君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。 作:霜月ルイ
翌朝、目を覚ましたとき、部屋の暗さは昨日と何も変わっていなかった。
天井のひびも、ゼラオラの寝息も、窓から入り込む冷気も変わらない。昨日、俺がしたのは決意だけだ。金を稼いだわけでも、誰かに認められたわけでもない。
スマートフォンには、開いたままの画面が残っていた。ZAロワイヤルについて書かれた案内だ。途中で何度か読み込みが止まり、そのたびに端末が熱を持った。表示された文字を一行ずつ追っても、俺が知りたいことはほとんど載っていなかった。
参加者は招待制。実力を認められたトレーナーが選ばれる。ZランクからAランクまで、夜の街を舞台に勝ち進む。
それだけだった。
招待状はどこで手に入るのか。大会経験のない人間でも選ばれるのか。問い合わせ先を探したが、見つかったのは一般向けの案内だけだった。
俺は画面を閉じ、残り少ない充電を確かめた。電池が古くなっているせいで、朝まで充電しても昼過ぎには心許なくなる。買い替える余裕はないし、壊れるまでは使うつもりだった。母さんと連絡が取れる。それだけで、今の俺には十分な性能だ。
布団の上でゼラオラが起き上がった。昨日、こいつにも大会の話をした。あれ以来、何かを理解したように俺の顔を見てくることが増えた気がする。
「別に、寝坊したわけじゃない」
言い訳をすると、ゼラオラは鼻を鳴らした。
「……分かってる。今日も仕事だ」
寝袋を畳み、いつものパンを口に運ぶ。まず必要なのは、今日一日を無事に終えることだった。大会に出るための資格を探すにも、給料が入らなければ母さんの暮らしは成り立たない。俺がどれほど焦ろうと、その順番だけは変えられなかった。
出かける前、母さんから短いメッセージが届いた。診療所の人が午後に来てくれるらしい。最後には、体に気をつけて、と書かれていた。
『うん。僕は大丈夫。今日も行ってくるね』
返信を送ると、ゼラオラが俺の足元に立った。小さく頷き合い、部屋の鍵を閉める。
外へ出れば、俺はまた、母さんの知らない一日を始めなければならなかった。
♦
ラシーヌ工務店の朝は早い。
作業車の出入りする門をくぐると、整備中の機材の音が聞こえた。事務所の前では社員たちが今日の工程を確認し、資材の伝票を抱えた男が慌ただしく行き来している。街のあちこちで工事を進めている会社らしく、一日の仕事量は多い。それでも現場ごとの段取りは細かく決められていて、勝手な作業をしようものならすぐ注意が飛ぶ。
俺は出勤の記録を済ませ、掲示された予定を確かめた。午前は郊外寄りの古い資材施設の改修、午後はその周囲の安全確認。見慣れない現場だったが、仕事内容は単純な補助が中心らしい。
「おはよう、リュカ。昨日の手、大丈夫か」
昨日一緒だった作業員が声をかけてきた。資材が崩れかけたとき、近くにいた男だ。
「大丈夫です。擦っただけなので」
「ならいいけどよ。あんまり自分の身体を安売りするなよ」
「……気をつけます」
男は苦笑いを残して事務所へ戻った。悪い人ではない。昨日のことを気にしてくれているのも分かる。ただ、親切にどう返せばいいのか考えるうち、余計な言葉が出なくなる。
ゼラオラを連れて休憩室に入ると、誰もいなかった。出発まで少し時間がある。俺は壁際の椅子に腰を下ろし、古いスマートフォンで昨夜保存した案内を開いた。画面の端にはひびが入り、指で拡大しなければ細かい文字が読みにくい。
画面が固まったとき、背後で扉が開いた。
「ねえ。おまえ、ここで何してんの?」
聞き慣れない声だった。
振り返ると、派手な黄色を基調にした服装の女が立っていた。年齢は俺とそう変わらないだろう。明るい色の装いに反して、その視線は遠慮なく人を測るような鋭さを持っていた。手には小さなゲーム機らしいものを持っている。
「休憩」
「見れば分かるし。新入り?」
「そうだけど」
女は俺を一度見たあと、ゼラオラへ視線を移した。途端に目が少し大きくなる。
