君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。 作:霜月ルイ
本作品には、貧困・社会問題・病気・家庭環境・精神的な追い詰め(曇らせ)などの重い描写が含まれます。
また、暴力表現やR15相当の恋愛描写、原作の独自解釈・設定改変を含む場合があります。
全体を通して暗く、シリアスな作風となりますので、苦手な方はブラウザバックをお願いいたします。
カロス地方の、とある小さな町。
町の外れには、古い家が何軒か寄り集まったように建っている。舗装の剥がれた細い道を抜ければ畑が広がり、その先には低い山並みが続いていた。観光名所と呼べるものはなく、駅前の商店も日が傾く前に大半が店を閉める。余所から来る人間にとっては、通り過ぎるだけの場所だったと思う。
俺にとっては、世界の全部だった。
小さな台所には、いつも何かを煮る匂いがあった。古いテーブルの脚は一本だけ短く、母さんが折り畳んだ紙を噛ませていた。窓枠には雨が降るたび染みが増え、冬になると隙間から冷たい風が入り込んだ。それでも、夕方になれば明かりが灯り、帰ってきた人間を迎える声があった。
「おかえり、リュカ。手を洗っておいで」
母さん――クレールは、いつも先にそう言った。
十歳の俺が森で拾ってきた、傷だらけの黄色いポケモンにも同じことを言った。見たこともない生き物を前に少しも怖がらなかった、とは言わない。最初は包帯の巻き方を調べ、夜中まで様子を見て、電気が漏れれば古い家電を慌てて遠ざけた。それでも、目を覚ましたゼラオラが威嚇すると、母さんは困ったように笑った。
「そんなに怒らなくたって、ご飯は取らないわよ」
ゼラオラはすぐには懐かなかった。回復して一度は森へ戻った。それなのに、翌朝には玄関の前に座っていた。俺が戸を開けると、何でもない顔で尻尾を揺らしていた。
以来、俺たちは三人で暮らすようになった。
裕福だったことなんて、一度もない。誕生日のご馳走が具の少ないシチューでも、靴を買い替えるのが一年遅れても、あの家には笑い声があった。ゼラオラと最後のパンを取り合って母さんに怒られた夜も、火の消えかけたストーブの前で三人並んで眠った冬も、今なら全部、戻らない時間だと分かる。
五年前から、あの家の時計は少しずつ狂い始めた。
最初に母さんが皿を落とした日のことを、俺はまだ覚えている。
割れた皿より先に、母さんは自分の右手を見ていた。指先を何度か握り直してから、いつもどおりに笑った。
「ごめんね。最近、ちょっと手がしびれるの」
俺は何も疑わなかった。仕事で疲れているんだと思った。母さんが働いて、俺が学校へ行き、ゼラオラが畑の端で勝手に眠っている。そんな毎日は、明日も明後日も続くと信じていた。
だけどそれも、続かなかった。
♦
音の鳴らないアラームを止める。振動だけで起きる習慣は、母さんを起こさないようにしていた頃から変わらない。
今は隣の部屋に母さんがいるわけでもないのに、指が勝手に画面を押してしまう。
薄暗い天井には、細いひびが走っていた。壁際で配管が一度だけ鳴る。上の階から水の流れる音がして、建物全体がゆっくり目覚め始める。
俺の部屋には、家具がない。
六畳ほどの床に敷いた寝袋と、壁際に畳んだ衣類。仕事道具をまとめた鞄。充電中の古いスマートフォン。それだけだった。冷蔵庫も、テレビも、机もない。物を置かない主義というわけじゃない。買う金と、運ぶ金を払いたくなかっただけだ。
部屋のいちばん暖かい場所には、小さな布団が一枚ある。
青みがかった布地は何度も洗われて柔らかくなり、端のほつれには不揃いな縫い目が残っていた。母さんが故郷で使っていた布を継ぎ合わせ、出発の前夜に縫い直してくれた、ゼラオラ用の布団だ。
肝心のゼラオラは、そこにいなかった。
「……重い」
俺の寝袋の上で丸くなっていた黄色い塊が、片耳だけ動かした。昨夜も寒かったらしい。いつの間にか布団を抜け出して、俺の腹の上に移動していた。
