴァントの霊体化の掛け声に笑っているところを敵に発見される。そんな間抜けな話があってたまるか。事情を知らない人間が聞けば冗談だと思うだろうが、残念ながら俺にとっては笑い事ではない。
「……あの、これは」
「口を慎め、雑種」
黄金の男が僅かに眉を動かした。それだけで、喉の奥まで出かかっていた言葉が引っ込んでしまう。相手の視線には、まるで道端の虫けらでも眺めるような冷たさがあった。しかも、その態度には一切の躊躇いがない。この男にとって、自分以外の人間を見下すことは、呼吸をするのと同じくらい当然のことなのだろう。
「我の問いに答えよ。貴様は何者だ?」
「……俺は」
どう答えればいい?
素直に名乗るべきなのか、それとも偶然通りかかった一般人だと誤魔化すべきなのか。しかし、相手は既に俺が魔術師であることを見抜いているらしい。あの戦闘能力を考えれば、下手な嘘をついて機嫌を損ねるのはあまりにも危険だった。
どうにか無難な返答を考えようとしていた、その時だった。
『おーい、修一!』
頭の中へ、聞き慣れた声が響いた。
『何をぼさっとしとるんだね! さっきまであんなに笑っとったじゃにゃあか!』
……頼むから、今は黙っていてほしい。
「……博士、今はそれどころじゃ」
『ふうん。なるほどのう。さっきの金ピカの兄ちゃんかね』
ああ、そうだよ。
その金ピカの兄ちゃんに、今まさに命を握られているんだよ。
俺は必死に念話で説明しようとした。しかし、博士はそんな俺の事情などお構いなしだった。
次の瞬間、隣の空間が揺らいだ。
淡い光が集まり、そこから緑色のマントが姿を現す。続いて、灰色の甲冑と鉄仮面が実体化し、金属製の足が地面へ降り立った。
おい。
何をしている。
「へへへ! おみゃあ、なかなか立派な鎧を着とるじゃにゃあか!」
悪魔博士は黄金の英霊を見上げると、得意げに胸を張った。
「さっきの戦い、バッチリ見せてもらったぞ! なかなか面白い武器を持っとるのう!」
俺は、今すぐ博士の口を塞ぎたくなった。
「……何だ、貴様は」
黄金の男が不愉快そうに問いかける。
「俺様かね? へへへ! よぉーく聞くんだぞ!」
博士は待っていましたと言わんばかりに両手を広げた。
「この俺様こそ、世界一の頭脳を持つ悪魔博士だがね!」
沈黙が落ちた。
俺は頭を抱えたくなった。
相手がどのような英霊かも分からないというのに、博士は何の躊躇いもなく名乗ってしまった。いや、もちろん、本名を名乗ったわけではない。しかし、悪魔博士などという名前を聞かされて、相手がどう受け取るかなど想像もつかない。
黄金の男は、しばらく博士を見つめていた。
やがて、その口元が僅かに歪む。
「……悪魔博士、だと?」
「そうだよ!」
「ほう。随分と大仰な名を名乗るものだな」
男は鼻で笑った。
「そのような粗末な鉄の鎧を纏って、よくも我の前に姿を現せたものよ」
「なぁんだ、おみゃあ!」
博士は、途端に不満そうな声を上げた。
「俺様のバッチリした甲冑を、粗末とは何事だね! おみゃあの金ピカ鎧だって、随分と趣味が悪いじゃにゃあか!」
……あ。
駄目だ。
これは本当に駄目だ。
俺は反射的に黄金の英霊へ視線を戻した。先ほどまで僅かに浮かんでいた笑みが消え、その赤い瞳がゆっくりと細められていく。あの男がどれほど自尊心の高い人物なのか、まだ詳しくは知らない。しかし、今の発言が決定的にまずかったことくらいは分かる。
「……貴様」
黄金の英霊の背後に、光が浮かび上がった。
空間が水面のように揺らぎ、金色の輝きが輪を描く。その中心から、一本の剣がゆっくりと姿を現した。
つい先ほど、黒装束の英霊を討ち取った時と同じ光景だった。
「……博士!」
「おお?」
「余計なこと言わないでください!」
しかし、既に遅かった。
「我を侮辱した罪。その身をもって償うがいい」
黄金の英霊が片手を上げる。