「……え、それ、ゼラオラじゃん」
ゼラオラの耳が動いた。
「珍し。おまえのポケモン?」
「一緒に住んでる」
「いや、そういうこと聞いてないんだけど。へえ、本物なんだ。ちょっと近くで見てもいい?」
「こいつが嫌がらなければ」
ゼラオラは別に逃げなかった。女がしゃがむと、鼻先をひくつかせて匂いを確かめる。でんきタイプのポケモンに慣れているのか、女は無理に手を伸ばさず、相手の反応を待っていた。その点だけは、街中で勝手に写真を撮ろうとする連中よりましだった。
「ふーん。おとなしいんだ。……っていうか、おまえさ」
「何」
「ぼくのこと、知らないの?」
自信に満ちた聞き方だった。どこかで見た顔なのかもしれないが、思い当たらなかった。
「知らねぇよ」
女の表情が止まった。
「……は? なんなの、態度悪くない?」
「そっちが聞いたんだろ」
「普通、もうちょっと言い方ってもんがあるでしょ。ぼくのこと、本当に知らないわけ?」
「知らないものは知らない。何回聞くんだよ」
女は不愉快そうに眉を寄せた。その視線が俺の手元へ落ちる。開きかけの大会案内と、ひびの入った端末が見えていた。
「……うわ。そんな骨董品使ってる人、まだいたんだ」
明らかに嫌味だった。女は笑って、言葉を重ねる。
「それで動画とか見られるの? 読み込みだけで日が暮れそう」
俺は画面を伏せた。古いのは知っている。起動が遅いことも、動画をまともに再生できないことも、言われなくても分かっている。それでもこの端末には、母さんの連絡先が入っている。診療所からの連絡も、毎月の送金記録も。俺が働いている間、故郷とつながっていられる唯一の道具だった。
「誰が何使おうが勝手だろ」
「……あっそ! 気分悪っ!」
女は立ち上がった。足音を隠そうともせず、奥の部屋へ向かっていく。
「ほんと、何なのあいつ」
わざと聞こえるように吐き捨てる声がして、扉が閉まった。
俺は伏せた端末を起こし、画面の汚れを袖で拭った。ひびは消えなかった。買い替えるだけの金があれば、その分を母さんに送れる。だから今はこれでいい。昨日までと同じ答えを、胸の中で繰り返す。
「……行くぞ」
ゼラオラが、閉まった扉と俺の顔を見比べる。
「気にしてない」
その言葉が本当かどうか、自分でもよく分からなかった。
♦
出発前、例の女がタラゴンの孫だと知った。
「カナリィちゃん、また機嫌悪そうだったな」と社員の一人が言い、別の男が「じいさんに言いつけなきゃいいけど」と冗談めかして返していた。どうやら有名な動画配信者でもあるらしい。名前を聞いても、俺には何の感慨もなかった。会ったことのない大勢の人間に好かれているからといって、目の前の俺まで好きになる義務はない。
仕事に戻ろう。
車窓の向こうで、ミアレの中心部に比べて背の低い建物が増えていく。到着したのは、しばらく使われていなかった資材保管施設だった。古い外壁の一部は蔦に覆われ、敷地の隅には草が伸びている。改修後は工事用の器材を置く倉庫として使うらしい。
入り口には工事区域を示す柵が設置されていた。周囲への案内も済んでいる。俺たちは機材を確認し、施設の裏手から作業を始めた。
午前中は順調だった。
劣化した板材を運び出し、残された道具を分類する。ここには長いあいだ人が立ち入っていなかったらしく、棚の裏や配管の下には土と埃が溜まっていた。作業の途中、ゼラオラが敷地の端で立ち止まった。
「どうした」
呼びかけても、すぐには戻ってこない。耳を立て、古いシャッターの方を見つめている。人の耳には何も聞こえなかったが、俺は念のためそちらへ回った。
地面に、まだ新しい足跡があった。
人間の靴跡ではない。土の上に深く刻まれた、太い足指の形。さらに奥には、ひと回り小さな跡が続いていた。使われていない建物は、野生のポケモンにとって雨風をしのげる場所になる。工事が始まる前に確認したつもりでも、見落としがあったのかもしれない。
「ここ、何かいます」