「お前、自分の布団あるだろ」
「ゼラ」
抗議とも返事ともつかない声がする。軽く額を押すと、今度は爪を立てないように気をつけながら、俺の手首を抱え込んできた。
仕方なく数秒だけ頭を撫でる。耳の間に指を入れると、ようやくゼラオラは満足したように身体を起こした。床へ降りて伸びをする背中を見ながら、俺も寝袋から這い出す。
足の裏に冷たさが伝わった。安い物件には安い理由がある。窓は閉めても風が入るし、壁は薄い。共用シャワーのお湯が出ない日もある。最初に内見したとき不動産屋は申し訳なさそうな顔をしていたが、俺には予算内で屋根があるだけで十分だった。
鞄から財布を取り出し、中身を確認する。
紙幣を一枚、硬貨を数枚。昨日、故郷への送金を済ませたところだった。次の給料日までの日数を数え、交通費と食費に使える額を頭の中で割る。数字はいつも正直だ。多少の気合いや根性で、残高が増えたりはしない。
ゼラオラがこちらを見ていた。
「分かってる。お前の分はある」
昨日買ったポケモン用の食事を袋から出す。必要な栄養を取れるものを選んでいるから、俺の食事より単価が高い。以前、職場の人間にその話をしたら笑われた。自分の飯を削ってまでポケモンに食わせるなんて、順番がおかしいと。
俺には、その順番が分からない方がおかしかった。
ゼラオラは家族だ。腹を空かせている家族の前で、自分だけ満腹になる理由がない。
俺の朝食は、昨日の帰りに買った固いパンの残りだった。包み紙を開き、まだ傷んでいないことを確かめて半分に割る。水道の水で流し込みながら、壁の時計代わりにスマートフォンを見た。
六時半を少し過ぎている。
画面には、故郷の診療所から送られてきた短い連絡が残っていた。昨日の訪問では大きな変化はなく、転倒に気をつけながら過ごせているという。週に決まった回数、支援の人が様子を見に来てくれる。近所にも緊急時の連絡を頼める人がいる。出稼ぎに出る前、母さんと何度も話し合って整えた体制だ。
それでも、離れて暮らしているという事実までは変えられない。
母さんが昨夜、ちゃんと眠れたか。立ち上がったときにふらつかなかったか。痛みが強くなっていないか。俺が今ここにいて、確かめられることは何もない。
電話の発信ボタンを押した。
呼び出し音は三回で途切れた。
『おはよう、リュカ。今日は早いのね』
「おはよう、母さん。もう起きてた?」
『うん。ゼラオラの夢を見ちゃって。あの子、台所の鍋を全部ひっくり返してたのよ』
声はいつもと同じように明るかった。調子がいい日の声だと信じたかったが、母さんは俺よりずっと長く、平気なふりをすることに慣れている。
「そんなことしないよ。ねえ、ゼラオラ」
スマートフォンを向けると、ゼラオラが鼻先を近づけた。画面の向こうで母さんが笑う。その小さな音を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものがわずかに緩んだ。
『あなたは? ちゃんと食べてる?』
「もちろん。僕は大丈夫だよ。仕事も慣れてきたし、みんな親切にしてくれる」
『本当? 無理な仕事は引き受けてない?』
「してないって。現場にはちゃんと休憩もあるし、危ないことは任されないよ」
嘘ではなかった。休憩はある。安全管理にも厳しい。俺が勝手に疲れを隠して、余分な仕事を探しているだけだ。
『だったらいいけど。あんた、昔から我慢するのが得意すぎるんだから』
「母さんこそ。痛かったら、ちゃんと言ってね」
『はいはい。親子って似るものね』
通話の終わり際、母さんが少し声を落とした。
『リュカ。お金、また送ってくれたでしょう』
「今月は少し余裕があったから」
『自分のためにも使いなさい。たまには、ちゃんとしたご飯を食べて』
「食べてるよ。心配しないで」
『……あなたが倒れたら、私はもっと心配するのよ』
返事が一瞬遅れた。ゼラオラが俺の膝に前脚を乗せる。