次の瞬間、剣が放たれた。
「――っ!」
速すぎた。
目で追う暇などなかった。ただ、鋭い風圧が顔を打ったと思った瞬間、俺の前に緑色のマントが翻っていた。
凄まじい金属音が響く。
博士が右腕を掲げ、その前方に展開した淡い光の障壁が、黄金の剣を受け止めていたのである。衝突の衝撃によって博士の身体が僅かに後退し、金属製の足が地面を削った。障壁の表面には細かな亀裂のような光が走ったが、剣はそのまま軌道を逸らされ、近くの地面へ突き刺さった。
俺は、しばらく声を出すことができなかった。
あの攻撃を受け止めた。
その事実に安堵するよりも先に、障壁が大きく揺らいだことが恐ろしく感じられた。
「……博士」
「へへへ……」
博士は低く笑った。しかし、その声音には、先ほどまでの陽気さとは違うものが混じっていた。
「なるほどのう。こりゃあ、なかなかの威力だがね」
黄金の英霊は、僅かに興味を惹かれたようだった。
「ほう。我が財を受け止めるか」
「ふん! この悪魔博士を、そこらの雑魚と一緒にするんじゃにゃあぞ!」
博士は右腕を下ろした。障壁が消滅し、甲冑の表面から淡い光の粒子が散っていく。どうやら無傷で防いだわけではなさそうだったが、少なくとも本人は戦意を失っていないらしい。
「ほんだけど、おみゃあ。いきなり武器を投げつけてくるとは、ずいぶん乱暴な奴だのう!」
「貴様に礼を尽くす必要があるとでも?」
「へへへ! そりゃあ結構だがね!」
博士は左腕を持ち上げた。
ガントレットの一部が開き、内部に組み込まれた発射口が青白く輝く。見覚えのある機構だった。博士が以前から使っている、甲冑に内蔵された光線兵器である。
「だったら、俺様もちょーっとお返ししてやろうじゃにゃあか!」
「博士、待っ――」
俺が止めるよりも早く、光線が放たれた。
青白い閃光が夜を切り裂き、石垣の上に立つ英霊へ一直線に向かう。
しかし、黄金の男は動かなかった。
その背後に新たな光が浮かび上がり、一本の槍が飛び出したのである。
槍は博士の光線へ正面からぶつかり、激しい閃光とともにその軌道を逸らした。行き場を失った光線が石垣の一部を焼き、槍はそのまま離れた場所の地面へ突き刺さる。
「……ほう?」
黄金の英霊は、僅かに目を細めた。
だが、その表情に驚愕はなかった。初めて見る攻撃に多少の興味を覚えたとしても、自らの優位を疑う理由にはならないのだろう。
「面妖な術を使うものだな」
「なぁんだ、術じゃにゃあぞ! 俺様の科学だがね!」
博士は得意げに胸を張り、光線を放った左腕を掲げてみせた。その仕草は、自慢の発明品を披露する科学者そのものだったが、黄金の英霊はさして感心した様子もなく、冷ややかに見下ろしていた。
「ふん。何を誇らしげにしているかと思えば、ただの小細工か。その程度の代物をもって我が財に対抗するつもりとは、片腹痛いわ」
「なぁんだ、おみゃあ! 俺様のバッチリした発明を小細工呼ばわりするとは、失礼な奴だのう!」
「ならば、その小細工とやらで我を楽しませてみせよ。口先だけの道化でないというのならな」
黄金の男が薄く笑うと、その背後に新たな光が浮かび上がった。
今度は三つ。
それぞれの光の中から、異なる形状の武具が現れる。一本は長剣、もう一本は槍。そして最後の一つは、俺の知識では名前すら分からない奇妙な形状の武器だった。それらが、黄金の英霊を取り囲むように空中へ浮かび、ゆっくりと博士へ切っ先を向けていく。
「……っ!」
俺は思わず息を呑んだ。
一体、何なのだ。
あの男は、どうして何もない空間から次々と武器を取り出せるのだろう。しかも、先ほどから一度も同じものを使っていない。少なくとも、俺が知っている通常の魔術で再現できるような現象ではなかった。
「博士! 逃げましょう!」
「ちょーっと待っとれ、修一!」
博士は黄金の英霊を見据えたまま答えた。