近くの社員に伝えた。
「ポケモンか? 朝の点検じゃ何もいなかったぞ」
「足跡が残ってます。小さいのも」
男は眉をひそめ、現場の責任者を呼びに向かった。
その直後だった。
施設の反対側で、コンクリートを切断する機械が唸りを上げた。金属を擦る耳障りな音が広がり、すぐに何かを叩くような重い音が続いた。
「うわっ!」
誰かの叫び声がした。
シャッターの隙間から飛び出してきたのは、灰色の大きな身体だった。盛り上がった腕の筋肉と、怒りに歪んだ顔。ゴーリキーだ。警戒するように肩をいからせ、近づいてきた作業員へ拳を振り上げる。
作業員が後ずさる。避難する方向には工具箱が置かれ、足場が悪かった。
「動くな! そっちへ走るな!」
俺の声は、機械の音にかき消されかけた。
ゼラオラが一歩前へ出る。
「まだ攻撃するな」
指示を聞いて、あいつはその場で身体を低くした。ゴーリキーは威嚇を続けているが、視線が何度もシャッターの方へ戻っている。ただ暴れたいわけじゃない。何かを守ろうとしている。
奥で小さな鳴き声がした。
見れば、曲がった金網にワンリキーの足が引っかかっていた。古い隙間に潜り込もうとして、抜けなくなったらしい。ゴーリキーはその前に立ち塞がり、人間が近づくたびに激しく反応している。
「……そういうことか」
機械を止めるよう手を振り、近くの社員に避難を促した。音が途切れれば少し落ち着くかもしれない。だが、すでに興奮したゴーリキーには、今さら人の声を聞く余裕がなさそうだった。
「リュカ、下がれ! 刺激するな!」
「子供が挟まってます。親を離さないと助けられません」
「だったら警備のトレーナーを――」
「来るまで、あの子がもつか分からない」
ワンリキーは足を引き抜こうとするたび、痛みに顔を歪めていた。曲がった金網の端が、皮膚へ食い込んでいる。
俺はゼラオラの肩へ手を置いた。
「聞いてくれ。あいつを倒す必要はない。子供から少し離して、追い詰めずに止める」
ゼラオラが短く頷く。
「俺が合図したら右へ。あの空いてる場所まで誘導する。金属の柵には近づくな。今は電気も使うなよ」
周囲には機材があり、湿った地面にはケーブルも這っている。威力の高い電撃を放てば、関係のない人間まで巻き込む恐れがある。ゼラオラが強いからといって、思いつくまま力を振るわせるわけにはいかない。
俺は一度だけ呼吸を整えた。
「……今だ。でんこうせっか」
黄色い影が走った。
ゼラオラはゴーリキーの正面を横切り、身体には触れずに背後の広い空き地へ抜ける。視界を掠めた速さに反応して、ゴーリキーが振り向いた。大きな足が土を踏み鳴らし、そのままゼラオラを追いかける。
「そこから先は逃がすな!」
俺が叫ぶと、ゼラオラは進路を変えた。相手との距離を保ちながら、子供のいる建物へ戻る道を塞ぐように動く。ただ後退するのではない。ゴーリキーが戻ろうとすれば目の前を横切り、拳を振るえば半歩だけ外してかわす。人間の目には速すぎる動きでも、あいつは俺の短い合図を聞き逃さなかった。
ゴーリキーの腕が大きく振り下ろされた。
「左。受けるな!」
ゼラオラは身を翻した。拳が空を切り、土が跳ねる。相手はさらに追いすがったが、ゼラオラは反撃しない。怒りを買うための攻撃と、身を守るための動き。その境界を、あいつは正確に守っていた。
「今なら行けます! 金網を切ってください!」
待機していた作業員たちが動いた。工具を持った男がワンリキーに声をかけ、足を固定してから金網を切り始める。別の社員が毛布を広げて周囲を覆い、親の姿が見えないようにした。
ゴーリキーが異変に気づいた。
視線が建物へ向き、身体が大きく傾く。ゼラオラを無視して戻ろうとした瞬間、俺は叫んだ。
「ゼラオラ、前に出ろ! それ以上は行かせるな!」
ゼラオラが進路へ割り込む。目の前に現れた黄色い影へ、ゴーリキーの拳が伸びた。ゼラオラは後退せず、低く潜って腕の内側へ入り込むと、相手の肩へ手を当てて勢いを逸らした。重い身体がわずかによろめく。その隙に、もう一度距離を取る。