「大丈夫だよ、母さん。僕にはゼラオラもいるから」
いつもの言葉で電話を切った。
画面が暗くなると、そこに映ったのは寝不足の男の顔だった。黒い髪が額にかかり、金色の目の下に薄い影が落ちている。母さんには見せなかった顔だ。
「……行くか」
ゼラオラが短く鳴いた。
♦
ミアレシティの朝は、故郷よりずっと騒がしい。
新しい舗装の上を車が流れ、建物の壁には巨大な広告映像が映し出されている。再開発の区画では、まだ骨組みだけの建物が空へ伸びていた。通勤する人間、朝からカフェの席を埋める観光客、街路樹の根元で眠るポケモン。誰もが同じ道を歩いているのに、向かう場所も、使える金も違う。
俺はバス停を通り過ぎた。歩けば三十分ほど余計にかかるが、それで節約できる額を一週間分にすると無視できなかった。雨の日や身体がどうにも動かない日以外、交通機関は使わないことにしている。
ゼラオラは俺の少し前を歩いた。目立たないようにという約束はしていたが、その姿を完全に隠せるわけじゃない。何度か通行人が振り返ったものの、俺が視線を返すと、たいていは足を速めた。
珍しいポケモンを連れているというだけで、俺の生活を知らない人間が近づいてくる。
以前、写真を撮らせてほしいと頼まれたことがあった。断っても引き下がられず、ゼラオラの前に勝手に手が伸びた。そのときのことを思い出すと、今でも喉の奥が苦くなる。
見せ物にするために一緒にいるんじゃない。
そんな当たり前のことが、知らない誰かには通じない。
ラシーヌ工務店の敷地へ着く頃には、額に薄く汗が浮いていた。門の脇には資材が積まれ、作業車が何台も並んでいる。俺が挨拶すると、先に来ていた作業員が片手を上げた。
「おはようございます」
「おう。今日も早いな、リュカ」
「遅れるよりはいいんで」
会話はそれで終わった。無理に笑う必要はないし、相手も俺にそれ以上を求めなかった。
仕事は嫌いじゃない。
何を運ぶか、どこを直すか、何時までに終えるか。現場には決まった手順があり、やるべきことが目の前に見えている。丁寧に取り組めば結果が残る。少なくとも、誰かの同情を買うために頭を下げる必要はない。
午前中は、改修する建物の資材整理を担当した。古い壁材を撤去した区画へ、新しい部材が運び込まれる。粉塵が舞い、工具の音が響く。手袋越しに角の硬さを感じながら、指示どおりの場所へ一つずつ積んでいく。
ゼラオラは危険区域に入らないよう、事務所に近い日陰で待たせていた。人の作業を手伝うこともできるが、工事現場では勝手な判断が事故につながる。俺がそう教えると、あいつは不満げな顔をしながらも守ってくれた。
昼前、少し高い位置の資材が崩れかけた。
「下がれ!」
怒鳴り声に反応して身体が動いた。近くの作業員を引き寄せ、足元に転がっていた細い部材を避ける。落ちた資材は床を強く打ち、乾いた音を立てた。大きな事故にはならなかったが、現場の空気が変わった。
安全確認が終わるまで作業は止まった。
「無茶するな。怪我人が増えたら仕事にならん」
声をかけてきたのは、タラゴンだった。
ラシーヌ工務店の経営者。大柄で、現場に立つと誰よりも声が通る。最初に会ったときは、どうして社長が自分でこんな場所を歩き回っているのか不思議だった。今では、工事の出来を自分の目で確かめないと気が済まない人間なのだと分かっている。
「すみません」
「謝る前に手を見せろ」
言われたとおり手袋を外した。指先に擦り傷があるだけで、血も出ていなかった。
「問題ありません」
「それを決めるのはお前じゃねえ。ひととおり確認してこい」
「……分かりました」
タラゴンは、それ以上説教を続けなかった。代わりに資材を置いた位置や固定の仕方を作業員と確認し始める。誰か一人の不注意にして終わらせないところは、俺がこの職場で気に入っている数少ないことの一つだ。
危なっかしいのは自分の方だ、と分かっていても、俺は仕事の手を緩めるのが苦手だった。