「今、面白いところなんだよ!」
「面白いところじゃないでしょう!」
次の瞬間、三本の武具が放たれた。
博士は即座に右腕を掲げ、防御障壁を展開した。一発目の長剣が障壁へ衝突し、激しい火花を散らす。衝撃を受けた博士の身体が僅かに沈んだが、障壁は何とか攻撃を受け止めた。
しかし、残る二本は同じ方向から飛んできたわけではなかった。
一方の槍は、最初の長剣とは異なる角度から博士の側面へ迫っていた。博士は咄嗟に身体を捻り、その軌道から逃れる。だが、その動きを見越したかのように、最後の武具が別の方向から飛来した。
金属が裂ける音がした。
「……むっ!」
博士の身体が、大きく揺れた。
最後の一撃は完全には回避できず、肩部の装甲を掠めていた。灰色の金属には、はっきりとした傷が刻まれている。先ほどの攻撃を防いだ障壁も、二度目の展開によって明らかに輝きが弱くなっていた。
「……博士!」
「分かっとる!」
博士は短く答えた。
その声からは、いつものふざけた調子が薄れていた。鉄仮面の奥で何を考えているのか、俺には分からない。しかし、博士は傷ついた肩を確認した後も、黄金の英霊から目を離そうとしなかった。
一方、石垣の上に立つ男には、焦りの色など微塵も見られない。
「どうした、鉄屑。威勢がよいのは口だけか?」
「へへへ……」
博士は、傷ついた肩を軽く叩いた。
「おみゃあ、なかなか気前がええのう」
「……何?」
「さっきから次々と武器を見せてくれるじゃにゃあか。どこにそんなもんを隠しとるのか、俺様も気になってきたぞ!」
黄金の英霊の目が、ゆっくりと細められた。
「……貴様、我が財を探るつもりか」
「そりゃあそうだよ! こんな面白い仕組み、調べずにおれるかね!」
博士はまるで研究室で珍しい装置を発見した時のように、楽しそうな声を上げた。
しかし、俺は笑えなかった。
あまりにも危険だったからだ。
博士の防御障壁は相手の攻撃を受けるたびに大きく揺らいでいるし、甲冑には既に傷が刻まれている。それなのに、黄金の英霊は未だ本気を出しているようには見えなかった。最初から最後まで、ほとんどその場を動いていないのである。向こうはただ武器を放つだけで、こちらを追い詰めている。
博士がどれほど優れた科学者なのかは、俺も知っている。
しかし、だからといって、今この場で勝てるとは限らない。
何より、俺たちは相手の能力について何も知らないのだ。
「博士!」
俺は声を張り上げた。
「これ以上は駄目です! 今は情報収集が目的だったんでしょう!」
その言葉に、博士が僅かに顔を動かした。
「……ふうん」
「相手の能力も分からないのに、ここで戦い続ける必要はないでしょう! 博士が倒されたら、集めた情報だって意味がなくなりますよ!」
数秒の沈黙があった。
博士は黄金の英霊を見上げたまま、何かを考えているようだった。あの男の背後では、再び空間が波打ち、新しい武具が姿を現そうとしている。
やがて、博士が小さく頷いた。
「……そーかそーか。おみゃあの言う通りだのう」
意外な返事だった。
てっきり、もっと調べるんだと意地を張るものだと思っていた。だが、博士は自らの甲冑を一瞥した後、低い声で言葉を続けた。
「ほんだけど、修一。おみゃあ、ちょーっとしゃがんどれ」
「……え?」
「早くするんだよ!」
反射的に身を屈めた、その瞬間。
博士の両肩から、白い煙が噴き出した。
「うわっ!?」
視界が一瞬で白く染まる。
しかし、それは単なる煙幕ではなかった。煙が広がると同時に、周囲の魔力が不規則に揺らぎ始めたのである。視界の向こうにある景色が奇妙に歪み、石垣も木々も、輪郭が曖昧になっていく。魔術的な探知を攪乱するための仕掛けなのだろうか。
俺が状況を理解するよりも早く、博士が腕を掴んだ。
「行くぞ、修一!」
「……えっ!?」
身体が浮き上がった。
いや、違う。
博士が、俺を片腕で抱えたまま跳び上がったのである。