攻めれば倒せたかもしれない。だが、倒してしまえば親が怯える。子供を守るために必死になっているだけのポケモンを、必要以上に傷つけたくなかった。
「もう少しだ。頼む」
誰に言ったのか分からない言葉が、喉から漏れた。
金属の切れる高い音がした。
「外れたぞ!」
ワンリキーが地面へ降ろされる。足を庇ってはいたが、自分で立つことはできていた。作業員が身を引くと、子供は親を呼ぶように声を上げた。
「ゼラオラ、下がれ」
短い指示で、あいつはすぐに道を開けた。
ゴーリキーは一瞬だけ立ち止まり、それからワンリキーへ駆け寄った。身体を抱え寄せ、足を調べる。人間へ向けていた怒りは消えていなかったが、少なくとも今は子供の方が大切らしい。
俺はゆっくり腰を落とし、近づかないまま口を開いた。
「悪かったな。ここが、お前たちの居場所だったんだろ」
ゴーリキーがこちらを見る。
「俺たちは工事を止められない。でも、追い払って終わりにするつもりもない。安全な場所を探してもらうから、少しだけ時間をくれ」
言葉がどこまで通じたのかは分からない。ゴーリキーはしばらく睨んでいたが、ワンリキーの手を取ると、敷地の外へ向かって歩き出した。責任者が野生ポケモンの対応窓口へ連絡し、周囲を確認してから移動先を考えることになった。
ゼラオラが戻ってきた。肩に土がついている。
「怪我は」
「ゼラ」
「そうか。……よかった」
俺はしゃがみ、腕から足先まで確かめた。痛がる様子はない。ようやく息を吐くと、ゼラオラが額を俺の肩に押しつけてきた。
今さら、手が少し震えていることに気づいた。
怖くなかったわけじゃない。もし一つ合図を間違えれば、ゼラオラが怪我をしたかもしれない。作業員も、あの親子も。頭の中で考えたとおりに動いてくれたのは、十年間一緒に暮らしてきたあいつだったからだ。
「……ありがとな」
短く告げると、ゼラオラは俺の肩を軽く叩いた。
♦
予定していた作業は中断になった。
工事に入る前の確認が不十分だったこともあり、責任者は現場の見直しを決めた。俺たちは片付けを済ませ、日が傾く頃には会社へ戻った。作業車の中で、社員の一人が何度も同じ話をしていた。
「いや、あんなの初めて見たぞ。ゼラオラって、あんなに速いのか」
「速いですよ」
「お前の指示もすごかった。あの状況で、よく冷静に動けたな」
「……たまたまです」
本当に、あいつが俺の声を信じてくれただけだと思っていた。指示を出せたことに少しの自信はあっても、あんな場面をまた繰り返したいとは思わない。子供を抱えて去っていくゴーリキーの背中が、頭から離れなかった。
工務店へ戻ると、話はすぐに広まった。誰も怪我をしなかったことを喜ぶ声の中で、一人がゼラオラを指差してはしゃいでいた。
俺は早く帰りたかった。洗濯を済ませ、明日の食事を考え、母さんへ連絡する。いつもどおりの用事が待っている。その中の一つも、今日の騒ぎでなくなったわけじゃない。
ところが、事務所の前で足を止められた。
「ねえ、おまえ」
朝の女だった。名前は、カナリィとかいったはずだ。
「……何だよ」
「聞いたんだけど。今日、現場でゴーリキー相手にすごいことしたんだって?」
「大したことはしてない」
「それ、見てた人が何人も言ってるんだけど。ゼラオラに指示して、ほとんど攻撃させずに止めたって。ほんと?」
「本当だけど」
カナリィの視線がゼラオラへ向く。朝とは違う、真剣な目だった。
「おまえ、バトル相当強いんじゃない?」
「知らねぇよ。他人と比べたことはない」
「……はあ?」
「大会に出たこともないし、何を基準に強いって言うのか分からない」
「いや、普通そこでちょっとくらい嬉しそうにしない? 褒めてるんだけど」
「そうか。ありがと」
「ぜんっぜんそう思ってないでしょ!」
俺は答えなかった。嘘でも愛想よく笑えば、それで済むのかもしれない。でも朝から絡まれて、今さら彼女の機嫌を取る気にはなれなかった。
「ほんとおまえ、感じ悪い!」