休めば、その間は何も稼げない気がする。誰かが同じ作業を終えているあいだに、自分だけ止まっていることが落ち着かない。実際の給料は、無理をした分だけ増える仕組みではない。それでも身体に染みついた焦りは、そう簡単に消えなかった。
正午になり、休憩の指示が出た。
俺はゼラオラを呼び、手を洗ってから休憩室へ向かった。
♦
休憩室には、小さなテレビが置かれていた。
古い冷蔵庫、電子レンジ、長いテーブルと椅子。会社の備品だから当然なのだが、俺の部屋にはないものばかりだ。初めてここへ来た日、何の気なしに冷蔵庫を開けてみて、誰かの弁当がぎっしり詰まっていることに妙な息苦しさを覚えた。
毎日、昼食を家から持ってくる。
俺にはその当たり前が、少し遠かった。
今日の昼食は、割引の印がついたパンが二つ。朝食の残りと合わせれば、夕方までは持つだろう。ゼラオラには持参した食事と水を出してやる。あいつは一度俺のパンを見たが、何も言わずに自分の容器へ顔を寄せた。
誰かがリモコンを操作し、テレビのチャンネルが変わった。
画面に映っていた料理番組が消え、眩しいほど赤い光が広がる。ミアレシティの夜景だった。プリズムタワーが空へ伸び、その周囲で半透明の赤い壁が次々に立ち上がる。
電子音に合わせて、画面の中のトレーナーたちが走り出した。
『夜のミアレを舞台に、選ばれたトレーナーたちが頂点を競い合う――ZAロワイヤル』
華やかな声が室内に響いた。
最初、俺は見向きもしなかった。ポケモン勝負の大会なら、昔からいくつもある。優勝者が表彰され、高そうな衣装を着た連中が笑顔で並ぶ。そんな世界に自分が関わることはないと思っていた。
ところが次の言葉で、パンを持っていた手が止まった。
『全ての参加者はZランクからスタート。激戦を勝ち抜き、最高のAランクへ到達した者には、名誉とともに、願いを一つ叶えてもらえるとされています』
願いを、一つ。
画面の向こうで、観客の歓声が上がった。
俺はテレビを見た。
赤い光に囲まれた路地でポケモンが技を放ち、対戦相手がその攻撃をかわしている。現実の街を舞台にした、激しい勝負。次の場面では、勝利したトレーナーの頭上に大きなランク表示が浮かび上がった。
『ただし参加は、実力を認められたトレーナーへの招待制。挑戦者たちは夜ごとに現れるバトルゾーンで戦い、ランクアップを目指します』
「願い、ねえ」
向かいに座った作業員が、テレビを見ながら笑った。
「俺だったら、一生遊んで暮らせるくらい金が欲しいな」
「そんな簡単にAまで行けるもんか。そもそも招待されねえだろ」
「分かってるよ。夢見るくらいいいじゃねえか」
誰かが無条件に願いを叶えてくれるなんて、そんな都合のいい話があるわけがない。まして、相手は大きな企業だ。何の見返りも求めず、人間一人の望みを聞いてくれるはずがない。
願いを一つ叶える。
俺が欲しいものは、ずっと一つだった。
♦
クレールの病名を最初に聞いたとき、俺はうまく覚えられなかった。
脊髄神経鞘腫。
医師は紙に文字を書き、背骨と神経の図を見せながら説明してくれた。多くは良性の腫瘍であること。大きくなった腫瘍が神経を圧迫し、痛みやしびれ、筋力の低下を引き起こしていること。専門の医師による手術で摘出できれば、改善が期待できること。
あのとき、俺は喜んだ。
治せるのなら、治せばいい。母さんはまた働けるようになるかもしれない。以前みたいに庭へ出て、ゼラオラと一緒に洗濯物を干せるかもしれない。そう思った。
けれど、医師の説明はそこで終わらなかった。
腫瘍の位置によっては手術自体に危険があること。すでに長く続いている神経症状は、摘出後も残る可能性があること。専門施設での評価が必要で、場合によっては入院や長期のリハビリが続くこと。
そして、治療を受けるあいだも、生活は続く。
家賃が要る。食事が要る。故郷から専門施設へ通うための金が要る。母さんが働けないあいだの収入を埋めなければならない。利用できる制度は調べた。診療所の人にも相談した。免除や補助を受けられる部分もあった。それで全部が解決するなら、とうに解決している。