直後、甲冑の背部と脚部から淡い光が噴き出した。低い駆動音とともに身体が一気に加速し、眼下の石垣が凄まじい勢いで遠ざかっていく。
「うわああっ!?」
「おみゃあ、騒ぐんじゃにゃあ!」
「いや、無理でしょう!?」
俺たちは、夜空を飛んでいた。
自分の足で地面を離れた経験など、当然あるはずもない。博士の甲冑に飛行能力があることは知っていたが、まさかこんな形で体験することになるとは思わなかった。身体を支えているのは博士の片腕だけで、少しでも力が緩めば真っ逆さまに落下してしまいそうだった。
背後から、何かが空気を裂く音がした。
「……博士! 後ろ!」
「分かっとる!」
博士は素早く飛行方向を変えた。
白い煙の向こうから一本の武具が飛び出し、俺たちが先ほどまでいた空間を貫いていく。しかし、武具はそのまま直進し、離れた場所の地面へ突き刺さった。
どうやら、ひとまず直撃は避けられたらしい。
博士はさらに進路を変え、木々の陰を縫うように飛行を続ける。高度を上げすぎれば相手から見つかりやすくなるのだろう。地形を利用しながら、できる限り姿を隠そうとしているようだった。
それでも、俺は落ち着かなかった。
相手は、何もない空間から強力な武具を取り出すことのできる英霊である。もし背後からさらに何本も放たれたら、今度こそ逃げ切れないかもしれない。
しかし、追撃は続かなかった。
しばらくして、遠ざかる石垣の方から、あの黄金の英霊の声が聞こえた。
「……ふん。逃げ足だけは一人前か」
冷ややかな声だった。
だが、そこに追跡する意思は感じられなかった。
「よかろう。今宵は見逃してやる。次に我の前へ姿を現す時には、もう少しまともな芸を用意しておけ。鉄屑よ」
最後の言葉が、妙にはっきりと耳に届いた。
博士は振り返らなかった。
ただ、空を飛びながら、小さく笑った。
「へへへ……言っとれ、金ピカの兄ちゃん」
その声には、先ほどまでの陽気さとは違う響きがあった。
俺を抱える腕の力は緩まず、飛行速度も落ちない。それでも、博士が黄金の英霊に対して強い対抗心を抱いていることは、言葉の端々から伝わってきた。
「次は、もうちょーっとバッチリしたもんを見せたるがね」
俺は何も答えなかった。
ただ、博士の肩に刻まれた傷を見つめていた。
灰色の甲冑には、先ほどの武具によって生じた傷がはっきりと残っている。俺たちは確かに生き延びた。しかし、それは相手を打ち負かしたからではない。黄金の英霊が、それ以上追いかける価値はないと判断しただけなのだ。
その事実が、どうにも悔しかった。
もっとも、今は無事に帰れるだけでも十分だろう。
俺は遠ざかっていく遠坂邸の方角へ目を向けた。
一体、何者なのだろう。
あの黄金の英霊は。
無数の武具を所有し、まるで王のように振る舞う男。あれほどの力を持つ英霊が、そう何人も存在するとは思えない。きっと、歴史や神話に名を残すほどの英雄なのだろう。
しかし、今の俺には、その真名を推測するだけの材料すらなかった。
ただ一つ、分かったことがある。
この聖杯戦争には、悪魔博士の科学をもってしても、容易には対抗できない英霊がいる。
そして、あの男とは恐らく、これで終わりではない。
隣では博士が、相変わらず何かを呟いていた。
「……ふうん。あの武器の出し方、やっぱり妙だのう。どこかに仕組みがあるはずなんだがね」
こっちは命からがら逃げてきたというのに、まだ研究のことを考えているらしい。
俺は深々とため息をついた。
どうやら、この男は懲りるということを知らないようだった。
◇
遠坂邸。
書斎へ戻った遠坂時臣は、いつになく険しい表情をしていた。
今夜の計画は、本来なら極めて単純なものだった。アサシンの一体を遠坂邸へ侵入させ、アーチャーによって撃退させる。その光景を他の陣営に目撃させることで、アサシンが脱落したと思わせる。