カナリィは腕を組み、そっぽを向いた。それで会話は終わったと思い、俺は更衣室へ向かった。背中に向けられた視線がしばらく消えなかったが、振り返らなかった。
ただ、ひとつだけ気になった。
強い、という言葉だ。
ゼラオラの強さを俺は知っている。でも大会に出たことはない。知らない相手と勝ち負けを競った経験も、ほとんどない。今日みたいに困っているポケモンを助けたことはあっても、それを誰かに評価されたことはなかった。
もし、この力が招待を受ける理由になるのなら。
着替えを終え、俺は社長室の場所を確かめた。
♦
タラゴンは事務所の奥で、工事の予定表に目を通していた。
扉を叩くと、短く返事があった。中に入った俺を見るなり、タラゴンは資料を机へ置く。
「どうした。今日のことで何かあったか」
「いえ。仕事のことじゃないんですけど、少し聞きたいことがあって」
「言ってみろ」
部屋には資材の見本や図面が置かれ、壁の時計が規則正しく音を立てていた。俺がここへ来たのは採用のとき以来だった。そのときは仕事の経験と、働ける時間しか話していない。
「ZAロワイヤルに参加するには、どうすればいいんでしょうか」
タラゴンの太い眉が動いた。
「……何だ、急に」
「昨日、テレビで見ました。招待されるには実力を認められる必要があるって。何か方法を知りませんか」
「そりゃ、街で腕を見せりゃ噂にはなるだろうが……わしの仕事は工事だ。大会の参加者を決めてるわけじゃねえ」
「関係者を紹介してもらうことは」
言いかけて、口を閉じた。
知らない相手に、初めから便宜を図ってもらおうとしている。自分が一番嫌ってきた頼み方だった。しかも相手は、今の俺に給料を払ってくれる人間だ。
タラゴンは腕を組んだ。
「お前、トレーナーとして大会に出たことは?」
「ありません」
「誰かに勝って名前を売ったことも?」
「……ないです」
「それで、どうしてそこまで出たい」
答えられなかった。
母さんが病気なんです。生活費も治療費も足りなくて、これ以上どうすればいいのか分からないんです。そう言えば、タラゴンは何かしてくれるだろうか。給料を前借りさせてくれるかもしれない。仕事を増やしてくれるかもしれない。あるいは、困っている社員の話として、誰かに伝えるかもしれない。
俺は、そんなことを望んでいない。
少なくとも、そう思っていた。
「……個人的な理由です」
タラゴンはしばらく俺を見ていた。
「まあ、人には事情があるか。だが、わしから招待状を出すことはできん。知ってる話も、その辺の案内と大差ねえな」
「……そうですか」
予想していた答えだった。それでも、実際に口にされると胸の内側が冷えた。
「お前、今の仕事だけでも無理してねえか」
「大丈夫です」
「昨日も今日も、その返事ばっかりだな」
「……すみません」
「謝ることじゃねえ。だが、昼に働いて夜に勝負するってのは、言うほど楽じゃないぞ。身体壊したら働けなくなる。そいつは分かってんだろうな」
「分かってます」
分かっている。分かったうえで、他に何ができるのかを聞きたかった。
「お忙しいところ、ありがとうございました」
頭を下げ、部屋を出た。
扉が閉まる音を聞きながら、ようやく息を吐く。何も変わらなかった。今日は一日働いた。それなりの給料は後日入る。母さんの治療には、まだ遠い。招待状を手にする方法は、昨日より一つも分かっていない。
廊下の曲がり角で何かが動いた気もしたが、振り返る余裕はなかった。
♦
建物の外へ出ると、街はすでに夕暮れに沈んでいた。
俺は鞄の肩紐を握り直した。歩いて帰れば、まだスーパーの値引きに間に合う。明日も仕事がある。寝不足でミスをするわけにはいかない。頭の中で予定を並べ直しても、さっきの会話だけがどうしても消えなかった。
ゼラオラが足元を歩いている。あいつは何も聞いてこない。ただ時折、俺の顔を確かめるように見上げる。その視線に気づくたび、申し訳なさが増した。
「……悪い。期待させたな」