何より、仕事を休めば俺の収入も止まる。
病気は一つなのに、払わなければならないものは一つじゃなかった。
最初は、いくらかかるかを計算していた。
ある晩、母さんが玄関で転んだ。
診療所で診てもらい、大きな怪我はなかった。それでも電話越しにその話を聞いたとき、俺はしばらく声を出せなかった。昨日まで自分でできたことが、今日もできる保証はない。俺が働いている時間にも、母さんの身体は少しずつ変わっている。
もし、このまま間に合わなかったら。
その考えを、俺は毎日押し込めていた。
♦
「おい、リュカ。聞いてるか?」
呼びかけに顔を上げる。
「……何ですか」
「午後は別の現場に回るって話。お前も一緒だ」
「分かりました」
ゼラオラだけが、こちらを見上げていた。
「……何でもない」
そう言って頭を撫でると、あいつは目を細めた。俺の声がいつもと違うことくらい、気づいているだろう。
残りのパンを口に運ぶ。味がしなかった。
これまで俺は、できることだけをしてきた。
働く。節約する。送金する。診療所と連絡を取り、次の受診に備える。一つずつ積み重ねれば、いつか何とかなると信じるしかなかった。
それなのに、その積み重ねの先が見えない。
俺は自分の手を見下ろした。硬くなった皮膚の隙間に、洗っても落ちない汚れが残っていた。働くための手だ。母さんの背中をさすっていた手だ。子供の頃、傷ついたゼラオラを抱えて森を走った手でもある。
ゼラオラがそっと俺の手に前脚を重ねた。
「……お前はどう思う」
誰にも聞こえないくらいの声で尋ねた。
「勝ち続けたら、願いが叶うんだってさ」
ゼラオラの耳が立つ。
「招待されなきゃ参加もできないらしい。仮に出られても、相手は本気で頂点を狙ってる連中だ。俺はまともな大会に出たことだってない」
あいつは強い。子供の頃、野生のポケモンから俺を守ってくれたこともある。森を駆け抜ける速さも、身体に宿す電気の力も、俺は何度も見てきた。だが、強いことと、誰かに勝ち続けられることは違う。それも、勝つことだけを考えて鍛えてきた相手ならなおさらだ。
俺はそれを知らないほど、馬鹿じゃない。
それでも、目の前のゼラオラには、迷いがなかった。
あいつにとっても、母さんは母さんなのだ。
夜中に痛みで眠れない母さんの傍らで、朝まで起きていたのを知っている。買い物に行けなくなった母さんのため、森へ木の実を探しに行ったのも知っている。収穫が少ない日は落ち込んで、翌日もっと遠くまで出かけていた。
できることを探していたのは、俺だけじゃない。
「……そっか」
頭を撫でると、ゼラオラは手のひらに額を押しつけた。
「俺一人で決めることじゃなかったな」
あいつは喉を鳴らした。
♦
夕方、仕事を終えて外へ出ると、街は昼間とは違う色をしていた。
工事の音が遠ざかり、飲食店の看板に明かりがつく。帰宅する人間が通りを埋め、どこかの店から焼いた肉の匂いが流れてきた。ゼラオラが鼻を動かしたので、俺も一瞬だけそちらを見た。
「……今日は無理だな」
ゼラオラは何も言わなかった。
代わりに、すぐ近くのパン屋の窓を見た。閉店前の商品に割引の札がついている。俺は値段を確かめ、今夜の夕食にするパンを一つ選んだ。財布から硬貨を数え、レジに置く。買ったパンは鞄の底にしまった。
まっすぐ帰るつもりだった。
けれど、駅へ続く交差点に差しかかったところで足が止まった。
歩行者の上に設置された大型モニターに、昼間と同じ赤い光が映っていた。ZAロワイヤル。夜間の対戦区域について説明する映像が流れ、案内の文字が次々に切り替わっていく。
日が落ちると街の一部が赤いホログラムで囲われ、そこがバトルゾーンになる。選ばれた参加者たちは夜明けまで勝負を重ね、勝ち上がった者が次のランクへ進む。最上位はA。その先に、願いを一つ叶える権利があるとされている。