既に戦争は始まっている。
敵を欺くことは、勝利へ至るための重要な手段だった。
そして、アサシンの宝具である『妄想幻像』を利用すれば、一体の消滅をもって陣営全体が敗北したように偽装することができる。
しかし。
「……まさか、あのようなことになるとは」
時臣は小さく呟いた。
「綺礼。先ほどの騒ぎについて、詳しく聞かせてもらおう」
「はい」
向かいに立つ言峰綺礼は、いつもと変わらぬ無表情で頷いた。
「アーチャーが交戦した相手は、先日、我々の使い魔を排除したキャスターと見てよいかと思われます。現場には若い魔術師が一人同行しており、こちらがマスターである可能性が高いでしょう」
「……やはり、あのキャスターか」
時臣は僅かに眉を寄せた。数日前、冬木市内で偵察活動を行っていた使い魔が、何者かによって破壊される事件が起きていた。調査の結果、正体不明のキャスターが関与した疑いが浮上していたものの、これまで詳細な能力を確認する機会はなかった。
しかし、今夜は違う。アーチャーが直接交戦したことで、少なくとも相手が通常の魔術師とは異なる戦闘能力を持つことは明らかになった。
「それで、戦闘の経過は?」
「キャスターは、アーチャーが射出した武具を障壁によって防御した後、光線状の攻撃で反撃しています。ただし、アーチャーには届かず、最終的にはマスターと思われる青年を連れて撤退しました」
「ふむ……。英霊の宝具を防ぐ障壁に、光線による攻撃か。キャスターというクラスを考慮しても、いささか奇妙な戦闘様式だな」
時臣は指先で顎に触れ、しばらく考え込んだ。使い魔を破壊された時点で、相手がこちらの偵察を察知するだけの能力を備えていることは分かっていた。しかし、今夜確認された能力は、一般的な魔術師の範疇に収まるものではない。
「真名については何か分かったかね?」
「いえ。全身を甲冑で覆っており、外見から出自を判断することは困難です。ただ、本人は『悪魔博士』と名乗っていたようです」
「悪魔博士……」
時臣はその名を口の中で反芻した。少なくとも、彼の知る英雄譚や魔術史の中に、そのような名前を持つ人物の心当たりはない。
「随分と奇妙な名を名乗るものだ。だが、今は真名の推測よりも、あの英霊の能力を把握することが先決だろう」
「では、引き続き監視を?」
「そうしてくれたまえ。ただし、先日はこちらの使い魔を容易に排除している。迂闊に近づけば、アサシンの存在まで悟られかねん。慎重を期す必要がある」
「承知しました」
綺礼が一礼するのを見届け、時臣は机上の書類へ視線を戻した。今夜のアサシン脱落偽装は、予定通り成功している。キャスターとの遭遇は予想外だったが、アーチャーが戦闘の主導権を握ったことに変わりはない。
ただし、あの英霊については依然として不明な点が多かった。先日の使い魔の破壊と今夜の交戦を考え合わせれば、決して軽視してよい相手ではない。
「……悪魔博士、か」
時臣は小さく呟いた。
「聖杯は、いったい何者を招き寄せたというのだ」
◇
その頃、間宮電器の作業場では、俺が椅子に座り込んでいた。
「……死ぬかと思った」
帰宅してからというもの、同じ言葉を何度繰り返したか分からない。
俺は聖杯戦争に参加することを決めた人間だ。サーヴァント同士の戦闘がどれほど危険なものか、頭では理解していたつもりだった。だが、実際に英霊の攻撃を目の前で見せつけられると、その認識がいかに甘かったか思い知らされる。
あの黄金の男は、ほとんど動かなかった。
ただ、空中から武器を出して放つ。
それだけで、博士の防御障壁を揺るがし、甲冑に傷をつけてしまった。
しかも、あの男にはまだ余裕があった。
「……本当に、何なんですか。あいつ」
「へへへ。なかなか面白い奴だったのう!」
一方、博士はというと、相変わらず元気だった。