立ち止まって頭を撫でると、ゼラオラは不満そうに俺の手を押し返した。謝られることが気に入らないらしい。
そのとき、背後から声がした。
「ねえ、おまえ」
振り返らなくても分かった。今日一日で、何度聞いたか分からない声だ。
「……今度は何だよ」
カナリィが腕を組んで立っていた。さっきと同じ不機嫌そうな顔をしているのに、俺の返事を待つ目には妙な落ち着きがあった。
「おまえさ。なんでZAロワイヤルに出たいわけ?」
胃のあたりが冷たくなった。
「……お前には関係ないことだ」
「ふーん。あっそ」
「だったら、もう行く」
「待ちなよ」
声の調子が変わった。足を止めて振り返ると、カナリィが挑発するように片方の口角を上げていた。
「そんな態度でいいのかな?」
「何が」
「ぼくだったら、おまえのことZAロワイヤルに推薦してあげることだってできるんだけど?」
その言葉だけが、周囲の音から切り離されて聞こえた。
「……なに?」
自分でも驚くほど速く、声が出た。
「なに、その反応。急にちゃんと人の話聞くんだ」
「本当なのか」
「ぼくを誰だと思ってるわけ?」
「……知らないって言っただろ」
「まだ言う!?」
カナリィは呆れたように息を吐き、それでも立ち去らなかった。
「ぼくが直接、勝手に招待状を出せるわけじゃない。でも、実力を認めたトレーナーを関係者に推薦するくらいならできる。もちろん、誰でもいいってわけじゃないけど」
俺は彼女の顔を見た。
何度聞いても、冗談を言っているようには見えなかった。少なくとも本人には、そういう話を取り付ける自信があるらしい。さっきまで道のない場所だと思っていたものに、突然細い隙間が開いた気がした。
「……頼めるのか」
自分でも驚くほど声が掠れた。これまでまともに返事もしなかった相手なのに、今は答えを待つだけで息が詰まる。
カナリィの表情が、ほんの少し変わった。
人の持ち物を馬鹿にし、自分を知らないことに腹を立てていた女が、初めて何かを考えるように俺を見ている。何を思ったのかは分からない。ただ、俺が彼女の言葉に縋りかけていることだけは、見抜かれた気がした。
「……そんなに出たいんだ」
「理由は、言わない」
「別に今、言えなんて言ってないし」
少し間を置いてから、カナリィは肩をすくめた。
「じゃあ、条件を出してあげる」
「条件?」
「ぼくとバトルしなよ」
ゼラオラの耳が、ぴんと立った。
「今日、現場で相当やるって聞いたけど、話だけじゃ分かんないし。おまえのその態度が、強いからなのか、ただ感じ悪いだけなのか、ぼくが直接確かめてあげる」
「……勝てばいいのか」
「そう。ぼくに勝てたら、推薦の話を取り付けてあげる」
街灯が一つ、頭上で灯った。
カナリィは勝ち誇ったように笑っていた。俺が断るはずがないと、もう分かっている顔だった。そんな相手を信用していいのかという考えが、遅れて浮かんでくる。朝、端末を馬鹿にしてきた女だ。俺の事情なんて何も知らない。面白半分で言っている可能性だってある。
けれど、今ここで背を向けたところで、別の道が現れる保証はない。
俺は足元のゼラオラを見た。あいつは俺を見上げ、静かに一度だけ頷いた。
「……分かった。受ける」
「へえ。即答じゃん」
「約束は守ってもらう」
「勝ってから言いなよ、そういうの」
カナリィは不敵に笑い、くるりと背を向けた。
「ま、ぼくに勝てればの話だけどね」
派手な黄色が夕闇の中へ遠ざかっていく。
俺はしばらく、その背中を見ていた。
彼女がどういう人間なのか、まだ何も知らない。知りたいとも思わない。ただ一つだけ、はっきりしたことがあった。
俺にとって必要なのは、あの女に好かれることじゃない。
勝つことだ。
願いを口にする資格さえ持たない俺の前に、ようやく現れた最初の扉。その向こうに何があるのかを確かめるには、まず目の前の相手を倒さなければならない。
「……行こう、ゼラオラ」
あいつは俺の隣へ並んだ。
母さんのために夜を差し出すと決めた、その翌日。
俺の明日を左右する最初の勝負が、決まった。