招待制。
その四文字を見たとき、昼間よりも冷静になれた。俺はまだ何の資格もない。大会が本当に願いを叶えてくれるのかも分からない。参加者がどんな実力者なのかも、勝ち上がるまでにどれだけの時間が必要なのかも知らない。
古いスマートフォンで公式案内を開き、参加条件を読む。
実力を認められたトレーナーに招待が届く。
俺は画面を保存した。
ゼラオラが隣から覗き込んでくる。
「お前も見るか」
画面を下げると、あいつは真剣な顔で赤い文字を見つめた。読めるところまで読めたのかは分からない。それでも、何の話をしているのかは伝わっている気がした。
遠くで人々の歓声が上がった。
赤い壁の向こうで、誰かのポケモンが技を放ったらしい。建物の隙間から一瞬だけ光が走り、すぐに消えた。たった数秒の出来事だったが、俺は息を忘れて見入っていた。
「帰ろう、ゼラオラ」
そう言って歩き出すと、あいつは素直についてきた。
安アパートへ戻り、共用の水道で手を洗う。床に座ってパンを食べ、ゼラオラの布団を広げた。窓の外には街灯の光が見える。部屋の中には、朝と同じように何もない。
スマートフォンを開き、母さんとのやり取りを見返した。
最後のメッセージには、短くこう書いてあった。
『無理しないでね。あなたが元気でいてくれるのが、一番うれしいから』
母さんが望んでいるのは、俺が働き詰めになることでも、危険な大会に出ることでもない。そんなことは分かっている。俺が今日まで何とか折れずにいられたのも、あの人が俺の幸せを願ってくれていたからだ。
俺はゼラオラに目を向けた。あいつは布団に座り、こちらを見ていた。故郷から持ってきた青い布に、黄色い毛並みがよく映えている。
「俺たち、あの大会に出よう」
ようやく声にすると、身体の奥に重いものが落ちた気がした。
「勝てるか分からない。招待される方法も、まだ分からない。仕事も辞められないし、今より寝る時間は減ると思う」
ひとつ言葉にするたび、無謀さがはっきりしていく。何も知らない人間が聞けば、呆れて笑うだろう。俺だって、別の誰かが同じことを言ったら止めるかもしれない。
「でも、あそこに願いを叶える方法があるなら……俺は、確かめたい」
ゼラオラが立ち上がった。
俺の前まで歩いてきて、差し出した手に自分の前脚を重ねる。大きな声で鳴いたり、電気を散らしたりはしなかった。ただ、十年前と変わらない温かさが、掌にあった。
その温かさだけで、十分だった。
「母さんには、まだ言わないでおこう」
俺は小さく息を吐く。
「ちゃんと参加できるようになってからだ。あの人に、また余計な心配をかけたくない」
言いながら、これも俺の悪い癖なのだろうと思った。母さんは何でも話してほしいと言う。俺は大丈夫だと答える。その繰り返しで、隠し事ばかりが増えていく。
それでも今夜は、まだ言葉にできなかった。
母さんを救いたい。
ただそれだけの願いを叶えるために、俺はどれほどのものを差し出せばいいのだろう。
昼の時間は、もう仕事に売っている。これからは夜まで差し出すことになる。眠る時間も、身体も、残っているわずかな余裕も、少しずつ削ることになるだろう。
誰かにとっては夢の舞台であるその場所が、俺には別の意味を持って見えた。
願いには、値札がついている。
そこに書かれた額を、俺はまだ知らない。
それでも、母さんの明日が買えるのなら。
俺は、自分に残されたものを、すべて差し出すつもりだった。
第1話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は『Pokémon LEGENDS Z-A』を舞台に、貧困や家族愛、人間関係をテーマにした、かなり重めのシリアス作品を書いていこうと思います。
面白いと思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると励みになります。
※完全に見切り発車なのでエタったらすみません。