作業机には、先ほどの戦闘で傷ついた肩の装甲が置かれている。その横には何枚もの紙が広げられ、俺には理解できない図形や数式が次々と書き込まれていた。
「……博士、笑い事じゃないでしょう。俺たち、危うくやられるところだったんですよ?」
「分かっとるよ。ほんだけど、そう簡単にやられてたまるかね!」
博士は手を止めることなく答えた。
「今夜はなかなか面白いもんが見られたぞ。あの金ピカの兄ちゃん、どこからともなく武器を取り出しとっただろうが。あれがどういう仕組みなのか、俺様は気になるんだよ」
「……まだそんなこと言ってるんですか」
「そんなこととは何だね! 大事なことだぞ!」
博士は紙の一枚を持ち上げた。
そこには、金色の光から武器が出現する様子が、いくつかの図形によって表現されていた。魔力の変化、武具の出現位置、攻撃が始まるまでの間隔。どれも、今夜の戦闘で観測した情報を整理したものらしい。
「単純な物質生成には見えんかった。あの金色の光は、どこか別の場所にあるものを取り出すための通路なのかもしれんのう」
「……そんなこと、できるんですか?」
「できるから目の前で見たんだろうが!」
博士は当然のように答えた。
「ほんだけど、仕組みはまだ分からん。空間への干渉なのか、別の場所との接続なのか。それとも、もっと別の原理があるのか。今のところ、考えられる可能性はいくつもある」
そう言って、博士は別の紙を取り出した。
今度は、甲冑の防御障壁に関する設計図だった。
「それに、今夜の戦いではこっちの問題も分かったぞ」
「……防御障壁ですか?」
「うむ。あの武器は普通の金属とは違う性質を持っとる。障壁の魔力を集中させにゃあ防ぎきれんし、攻撃の角度によっては、装甲の弱い部分を狙われることもある。あれじゃあ、何発も受け続けるわけにはいかんのう」
博士は傷ついた肩の装甲を手に取った。
その表面には、黄金の武具によって刻まれた痕跡が残っている。
「……修理できるんですか?」
「当たり前だがね!」
博士は大きく胸を張った。
「こんなもん、ちょーっと手を加えりゃあ元通りだよ! ほんだけど、ただ直すだけじゃ面白くにゃあ。今度は同じ場所を狙われても大丈夫なように、バッチリ改良してやるぞ!」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ安心した。
いや、正確には、安心したというより呆れたと言うべきかもしれない。
この男は、今夜の戦闘で本当に危険な目に遭った。それなのに、既に次の戦いのことを考えている。しかも、敵がどれほど強いか分かったことで、むしろ研究意欲が高まっているらしい。
「……博士」
「何だね?」
「もし、あの金色の英霊ともう一度戦うことになったら、勝てそうですか?」
博士は手を止めた。
数秒ほど沈黙した後、ゆっくりとこちらを振り返る。
「……さあのう」
意外な答えだった。
「分からないんですか?」
「当たり前だがね!」
博士は呆れたように言った。
「相手が何を持っとるかも分からんのに、どうやって勝てるか決めるんだよ!」
「……それは、そうですけど」
「ほんだけどな」
博士は机上の図面を指差した。
「今日見たもんは、もう忘れんぞ」
その声は、妙に落ち着いていた。
「次に会う時には、もう少し分かるだろうが。分からんことがあれば、また調べる。足らんもんがあれば作る。それだけの話だよ」
俺は黙って、その言葉を聞いていた。
今夜、黄金の英霊は博士を圧倒した。
少なくとも、俺にはそう見えた。
一方、博士は敵の攻撃を観察し、どのような仕組みで武器が出現するのかを考え始めている。防御障壁の弱点も把握し、既に改良案を練っていた。
つまり、この男にとって今夜の戦いは、終わった出来事ではない。
次の実験のための材料なのだ。
「……それにしても」
博士が小さく呟いた。
「何です?」
「あの黒いやつ、やっぱり妙だのう」
「……アサシンですか?」
俺がそう尋ねると、博士は頷いた。
「ほう。おみゃあ、あのクラスが分かるのかね?」
「いや、見た目と動きからの推測ですけど。暗殺者っぽかったので」
「へへへ。まあ、そういうことにしとくかね」
博士は紙の端に何かを書き込んだ。
「ほんだけど、あいつは妙だった。わざわざ敵の目につくような場所へ姿を現して、あっさりやられてまった。まるで、誰かに見せるために出てきたみたいじゃにゃあか」
「……でも、実際に倒されましたよ?」
「そう見えたな」
その言い方が、少し気になった。
「……どういう意味です?」
「見えたものが全部とは限らんだろうが。そもそも、相手がどんな能力を持っとるのかも分からん。今のところ、何とも言えんのう」
博士はそれ以上、説明しなかった。
その代わり、再び黄金の英霊に関する図面へ向き直った。
俺は椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
……まったく。
とんでもない一日だった。
朝は博士の発明品に驚かされ、夜には遠坂邸の近くで敵のサーヴァントを目撃し、最後には黄金の英霊と直接戦闘になってしまった。
しかも、その原因が。
「…………」
俺はふと、思い出してしまった。
オロロンチョチョパァ。
「……ふっ」
駄目だ。
また笑いそうになる。
俺は慌てて口元を押さえた。
しかし、その様子に気づいた博士が、怪訝そうに振り返る。
「……何だね、修一?」
「い、いや……何でもありません」
「おみゃあ、また変なことを考えとるんじゃにゃあだろうな?」
「そんなこと……ふふっ……ないですよ」
「……おい」
博士が椅子から立ち上がった。
嫌な予感がした。
「修一。おみゃあ、さっき俺様の掛け声を笑っとっただろうが!」
「いや、だから……ははっ……!」
「笑っとったな!?」
「す、すみません……! でも、あれは……!」
「何がそんなにおかしいんだね! 俺様のバッチリした霊体化を、馬鹿にするんじゃにゃあぞ!」
「霊体化は凄いと思いますよ……! でも、その前の……!」
博士は腕を組み、しばらく俺を睨んでいた。
そして、何を思ったのか、突然大きく胸を張った。
「ふん! ほんじゃあ、おみゃあにもよぉーく分かるように、もう一度見せたるわ!」
「……え?」
「オロロンチョチョパァ!」
「ぶはっ!!」
終わった。
完全に終わった。
再び姿を消していく博士を前に、俺はとうとう机へ突っ伏してしまった。笑いすぎて腹が痛い。涙まで出てきた。
『ええい! 何がおかしいんだね!?』
「ははははっ! 博士、やめてください……! もう、ほんとに……!」
『まったく、品のないマスターだのう!』
……どっちがだ。
そう言い返したかったが、また笑ってしまいそうだったので、俺は黙っておくことにした。
しかし、笑いながらも、俺は一つだけ確信していた。
この男は、間違いなく恐ろしい英霊だ。
黄金の男が放った武具を防ぎ、異様な光線を放ち、そして何より、相手の能力を観察して次の対抗策を考え始めている。まだ何も分からないことばかりだというのに、博士は既に次の戦いへ向けて動き出しているのだ。
その知性だけは、本物だった。
だからこそ、俺は思う。
どうしてそんな男が、霊体化するたびに「オロロンチョチョパァ」と叫ぶのだろう。
まったく。
先が思いやられる。
そして、その頃。
遠坂邸の書斎では、遠坂時臣が新たな報告を受けていた。
謎の鉄仮面の英霊。
機械仕掛けのような甲冑を纏い、科学とも魔術ともつかない力を操るキャスター。
それが、今夜初めてアーチャーと交戦した。
時臣はまだ知らない。
その奇妙な英霊が、今も小さな電器店の作業場で、自らの防御障壁を改良し続けていることを。
そして、黄金の王が見逃したあの鉄仮面の男が、いつか再び彼の前に姿を現すことになるということを。